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第2話 狂い始めた日常

 ――クラリッサのあの発言から、数日が経った。


 父上に絞られ、母上に呆れられ、妹にはまともに相手にもされず――本来なら短いはずの春休暇が、とてつもなく長く感じられる日々だった。


 懇意にしていた彼女に振られただけだというのに。

 それは、王子としてそこまで責められるような失態なのだろうか――そんな思いを抱えたまま、私は休みの間、ずっと肩を落として過ごしていた。


 王宮ではクラリッサがあることないこと言いふらしたせいで――いや、ほぼ事実ばかりだったが――家族だけでなく、側仕えや近侍たちからも、どこか憐れむような目を向けられていた。

 

 それにしても、妹の豹変ぶりには引っかかるものがあった。

 そこで、王城から学園の寮へ向かう馬車の中で話し合ってみたが、互いの距離が縮まる気配はなかった。


 今朝もまた、クラリッサは同じ馬車に乗ることを拒み、友人の馬車へと身を預けて先に出発してしまった。

 振り返ることなく遠ざかるその背中を思い出し、私は小さく息を吐く。


 考えたところで、答えが出るわけでもない。

 今はまだ、向き合うときではないのだろう。


 そう自分に言い聞かせるようにして、その思考を胸の奥へ押し込める。視線を前へ戻し、気持ちを切り替えた。


 今日から、再び学園での日常が始まる。

 新学期の幕開けだ。

 

 リリアーナに会うのは、正直なところ勇気がいる。だが同時に、会えると思うと胸が高鳴る自分もいる。

 ユリアンやライルと顔を合わせ、また彼女の話で語り合えるのではないか――そんな期待すら抱いている。


 ――さあ、心機一転だ。


 私は、学園の正門に横付けされた馬車から優雅に降り立った。

 その一歩が敷地に触れた瞬間、空気がわずかに張りつめる。

 背筋の伸びた立ち姿、無駄のない所作――それだけで、場の視線を集める。


 やがて、その視線はざわめきへと変わった。

 

