赤い閃光
濡れた地面を蹴りつけ、ホアンは息を切らして走っていた。
背中のテグはびくりとも動かない。
「もう少しだ、耐えろよ……!」
カレンも必死に後を追うが、顔に付着した血と泥が、どちらのものか分からなかった。
「——見えた! あそこだ!」
ホアンが指差した先、崩れかけたビル群が見える。入口には瓦礫を積み上げた簡易バリケード。その隙間からは人の声が聞こえた。
希望——そう錯覚するには十分だった。
「——中に入れてくれ!!」
「だ、誰だ! 救援か!?」
「違う! 避難者だ! 仲間が重傷なんだ、頼む、入れてくれ!」
「……回り込め! 裏にシャッターがある!」
ホアンは頷くと、カレンを促し、狭い路地へ駆け込む。
水たまりを跳ねながら、崩れた壁の間をすり抜けると、裏口のシャッターが半分壁にめり込み隙間が空いていた。
「カレン、ここだ!」
ホアンはテグを抱えたまま、シャッターの隙間を滑り抜ける。
中は暗く、濁った空気と血と油の臭いが入り混じっていた。
ようやく中に入り込むと、ホアンは壁に体を預け、深く息を吐いた。
「……なんとか、ここまで来れた」
だが、息を整える間もなく、目の前の光景に息を呑む。
薄暗い廊下には避難民がぎっしり詰め込まれ、床には毛布に包まれた子どもたち。
泣き声や血の匂いが溢れた、この“避難所”は、もはや地獄の延長線だった。
「……こ、これは……もっとヤバい場所に来ちまったか……?」
「ラドさん……無事、だといいけど……」
「あの人のことだ、しぶとく生きてるさ。チャンピオンがそう簡単にくたばるわけねぇだろ」
「おい……その背中の子、テグか?」
かすれた声に振り向くと、群衆の中から見覚えのある男が現れた。
「あんた……テグの知り合いの……ジャンク屋の……!」
リュー老人は嬉しそうに頷いた。
「お主らも無事だったか……! まったく、よくこんな地獄で生き延びたもんじゃ」
その背後から、小柄な影が駆け出してくる。
「——お兄ちゃん!!!」
現れたのはスヨンだった。
ホアンの背中に覆いかぶさるようにして、気絶したテグに抱きつく。
「いや……やだよ、起きてよ! お兄ちゃんっ!」
カレンが静かに近寄り、スヨンの頭に手を添える。
「大丈夫よ……生きてるわ。脈もある。少し休ませれば、きっと——」
スヨンは息を呑み、ゆっくりとテグの顔を見つめると、その瞳に溜まっていた涙が、一気にこぼれ落ちた。
「……お兄ちゃん……」
外では銃声と轟音が響いていたが、この一角だけは、不思議な静けさに包まれていた。
「えへへ、おい見ろ、俺の新しい腕だ! 最新式の特注品だ!」
場の空気を切るように、デイブが義手を掲げて現れる。
「じいさんが付けてくれたんだ! ほら、動くぞ、ギュイーンってな!」
義手がモーター音を鳴らしながら、高速でぐるぐる回転する。
——しかも逆方向に。
スヨンが涙を拭い、半眼でデイブを見上げながら呟いた。
「……回りすぎ。うるさい。あと気持ち悪い」
「なにぃ!? 助けてやった恩を忘れたのか、この恩知らずめ!」
デイブの義手がさらに高速回転し、空気を切る音がビュンビュンと鳴り響く。
「おい! 高級品じゃぞ! もっと大事に扱わんかい!!」
カレンはそんなやりとりを見つめ、ほっとしたように微笑んだ。
「……ふふ、あの人なりに励ましてるのね。優しいじゃない」
「いやいや! それカレンの勘違いだから!」
だが、その空気は——一瞬で打ち砕かれた。
——ドガァァァァァン!!
鼓膜が裂けるような衝撃音。
床が波打ち、壁のひびから粉塵が吹き出す。
「い、いまの……なに……っ!?」
外から、誰かが吹き飛んできた。
瓦礫の塊と一緒に転がり込んできたその影は、ヴァンガードセクトの隊員だった。
腕はあり得ない角度に折れ曲がっている。
血と泥にまみれた顔が、ホアンたちの方へ向いた。
「リ、リーダー……すまねぇ……やられちまった……」
そのまま、前のめりに崩れ落ちる。
小型スピーカーからは、ノイズ混じりの怒鳴り声が響いた。
『イザベラ! タカシがやられた! 入口まで後退! 入口を死守しろ! 死んでも突破させるな!!』
「……マジかよ、こっちに来るってのか!」
カレンはスヨンを抱きしめ、青ざめた顔で呟く。
「ここ、避難民が何百人もいるのよ……この中で戦闘になったら——」
——ドッォンッ!!
