素直すぎる侯爵令嬢は婚約者を信じ続けるけれど――破滅するのは彼の方でした
侯爵令嬢ルシアナ・アルトレーヌは、今日も王立学院の生徒会室でペンを走らせていた。
本来なら、これは第二王子エドリアン殿下の仕事だ。けれど、彼女は微笑んで言う。
「殿下はきっと、わたくしに成長の機会をくださっているのですわ」
隣で書類を整理していた義弟ライオネルが、深いため息をついた。
「成長の機会じゃなくて、ただの丸投げだよ。それに昨日も王都の花街で見た。殿下、また別の令嬢と馬車に乗ってた」
「まあ。民の暮らしを見聞きするご視察でしょうね。王族として尊いことですわ」
「どこがだ!」
ライオネルの声が生徒会室に響いた。
しかしルシアナは、本気でそう思っている。殿下の行動には必ず理由がある――そう信じて疑わないのだ。
幼い頃から、母に言われ続けてきた。「婚約者を信じるのが、淑女の務めです」と。
だから疑うという発想がない。怠惰も浮気も、彼女にとっては信じる理由に変わる。
書類をまとめながら、ルシアナはふと窓の外を見た。夕陽が差し込み、机の影を長く伸ばす。
「そういえば最近、殿下がお忙しいご様子なのです。学園の式典で発表があると仰っていましたわ」
ライオネルは嫌な予感を覚え、机を拳で軽く叩いた。
「まさか、婚約に関する発表じゃないだろうな」
ルシアナは穏やかに微笑んだ。
「まあ、殿下のことですもの。きっと国のためになるお話でしょう」
その微笑みを見て、ライオネルは頭を抱えた。
彼女の信じる力が、時に最強の武器だと、まだ誰も知らなかった。
――そして、式典の日は静かに近づいていった。
学院の終業式。講堂には生徒たちが整列し、荘厳な音楽が響いていた。
その壇上で、第二王子エドリアンが高らかに告げる。
「ルシアナ・アルトレーヌ! 今この場をもって、婚約を破棄する!」
空気が一瞬で凍った。
教師も生徒も息を呑む中、ルシアナは静かに一礼し、いつもの穏やかな声で返した。
「まあ、殿下。ついに次の段階に進まれるのですね」
「……次の段階?」
「ええ。わたくしの代わりに、お仕事を支えてくださるご令嬢をお選びになったのでしょう? 殿下のご慈悲の輪が広がるのは、国にとって素晴らしいことですわ」
「ち、違う! そういう意味では……」
会場がざわめき始めた。
そのとき、後方から鋭い声が上がる。
「黒薔薇亭で殿下をお見かけしましたわ!」
「黒薔薇亭? あの密会場所の?」
「ええ、ミレーユ・サンドール様とご一緒に!」
ルシアナはぱちりと目を瞬いた。
「まあ、あの方が殿下の補佐官を務めていらしたなんて! 民の声を聞くために、密会所にも通われるのですね」
「ち、違う! あれは……!」
「殿下は勉学にも熱心でいらっしゃいますものね。いつも私のレポートを真似して勉強していると仰っていました」
「ま、真似!? お前が書いてたのか!?」
その瞬間、講堂が爆発したように笑いとざわめきに包まれた。
教師たちは顔を見合わせ、誰かが小さく「なるほど、だから完璧だったのか」と呟く。
エドリアンの顔は真っ赤に染まり、ミレーユは青ざめる。
誰の目にも、婚約破棄がただの自滅劇であることは明らかだった。
ルシアナは小さく会釈し、微笑んだ。
「殿下、わたくしを試練から解き放ってくださり、ありがとうございます」
その笑顔に、王子のプライドは粉々に砕けた。
――そしてその夜、ルシアナのもとに王宮からの召喚状が届く。
王宮の謁見の間。高い天井に、国王の低い声が響いた。
「エドリアン。お前は公務怠慢と不敬の罪により、爵位を剥奪し、辺境へ送る」
「ま、待ってください父上! 僕は騙されただけで!」
「黙れ」
厳しい声が王座から響き、場が静まり返る。
第一王子が肩をすくめた。
「お前の婚約破棄宣言は国中の笑い者だ。兄として恥ずかしい」
ルシアナは静かに膝を折り、頭を下げた。
「陛下、殿下が真実に気づかれたことを、わたくしは誇りに思いますわ」
国王が思わず微笑した。
「……お前のような娘が、王家にいればよかったものを」
それからというもの、ルシアナのもとには縁談が次々と舞い込んだ。
けれど、彼女はどれも断った。
ある日、執務室で書類を整理していると、ライオネルが声をかけた。
「……次は、誰を信じるつもりなんだ?」
彼女は少し考えてから、微笑む。
「そうね。今度は、自分の目で見て決めようと思うの」
その答えに、ライオネルはしばらく黙ったあと、まっすぐな声で言った。
「じゃあ、俺を選んでみないか。俺は姉さんを裏切らない」
不意を突かれ、ルシアナは一瞬だけ息を呑んだ。
けれど、その瞳の奥に浮かぶ真剣さを見て、心の奥が温かくなる。
「ええ。あなたの言葉なら、信じられますわ」
夕陽が差し込み、窓辺に淡い光が満ちていく。
かつて信じることに縛られていた彼女が、今は自分の意志で信じる人を選んでいる。
柔らかな風がカーテンを揺らした。
その笑顔はもう、誰のためでもなく、自分のためのものだった。




