セクター9へ
頭の奥がズキズキと痛む。ぼんやりした意識のまま、テグはゆっくりと目を開けた。
(……ここは……?)
天井には知らない部屋の照明がぶら下がっている。湿っぽいコンクリ壁、乱雑に積まれたダンボール。——寝ぐらにしているスラムの廃ビルじゃない。
その瞬間、昨日の出来事が一気に脳裏を駆け抜けた。
(……そうだ、デバイスを盗もうとして、あの二人組に……!)
「っ……!」
痛みも忘れて跳ね起きると、体に巻かれていたブランケットがずり落ちた。腕や足に貼られた簡易パッチが一瞬で目に入る。誰かが手当てしてくれたのだろうか。
(……ま、まずい! スヨンを一人にしたままだ!!)
慌てて部屋の扉に近づき、そっと隙間からリビングを覗き込むと、あの男女が並んでソファに座り、タブレットを見ながら何やら笑い合っている。
(なんでアイツらがここに……?)
テグは物音を立てないよう、部屋の中を探る。机の上にはホルダーに入った旧式のプラズマガンが転がっていた。
(……もらってくぜ!)
迷わず手に取って、懐に滑り込ませる。
窓をそっと開けると、そこは三階。地面までは結構あるが、迷っている暇はない。
(やるしかねえ……!)
テグは窓枠に手をかけ、少し離れた雨水管を目指して跳びついた。
——ズルッ!
「くっ……!」
必死でしがみつくが、体がぶら下がったまま、ゆっくりとずり落ちていく。
ガタン――!
物音に気づいたホアンが部屋に駆け込んでくる。
「おいっ、何の音だ?」
カレンも続いて中へ。テーブルを見て、カレンの顔が青ざめる。
「ちょ、ちょっと待って! 私のプラズマガンが……!」
「……ガキがいない?! まさか、あのガキ――!?」
ホアンは窓まで駆け寄り、身を乗り出した。
「おい、何やってんだクソガキ!! せっかく助けてやったのに!」
その時、テグの両手が力尽き、パイプから滑り落ちる。
「バ、バカ! 落ちるぞ――!」
——ドスンっ!!
「マ、マジかよ……死んだか?」
——だが、次の瞬間。
地面に叩きつけられたはずのテグが、呻きながらもムクリと起き上がる。
「……うぅっ……!」
足を引きずりながらも、テグはふらつく身体でそのまま路地裏を走り出した。
「……あいつ生きてる! ……あーっ、もうなんなんだ、あのクソガキは!」
「……ホアン、どうしよう…」
「カレン、行くぞ! あんなガキにプラズマガンを持たせたままにしたらヤバい! もし何かあったら、銃の持ち主のカレンが逮捕されるぞ!」
「う、うそ……!?」
ホアンとカレンは慌てて部屋を飛び出した。
(待ってろ、スヨン……今行くからな!)
テグは人混みの中へと飛び込んだ。頭と体がじんじんと痛む。三階から落ちた衝撃が、今になって全身に響いている。
——目の前に、路地に山積みされたゴミ袋があった。テグは迷わずそれらを蹴り飛ばし、通りにぶちまける。
——ガシャン! カラカラカラ!——
散乱したゴミに反応して、近くを巡回していた清掃ドローンが何台も集まってきた。機械音を立てながら、進路をふさぐようにせっせとゴミを回収し始める。
「どけっ! このポンコツ!」
ホアンが叫びながらドローンを押し退けようとするが、複数台が群がって思うように前に進めない。
「ホアン、こっちから回ろう!」
カレンが脇道に回り込もうとするが、その間にもテグは必死で前に進む。だが、落下のダメージが徐々に効いてくる。
(くそっ……! 体が言うこときかねぇ……!)
