第14話 静かな世界のはじまり
砕け散った時計の音は、もうどこにも聞こえない。
あれほど耳を打っていた焦燥の音は跡形もなく消え、温室には、ただ穏やかな静寂だけが満ちている。
割れた破片はないはずなのに、それでも確かに、何かが壊れ、そして同時に何かが生まれ変わった――そんな感覚だけが、胸の奥に静かに居座っていた。
あれが明確な「敵」だったのかどうかすら、いまの私には分からない。
姿もなく、声もなく、ただ選択肢として存在していたもの。
あれほどの存在感を放っていたのに――今の世界は、拍子抜けするほど静かだった。
それなのに、目の前のリリアーナを見つめるたび、胸の鼓動だけがやけに騒がしい。
世界は穏やかなのに、私の内側だけがどうにも落ち着かない。
その高鳴りに気づかれぬよう、私はゆっくりと呼吸を整え、表情を引き締めて彼女へ向き直った。
「――――私は、この先も君を、選び続けたい」
言葉にした瞬間、胸の奥にあった熱が、すっと形を持ったような気がした。
それを受けて、リリアーナはほんのりとはにかんだ笑みを浮かべる。
頬がわずかに染まり、視線が柔らかく揺れる。
ああ――いままで見てきたどんな表情よりも自然で、そしてどうしようもなく美しい笑顔だ。
「……私も、自分で選びます」
その声には、もう迷いも恐れもなかった。
長い時間を経て辿り着いた覚悟が、静かに息づいている。
そう告げると同時に、リリアーナはそっと手を伸ばし、私の手を包み込むように握った。
指先から伝わる体温が、現実をはっきりと示している。
もう、選択肢を「選ぶ」必要はない。
選ぶ必要も、選ばれる必要もない。
誰かを切り捨てる必要もない。
誰かとだけ「エンディング」を迎える必要もない。
私たちは、この世界の――この先の未来を担っていく人間になったのだから。
◇
「もー、いくら半額だからって、あのカクーゴ・シテクエ・ファット・パフェを二つも頼むなんて、やりすぎだよ~」
「私もそう思う……。けど勝ったよ。けぷ」
あはは、と弾む笑い声が温室の外から響く。
ガラス越しに反響するその音は、どこかくすぐったいほど平和だった。
気づけば日は傾き、温室の外は茜色の夕暮れに染まっている。
長く伸びた影が床を横切り、昼とは違う柔らかな光が、私たちを包み込んでいた。
「結局、なにがどうなんだ? 俺、また花を見にこの温室に来てもいいのか?」
ライルの問いは、状況をまったく理解していないようでいて、妙に核心を突いている。
「ライル先輩にも分かるように言うなら――今までは、同じところをぐるぐる回るレールの上だけを、何度も何度も走らされていたんです。でも今は、そのレールごと列車が外へ放り出された……そう考えてください」
「なにそれ怖い。脱線したってこと? その先は? 無いの? めちゃくちゃ怖い」
子鹿のように震えるライルを見て、思わず小さく笑いが漏れる。
その反応こそが、今の世界の正直な姿なのだろう。
私はあらためて、隣に立つリリアーナへ視線を向けた。
「……確かに、“先が定められていない”というのは、怖いな」
「はい」
ほとんど同時に、私たちは小さく笑った。
怖いと認められることが、こんなにも軽やかだとは思わなかった。
「でも……私はこの先、何が起こるのか分からないという新鮮さで、胸がいっぱいなんです」
「そうだな……」
“この先”。
その言葉を、いま私ははっきりと考えることができる。
ほんの一日前まで、それは許されなかった思考だ。
決められた一年の外側に道があるなど、想像することすらできなかった。
だが今、目の前には、何も書かれていない真っ白な未来が広がっている。
選択肢も、あらかじめ定められた終わりもない。
誰かに用意された未来ではなく、自分の足で歩いていく時間が、この先に続いている。
――なんて、眩しくて。
なんて、恐ろしくて。
それでも、どうしようもなく美しいのだろう。
私は知ってしまった。
自分の気持ちを。
