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第3話 胸の奥の違和感

 学園の端にある温室へと、バケツに水を汲んだ少女が静かに歩いていく。

 

 春の日差しに照らされた回廊はひどく静まり返り、石床に反響する足音だけが、規則正しく少女の歩みを刻んでいた。


 温室の重たい扉を押し開けた瞬間、湿り気を帯びた空気と、青葉を思わせる香りが一気に肌を包み込んだ。

 その途端、張り詰めていた少女の表情が、ほろりとほどけるようにやわらいだ。


「良かった。私がいない間も、ちゃんと世話をしてもらっていたんだね」


 少女――リリアーナは、手にしていたバケツをそっと足元に置き、葉の色艶や茎の張りを確かめるように身を屈める。

 少しでも元気を失っている草花を見つけるたび、慈しむように指先を伸ばす。

 

 静かに目を閉じ、祈るように意識を集中させる。するとリリアーナの手のひらに淡い光が宿りはじめる。

 その光を受けて目の前の花は柔らかく照り返し、くすんでいた葉や細い茎は、みるみるうちに瑞々しさを取り戻していった。


 この光魔法こそが、リリアーナが特待生として聖アルトフォルツ学園に編入してきた理由である。

 

 光の魔法は生命の回復力そのものを増幅させる力を持つとされ、その希少さゆえに多くの期待を向けられてきた。

 

 いつか彼女は、その力で誰も成し得なかった大きな何かを成し遂げるのかもしれない――だが、少なくとも今のところは、しおれかけた草花に活力を与えたり、クラスメイトのかすり傷を癒やしたりする程度にとどまっている。


 温室の草花をひとつひとつ丁寧に回復させ、ようやく胸の奥の緊張がほどけたリリアーナは、青々と茂る植物たちを見渡して小さく息をついた。


「明日から登校か……」


 つぶやいた瞬間、胸の奥に小さな重石が落ちたような感覚が広がった。

 

 あの教室には、アルノ殿下をはじめユリアンやライルがいる。

 授業が始まればクレイン先生とも顔を合わせるだろうし、放課後になればエリオとも再会するはずだ。


 彼らの顔を一人ずつ思い浮かべるたびに、胸の奥がわずかにざわつく。

 私はその感覚から逃れるように、自然と視線を足元へと落とした。


「みんなと、どんな顔をして会えばいいのかな……」


 アルノ殿下をはじめ、彼らは皆、本当に良い人ばかりだ。

 少し特殊な光魔法が使えるという理由だけで名門・聖アルトフォルツ学園に入学した私に、彼らはいつも変わらぬ親切を向けてくれた。


 平民出身である私にも気さくに話しかけてくれたり、付け焼き刃のマナーをさりげなくフォローしてくれたり、ときには、この学園に根付く暗黙のルールまで教えてくれた。

 その優しさに、私は何度も助けられてきた。


 そんな彼らに、一時は確かにときめいていた。けれど――


 リリアーナの視線が、静かに足元へと落ちる。


 ――それを、無表情で眺めている私がいる。


 ときめく自分のすぐ隣に、冷静に自分と彼らを見つめているもう一人の私が立っているような感覚があった。

 

 もちろん、本当にそんな存在がいるわけではない。

 それでも、その違和感はいつも消えず、心のどこかが落ち着かないまま、何にも深く集中できずにいた。


 そんな気持ちを抱えたまま迎えた学年末の日、アルノ殿下に告白された。

 とても嬉しかった。

 

 いつも私を気にかけてくれる優しい彼に想いを告げられ、胸が温かく満たされたはずなのに――。


 私は、彼の気持ちに応えることができなかった。


 彼のことが好きだったはずなのに。

 近くにいるだけで鼓動が早まり、頬が熱くなり、あの素敵な笑顔をまともに見つめられなくなるほどだったのに。


 それでも、横にいる冷静な私が、どこか苦しげな表情でこちらを見つめている気がしてならなかった。


「そんなこと、あるわけないのに」


 ああ、明日、アルノ殿下にどんな顔をして会えばいいのだろう――。

 

 ◇


 始業式の午後――。

 

 形式的な挨拶が滞りなく終わったあとも、胸の奥に小さな重さを抱えたまま、私は早々に教室を後にした。


 今朝ほどの好奇な視線を浴びることはなかったものの、それでも向けられる視線に耐えきれず、私は逃げるように足早で廊下へ出てしまった。

 

