先の女王コーネリア・イング・リッシュアンの困惑~わたくしめは先の女王陛下ではなく、先の女王陛下の護衛女官にございます~
「愚かなる王よ! そして、先の女王よ! 貴様らの命、もらい受ける!」
王宮の大広間に、男の声が響き渡った。
王家主催の舞踏会に参加している者たちは、一斉に動きを止めた。
シルヴィーは、自分の前に立っている国王を見つめた。
黒髪に青い瞳の、精悍な長身の美男。
王というのは、当然ながら、目の前にいるこの男で間違いないだろう。
では、先の女王は? まだまだ子供っぽいところの残る、たった十四歳の先の女王。
シルヴィーが護衛として仕えている、先の女王コーネリアは、この舞踏会には参加していなかった。
コーネリアは前の王である、フォルケ王の妹の娘だった。フォルケ王が流行り病により崩御したのに伴い、フォルケ王の遺言に従って、たった五歳で即位した。
今の国王は、フォルケ王の命により、母の故郷である湖畔地方で密かに育てられていた。
現国王、故郷での名をベルティル・ベ・ファーレン。王族としての名を、マッツ・ヨ・シムーネ。
彼が王宮入りするまでの半年間、幼いコーネリアが女王として玉座を守ったのだ。
退位したコーネリアは、自分の存在が王権を脅かさないよう、国内を漫遊していることが多かった。
今回の漫遊では、ワインで汚されたクヌート王時代のドレスの染み抜きができる職人に会うため、西の辺境伯家の領地に向かっていた。
ここにはいない先の女王は、平民に多い平凡な茶色の髪と瞳の持ち主だ。孤児院育ちのシルヴィーのものとよく似た、茶色の髪と瞳……。
今回のシルヴィーの任務は、国王にコーネリアからの密書を渡すことだった。
この舞踏会に貴族の令嬢のような深紅のドレスを着て参加し、恐れ多くも国王に挨拶し、握手をするふりまでした。
その時、給仕の姿をした大柄な男が叫んだのだ。
「愚かなる王よ! そして、先の女王よ! 貴様らの命、もらい受ける!」
などという、不敬極まりないことを。
すでに密書は国王の手に渡っていた。
それなのに、国王はシルヴィーの両手を握ったまま離さないでいた。
戸惑っていたシルヴィーは、今、国王の意図を理解した。
(わたくしめなどを、先の女王陛下と勘違いさせるため……)
髪と瞳の色に加え、国王の親密そうな様子によって、シルヴィーは先の女王と勘違いされたのだろう。
『王族や貴族というのは、下の者を利用し尽くす生き物だ』
シルヴィーと共に諜報と暗殺の訓練を受けた者たちも、教官たちも、全員がそう言っていた。
シルヴィーは国王を守るため、国王と男の間に立とうとした。
王家のために生き、そして、死ぬ。それこそが、シルヴィーの務めだ。
だが、国王はシルヴィーに、場所を譲ってくれなかった。
普通の王族や貴族ならば、シルヴィーを自分の前に立たせるのに。
国王は湖畔地方のヴィーワの村で、秘密裏に育てられた方だ。貴族の中には、国王を陰で『あの田舎者』と呼ぶ者もあった。
(このお方は、王族や貴族の流儀が、いまだによくわからないのかもしれない……)
国王の鍛え抜かれた背中は大きくて、シルヴィーには押しのけることが難しかった。
暴れ馬さえ乗りこなすことで有名な、勇猛な国王だ。
貴族の私兵たちと戦っても、負け知らずだと聞いている。
だからといって、自ら戦う必要はないだろう。
ここに『かげろう』とも呼ばれる、使い捨ての命があるのだ。
「二人とも、死ねええええぇぇぇ――ッ!」
男はどこから出したのか、中途半端な長さの剣を手に持ち、国王とシルヴィーに斬りかかってきた。
シルヴィーは素早く国王の前に立つと、一気に男との間合いを詰めた。
男はただの騎士程度の腕前しかないようだ。シルヴィーの急接近に驚いた顔をしながら、ただ力任せに剣をふり下ろした。
シルヴィーは剣を握る男の手を、両手で捕まえた。
同時に、シルヴィーの足が、緋色の絨毯の敷かれた床を強く蹴った。
シルヴィーの身体が宙を舞った。深紅のドレスが空中で広がり、美しい大輪の薔薇のように見えた。
シルヴィーは身体を捻りながら着地すると、床に倒した男の首筋に手刀の一撃を入れて、気を失わせた。
このやり方ならば、シルヴィーでも、巨漢でさえ地に倒すことができる。
すぐに給仕姿の男が二人やって来て、倒れている男を抱え、大広間から去っていった。
あの二人はシルヴィーと同様の訓練を受け、この国の闇を担う者たちだ。このまま男を連れて、『設備の整った尋問室』へ直行だろう。
「あのお二人は、先の女王陛下の護衛騎士だわ!」
令嬢の一人が叫んだ。
「そうよ! スティグ様とカール様よ!」
別な令嬢も叫んだ。
コーネリアの麗しの護衛騎士二人は、給仕姿に身をやつして、舞踏会に参加したことがあった。
その時に、今と同様、コーネリアを攻撃した娘を抱えて、大広間を出て行った。
「よく見えなかったわ! ああ、スティグ様、カール様!」
令嬢たちが騒いでいるすきに、シルヴィーはこの場を離脱することにした。
「行くのか」
国王がシルヴィーの腕をつかんだ。
「はい」
シルヴィーは国王をふり返った。
「元気で」
シルヴィーは不敬を承知で国王の腕を振り解くと、その場から駆け出した。
「先の女王陛下だ!」
どこかで男が叫んだ。
「さすが先の女王陛下、旅先で武芸を極められたのか!」
「あの身のこなし! 国王陛下を守った勇敢さ! 間違いない!」
「せっかく先の女王陛下のお姿を拝見できたのに、ドレスが薔薇のようになったことしか思い出せぬ……っ!」
貴族の男たちの声を聞きながら、シルヴィーは大広間から庭へと出た。
(元気で?)