 憧れを隠しきれないものもあれば、慎重に距離を測るようなものもある。

 ひそやかな声が風に紛れ、交差し、すぐに霧散する。


 称賛と疑念が入り混じった気配が、春の柔らかな空気のなかに溶け込んでいく。

 耳を澄ませば、そのざわめきが決して心地よいものではないことはすぐに分かった。


 周囲の目が、痛い。


 小声で話しているはずなのに、なぜかその囁きははっきりと耳に届く。


「五股をかけられていたって本当かよ」

「しかも振られたのにヘラヘラしてるわ」

「ライバルのはずの相手と和気あいあいって、どういうことだよ」

「もっと頼れる王子だと思っていたのに、ガッカリだわ」


「こんな王子で、この国は大丈夫なのかしら」


 散々な言われように、足元から冷気が這い上がってくるようだった。


 ――思っていたより、事態は深刻らしい。


 クラリッサの言葉から、多少の尾ひれ背びれがつくことは覚悟していた。

 だが、これは想定以上だ。


 それに――尾ひれ背びれではなく、ほとんどが事実であるという点が、何より痛い。


 よくよく考えれば、確かに情けない構図ではないか。


 五股をかけられた王子。

 ライバルと競い合うでもなく。

 振られたのに、未だに彼女を想っている。


 今さらながら、背筋を冷たいものが走る。胸の奥で、焦りがじわじわと広がっていく。


 ――この、自分の認識と周囲の評価とのずれは何だ。

 なぜ、先日まで私はそれをおかしいと感じなかったのだろう。


 答えの出ない思考が、ゆっくりと頭の中を巡る。

 そのとき、不意に聞き慣れた声が耳に届いた。


「おう、アルノーシュ」


 群衆の向こうから現れたのは、黒髪のセミロングに眼鏡をかけた幼なじみ――宰相の息子、ユリアン・シュナイデルだ。

 その隣には、赤髪短髪の長身、騎士団長の息子ライル・ヴァルターの姿もある。


「ユリアン……それにライルも……」

「なんか……俺たち、噂の的だな」


 周囲から向けられる視線が、妙に肌にまとわりつく。

 好奇の色を隠そうともしないそれらを受けながら、ライルは声を落として私とユリアンに話しかけた。


 隣で鼻を鳴らしたユリアンが、苛立ちを隠さず吐き捨てる。


「俺たちは皆、ただ一人の女性に振られただけだ。それがそんなに面白いことなのか」


 三人が揃った途端、囁きはさらに大きくなるが、ユリアンが不機嫌そうに周囲を睨みつけると、あからさまに声が小さくなった。


 周囲など気にするに値しないとでも言うように、ユリアンは先頭を歩き出す。

 私とライルは歩幅を揃え、その後に続いた。


「周りはこんな状態だけどさ。だからって、彼女への気持ちは変わらないし、俺たちの友情だって不変だろ?」


 ライルが拳を前に突き出し、同意を求めてくる。


 ――そうだ。私たちは、心から彼女に惹かれ、恋をした仲間だ。それは紛れもない事実だ。


 周囲の声よりも、ライルの言葉のほうが正しく響く。

 一人で校門をくぐったときはあれほど不安だったのに、三人で並んで歩くと、その不安は嘘のように薄れていく。


 先ほどまで胸を締めつけていた焦りは、いつの間にか影を潜めていた。


 自分たちは、間違ったことなどしていない。


 私たちはただ、一人の少女に恋をした。

 それの、何がいけないというのだ。


 私は勇気を取り戻させてくれた二人に向かって、穏やかに微笑み返す。


「私も、誰が選ばれても祝福しようと思っていた。彼女が誰を選んだとしても、彼女への気持ちは変わらない」


 私たちは確かにライバルではあった。だが、それを根に持つほど狭量ではない。


 私たちはおかしくない。

 理解できない周囲のほうが、きっとおかしいのだ――そう結論づけることで、私はようやく落ち着きを取り戻した。


 そんなことを考えながら歩いていると、先頭を行くユリアンがふいに立ち止まる。


「そういえば、リリアーナは……」


 授業開始の鐘が鳴る時刻が迫っているにもかかわらず姿を見せない彼女を、ユリアンは案じたのだろう。


「家の都合で、登校は明日になるそうですよ」


 いつの間にか近くにいたクレイン先生が、穏やかな笑みを浮かべながら廊下の脇から姿を現し、私たちの輪に加わった。


 続いて、二年生になったエリオが、控えめな足取りで近づいてくる。


「会えないのは悲しいけど……ホッとした」


 その言葉に、私は思わず彼を見つめた。


 春休みのあいだに、彼は少し成長したのだろうか。

 以前は年上たちに可愛がられる弟分のような立ち位置で、屈託なく感情を表に出していたのに、今はどこか落ち着き払っている。


 ほんのわずかな間、顔を合わせなかっただけだというのに。

 むしろ今の彼は、私たちの中でいちばん老成しているようにさえ見える。


「前までなら、会えなくてホッとすることなんて、なかったと思うけど……」


 エリオのその呟きに、クレイン先生はまるで同意を得たと確信したかのように、大きくうなずいて語り始めた。


「私も以前は彼女のことで頭がいっぱいで、可愛い愛しの妹のことを一秒でも考えない日があったと気づいて驚きました。なぜ去年までの私は、手帳に写真を挟んだだけで満足していたのか理解できません」