 歩きながら、どうせ出てくるなら鞄も持ってくればよかったと後悔する。そうすれば、このまま寮へ帰れたのに――そんなことを考えていたとき、反対側から来た女子生徒たちの会話が耳に届いた。


「リリアーナって、登校してくるの、明日だったよね?」

「実家の用事で遅れるって、クレイン先生が言ってたよ」

「じゃあ、さっき温室棟の廊下を歩いていたと思ったのは、見間違いかな」


 彼女たちは何気ない調子で言葉を交わしながら、やがて廊下の奥へと消えていく。

 他愛のない会話に、私は思わず足を止めた。


「――来ている、のか?」


『来るのは明日と聞いていたが……理由を聞きに行こう』

『来るのは明日と聞いていた。ならば、明日会えばいいだろう』


 二つの思考が、頭の中で激しくぶつかり合う。

 理性は後者を選ぼうとするのに、心はどうしても前者へと傾いてしまう。


 もし彼女が予定より早く来ているのなら、そこにはきっと理由があるはずだ。

 無理をしていないだろうか。彼女はいつも一人で抱え込みがちだから。


 去年の文化祭でも、リリアーナは友人たちの手伝いに奔走しながら、自分の衣装だけは最後まで妥協しなかった。

 疲れているはずなのに、誰にも弱音を見せず、ただ笑っていた。


 あのときの彼女は、眩しいほど輝いていた。

 誰からも愛されるにふさわしい人だった。


 だから私は、振られてしまったことに後悔はしていない。

 いつか彼女の隣に並び立つ――彼女に選ばれた素敵な誰かに、すべてを託そうと思っている。


 そう、彼女の幸せこそが、私の喜びなのだから。


 チクリ。


「……ん?」


 ほんの些細な痛みだった。

 それでも、胸の奥に小さな棘が刺さったような不快感が、確かに残っている。息を吸うたびに、その違和感がかすかに主張してくる気がした。

 もしこれがひどくなるようなら、医師に診てもらうべきかもしれない――そんな考えが、ふと頭をよぎる。


「――っと」


 気づけば、私は温室の前で足を止めていた。

 重たい扉越しに、湿った土と草花の匂いがわずかに漏れ出している。


「無意識に来てしまったか」


 結局、どちらかを選ぶ前に、身体の方が先に動いていたらしい。

 会えるなら会いたい。だが、一度振られた私が、どんな顔をして彼女に向き合えばいいのか、分からない。


 私の気持ちのことは、どうでもいい。

 私は、彼女が幸せでさえあれば、それでいいのだから。


 だが、私と会うことで彼女が少しでも居心地悪くなることだけは避けたかった。

 私自身の感情よりも、彼女の心の方が、何よりも大切なのだ。


 チクリ。


 まただ。

 せっかく彼女のことを思って穏やかな気持ちになっていたはずなのに、なぜ私の胸を小さな棘がチクリ、チクリと刺すのだろう。

 まるで、異議を唱えるかのように、痛みが間を置いて繰り返される。

 

 その違和感を振り払うように、私は目を閉じた――その瞬間、肌に触れる空気がわずかに揺れた。


 不意に、温室の扉が静かに開く。


「アルノ……殿下」

「リリアーナ……」


 ――出会ってしまった。


 温室から出てきたばかりだからだろうか。

 彼女の周囲には、花と土が混ざり合った柔らかな香りが漂っていた。


 太陽の光を含んだ温もりと、瑞々しい緑の匂いが一体となって、現実味を帯びて迫ってくる。

 その匂いに包まれた瞬間、彼女に会えた喜びが胸の奥から一気に湧き上がり、鼓動が早まるのを止められなかった。


 淡い期待は、確かにあった。

 だが、その先――実際に彼女と向き合ったときのことまでは、考えていなかった。

 

 彼女は――リリアーナは、私に会って不快ではないだろうか。


「…………アルノ殿下、二週間ぶりくらいですね。春休暇は、アルノ殿下も王宮に戻られたそうですが、癒やされましたか?」


 偶然の再会に動揺した気持ちを落ち着かせるように、彼女はほんの少し首を傾げて微笑んだ。

 その可憐な仕草は、相変わらずまっすぐに胸を打つ。

 