そして、この先をどう生きたいのかを。
怖くて、眩しくて、それでも確かに手を伸ばしたい未来が、胸の奥で静かに燃えていた。
「私も、先が見えないこの状況だからこそ――もう一度、君に言いたいことがあるんだ」
視線が絡み合う。
温室の空気が、ほんのわずかに熱を帯びた気がした。
すでに気持ちは伝わっているはずだ。
それでも、言葉にして、きちんと届けたい。
「リリアーナ、君のことが好きだ。私と、付き合ってほしい」
その言葉を受けて、リリアーナは満面の笑みを浮かべた。
瞳がわずかに揺れ、嬉しさと戸惑いが溶け合う。
彼女はすぐには答えず、一拍おいてからゆっくりと息を整えた。
そして、静かに口を開く。
「…………少し、考えさせてください」
「なぜだ! 今のは、どう考えてもスムーズに“はい”が出る流れではなかったか?」
予想外の返答に、頭の中で組み立てていた段取りが音を立てて崩れ落ちる。
動揺を隠しきれず、思わず声が上ずった。
温室の空気が、一瞬だけ固まる。
だが次の瞬間、その緊張を破ったのは、低く呆れた声だった。
「どさくさに紛れて、なにを告白してるんだ、お前は」
ユリアンは呆れた顔で私を見やった。
その視線には半ば本気の呆れと、半ば照れ隠しのような色が混じっている。
隣りにいるライルは頭の上に大量の「?」を浮かべたまま、少し遅れてようやく口を開いた。状況を理解するまでに一拍置いたらしい。
「俺だって、リリアーナのこと好きなのに。まあ、今は“花友達”ってことでいいけど」
ライルの軽口が温室の空気をわずかに揺らす。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ柔らいだ。
エリオは、どこか遠くを見るような目をして、静かに口を開く。
その横顔には、以前のような作為的な感情の色はない。
「僕は、ゲームの新イベントの方が気になるので、リリアーナ先輩のことは諦めます」
「ドライだな、エリオ」
エリオの冗談めかした言い方の裏には、ほんのわずかな疲労が滲んでいた。
「元々、僕は幼い頃からこういう性格なんです。あの妙な選択システムのせいで、歪められていただけで。ユリアン先輩も、心当たりありますよね」
ため息交じりに語るその姿は、私たちが知っている“作られたエリオ”ではない。
本来の彼自身が、ようやくそこに立っているように見えた。
「それに、リリアーナ先輩のことは好きですけど……僕にとっては、どちらかというと“姉”みたいな存在なので。また勉強を教えてください。部屋から出たくはないですけど、落第はさすがにまずいので……」
気恥ずかしそうに笑うその表情は、肩の力が抜けていた。
無理に誰かを好きになろうとしていた頃の彼ではない。
自然体のエリオが、そこにいた。
「私も、妹が結婚するまでは家庭どころではありませんからね。この先は若い人にお任せしますよ。……まあ、妹が結婚しても離れるつもりはありませんけど」
クレイン先生の落ち着いた声が響く。
温室に、何とも言えない沈黙が落ちた。
誰も突っ込めない。
ただ、妙な説得力だけが静かに空気に漂っている。
私は心の中で、先生の妹君と、その未来の伴侶にそっと合掌した。
皆が、私とリリアーナの仲を認めている。
そんな流れが、確かにそこにはあった。
その空気を理解したうえで、ユリアンだけが当然のように口を開く。
「俺は、ちゃんと今でも、リリアーナのことが好きだぞ」
一瞬、温室の空気がひやりと張り詰めた。
私とユリアンの間に、目に見えない亀裂が走ったような気がした。
そう感じたのは、きっと私だけではない。
だが、次の瞬間。
「ただ……アルノーシュになら、任せてもいいとは思っている」
ユリアンは少し拗ねたようにそっぽを向き、照れ隠しのように早口で言う。
その声はぶっきらぼうだが、不思議と温かさを帯びていた。
皆に応援されている。
皆が、私の味方だ。
以前の、どこかの世界線でも、きっと似たような場面はあったのだろう。
