第十一章 上弦の月
あれから一週間、もうすっかりよくなった。
と、普通の生活に戻ろうとしていたルーナはフォルハントから甘く説き伏せられ、さらに一週間甘やかされてから、ようやく外に出ることを許された。
当分の間は、もれなくフォルハントかジュリアンがついていく、という条件で。
そして今日。
家でやることがあるからジュリアンの家で待っててと連れてこられたルーナは、
義理の母──クレアとおしゃべりを楽しんでいた。
ジュリアンはフォルハントの父親の弟で、子供ができなかったジュリアンとクレアは、幼くして両親をなくしたフォルハントを引き取り息子として育てたのだが……二人になかなか懐かなかったフォルハントは良好な関係を築いてからも、二人のことは名前で呼んでいた。
そういうわけで、自分だけお父さん、お母さんと呼ぶのも気が引けたルーナも、二人のことは名前で呼んでいる。二人ともそれで構わないと笑って許してくれたので。
「クレアはどう思う? 家で一人で、何をするつもりなのかしらね」
「さあねぇ。まあなんにしても、あの子がルーナちゃんを怒らせたり、悲しませたりするようなことはしないに決まってるんだから、楽しみに待ってたらいいんじゃない?」
「楽しみに──あっ、もう一軒家がほしいって言ったから、造ってくれてるのかしら?」
「ええっ、い、家!? いくらなんでもそれは……たった一日では建てられないと思うけど……」
「そうよね。じゃあ何してるんだろう? 気になって仕方がないわ」
クレアとジュリアンは何も聞いていないのでヒントすら出せない。
仮に聞いていたとしても、フォルハントから口止めをされたら絶対に口を割るようなことはしなかっただろう。
ルーナと出会ってからは牙の抜けた狼のようにおとなしくなっていたけれど、彼女に何かあれば、抜けたのではなく隠し持っている牙をすぐに剥きだしてしまうことを、ジュリアンは知ってしまったから。
「お楽しみの時間まで、りんごとくるみのケーキを作りながら待ってるってのはどうだい?」
「あっ、賛成! チーズも入れましょうよ」
「はいはい」
甘酸っぱい香りのするケーキも焼き上がり、そろそろ午後のお茶にしようか、それとももう少しだけ待ってみようか──とルーナが悩み始めたころ、お待ちかねのフォルハントが迎えにやって来た。
「フォル!」
この数週間、明けても暮れてもフォルハントと一緒にいたルーナはたったの数時間離れていただけでも淋しくて、満面の笑みで出迎えるとそのまま抱きついた。
以前のルーナなら人前ではもちろん、二人きりのときでもフォルハントに抱きつくようなことはしなかったけれど、生きていれば、いつ、何が起こるか分からない。そのことを身をもって知った今では、後悔しないよう、大切な想いは大切な人へ、まっすぐに伝えることに決めたのだ。
「ルーナ、お待たせ。さあ、帰ろうか」
同じ想いのフォルハントも、ルーナをしっかりと抱きしめ返す。
「おいおい、私たちには挨拶のひとつもないのか」
「あっ……ルーナがお世話になりました。さあ、帰ろう」
「……」
「もう、フォルったら。クレア、ジュリアン、ありがとう。また来るね」
「うんうん。ルーナちゃんだけ、またゆっくり遊びにおいで」
「はーい──わっ!」
とにかく急いで帰ろうとするフォルハントに手を引かれ、振り返りながらもう片方の手を振っていたルーナは、急に立ち止まった彼の背中にぶつかる。
「フォル、急に立ち止まらない──」
「父さん! 母さん! また二人で遊びに来るよー」
くるりと振り返って、ぶんぶんと手を振ったフォルハントは、またくるりと前を向くと、ルーナの手を引いて足早に歩き去っていった。
「……あなた。あの子は、今、なんて……」
涙で声が詰まった妻の肩を優しく抱き寄せる。
「まったく──あれくらいのことに何年かけてるんだか、あいつは……」
呆れた声でそう言ったジュリアンの目元にも、涙が滲んでいた。
フォルったら、自分だけずるいわ。私だって、お父さん、お母さん、って呼びたかったのに。
ちょっぴりすねながら、赤く染まったフォルハントの耳を見て微笑む。
でも、これからはそう呼べるのよね?