路地の壁に手をついて一瞬だけ休むが、すぐ後ろから足音と怒鳴り声が迫ってきた。
「クソガキ――止まれ!!」
テグは息を切らし、懐からプラズマガンを抜き出して二人に向ける。
「お前らが止まれ! これ以上追ってくるなら撃つぞ!!」
「お、おい、バカな真似はやめろ! こんな所で銃なんか撃ったら、お前が大変なことになるぞ!」
「嘘つけ!!」
テグは脅しのつもりで、わざと空に向かって引き金を引いた。
——バチッ!
青白い閃光が夜の街に炸裂した瞬間、上空を飛んでいた複数の監視ドローンが集まり、一斉にサーチライトがテグを照らした。
「警告。未登録未成年による銃器使用を確認。武装警備班を要請中。直ちに武器を捨て、両手を頭の上に……」
サイレンが鳴り響き、道行く大人たちがざわつき始める。
「や、やば……!」
テグはパニックになり、脇道に飛び込んだ。
(逃げなきゃ、スヨンに会えなくなる……!)
目の前の車道に飛び出したその時、突如、唸るエンジン音とともにバイクのライトがテグを照らした。
——キィィッ!
サラは驚異的な反応速度でハンドルを切り、テグのすぐ脇をすり抜ける。そのまま車体を傾けながらテグの襟首を掴み、倒れる寸前で引き寄せる。
「危ないじゃないの、ちょっと……!」
「は、離せよ!」
すぐ後ろからホアンとカレンが駆けつける。
「サラさん!?」
「なんでここに……!」
サラの顔に、監視ドローンのサーチライトが鋭く照射される。すぐに識別信号が交信し、冷ややかな電子音が空に響いた。
「ヴァンガードセクト所属、サラ=タクト。要請した警備班として記録しました……」
「もう行って大丈夫よ」
サラがきっぱり告げると、ドローンはひとつカメラアイを瞬かせ、何事もなかったかのように夜空へと舞い戻っていく。
サラはその間も片手でテグの襟首を軽々と持ち上げたまま。テグは宙に浮かされて、足をじたばたと振り回している。
「離せよっ! 放せって、このクソ女ぁ!!」
サラはテグを相手にせず、そのまま振り返って息を切らせているホアンとカレンに気づく。
「あれ? たしか、あなたたちは……この前の——」
ホアンは、サラが子どもを片手でひょいと持ち上げているのを見て、その怪力ぶりに内心たじろぎながらも、そっと頭を下げた。
「ど、どうも……すみません、またご迷惑を……」
サラはカレンの方を見ると、顔に安心したような色が浮かんだ。
「よかった。もう元気そうね」
カレンは、ちょっと照れくさそうに頷く。
「あの時は……ありがとうございました。……正直、あんまり覚えてないんですけど、ホアンから全部聞きました。お礼も言えなくて……」
サラは首を横に振る。
「いいの、いいの。でも、あまり無茶しちゃダメよ?」
「はい……」
その隣で、ホアンが気まずそうに咳払いをした。
「それで……サラさん、なんでまた企業ハビタットなんかに?」
サラは一瞬だけ言葉を詰まらせ、ぎこちなく笑う。
「え、えーっと……ちょっと飲みに行こうかなって、思ってたの。ほら、疲れを癒やすってやつ?」
ホアンは思わず眉をひそめて首をかしげる。
「飲みに? ハビタットに? 治安も良くないし、安酒しか置いてない店ばっかりですよ? ヴァンガードセクトのサラさんが飲めるような店なんかあったかな……」
「ほら、たまにはこういう雰囲気も味わってみたいな〜、みたいな?」
カレンがホアンの脇腹をこづきながら、目を輝かせて口を挟んだ。
「ホアン、サラさんだって誰にも見つからないように会いたい人、いるでしょ? ほら、そういうプライベートも大事だって!」
ホアンは、ぽかんとカレンを見返したあと、ようやく合点がいったように目を丸くした。
「あっ、す、すみません……! まさか、サラさんが、恋人に会いに行くなんて……」
サラは顔を真っ赤にして手をぶんぶん振る。
