第二章 立待月
結婚して夫婦になったはずなのに、ただの同居人に成り果ててからひと月。
ルーナは一大決心をした。
くよくよしていても何も変わらないわ!
フォルはたぶん、五年も私を待たせてしまったことに後ろめたさを感じているのよ。だって私、知っているもの。
一緒のベッドで眠ってはくれないけれど、真夜中に私のベッドのそばまで来ては、私に触れようとして途中でやめてしまうことを。
頬にフォルの熱を感じるから分かるわ。
私の作ったご飯をあまり食べてくれないのは、料理が下手な私が悪いの。
昔は『おいしい、おいしい』って食べてくれていたけど……
きっと、気を使ってくれていたんだわ!
だって私は知っているもの。
ご飯はほとんど残してしまうけど、私の話には楽しそうに耳を傾けてくれる。
そしてそこには、変わらぬ優しいまなざしがあることを。
だから、フォルがためらっているのなら、私から一歩を踏み出すの!
後ろめたさなんて感じる必要はないよって。ためらう必要もないよって。
私から!
「ただいま〜」
か、帰ってきた! き、緊張するけど、頑張らないと!
「あれ? ルーナ? いな──グヮア゙ア゙ア゙ア゙ァァ!!」
これまで一度も、ルーナからフォルハントに抱きついたことはなかった。
今日初めて、恥ずかしさをないものにして、仕事から帰ってきた彼に後ろから抱きついてみたのだが──
「おかえりなさい」の声は、フォルハントの凄まじい叫び声にかき消されてしまった。
何が起こったのかまるで分からず、ただ弾かれたように距離を取って震えていたルーナは、床にうずくまり自身の体を強く抱きしめている彼の真っ青な顔を見てとると、急いで駆け寄ろうとして、
「僕に触るな!!」
鋭い声で拒絶された。
頭が真っ白になる。
今の言葉が彼の口から飛び出してきたなんて、ルーナには到底信じることなどできず、脚の力も抜けてヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
ハッ! と我に返ったフォルハントは、軋む体を引きずってルーナに近づき──
けれども、手を伸ばしても届かない範囲に腰を下ろす。
「ごめん、ルーナ。怒鳴ったりして、ごめん……ごめん」
何度も謝る彼の手は、膝の上で固く握りしめられたままで。
本当の喧嘩なんてしたことはないけれど、謝るときにはいつも抱きしめて頭をなでてくれていた。あの温かな優しい手は、もう二度と──
ルーナの蜜柑色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
幾重にも、幾重にも連なって。
それでも、フォルハントの手がルーナに触れることは一度もなかった。
◇◇◇
一晩中泣き明かしたルーナは、白み始めた空をぼんやりと眺めながら、鈍く痛む頭で考えた。
フォルは五年もの間、魔物と戦っていた。ずる賢くて残忍な魔物と。
フォルは何も話してくれないけれど、一緒に戦った人たちの半分以上は魔物にやられて亡くなったと伝え聞いたわ。
そう聞いていたのに。過酷な戦いを生き抜いて、帰ってきてくれたことが嬉しくて、今まで何も考えようとはしなかった。フォルは笑っていたから。
だけど、そんな状況で何もなかった、なんてことはなかったのよ。
昔は、汗をかいたから、汚れたからとか言って、私の前でも平気でシャツを脱いでいたのに、帰ってきてからは一度もそんなことをしていない。
きっと、シャツの下には、いまだ癒えない傷がたくさんあるに違いないわ。
だって、相手は魔物よ? ほんの少し考えれば分かることだったのに。
謝らなくっちゃ。知らなかった、考えてもみなかったじゃ済まされない。
大好きで、大切なフォルに、ひどく痛い思いをさせたんだから!
