第十章 三日月
ハァ……どうしてかしら? あまり痛くないわ。フォルの腕がいいからかしら?
そりゃあそうよね。フォルの弓の腕前は村いち──ううん、国で一番ですもの。
ふふ。こんなときでもフォルの自慢をするなんて、どれだけ、
「ルーナ!!」
…………え゙っ?
ルーナが閉じていた目をそろりと開けると、フォルハントの真っ青でぐちゃぐちゃになった顔が──どアップで飛び込んできた。
冷たい地面に横たわっていたはずの体は彼の腕の中で、その熱を感じている。
……もう……マザーったら、約束が違うわ。私は魔物として死んでいくはずだったのに。これじゃあ、フォルが自分を責めてしまうじゃないの。
だけど──
「フォ、ル。傷、痛、ない? わた、触れ、痛、ない?」
「そんなことどうだっていい! なんで、なんでこんなことに……俺が、俺がルーナを──」
「ォ、ル。悪、ない。わた、しぁ、せ。フォ、も、わた、痛、なぃ……」
無理に絞り出すルーナの声は、だんだん細く弱くなっていく。
「ルーナ、いやだ、俺をおいていかないで! ルーナ!!」
「……ハァ……わた、しぁ、わせ。さぃ、ご、フォ、うで──」
「ルーナ! ルーナ!! ルー」
「どきな!!」
突然現れたマザーに突き飛ばされ、ルーナを奪われた。
取り返そうとするも、一歩離れたところからあらためて見たルーナの顔からは、見る間に血の気が失せていき、逆に矢の突き刺さった胸のあたりはじわじわと赤が広がっていく。その恐ろしい光景に体がこわばり、動けなくなってしまった。
頭も腕もだらりとたれ下がり、マザーが何やら呪文を唱えているが動く気配は見受けられず、その事実がフォルハントを打ちのめす。
なん、で、こんな────いや、いやだ。ルーナがいなくなるなんて。
そんなの、いやだ。ルーナのいない世界なんて、意味がない。いらない──
いかせない……俺のルーナを、一人でなんか、いかせない!
「何やってんだい!!」
命をたとうとしていたフォルハントの矢が弾き飛ばされる。
「あんたに構ってる暇はないんだ! 間に合うもんも間に合わなくなっちまうだろ! おとなしくそこで見ときな!」
ルーナを地面に下ろしたマザーは必死に呪文を唱え続ける。
死なせるもんか。嘘つき男に怒られるなんて、まっぴらごめんだよ。
あんたとの約束のせいでこんなことになっちまってんのにさ。
責任とるのはあんたのほうだからね!
フォルハントのぼやけた視界の中、ルーナの姿はゆらゆらと揺れ動いていて、それはまるで生きているかのように見えていた。
が、自分の放った矢で愛する者の命を奪ってしまった彼の心は崩壊寸前で──
俺の呪いも視えなかったマザーにできることなんてない。
マザーが帰ったらルーナのお墓を作り、俺も一緒に……
──ルーナと同じ世界へいくことしか頭には浮かんでいなかった。
しばらくすると、マザーの体から文字のようなものが渦を巻きながら出てきた。
それでも〈あれはなんだろう?〉と考えることもできずに、ただぼんやりと眺めていたのだが……
フォルハントのうつろな目が徐々に開き始める。
ルーナの体が、ゆっくりと宙に浮いていくのに合わせて。
ふわふわと浮かんだルーナの体に、文字のようなものがぐるぐると巻きついていく。姿が完全に見えなくなったところで一度弾けたように膨らむと、少しずつ、彼女の体の中へ吸い込まれるようにして消えていった。
「はぁぁ。疲れた。あとちょっとでもズレてたら危ないとこだったけど、なんとか間に合ったね。さすがはあたしだ」
マザーが得意げな顔で振り返ると、フォルハントは尻もちをついたまま、まんまるに開ききった若草色の瞳でルーナの胸のあたりだけを凝視していた。
「ちょいと、聞いてんのかい? この娘はもう大丈夫だって言ってんだよ」
問いかけても全く動かないフォルハントに苛立つマザー。
特別な魔法を使った彼女も疲れているのだ。
「ああ、もういいよ。この娘はあたしが連れて帰るかギャッ!」
どけと言わんばかりに思いっきり押しのけられて、疲れ果てていたマザーは横にゴロゴロンと転げる。
「ちょいとあんた! 命の恩人になんてことすんだい!」
転げたまま叫ぶマザーの声はどこか遠く、先ほどまでの光景がまるで嘘のように、傷跡は消えてなくなり、血の気の戻ったルーナしか見えていないフォルハントは、震える手で彼女の手をとった。