怪我や病気などをしないようにしろという意味だろう。
国内を漫遊する先の女王の護衛に、なんということを命じるのだ。
王族や貴族というのは、本当に厄介な生き物だ。
(あれは……、命令だったの……?)
元気で、の続きは? 元気でいろ? 元気でいるように? 元気でな?
(ただの別れ際の挨拶……? 王族が諜報と暗殺を担う女と、別れの挨拶なんてものを交わすはずがないわ)
国王は自分から声をかけてきた。なにか意味があるに違いない。
(妹同然と公言しているコーネリア殿下を頼む、と言いたかったのよ)
シルヴィーは結論づけた。これが妥当な答えだ。
わかっている。わかっているのに。
こんな程度の速さで走っているだけで、なぜ胸が苦しいのだろう。
シルヴィーは王宮の庭を駆け抜け、馬の石像のところへ行った。石像の仕掛けを操作して、隠し通路に入る。
コーネリアの前の王は、後宮に入れた女たちによって、政治まで乱された。
国王は同じ道を歩まぬよう、自ら男爵家の三男坊のふりをして、後宮絡みの問題を解決して歩いていた。
その結果、国王の後宮には、多くの女が入っては、追い出されていた。
若く精悍な国王には、まだ王妃すらいない。
シルヴィーは隠し通路を抜けて、王宮の外の林に出た。木に繋いでおいた馬のところに着くと、ドレスを脱いで、大きな革袋に詰めた。
乗馬服姿になったシルヴィーは、革袋を背負い、腰にレイピアを下げた。そのまま馬に乗り、西の辺境伯家までの道をたどり始めた。
かつてシルヴィーは、コーネリアの漫遊のお供をして、海辺地方を旅したことがあった。
あの地には、恐ろしい思い出がある。
スティグとカールが悪徳領主の罠にかかって牢屋に入れられてしまい、シルヴィーしかコーネリアの護衛をする者がいなくなったのだ。
シルヴィーはコーネリアを守り、浜辺で襲ってきた悪徳領主とその配下と戦った。
そこに、国王が助けに来てくれた。暴れ馬として有名な白馬に、王族の印たる赤き馬具をつけて。
「マッツ王……」
シルヴィーは無意識のうちに、国王を呼んでいた。
波打ち際を白馬で駆けてきてくれた、精悍な国王の笑顔――。
(どうかしているわ)
相手は国王だ。諜報と暗殺の術を仕込まれ、『かげろう』などと呼ばれている女には、手が届くはずもない。
この先の森には、温かな湯で満たされた不思議な泉があったはずだ。
心地よい湯に浸り、身も心も清めたら、きっとこんな気持ちも忘れられるだろう。
シルヴィーはコーネリアの護衛。
国内を漫遊するコーネリアを陰から支えることこそ、シルヴィーのなすべきこと。
すべてを洗い流したら、コーネリアの元に戻るのだ。
シルヴィーの耳に、後ろから馬が近づいてくる音が聞こえた。
シルヴィーが倒した男は、国王とコーネリアを消そうとしていた。
舞踏会に参加していた者たちは、シルヴィーをコーネリアと勘違いしていた。
(今は戦いたい気分ではないのに……)
暗殺者を引き連れて、コーネリアの元に戻るわけにはいかない。
シルヴィーは少しだけ馬の速度を落とし、レイピアを抜いた。
馬の蹄が地を叩く音から考えると、大きな馬に体格の良い男が乗っているはずだ。
まともに切り結んだら、シルヴィーに勝ち目はないだろう。
隙を突き、一気に倒す――。
「シルヴィー!」
呼びかけてきた声は、国王のものだった。
シルヴィーは慌ててレイピアを鞘に戻し、馬を止めた。
「国王陛下、どうなさいましたか!?」
シルヴィーは馬ごと国王に向き直った。
「大事なことを伝えられなかった」
「申し訳ありません!」
シルヴィーは馬から飛び降りてひざまずいた。
国王は密書に関して、コーネリアに伝えるべきことがあったのだ。
シルヴィーは国王からの返答がある可能性を考えず、舞踏会の会場から逃げるように立ち去った。
大失態だ。
国王はシルヴィーに追いつくと、自らも馬を降り、シルヴィーの前までやって来た。
「ひざまずく必要などない」
国王はシルヴィーの腕をやさしくつかんで立たせてくれた。