温かい気持ちに包まれたルーナはフォルハントと手を繋ぎなおし、肩を並べて家路についた。
◇◇◇
ここを曲がれば家が見えてくるというところまで来ると、ルーナはフォルハントから目隠しをされた。
サプライズを用意しているらしい。
転ばないように腕を組み、歩くペースも落としたが──それからというもの、
フォルハントはひと言も喋らなくなった。
ふふ。なんのサプライズを用意してるのか分からないけど、フォルったらすごく緊張してるみたい。
組んだ腕に左手を添えているルーナには、フォルハントの早い鼓動が伝わっていた。
サプライズが成功するか気になっているのかしら? フォルが私のためにしてくれることは、なんだってうれしいのにね。
自分もワクワクドキドキしながら歩いていると家についたようで、扉を開く音が聞こえた。踏みしめていた土の感触から硬い木の感触へと変わる。
「まだだよ。まだ目隠しは取らないでね」
ソファに座らせられたルーナの耳に、食器のカチャカチャと触れ合う音が聞こえてくる。次いで、ほんのりと漂っていたいい匂いが濃くなったことを感じた。
晩ごはんを作ってくれたのね? いい匂いだわ。
軽やかに動き回る足音が、楽しそうに食事の用意をしているフォルハントの様子を伝えてくれる。たったそれだけのことなのに、ルーナはなんだか泣きたくなった。
一人暮らしをしていたフォルハントはそれなりに料理もできて、ルーナに手料理を振る舞うこともあったのだが、帰ってきてからは食が細くなったこともあり、まったく作らなくなっていたのだ。
大丈夫。もう大丈夫という証しなんだから、泣くことなんてないのにね。
「よし、できた!」
フォルハントの満足そうな声に、目隠しの下で滲んだ涙を慌てて散らしていたルーナの両手がとられる。
「今度は僕の肩につかまって」
「ええっ!? まだ目隠しを取っちゃダメなの?」
「うん、もう少し待ってね──じゃあ、右から行くよ? せーの!」
自分の両肩にルーナの手をのせたフォルハントが、楽しそうに指示を出す。
説明が雑な気がしないでもないが《右足》のことだろうと思ったルーナが一歩踏み出すと──
「そうそう、その調子!」
弾んだ声を上げるフォルハント。
そのままゆっくり数歩進むとストップの声がかかり、またカチャカチャと音がして、フォルハントの肩に力が入ったのが分かった。
「じゃあまた右からね。ゆっくり行くよ」
どこへ行くのか分からぬままそろそろと歩いていると、足元の感触がまた土のものへと変わった。
外で食べるのかしら? 扉を開ける音は聞こえなかったけど……
そもそも両手はふさがる予定だったみたいだから、開けたままにしておいたのかしら?
あれこれ考えながら歩いているうちに目的地に着いたようで、
「そろそろ止まるよ。僕が一、二、って言ったら止まってね。はい、一、二!」
フォルハントの掛け声にピタリと足を止めると、そのまま待つように言われる。
今度こそ! かしら? なんだかドキドキしてきたわ。
立ったまま指を組み合わせるルーナ。
まるで祈るようなその姿をちらりと見上げたフォルハントも、またドキドキし始めた。
ルーナ、喜んでくれるかな?
晩ごはんをのせたトレーを置くと、彼女の背後に回る。
「じゃあ……目隠しを取るよ。準備はいい?」
「うん」
震えそうになる指で目隠しを外したフォルハントは、逆に目をつむる。
目をつむり、目をつむって、目を──
あれ? 反応が……
「ル、ルーナ?」
恐る恐る後ろから覗き込んだルーナは、口元を両手で覆い、目をまんまるに見開いたまま固まっていた。