あらかじめ決められていた祝福。台本のように整えられた言葉。
けれど、今は違う。
これは用意された台詞ではない。
迷い、ぶつかり、悩み、それぞれが考え抜いた末に選び取った言葉だ。
だからこそ――。
「なら、やはり、あとはリリアーナが首を縦に振るだけでは……」
その言葉に、リリアーナはアルノーシュをまっすぐに見つめた。
彼は続きを飲み込んだまま、わずかに身を乗り出している。
返事を急かすわけでも、詰め寄るわけでもないのに、その視線には隠しきれない切実さが宿っていた。
期待に胸を高鳴らせながらも、拒まれる可能性に怯えるような慎重さ。
不器用なほど真っ直ぐな感情。
その姿が、どうしようもなく愛おしい。
リリアーナはほんの一瞬だけ瞳を細める。
真剣そのものの顔で固まっている彼の姿が可笑しくて、可愛らしくて――そして、少しだけからかってみたくなる。
指先がくすぐったそうに揺れ、唇の端に悪戯めいた笑みが浮かびかけるのを、彼女はあえて抑えなかった。
「ふふふ。未来は、選択できないからこそ良いんじゃないですか。私は、みんなのことが大好きですよ」
その言葉が落ちた瞬間――私の世界が、止まった気がした。
耳に入ったはずの言葉が、すぐに意味を結ばない。
まるで硝子越しに声を聞いたように、輪郭だけが遠く、現実感が薄れていく。
違う、と胸の奥が強く跳ねた。
今のは、きっと聞き間違いだ。
そう思い込みたい自分が、確かにいる。
理解が追いつかないまま、息だけが浅く速くなる。
喉の奥がひりつき、胸が軋む。
拒みたい衝動と、縋りたい願いが同時に押し寄せ、思考が白く塗り潰されていく。
そして――私は、その場に崩れ落ちた。
ユリアンは、ほんのわずかに肩の力を抜き、少しだけ安堵の表情を浮かべた。
ライルは、いつの間にか手にしていた花を差し出し、慰めようとする。
エリオは「終わったなら」と伸びをしながら、帰る準備を始めている。
クレイン先生は胸ポケットから妹の写真を取り出し、何やら小声で語りかけていた。
そんな皆の様子を、リリアーナは一人、嬉しそうに見つめている。
その笑顔は、祝福を受ける花嫁のものではない。
自分の足で立ち、自分の意思で未来を選ぼうとする――一人の女性の笑顔だった。
物語は、完成しなかった。
時計の音も鳴らない。
選択肢も、もう現れない。
誰かに敷かれたレールではなく、皆で歩いていく道だけが、静かに続いている。
温室に差し込む夕焼けが、柔らかく世界を染めていく。
かつて閉ざされていた時間が、今、確かに動き出していた。
リリアーナは、目の前のアルノーシュを静かに見つめている。
真っ直ぐで、不器用で、いつだって誰かのために必死になってしまう人。
その横顔を、彼女は愛おしむように、わずかに目を細めた。
夕焼けに照らされた金色の髪が揺れるたび、胸の奥が温かく満たされていく。
その感覚を、リリアーナ自身も否定できない。
近づきたいのに踏み出せない距離。
言葉にできない想い。
すべてを抱えたまま、それでも彼を見ていたいと、心が静かに告げている。
――私が、誰も選択しなかったこの世界の余韻を、もう少しだけ味わわせてください。
だって、私は、もう、アルノ殿下のことを――――。
リリアーナがそんなことを考えているとは知らず、
アルノーシュはその場にうずくまったまま、ゆっくりと視線を落とした。
握りしめた指先が、わずかに震えている。
それでも彼は声を上げない。ただ胸の奥に広がる空白を、黙って受け止めている。
けれど彼は再び立ち上がるだろう。
なぜなら――
これは、終わらない物語。
だからこそ、世界は続いていく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作はこれにて完結となります。
最後までお付き合いいただけて、とても嬉しかったです。
またどこかでお目にかかれましたら嬉しいです。