シルヴィーは顔がひどく熱くなった。
(顔を上げられないのは、相手が国王陛下で、恐れ多いから。それだけよ)
シルヴィーは自分自身に言い訳した。シルヴィーはコーネリアのただの護衛に過ぎない。国王の前で顔を上げる必要など、どこにもないというのに。
「コーネリアに伝えてほしいのだが……」
国王はまるで言い淀むように言葉を切った。
「お任せください! この命に代えましても!」
必要以上に大きな声が出てしまい、シルヴィーは自分で驚いた。
シルヴィーはコーネリアの、たった一人の女護衛に選ばれたほどの者だ。
このように自分を制御できなくなることなど、非常に稀だった。
「いや、命は大事にするように」
国王は穏やかな声で命じた。
「は、はい……」
シルヴィーは顔がますます熱くなった。
「では、言うぞ。『平民であっても、貴族の養女となれば、国王に嫁げる。メーゲム公爵家が平民の養女をとることを了承している』」
先日、王立学院の卒業パーティーで、イレーネ・オト・メーゲム公爵令嬢が婚約破棄された。
王族同然のメーゲム公爵家の要請により、国王が相手の公爵令息を鉱山送り、男爵令嬢を修道院送りとした話は、シルヴィーたちの耳にまで届いていた。
その見返りに、国王はメーゲム公爵家に、平民の養女をとらせるつもりなのだろう。
「ここまでは覚えられたか?」
「はい」
ただ立っているだけなのに、シルヴィーの心臓は、爆発しそうなほど高鳴っていた。
(国王陛下からの重大な任務ですもの。心臓だっておかしくなるわ)
シルヴィーは心の内で、覚えたばかりの伝言の内容を繰り返した。
「意味は……わかったかな?」
「意味! 意味とは! 暗号ですね!」
シルヴィーはとても驚いた。同時に、この国の諜報と暗殺を担う、『かげろう』としての使命感を取り戻した。
(先ほどの文言は暗号だったとは! そこまで考えが及ばなかったわ!)
シルヴィーは持てる知識を使って、言葉を入れ替えたり、言葉の頭文字だけを並べてみたりし始めた。
「そうではなく。そなたを娶りたいのだ」
「それが暗号を説く鍵ですね! 覚えました! しっかりお伝えします!」
どうやらシルヴィーの知らない暗号解読法であったようだ。王族だけに伝わるものなのだろう。ことは重大に違いない。
「余はどうしたらよいのだ……、コーネリア」
「覚えました!」
「『この国の国王は、誰に対してもひざまずいてはならない』など、誰が決めたのだ……」
シルヴィーはここまでは、国王の言葉をそのまま記憶していた。だが、このまま長くなるならば、物語法に切り替えた方がよいだろう。物語法とは、ストーリー仕立てにして覚える記憶術だ。
「シルヴィー?」
「物語法で覚えなおしております。しばしお待ちを、国王陛下」
「覚え……。いや、そうではない」
シルヴィーはすべて覚えてから、「質問だったのですね」と言った。
「民のためにクラーケンと戦ったことで知られる、ホーコン王が当時のデホト男爵と約束なさいました。『余は誰に対しても膝を屈せぬ』と。それから百年、この国の国王は、誰に対しても、決してひざまずくことはございません」
シルヴィーは非常に優れた『かげろう』だ。この国の王に対する決めごとの由来すら、即答することができる。この優秀さで、コーネリアの護衛に選ばれたのだ。
「以上だ。また会おう、シルヴィー……」
国王は踵を返し、自らの馬に乗って、王都へと戻って行った。
その背中がなんとなく力ないように見えたのは、なにか重大な問題を抱えているからに違いない。
(また会おう、シルヴィー……)
シルヴィーは胸の内で、国王の言葉をくり返した。
頬を染めて馬に乗るシルヴィーは、伝言の内容について考えない。
知る必要のないことを知るのは、シルヴィーのような立場の者にとっては危険なことだ。
今回は国王自らが伝えに来るほどの、重要な内容。
どれほどの危険が潜んでいるか、計り知れなかった。
マッツ王、在位九年目。
王妃を迎えることは、まだまだ先になりそうだった。




