リングの支配者
エコーは汗ひとつかかず、勝ち誇ったようにリングの真ん中で両手を高々と上げる。
「やった! やったよ和樹! 見た? ね、見てた? エコー、すごかったでしょ!」
「……エコー、派手にやりすぎ……」
「だって」
「もう満足しただろ? そろそろ帰ろう」
観客のコールと歓声は鳴り止まない。エコーは和樹ににじり寄り、まっすぐな目で見上げる。
「ね、もう一回だけ……! お願い! もう一回だけ戦わせて! これで本当に最後にするから!」
エコーは両手を合わせて拝むように和樹に迫る。
「おいおい……まじでやめろって。もう十分だろ」
「だめなの? ねぇ、お願いっ! これで本当に最後にするから! お願い!」
和樹はため息をつきながら、観客席の熱気を横目に見やる。観客も、「エコー、エコー、エコー」と手拍子を始めた。
「わかった、わかったよ……これで本当に最後だぞ。約束な」
「やったー! ありがとう和樹、だいすき!」
アナウンサーがすぐさま反応し、マイクを持って叫ぶ。
『……本日、拳闘士大会に現れた“伝説の新人”! エコー選手が――なんと、自ら次なる試合を所望!』
「スペシャルマッチだ!」
「相手は誰だ!?」
「おい、あのガキに勝てる奴いるのかよ!?」
歓声と野次が入り乱れ、運営スタッフがドタバタと走り回り、どこかで「本当に本人が出るのか!?」と叫ぶ声が聞こえてくる。
その一方で、エコーはリング中央で大きく手を振り、観客の声援にひょうきんに応えてみせた。
『さあ——! 大変お待たせいたしました! ただ今、すべての準備が整いました……!』
スポットライトがゆっくりとリングの入り口へと動く。
『スペシャルゲスト……このアンダーハイブの支配者! 誰も逆らえぬ男……“カイン・ドレイカー”が自らリングに立つッ!!』
空気が凍りついた。
「カインだって……!?」
「マジかよ、ありえねえ……」
観客席にどよめきと畏怖が広がる。
会場の奥、暗い通路の奥から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
金髪に鋭い青い目、黒いロングコートの裾を引きずりながら、何とも言えない威圧感を全身にまとっている。
(……カインって確か、ここのボスだったよな……)
和樹の脳裏に、ノアの声が静かに響く。
(和樹。あれは人間ではありません。オーバーマインドのアンドロイドです)
「……は?」
一瞬、和樹は何を言われたのか理解できなかった。
(人間に偽装した高機能アンドロイド。“カイン・ドレイカー”の中身は既にすり替わっています)
「ちょ……マジかよ。鮫島だけじゃなかったのか!? 他にもいるのか!?」
(どうやら、そのようですね)
和樹の顔が青ざめていく。
「な…嘘だろ……いったいどこまでオーバーマインドに侵食されてるんだよ……この都市は……」
(和樹、落ち着いてください。エコーの正体を悟らせないことが最優先です。ここは“普通の拳闘士”として立ち回らせましょう)
「……もう、無理だろ、これ……」
リング中央に立つカインは、冷たい目で和樹とエコーを順番に眺める。
その目に、奇妙な執着と嗜虐が滲んでいた。
「新人。ここまでよくやったな。……だがお前はここで終わりだ」
観客席は息を呑み、誰もが成り行きを見守っている。
エコーは一歩前に出て、まっすぐカインを睨み返す。
「誰が終わりなもんか!! こっちこそぶっ潰してやるんだから!」
カインの目が、今度はちらちらと和樹を見やる。その視線に、和樹は無意識に背筋を凍らせる。
(なんだ……あの視線……気色悪い……)
「カイン! やれ!」
「エコー、負けるなよ!」
観客の叫びと手拍子が渦となり、リングの檻を震わせる。
アナウンサーが声を張り上げる。
『——スペシャルマッチ、開始ィィィッ!!』
ゴングの音とともに、観客席から歓声が爆発した。
その瞬間だった。
「はあああッ!!」
カインが風を切るような勢いで、リングの端から一気に突っ込んでくる。あまりのスピードに、リングの檻越しにも衝撃波が伝わる。
「っ——!」
エコーもすぐに反応し、構えを取る。だが——その瞬間、エコーの意識にノアの冷静な声が響いた。
(エコー。カインはオーバーマインドのアンドロイドです。正体を悟られないよう、決して本気を出さず、負けてください)
(……えっ?! 嘘?)
