喝采と沈黙
一瞬だけ、世界が止まったかのような静寂が、リングを包み込む。
——そして、誰かがぽつりと呟いた。
「……た、立ち上がったぞ……!」
それをきっかけに、観客席が一気に沸点を超える。
「生きてるぞ! ありえねぇ!」
「すげぇ! 化け物だッ!」
驚愕と歓喜、恐怖と興奮が渦巻き、抑えきれない叫びが場内を埋め尽くす。最初は数人だった声が、あっという間に爆発的な熱狂に変わっていく。
「やれエコー! ぶっ壊せ!」
「行け!! 伝説を見せろ!」
煙の中から立ち上がったエコーは、静かに構えをとる。
(——参照。映像データ:“ジークンドー”。再生開始)
視界の隅に、かつて見た映画の断片がよぎる。華麗なフットワーク、しなやかな重心移動、鋼鉄をも砕く一撃。
エコーは——鼻をこすり、手のひらを上に向け指をクイっとあげた。
「……さぁ、カモン!」
一体目が右前脚で爪を叩きつける。
——が、エコーは一瞬早くその動きを見抜き、スウェイでかわすと同時に踵落とし——
「ヤァッ!」
エコーは助走もなく床を蹴って宙返り。敵の頭上を飛び越え、着地と同時に後ろ回し蹴り——
「ウォァチャッ!」
「……あれ、人間の技じゃねぇぞ……!」
「昔のカンフーの映画、そのままだ……」
「映画で見たんだよ——こうやって戦うんだって!」
(——参照。映像データ:“酔拳”。再生開始)
そして、エコーはふらふらと千鳥足で上体を揺らし、まるで酔っぱらいのような無防備な姿勢——
「な、なんだあれ……酔っぱらってるのか?」
「あのガキ、何やってんだ……?」
観客のざわめきと笑いが交錯する中、クアッドハウンドが襲いかかる。
エコーはよろめきながら、敵の一撃をヒラリとかわし、転びそうになった勢いそのままに床を転がって足元に滑り込む。
「うわっ、なんだ今の動き……!」
一体目の頭部を、エコーはくるりと回転しながら肘で突き、あっけなく破壊した。
すぐさま二体目が迫るが、エコーはよろけて倒れ込むフリをしつつ、そのまま敵の腹部の下に潜り込む。
まるで映画のワンシーン、両脚で蹴り上げるように、腹部に一撃――装甲が砕け、二体目も床に沈む。
三体目が飛びかかると、エコーはフラフラと立ち上がりながら“酒壺を持つ仕草”で胸元をなで、「ひっく」と笑う。その隙だらけの動きに惑わされ、クアッドハウンドの爪が空を切る。
エコーは最後の敵の背中をひょいと跳び越え、肩の上に乗ったかと思えば、そのまま重力を利用して頭部に足蹴り――「シャァア!」と叫びながら、見事にリングに叩きつけた。
三体のクアッドハウンドが同時に沈黙する。エコーはよろよろと観客席に手を振り、最後に指先で乾杯のジェスチャー。
観客の熱狂は一気に爆発する。
「なんだ今の……!?」
「酔拳だ、あれは!」
「映画みたいだ! 信じられねぇ!」
エコーの戦いは、“伝説”の域に届こうとしていた。
***
両親に手を引かれて、女の子が新品のぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめている。
その光景を、スヨンは路地の隅からぼんやりと見つめていた。
女の子のぬいぐるみは、ふかふかで真っ白。青いリボンと、つぶらな瞳。両親は微笑みながらその頭を撫で、女の子は「ありがとう!」と何度も叫んでいた。
楽しそうな声が、まるで夢の世界みたいに遠くで響く。
スヨンは立ち止まり、その様子をじっと見ていた。自分でも、なぜ立ち止まったのかわからない。
「……スヨン?」
後ろからテグが声をかけてくる。
「ぬいぐるみ、欲しいのか……?」
スヨンは必死に首を振った。
「ううん、欲しくない」
そう言いながらも、スヨンの心の奥はずっと“ふかふかのぬいぐるみ”に触れてみたい気持ちでいっぱいだった。
テグはしばらく黙って、スヨンの顔をじっと見ていた。
「……そっか」
——次の日の朝。
まだ薄暗い部屋の片隅、テグが何かを手に隠し持ってスヨンの前に現れた。
「スヨン、今日は七歳の誕生日だろ。ほら、これ——」
テグが差し出したのは、とても不格好で、片目がボタン、体はガーゼや古着の継ぎ接ぎだらけの、小さな手のひらサイズの熊のぬいぐるみ。
「スヨンのためだけに作った、世界で一番強い熊だぞ」
それは売り物のようにきれいでも、ふかふかでもなかった。でも、スヨンは一瞬でそれが“自分だけの宝物”だとわかった。
「ありがとう……お兄ちゃん。一生の宝物にするね」
ぎゅっと熊を抱きしめると、テグが優しく頭を撫でてくれる——。
——夢の景色が薄れていく。
苦しげな咳とともに、スヨンはゆっくり目を開けた。
(お兄ちゃん……?)