「ああ、温かい……ルーナ、戻ってきてくれたの? 生きて──」
さまざまな感情がぶつかり合い精神的に限界を迎えたフォルハントは、その場にゆっくりと崩れ落ちていった。
ルーナの温かい体にすがりつくようにして。
◇◇◇
「フォルー、起きてー、朝ごはん食べるよー」
返事がない。
「お寝坊さーん、朝だよー、ごはんだよー。フォッ!?」
朝食の支度をしながらフォルハントを呼んでいたルーナは、背後からきつく抱きしめられすぎて、一瞬息が詰まる。
「ルーナ! ルーナ!」
涙声で、なおもきつく抱きしめようとするフォルハントの手を強めに叩く。
「どうしたの? 怖い夢でも見た?」
「夢、なんかじゃない。俺──僕はルーナを」
「夢よ。ぜーんぶ夢。フォルも私もここにいるわ。二人とも生きてる。だって……さっきからすっごく苦しいんですもの」
もう一度手を叩くと慌てて緩められたが、背中にぴったり張りついたまま離れようとしない。
ふふ。本当に、困った人ね。
お腹の前で組まれていたフォルハントの指をほどき、体を反転させる。
「フォル、朝ごはんをちゃんと食べないと、いつまでたっても私を抱き上げられないわよ? こんなに細い腕のままじゃ、私のほうが──」
「ルーナ!」
後ろにグラッと倒れそうになったルーナの体を、頭も抱えて抱きしめなおす。
「……ルーナ」
「ごめんなさい、大丈夫よ。朝からちょっと、張り切りすぎちゃったかな」
言われて見れば、ルーナの顔色は冴えず、体も少し熱っぽく感じられた。
泣いている場合ではない。
「なんでこんな無理するの! ダメだよまだ寝てなくっちゃ!」
ルーナを横抱きに抱え上げて歩き出す。
「多少細くなった腕だけど、僕は一応男だからね。ルーナを抱えるくらいわけないよ。あとは僕がやるから、ルーナはおとなしく寝てて──あっ、そうだ。マザーは?」
「私が起きたときにはもういなかったわよ」
「えーっ。マザーにやってもらおうと思ったのに……」
寝室の扉の前で立ち止まったフォルハントの目は、ルーナの顔とキッチンを何度か往復すると、
「ルーナ、ごめん。ソファの上でもいいかな? キッチンからはベッドが見えないんだよ」
怒ったふりをして、少しだけ上がっていた目尻がしょぼんと下がった。
ああ、だからあとはマザーにやってもらおうと思ったのね?
マザーにルーナを見ていてもらい、その間に自分が朝食の準備をするという選択肢はまったくなかったらしい。
「いいわよ。だけど、ブランケットがほしいわ」
「分かった」
そうしてソファにルーナを下ろしたフォルハントは、ルーナの姿を途切れることなく視界に入れたまま、彼女が作ってくれた朝食を手早く皿に盛り、ローテーブルの上に並べると隣に腰を下ろした。
「僕が食べさせてあげようか」
「これくらい自分で食べられるわ」
「そう? 手を貸してほしくなったらいつでも言ってね」
「うん、ありがとう」
本音を言えば、食べさせてもらうのではなく、もう少しだけ離れてほしい。
紙切れ一枚も通さないほどにぴったりと寄り添われていては、食べにくくてしょうがないのだが……
気持ちは痛いほどよく分かるし、ルーナ自身も離れたくはなかった。
ゆっくりと食べ進めるルーナの隣では、帰ってきてからの食の細さが嘘のように、フォルハントがすごい勢いでパンやウインナーにかぶりついていて、呆れるよりも嬉しくなるルーナ。
本当にもう、すべての悪夢は終わったのね。マザー、ありがとう。
元気になったらお礼をするからね。
感謝をしながら食事をするルーナとは違い、あっという間に食べ終わったフォルハントは首を傾げながらお腹をおさえた。
それに気づいたルーナは慌てる。
「フォル! どうしたの、お腹痛い?」
「ううん。そうじゃなくて──食べ足りない……」
「えっ、足りないの!?」
食べられない時間が長かったから、少しずつ食事の量を増やしていこうと思っていたルーナは、フォルハントの言葉に驚く。
まさかこんなにすぐに食欲が戻るなんて……
「あっ、じゃあ私の分を」
「ダメだよ! ルーナは病み上がり──じゃないけど体が弱ってるし熱もあるみたいだから、食べられるときに少しでも栄養をつけておかないと」
「でも、余分には作っていないから……」