「遅いッ!」
ノアの言葉を理解できないまま、エコーの視界が一瞬ブレた。
「——ッ!」
カインの膝蹴りが、エコーの腹部を的確に撃ち抜く。
「——ガハッ!!」
鈍い音とともに、エコーの小さな体が宙に浮き、リングの隅まで吹き飛ばされた。
シーンと静まり返る場内。
だが、エコーはゆっくりと膝をついて立ち上がった。
「どうした、さっきまでの威勢は? “伝説の拳闘士”とか持ち上げられていた割には、拍子抜けだな?」
観客席からも不安げなざわめきが漏れる。
エコーは歯を食いしばる。
(……こ、こいつがオーバーマインドのアンドロイド!?)
カインは余裕たっぷりに、エコーを挑発する。
「ほら、さっさと来いよ。さっきまでの“映画みたいな技”はどうした? 観客の前でカッコつけるのは得意だろう?」
エコーは無言で拳を握りしめる。ノアの指示と自分の本能がせめぎ合う。
その迷いの隙を見逃さず、カインは容赦なく動く。
右フック、肘打ち、アッパーカット。
エコーの顔面や腹部に的確な一撃が叩き込まれる。
「ぐっ……!」
吹き飛ばされては立ち上がる。
しかし、カインの拳が、またもエコーの頬を斜めにえぐった。
ゴッ、と音を立てて床に転がる。視界がぶれ、観客の視線が、まるで冷たい雨のようにエコーを突き刺す。
(負けろ、って……)
立ち上がりながら、エコーは自分の手のひらを強く握った。
(エコーはオーバーマインドを倒すために作られたのに……)
——リングの向こうにいるのは、紛れもない“敵”。
それを——いま、自分は見逃さなきゃいけないの?
(なんで……?)
カインの足音が近づいてくるたび、抑えきれない戦闘衝動が火花を散らす。
“アイツはお前の敵だ、今こそ使命を果たせ”と叫んでいる。
けれど、ノアの声が耳の奥で冷静に鳴り響く。
(ダメ……和樹に迷惑をかける……正体を悟らせるわけにはいかない……)
カインが、まるで壊れた玩具でも観察するような目でエコーを見下ろす。
「……それで終わりか? “伝説の拳闘士”さんよ」
カインはゆっくりと近づき、エコーの顔を覗き込むように屈み込む。
その目には、むき出しの狂気と嗜虐が宿っていた。
「……いいか、ガキ。俺はな、“家族”とか“仲間”とか、大切な人間が目の前で壊れていく――そいつらを守れずに絶望する、そんな顔を見るのがたまらなく好きなんだよ」
カインはちらりとリングの外の和樹を見やる。
「……ククッ。お前の“妹”、あそこにいるな。いいか、ガキ――あとで、お前の目の前で“壊して”やる」
観客は何を話してるか聞き取れず、ただリング上の異様な空気に息を呑む。
「お前みたいなガキが何を守ろうとしたって無駄だ。お前の絶望した顔……この目でたっぷり見せてもらうからな」
カインの青い目が、ぞっとするほど嗜虐的な光を帯びる。
エコーは全身の血が煮えたぎるような怒りに包まれた。
(やめろ……ふざけるな……!)
ノアの命令、和樹の存在、そして自分の使命が、頭の中で渦を巻く。
(……こいつだけは許せない……!)
ギリッと奥歯を噛みしめ、エコーは心の中で和樹にそっと謝る。
(ごめん、和樹。でも、エコーは……こんなやつ、絶対に許せない!)
エコーは全身の力を爆発させた。
「うあああああッ!!」
咆哮とともに、エコーはカインに向かって猛然と飛びかかる。
——その瞬間。
(E-0132、緊急停止プロトコル起動——)
ノアの声が一閃の稲妻のように響き、エコーの全身の力が突如として消えた。
「……あっ——」
まるで糸の切れた人形のように、エコーの身体が空中でピタリと静止し、そのまま床に崩れ落ちた。
リング上の緊張が、次第に静寂へと変わっていった。
「……え、なに……?」
「動かなくなった……?」
「まさか、負けたのか?」
観客席には、歓声でもブーイングでもない、先ほどまでの熱狂が、今はただ困惑と落胆に変わっている。
『——た、立ち上がれません!? こ、これにてスペシャルマッチ終了ッ!! 勝者は……アンダーハイブの支配者、カイン・ドレイカーッ!!』
場内に響く勝利の宣言。しかし観客たちは興奮の余韻に包まれることもなく、どこか腑に落ちないまま、ざわざわと顔を見合わせていた。
「……あのガキ、やっぱりフェイクだったのか?」
「でも、最後まで立ち上がったのはすごかったな……」
「八百長だろぉ! 金返せぇ!!」
リング中央で、カインは倒れたエコーを冷ややかに見下ろし、ゆっくりと運営スタッフに顎で指示を出す。
「……拍子抜けだったな……おい、こいつらを連れて行け。そこのガキも一緒だ」
スタッフが慌てて駆け寄り、エコーを担ぎ上げ、和樹の腕を乱暴に掴む。
「ちょっと……!」
和樹は抵抗しそうになったが、カインの視線を感じて思わず力を抜いた。
(……ノア、どうする……。もういっそ、ここで全部ぶっ壊しちまうか?)