 そう言うや否や、先生は鞄の中から教科書よりも分厚いアルバムを迷いなく取り出し、それを胸に抱きしめ、うっとりと頬を染める。


 その様子に、場の空気が一瞬で凍りついた。


「先生、妹なんていたのか」


 思わず口をついて出たライルの疑問に私もうなずく。

 去年一年間クラスを担当し、クラブや野外行動でも顔を合わせてきた先生だというのに、妹の存在など聞いた覚えはない。


 呆然とする私たちの反応を、先生はまったく別の方向に解釈したらしい。


「……そんなことを聞くなんて……まさか、あなたたち、妹と付き合いたいということですか!」

「え、なに、怖……」


 妹の話題に触れた瞬間、激昂する先生に、私たちは思わず一歩、さらにもう一歩と距離を取った。

 さきほどまでの穏やかな廊下の空気が、妙な熱を帯びて揺らぐ。


 やがてその熱気が引いていく頃、エリオが静かに口を開いた。


「ともかく、僕、今日は寮に帰るよ」


 今しがた登校してきたばかりだというのに、もう帰るというのか。

 具合でも悪いのだろうか――。


 あまりに唐突な宣言に、胸の奥がざわりと波立った。


 そういえば、今日はやけに静かだと感じていた。

 エリオにしては声に抑揚がなく、話題もどこか淡泊だ。

 以前なら、場の空気を明るくしようと無意識にでも笑顔を浮かべていたはずなのに、それがない。


 沈んだ調子で慎重に言葉を選ぶ姿に、胸の奥が引っかかる。

 風邪でもひいて体調を崩しているのだろうか――そんな不安が、自然と頭をもたげた。


 案じる私の隣で、ユリアンもまた、さりげなくエリオへ視線を向けていた。

 眼鏡の奥の瞳が細くなっている。

 どうやら、彼も同じ違和感を抱いているらしい。


「始業式なのに帰るのか? 新しい学年の初日だぞ。先生からも、なにか言ってやるといい」


 ぶっきらぼうな口調だったが、その奥には明らかな気遣いが滲んでいる。

 ユリアンは眼鏡の位置を直しながら、隣に立つクレイン先生へと話を振った。


「私も早く帰って妹の相手をしたいのを我慢して学園に来てるんですよ」

「先生?」


 あまりに予想外の返答に、思わず全員の声が揃った。

 だが、今日のクレイン先生を見ていると、それがむしろ平常運転なのではないかという気すらしてくる。


 その様子を静かに眺めていたエリオは、ひとつ小さく息をついてから続けた。


「どうせ授業もないし、ほぼ繰り上げのクラスだから新鮮味もないしね」


 淡々とした口調だった。

 以前のように場を和ませる笑顔もない。

 その言葉は、自分に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。

 

 それ以上は何も付け足さず、エリオは静かに踵を返した。


「それに、単に家の中が落ち着くし……なんて言えばいいのかな……実は僕、外に出るのがあまり好きじゃないみたい。去年は、なんであんなに毎日学園に来ていたのか、自分でも不思議なんだ。でも今年は、必要最低限しか来ないと思う。じゃあね」


 声は穏やかだった。

 しかしその奥には、揺るがない決意のようなものが確かに滲んでいた。


 私が何かを言うより早く、エリオは背を向ける。

 呼び止める言葉が喉元までせり上がりながら、結局、形にはならなかった。


 遠ざかっていく背中を、ただ見送ることしかできない。


『心配で、エリオを一人になどしておけない』

『たまには、一人で考えたいときもあるだろう』


 また、二つの考えが脳裏に浮かぶ。

 確かに、私ならそのどちらかを選び、行動を決めていたはずだ。


 だが――これまで、こんなふうに選択肢が明確に並んだことがあっただろうか。


 ――これは、一体何なのだ。


 突然現れた選択肢に戸惑う。

 心の舵を、誰かに握られているような感覚がよぎる。

 その得体の知れない予感に、落ち着きがじわりと削られていく。


「あいつ、あんな奴だったか? もっとワーッと来て、ワシャワシャ撫でたくなるような元気バンバンな奴だっただろ?」


 エリオが消えていった寮への道を見つめたまま、ライルがぽつりと呟く。

 軽い口調ではあるが、その横顔には拭いきれない戸惑いがにじんでいた。


「お前の馬鹿丸出しの言葉はさておき、確かに、もう少し愛嬌があって、皆に甘やかされる存在ではあったな」


 腕を組み、ユリアンがぶっきらぼうに応じる。

 だが、その声音は決して冷たいものではない。

 どこか釈然としない思いを持て余しているようだった。


「そりゃ、ユリアンに比べたら、アルノーシュとリリアーナ以外は馬鹿に見えるだろうけど、言い方ってもんがあるだろ」

 