「パンは? もうない?」
「あるわよ。あの戸棚にオーネウッチィのロールパンが入っているからそれと、ウインナーと卵もまだ少しあったからそれを焼いて」
「いやだよ、そんなことをしていたらルーナから目が離れるでしょ? パンだけにする」
「そ、そう; じゃあそうして」
「うん」
パンを目指し、後ろ歩きで戸棚に向かうフォルハント。
目を離すとまた悪いことが起きるのでは? とでも思っているのか……
その徹底ぶりが、ルーナにはおかしくて愛おしかった。
「これかなぁ……袋に入ってるよね?」
「そうよ。ない? ちょっと待って」
「動かないで! 大丈夫だから。たぶんこれだと──うん、ん?」
パンが入っているというわりにはやたらと軽──ものすご〜く軽い紙袋を取り出して確認すると、そこには確かにオーネウッチィの店名が。
「これだよね。えっ、これパン入ってる?──あっ!」
紙袋を持つ手をくるりと返したフォルハントは、ワナワナと震えだす。
「どうしたの?」
「パンはもらっていくよ。ごちそーさん。だって! マザーの仕業だ!」
「あ、あら〜……」
仕業って……命の恩人なんだから、パンだけじゃお礼にはならないんだけど──困ったわ。明日のパンもなくなっちゃった。こんな調子じゃ私はもちろん、フォルも自分一人では買い物なんて行かないだろうし。
ルーナが彼を見てそう思う一方──
フォルハントがルーナに向ける目は〈しょうがないなぁ〉と笑っているように見えなくもないが、紙袋で口元を覆っているところを見ると、袋の中へ口パク悪態を吐きまくっているに違いない。
食べ物の恨みは恐ろしいのだ。
一緒に買い物にっていったって、絶対ダメだっていうわよね。食欲が戻ってきたフォルにはたくさん食べてほしいんだけど……どうしましょう?
ルーナがほとほと困っていると、玄関の扉がノックされた。
「ジュリアンだ。ルーナ、フォルハント、いるかい?」
「いるよ! ジュリアン入って!」
嬉々とした大きな返事が返ってきて、これは自分の身だけに起こったことではなかったんだ、とジュリアンは安堵した。
朝の着替えをしていたら、傷がきれいに消えてしまっていることに気づき、もしやと思い急いでやって来たのだ。
フォルハントのうれしそうな声の意味には気づいていない。
というか、そもそもフォルハントはまだその事実に気づいていなかった。
「おはよう、ジュリアン。いいところに来てくれたね」
「おや? そうなのかい──って、どこを向いてしゃべってるんだ、お前は」
「ジュ、ジュリアン! おはようございます。あの、これにはちょっといろいろわけがありまして……」
「いろいろ? ルーナ、具合でも悪いのかい?」
「そうなんだよ、だから買い物に行ってきてくれる?」
いつも礼儀正しいルーナはソファに座ったままで、その顔色はよくない。
心配して声をかけたジュリアンだが、それに応えたのはフォルハント。
会話もおかしいが、まったくこちらを見ようとしない彼に首を傾げる。
「お前、なぜ私を見ない? 何かやましいことでもしたのか」
「するわけないでしょ。ねえ、ルーナ、何を買ってきてもらえばいい?」
「もう、フォル! ジュリアン、ごめんなさい。昨夜フォルは怖い夢を見て、私から目を離すとその夢が現実のものになるんじゃないかと不安になっているんです。私の調子がよくないものだから余計に……」
「そう。だから僕はルーナから目を離すわけにはいかないの。分かった?」
いつの間にか──いや、ジュリアンも一部始終を見ていたが、ルーナから一ミリも視線を外すことなくソファに近づいたフォルハントが、彼女を膝の間に座らせ後ろから抱きしめたところで、ようやく目があった。
詳細も何もまったく分からないジュリアンだったが、傷が消えたことと何か関係があるのだろうと思うことにした。今日のところは。
そんなことよりも、二人の寄り添う姿をまた見ることができて何よりもうれしい。
人前で、寄り添いすぎの気がしないでもないが……
お互いと、未来を諦めなかった二人だからこそ成し得た奇跡だろう。
買い物くらい、いくらでも行ってやる。
ジュリアンは、晴れやかな表情で二人の家をあとにした。
買ってきてほしいものがびっしりと書かれたメモを手にして。