 しかも春休暇中の私のことを気にかけてくれるなんて――そのさりげない気遣いに、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 そして、先ほどの彼女の声が、遅れて胸の内に染み込んでくる。


 王宮に戻ったときの癒やし――癒やしか。


 妹のクラリッサが、宮廷中に向かって、これでもかと言わんばかりに騒ぎ立てた。


「お兄様ったら、自信満々で告白したのに振られたの!」

「周りはリリアーナさんを狙うライバルだらけなのに、応援したりして、それって絶対、自分が選ばれると思っていたわよね。戦略として褒められないわよ」

「お兄様はお兄様で、振られたのに、リリアーナさんの幸せのために協力できないかとか思っているのよ。気持ち悪ーい」


 その結果、王宮での私の評価は、家族や世話役、侍女やメイドから料理長、果てはお抱え業者に至るまで、見事なまでにだだ下がりだった。


 反抗期なのか、クラリッサよ――。


 温室の静けさに包まれながら、私はひとつ小さく息を整える。

 湿った空気が肺に入り、少しだけ頭が冷えた。

 

 言葉を選ぶように視線を落としたそのとき、リリアーナの方から先に声をかけてくれた。


「私は今日、隣りの領にある実家から戻ってきたのですが、午後から自由な時間ができたので、温室で育てていた子たちが心配でつい学園に来てしまって――――。どうかされましたか? アルノ殿下」


 「……っ」


 身長差があるから仕方ないとはいえ、そんな上目遣いで見上げられたら、振られたという事実があっても心が跳ねてしまう。

 その動揺を悟られないよう、私はそっと視線を外して答えた。


「いや、皆、元気でね。特にクラリッサとは、ほぼ毎日会話していたよ」


「クラリッサさん、アルノ殿下のこと、お好きですものね。私も、明日から登校するので、クラリッサさんに会ってお話ししたいです」


 クラリッサの名を聞いた瞬間、リリアーナはふっと柔らかく笑った。

 そして、はっきりと「会いたい」と言ってくれた。その一言に、私は妙に胸を突かれた気がした。


「…………リリアーナは、前の学年の時から、クラリッサと仲が良かったよな?」

 

「はい。委員会が一緒だったので、よくおしゃべりさせていただきました」


 そうなのだ。

 王宮でのクラリッサの様子からは忘れがちになるが、学園ではリリアーナとクラリッサは確かに仲良く見えた。

 二人で笑っていた姿も、廊下で楽しそうに話していた光景も、私の記憶には残っている。


 もしそれがクラリッサの処世術で、表面上だけの関係だったのなら、仕方がない。

 けれど――それを差し引いても、王宮でのクラリッサの言動はあまりにも過激だった。


 仲が良かったことなど微塵も感じさせないどころか、あまり親しくもない上級生に兄が惚れているだけならまだしも、振られたことや、私の煮え切らない態度に腹を立て、その怒りをすべてリリアーナに向けているようにしか見えなかった。


 二人が仲良かったこと自体が私の勘違いかと思ったが、リリアーナは私の記憶通りの答えを返してくれた。


 ならば、私とリリアーナ、そしてクラリッサの間に漂うこの違和感は、一体何なのだろう。


「あの……アルノ殿下。ぼうっとしていますが、大丈夫ですか?」


 無言で考え込む私に、リリアーナが不安そうに声をかけてきた。


「ああ、すまない。久しぶりに君に会えて、嬉しくてね」


 その言葉に、彼女の表情がわずかに曇る。

 やがて視線を落とし、躊躇うように口を開いた。


「……でも私……殿下のお気持ちには、応えられなくて……」


 消え入りそうな声だった。

 

 伏し目がちに、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ彼女に、私は負担をかけないよう慎重に言葉を選ぼうとしたのだが。

 

 それでも、胸の奥にたまった想いは、どうしても抑えきれなかった。


「ああ、そうだね。でも、私が君を好きな気持ちは変わらない。変えられないんだ。だから、それは許してほしい」

 

「…………はい」


 ――変えられない?


 確かに、好きな気持ちは簡単には変えられないだろう。

 けれど今、私は本当にそう思って言ったのか。

 それともただ、「そう言うのが自然だから」と、無意識に口にしただけではないのか。


 チクリ。


 リリアーナが目の前にいるというのに、この不快な違和感は一体何なのだ――。

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