「ほほう。それは俺では首位を取れないと暗に言っているんだな。よし、ライル、一発殴らせろ!」


 ユリアンは片腕を大きく回し、肩を鳴らしながらじりじりとライルに迫る。口元には冗談めかした笑みが浮かんでいるが、纏う空気は妙に圧がある。


「殴る? お前が? 俺を殴ったら、お前の手が折れるぞ」


 言葉こそ強気なライルだが、ユリアンの“殴るぞ”オーラに気圧されたのか、わずかに腰が引け、少しずつ後ずさりを始める。


「俺は頭脳派だからな、武器を持つ」


 そんな二人の、いつもの軽口を聞いているうちに、私はエリオを引き止める機会を完全に逃してしまった。

 気がつけば、彼の姿はもう見えない。


 私はただ、彼の消えた道を茫然と見つめるしかなかった。


 その背中の残像を追う私に、ユリアンが静かに声をかける。


「こいつを殴るのはまたの機会にするが……そもそもの噂はどうする? さすがに内申に響くとまずいぞ。特に王子のお前と、宰相子息の俺は」


 ユリアンは本気でライルを羽交い絞めにしたいのだろうが、身長差のせいでどうにもじゃれ合いにしか見えない体勢のまま、真剣な眼差しを私に向けた。

 その声には、先ほどまでの軽口とは異なる現実的な焦りが滲んでいる。


 その空気に影響されたのか、ライルも羽交い絞めもどきから抜け出し、私たちに向き直った。


「俺もなんか不安になってきた。よし、心を落ち着かせるために、温室でも行って、花でも見て気を落ち着かせてくる」


 思わず、ユリアンと顔を見合わせる。


 花を見て、気を落ち着かせる?

 ライルは以前、花など「食えない草」だと言っていなかったか。

 

「私も、妹の写真を飾るために職員室へ急ぎますね。そのために家から、最新の妹アルバム百二十八冊目を持ってきたのですから」


 クレイン先生まで、どこか弾んだ足取りで去っていく。

 妹の話など今日が初耳だというのに、この変わりようはなんだ。

 

 ――ここまで来ると、単なるシスコンの一言で片づけてよいのか、不安になる。


 先生の背中を見送りながら、隣の友人がぼそりと呟いた。


「……なんか変なのは分かってるんだが、答えが出なくてムシャクシャする。ちょっと壁でも殴ってくるわ」


 ――ユリアン、お前もか。

 

 いつもの彼は、殴るなどという言葉から最も遠い、冷静沈着な男だったはずだ。

 それとも、私の認識のほうが誤っていたのだろうか。


 全体としては、確かにいつもの私たちだ。

 だが、どこかが微妙にずれている。その小さな違和感が、胸の奥でじわりと焦りに変わっていく。


 ――なんだろう。


 ほんのわずかだが、何かが噛み合っていない。


 これまで背景に溶け込んでいた時計の音が、今日は妙にくっきりと耳に届く。

 カチ、と鳴るたびに、胸の奥がざらりと擦られ、落ち着きが少しずつ削られていく。


 静かな校舎の中で、その音だけがやけに強く主張していた。


 理由も分からないまま、胸の奥がじわじわと熱を帯びていく。

 苛立ちとも焦燥ともつかない感情が、確かにそこにあった。


 構内の時計塔の音が、これほど耳に響くとは。心身ともに疲れているのだろうか。


 胸につかえたものを吐き出すように、私は荒く息をついた。


 ――ああ、彼女に会いたい。

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