空気が弾け、壁の向こうで何かが爆ぜた。
天井が悲鳴を上げるように軋み、次の瞬間、鉄骨とコンクリートが崩れ落ちる。
「カレン! 下がれ!」
ホアンの叫びと同時に、群衆の悲鳴が一斉に重なった。
「うわああああっ!」
「助けてっ、誰か——!」
「赤ちゃんがっ、赤ちゃんが下に!」
視界が粉塵で白く染まり、瓦礫の破片が雨のように降ってくる。
そのとき——。
頭上から、巨大なコンクリートの塊が赤子に向かって落ちてきた。
「おじさん! 赤ちゃん、助けてあげて!」
スヨンの声が鋭く響く。
「はぁ!? 無理無理無理っ!!」
デイブが反射的に叫ぶ。
だが次の瞬間、自分の体が勝手に動いていた。
「ぐぬぬぬぬっ!! なぜ命令したぁ!? 脚が勝手にぃぃ!!」
義手のモーターが唸りを上げ、デイブは落ちてくる天井を全力で受け止める。
金属の関節が悲鳴を上げ、火花が散る。
「ぬぉぉぉおおおおおっ!! 俺の腕がぁぁ! 最新式の新しい腕が吹き飛ぶぅぅ!!」
義手のモーターが悲鳴を上げ、ギシギシと床が沈み込む。
デイブの腕にひびが走り、スパークが散った。
「ぐぬぬぬぬっ……!! は、早く……引っ張れぇぇぇっ!!」
スヨンが瓦礫の下から赤子を抱きかかえる。
「よし……っ、今だ——!」
デイブは唸り声を上げながら、コンクリートの塊をそっと地面に降ろすと、膝をつき息を荒げた。
「……ふぅぅぅ……あっぶねぇ……また腕が吹き飛ぶところだった……」
「お母さん、この子……!」
母親が赤子を受け取ると、その場に崩れ落ち、何度もスヨンに頭を下げた。
スヨンはデイブに向き直ると——。
「ありがとう! 変なおじさん!」
「ふざけんな! クソガキ! 死ぬかと思ったじゃねぇか!」
——だが、次の爆発がその叫びをかき消した。
天井のさらに奥が崩れ、建物全体が大きく傾いた。
***
——ジジジジ……。
ノイズと共に視界が砂嵐のように揺れる。
スキャンフィードの奥で、赤い光点が幾つも明滅していた。敵味方の識別信号が混線し、情報が脳に直接流れ込む。焼けるような熱が神経を走り、視神経が光を吐き出した。
「B2、……損傷率七十パーセント……まだ……動ける……」
自分で呟きながら、血の味を感じる。
頬を伝うのは汗か、それとも涙か、もう区別がつかなかった。
『イザベラ、中まで後退しろ! 限界だ!』
「まだ大丈夫……B3、フォーカス維持、敵群を抑え込む!」
——ドガァァァァァン!!
脳内の神経リンクが一瞬切断され、視界が真っ白に飛ぶ。
左肩に焼けるような痛みと同時にブリッツB3の信号が途絶えた。
「……ッぐああぁぁぁッ!!」
頭の奥で何かが破裂した。
鼻から血が垂れ、視界の端が赤く染まる。
“機体がやられる”というより、自分の体の一部がもぎ取られた感覚だった。
『もうリンクを切れ! 今すぐだ!』
「まだっ……B1、B2が残ってる……ブリッツが止まったら、防御ラインが持たない……!」
痛みの波に耐えながら、イザベラは指先を動かした。
B2の視界が脳内に広がる。
焼け焦げた街、雨に濡れた瓦礫を無数のクアッドハウンドが蠢いている。
「——来るなら来い、化け物ども……!」
B2が旋回し、火線を放つ。
そのたびに彼女の体がビクリと跳ねた。
神経が限界を越え、皮膚の下を電流が走り、指が勝手に痙攣する。
『イザベラ! 聞こえるか! もう無理だ!』
(うん……もう、だめかも……)
ふと、どうでもいいことを思い出す。
「……あーあ。一度でいいから、結婚してみたかったなぁ……」
血の味と一緒に、声にならない笑いがこぼれた。
エリオットが何か怒鳴っているが、もう声が遠い。
(サラ……まだ地下にいるのよね…………あなたはバカみたいに無茶するから……また心配させないで……)
最後の一発を撃ち切る瞬間、イザベラは祈るように呟いた。
「……せめて……誰かを、守れてたらいいな……」
——ドガァァァァァン!!