ヤケになった和樹の問いかけに、ノアはあくまで冷静に応じる。
(様子を見ましょう。カイン以外にもアンドロイドが潜んでいる可能性があります)
(だよな……鮫島以外にもいるわけだから、こいつ一人だけとは限らないもんな……)
和樹は唇を噛み、静かに頷くと、無言のまま観衆の視線を背にリングを後にした。
カインは無関心な素振りでひらりと手を振ると、観客席に背を向けて悠然とリングを降りていった。
***
地下の薄暗い通路を歩かされ、やがて分厚い鉄扉の前に立たされる。
スタッフが手慣れた動きでレバーを下ろすと、ギギ、と鈍い音を響かせて扉が開く。
「ここで大人しくしてろよ。妙な真似をしたら、命があると思うな」
和樹とエコーは、突き飛ばされるように中へ押し込まれた。背後で扉が閉まり、ガシャン、と重たい金属音が小さな空間に響き渡る。
エコーは、まるで電池が切れた人形のように床に転がっていた。目も閉じたまま、指一本動かさない。
和樹はそっとしゃがみ込み、エコーの頬に手を当てる。
「ノア……緊急停止させたエコー、戻せないのか?」
(……申し訳ありません。エコーの安全のため、強制的に“セーフティ・ロック”をかけました。緊急停止プロトコルが発動した場合、システムは八時間、再起動しません)
「……なんでそんな長いんだよ」
(本来、“緊急停止”は致命的なエラーや、精神的暴走を防ぐ最終手段です。短時間での強制再起動は深刻なシステム障害や記憶喪失、AI人格の崩壊を引き起こす可能性があるため、最低八時間の強制冷却期間を設けています)
「……じゃあ、少なくとも今夜はずっとこのままか……」
(はい。再起動まで残り七時間四十二分——)
和樹は、どこか泣きそうな顔で眠るエコーを見つめていた。
「ノア……」
(はい)
「前に鮫島に会ったとき、言ってただろ。……まだオーバーマインドとの全面対決は避けて、“俺が間違いなく勝てるようになるまで存在を隠し続ける”って。それが最適だって……」
(その通りです。現時点で、和樹の存在がオーバーマインド側に露見することは、非常にリスクが高いと判断しています)
「……それって、今戦ったら負けるってことか?」
(……負けるとは断定できません。しかし、勝率が安定する段階には、まだ到達していません)
いつもなら即答で結論を出すノアが、ほんのわずかだけ歯切れが悪い。その沈黙が、かえって重かった。
「……ノアのサポートは、いつも完璧だよな。絶対に俺が死なないように守ってくれて……それはすごくありがたいよ。でもさ……」
和樹はコンクリートの冷たい天井を仰ぐ。
「……サラと戦って思ったんだ。サラはさ、命を賭けて、全部自分で背負って戦ってた。俺は……こうしていつもノアに守られてる。“絶対に危ない橋は渡らせない”って。……それって、俺が本気で命を賭けてるって言えるのかな、って……」
自分だけは「まだ早い」「危ないから隠れていろ」と言われて、“戦いの外”に立たされている。
(俺だけ……命を賭けてない気がする)
「……守られてばかりじゃ……本当に、ここに来た意味があるのかって思っちゃうんだよ」
(……和樹がどうしたいのか、聞かせてください。私はあなたを守るために、ここにいます。でも、あなたがもし“戦いたい”と願うなら——私は全力で、サポートします)
和樹は深く息を吐き、床に腰を下ろした。
「……エコー……戦いたかっただろ……無理やり停止して悪かったな……」
エコーから返事はない。
ただ静かに、時間だけが流れていった。