「ち、ちがう違う! そんなのじゃないから! 本当に、飲みに来ただけだから!」
カレンは興奮しながら勘違いする。
「やっぱり! お忍びの密会!……まさか、禁断の関係!?」
ホアンはサラとカレンを交互に見ながら、ぼそっと漏らした。
「いいなぁ……俺も一回くらい、女からモテてみてぇなぁ……」
その言葉を聞いたカレンが、すかさず肘でホアンの脇腹を思いっきり突く。
「ぐはっ!」
ホアンは情けない声をあげて悶絶した。
その間も、テグはぶら下げられたままじたばたとする。
「おい、このブス女!! 話してねえで早く離せっ!」
サラはテグを片手で軽々と持ち上げたままバイクから降りると、もう片方の手で素早くテグの懐に手を突っ込んだ。
「うわっ、やめろっ! 返せ! 俺の銃だぁ!」
「あんたのじゃないでしょ」
サラはあっさりプラズマガンを引き抜き、ホアンとカレンのほうに投げ返す。
「す、すみません!」
カレンが受け取り、ホッと胸をなでおろす。
「離せよ! おろせ! 俺は急いでるんだ!」
「この珍獣……あなたたちの知り合い?」
「いや、知り合いというか……俺ら、スラムでデバイスをコイツに盗まれて、取り返した時、気絶させちゃったんで、手当てしてやったんですよ。」
カレンも困ったように頷く。
「そしたら目が覚めた途端に逃げ出して……銃まで盗まれて……」
サラはふーん、と興味なさそうに聞いていたが、ちらりとテグに目を向ける。
「……君。名前は?」
テグはサラから顔を背けてプイッとそっぽを向く。
「教えるわけねえだろ! ブス!!」
「はいはい、元気だけは一人前ね……」
サラは容赦なくテグの襟元をグッと握ると、ミシミシと生地がきしみ、じわじわと首が締まる。
「ぐ、ぐるじぃ……!」
「もう一回聞くわ。名前は?」
「……テ、テグ……!」
サラはぶら下げていたテグをバイクのそばに下ろすと、テグは肩で息をしながら、何度も袖で涙を拭っている。
「……で、なんでそんなに急いでるの?」
サラが怪訝そうに問いかけると、テグはぎゅっと拳を握りしめて振り返った。
「妹が……スヨンが、セクター9にいるんだ! あそこは危ねぇ連中がいっぱいいるし、スヨンは病気で、今もひとりで……!」
「また都合のいいことを……。泣き真似なんかしても、俺らは騙されないぞ?」
ホアンが冷めた声を出すが、テグは嗚咽を我慢しながらサラの袖を掴む。
「本当なんだ! 嘘じゃねぇ! スヨンは俺の……たった一人の妹なんだ!」
その言葉に、サラの中で遠い記憶が甦る。
——オーバーマインドの軍勢がダイナシティを襲った夜。
小さな弟、エリオと必死に逃げたあの時——
けれど、守りきれなかった。
目の前で弟を殺され、何もでなかった自分——
サラは深く息を吐いた。
「わかった。じゃあ、連れてってあげるから、後ろに乗りなさい」
「……え?」
突然の申し出に、テグはキョトンと目を丸くする。
「まさか、スラムまで走っていくつもり? バイクのほうが速いでしょ?」
テグは一瞬だけためらい、それでも何度も頷いた。
「……いいのか?」
「妹を守りたいんでしょ? 早く見つけてあげて」
サラはヘルメットをテグの頭に被せると、テグの小さな手がぎゅっとサラの腰に回る。
サラはホアンとカレンのほうに向き直る。
「あなたたちは、もう帰って大丈夫。あとは任せて」
ホアンは、どこか気まずそうな顔で頭をかいた。
「あー……その、サラさんにここまでさせるのも悪いし、俺たちも行きますよ。少しでも手伝えるかもしれないし」
カレンも不安げに頷いた。
「はい……やっぱり、気になるので」
「好きにしていいわよ」
ホアンとカレンは顔を見合わせ、慌てて自宅に引き返した。
二人は荷物をまとめて一台のバイクにまたがると、セクター9を目指して走り出した。