爆発音と共に、脳内の神経リンクが切断され、視界が真っ白に飛ぶ。
「……ッぐあッ!!」
頭の奥で、何かが「焼け切れる」ような音の後、B2の信号が途絶える。
「……ま、まだB1が残ってる、私は終わってな——」
強制切断の衝撃が走る。
頭が弾かれるように揺れ、全身の感覚が途切れ、視界が黒に塗りつぶされていく。
——暗闇の中で、サラの声が聞こえた気がした。
「イザベラ、あとはまかせて……」
「……サラ……あなたも……バカね……」
意識が闇に沈む直前、B1のカメラが一瞬だけ何かを捉えた。
——赤い閃光。
稲妻のような、それでいて生き物のようにうねる光。それが何かを確かめる前に、視界は完全に途切れた。
***
崩れた天井の隙間から、煤けた光が差し込んでいた。
煙と粉塵の中、エリオットはよろめきながら倒れている住民の肩を揺する。
「おい、大丈夫か……!」
白く染まった粉塵の中で、ひとりの男がゆっくりと目を開けた。
ホアンだった。
「うぅ……いったい、何が……?」
体を起こし、辺りを見回す。
崩れた天井はかろうじてずれて落下しており、下敷きになった者はいない。
「よかった……死人はいないみたいだ……」
ホアンが安堵したのも束の間、暗闇の中から金属の軋む音が聞こえた。
——ガシャン……ガシャン……。
暗がりの奥で、光る赤い目がいくつも浮かぶ。
クアッドハウンドがすでに、内部まで侵入していた。
「……もう、持たないな」
エリオットがかすれた声で呟いた。
肩口から流れる血が、ライフルのストックを濡らしている。
「すまない……ここまでだ。弾も、仲間も尽きた……」
ホアンが食い気味に叫ぶ。
「まだだ! インダストリー社の戦闘ドローンが三機もあったろ!? あれがあれば戦え——」
彼の指差す先、焼け焦げたドローンの残骸が、爆発の熱で歪んでいる。
「……操縦士が限界を超えると、リンクが自動で強制切断される……もう、機体は動かない……」
「そ、そんな!」
次の瞬間、すべてを打ち消すような低い音が鳴った。
——ドンッ……!
粉塵の向こうで、二つの巨大な影が姿を現す。赤く脈打つコア、重装脚が床を砕き、ビル全体が軋んだ。
——ナイトメアセンチネル。
「嘘だろ……こいつまで……!」
弾は尽き、仲間は倒れ、ドローンはすべて沈黙。
カレンはテグとスヨンを抱いたまま気を失い、デイブは壁にもたれ息を荒げている。
エリオットは片膝をつき、血まみれの手で銃を握り締めた。
「……終わりか……でも、ただじゃ死なないぞ……道連れにしてやる……」
エリオットの声は、もう囁きのようだった。
銃を支える手が震え、空薬莢が床に転がる音だけが響く。
誰もがそう思った。
もう、戦えない。
もう、何も残っていない。
血と油と雨が混ざり合い、崩れたビルの中を静かに流れていた。
ホアンは歯を食いしばり、カレンの頬に手を伸ばした。
——どうか、この子だけでも。
世界が止まったように思えた。
音も、風も、呼吸さえも遠のいていく。
その瞬間——空気が震えた。
——キュィィィィィィィィンッ……!!
耳鳴りのような高音。
何かが“世界の外側”から押し寄せてくる。
次の瞬間——。
——ズドォォォォォォォォンッ!!!
赤い閃光がビルを貫き、雷光が一直線にセンチネルへ落ちた。
火花と破片が雨のように降り注ぎ、巨体の首がねじ切れるように吹き飛ぶ。
轟音、閃光、そして——沈黙。
粉塵が舞い、光の中に、ゆっくりと影が浮かび上がる。
“ジャリッ……ジャリッ……”
赤髪が風に揺れ、ゴーグルの奥で瞳が淡く光を帯びる。
少女は、落下してきたセンチネルの頭部を片手でキャッチした。
軽く肩を回し、無造作に投げ放つ。
その巨大な鉄塊は、偶然にも——ちょうどデイブの足元へ転がっていった。
「……は?」
デイブがきょとんとした顔でそれを見下ろした、次の瞬間——。
——ドゴォォォォォォォォンッ!!!
目の前が真っ白になり、デイブの顔がスローモーションで歪む。
「ちょっ、ちょっと待っ——ぎゃああああぁぁぁっ!!!!」
爆風が彼を完全に飲み込み、綺麗な放物線を描いて空へ。
そのままビルの屋上を越え、遠くの方でチリのように見えなくなった。
「……あれ? 今なんか飛んでった? ま、いっか」
口元に小さな笑みを浮かべながら、少女はゆっくりと振り返る。
「ヤッホー! 再起動完了——エコー、ただいま参上ッ!」