同じ空を見ながら、一睡もできなかったフォルハントも考えていた。
ルーナを傷つけた。傷つけるつもりなんてこれっぽっちもないのに、想像をはるかに超えた痛みに耐えられなくて。
それでも、ほかに言いようはあったはずなのに、あんな顔をさせてしまった。
幸せにするって約束したのに。
涙を拭ってあげることも、抱きしめてあげることもできない。
僕は何もしてあげられないのに、ルーナと離れることができない。それだけは。
全部、僕のわがまま。傷つけるつもりはなくても、傷つけてしまうことは初めから分かっていたのに。自分勝手な最低の男だ。
ジュリアンからルーナとは別れたほうがいいと、本当に彼女を愛しているならそうすべきだと言われたけれど、どうしても、できない。
僕は弱いから、卑怯者だから、ルーナから別れると言い出してくれるのを待っている。
でも、もしも本当にそう言われたら──僕はいやだと、別れたくないと、泣いてすがるだろう。ルーナをなくして、生きていけるはずがない。僕の半身を。
謝ろう。何度でも謝ろう。そうすることしかできないけれど、子供のころから大好きで、大好きで、心から愛しているルーナをあんなにも傷つけて、泣かせてしまったんだから。
「ルーナ! 昨日は本当にごめん!」
「フォル! 昨日はごめんなさい!」
日が昇るとすぐに部屋を飛び出した二人は、鉢合わせた瞬間、頭を下げ──
被った声に「えっ?」と顔を見合わせた。のは一瞬で、
「ルーナは何も悪くない。謝るのは僕のほうだ!」
「フォルは何も悪くない。謝るのは私のほうよ!」
再び下げた頭と声が被る。
プッ! と吹き出したのは、どちらが先だっただろう。
「えーっと……」
「私たち、やっぱり仲良しね?」
「うん、そうだね」
「じゃあ……謝り合戦は朝ごはんを食べながらにしましょうか」
「合戦って──フフッ。ルーナには敵わないなぁ。でも、負けないよ?」
ルーナが朝食の準備をしているあいだに、フォルハントは小川の冷たい水を汲みに行った。真っ赤に腫れた、ルーナの目元を冷やすために。
◇◇◇
「フォル。本当にごめんなさい。今まで気づいてあげられなくて」
「えっ? な、何を?」
「傷が、痛むのでしょう? それなのに私ったら、あんなことを」
「違うよ! ルーナは何も悪くない! 言い出せなかった僕が悪いんだ──心配をかけたくなくて……」
嘘だ。傷があるのも、心配をかけたくないのも本当のことだけど、この痛みは……
「お医者様には診てもらっているのでしょう? お薬は?」
「うん、隣町のね。薬も飲んでるよ」
気休めにもならないけど。
「塗り薬は? 出てるなら私が塗って──あっ、なるべく傷には触れないように気をつけるから」
「ありがとう。でも……ごめん。傷を、見られたくないんだ」
体中につけられた、深く醜い傷の跡を。
悲しい、悔しい、痛い、辛い。
渦巻く感情が涙となり、フォルハントの頬を流れ落ちる。
「分かった! うん、この話はもう終わり。終わりにしましょう! 次はね、えっと……えーっと……」
もう、私のバカバカバカ! 体も心も痛めつけてどうするのよ!
何か、フォルの喜ぶこと。喜ぶ──あっ。
「ねえ、フォル。朝ごはんを食べたら、裏山にサンザシの実を採りに行かない? たくさん採れたらジャムを作って、タルトを焼いてあげる。フォル、好きでしょう? サンザシのタルト」
重くなった空気をなんとかしようと、自分を喜ばせることを一生懸命考えてくれるルーナに、また泣けてくるフォルハント。
いつもそうだ。ルーナは自分のことより僕のことを優先してくれる。
結婚したのに僕はなんにもしてあげられなくて、ルーナだって辛いはずなのに。
こんなんじゃだめだ。もっと強くならないと。
「うん、好きだよ。だから頑張ってたくさん採る。そのかわり、タルトの半分以上は僕がもらうからね?」
「ええっ、焼くのは私なのに? でもいいわよ。それでフォルが元気になるのなら」
「言ったね〜? やっぱりやめた、はなしだからね。じゃあ──ごちそうさま! お先に〜」
「あっ、ちょっと! 待ってよ、フォールー!」
ルーナがそうしてくれるように、僕もルーナが喜ぶことをたくさんしてあげよう。
触れ合うことはできなくても、いろんなところに出かけて、たくさんの話をして、ともに笑って。
僕はうんと長生きはできないだろうけど、楽しかった思い出と一緒にルーナの心の中に残り続けられるように。
それだけで、ルーナが生きていけるように。