不安に駆られて、スヨンは手探りでポケットを探る。
小さな熊の感触。思わずぎゅっと握りしめると、ほんの少しだけ、体の震えが治まる気がした。
(……あった、よかった……)
静まり返った闇の中、スヨンはぼんやりと辺りを見渡した。
暗闇にじっとりとした空気がこもる、コンクリートの箱のような部屋。ぼろぼろの毛布と鉄格子、壁には誰かが爪で引っかいた跡が残っている。
スヨンはぼんやりと天井を見つめたまま、ひどく咳き込んだ。
「コホッ、コホッ……コホッ……」
呼吸をするたび胸が痛む。喉は焼けるように乾き、咳をこらえようとするほど苦しくなってくる。
「……うるせぇ! クソガキ!! 寝れねぇだろうが!!」
スヨンは肩をびくりと震わせて、慌てて口を押さえた。
部屋の隅で、金髪で目つきの鋭い男がこちらを睨んでいる。片腕が肘から先でぷっつりと無くなっているのが、薄明かりの中でもはっきり見えた。
「チッ……なんで俺が、こんなクソみたいな牢屋で、ガキと一緒に監禁されなきゃならねぇんだよ……くそっ!」
不安でたまらなくなったスヨンは、ポケットから小さな熊を引き出し、胸にしっかりと抱きしめた。
「……はあ、俺の腕が戻りゃ、こんな扉なんか一発でぶっ飛ばしてやるってのによ……」
そのとき、扉の向こうで足音が止まった。
「……おいデイブ、てめぇ、拳闘士大会バックレた上に、罰金払ってねぇらしいじゃねぇかぁ? カインさん、かなりお怒りだぜ……終わったな、オマエも」
ギャング風の男が鉄格子の隙間からニヤニヤと中を覗く。
デイブの顔色がみるみる青くなる。
「え、えぇ〜!? ちょ、ちょっと待てくださいよ! カインの兄貴と俺、実はすげぇ仲良いんすよ! だってほら、前に飲み屋で会って、“お前、どっかで見た顔だな”って言ってもらったし……な?な?」
ギャングは呆れたように鼻で笑う。
「……ふん、どうだかな。お前みてぇなヘタレ、カインさんが気にするわけねぇだろ。まあ、せいぜい楽しみに待ってな」
男が去っていくと、デイブはすぐに態度を一変させ、虚勢を張り始めた。
「……ああクソ、なんなんだあのクズ野郎はよ。まったく……あいつは、俺の本当の強さ知らねぇだけだ。それに、俺もちょっと油断しただけだしな!」
腕を組んで偉そうにふんぞり返るが、片腕しかないのでやたらとバランスが悪い。
「……おいチビ。何見てんだよ、見せもんじゃねえぞ。あんなチンピラ余裕なんだからな!」
言葉とは裏腹に、時おり鉄格子の方をチラチラと気にするデイブ。
スヨンはそんなデイブの様子をじっと見つめた。
(お兄ちゃん……この人……なんだか、ちょっと変な人……)
デイブは暇そうに天井を睨んでいた。ふと、牢の隅で歪んだ鉄格子を見つけ、ニヤリと口角を上げる。
「おっ、なんだこれ……? もしかして……」
デイブは片腕で格子を掴むと、奇声を上げながら全力で引っ張った。
「キェ゛~~っ!! おりゃぁぁッ!!」
ギィ……と鈍い音がして、歪みがほんの少しだけ大きくなる。
「見たか!? チビ! やっぱ俺、パワーは人並み外れてんだわ!」
どや顔で自慢するが、どう見ても隙間は人ひとり通れそうにない。
「……いや、全然足りねぇな」
がっくり肩を落とすデイブ。しばらく考え込んでから、ふとスヨンの方に顔を向ける。
「おい、チビ。お前ならこの隙間、通れるんじゃねぇか? 外から扉を開くてくれ」
スヨンは怯えた顔で一歩後ずさる。
「……む、無理……」
「何言ってんだ。ここに来たガキはな、みんなカインのクソ野郎のおもちゃになるだけだぜ? お前が来る前も、何人かガキがいたが……もういない。ここにいたって同じ運命さ」
スヨンは恐る恐る歪んだ格子を見つめる。自分の細い体なら、無理をすれば通れるかもしれない――そう思いはじめた。
「もし出られたら、特別に俺が一緒に連れてってやる。外で会いたい奴とか……いねぇのか?」
「……お兄ちゃん……」
スヨンは震える指で熊のぬいぐるみを握りしめ、意を決して格子に近づく。
その瞬間、激しい咳がこみあげ、膝をついてうずくまった。
「コホッ……コホッ、ゴホッ……」
口元から鮮血が滲む。
(だ、だめ……胸が、痛くて動けない……)
スヨンは胸を押さえ、必死に呼吸を整えようとする。
「……おい、チビ。動けねぇのかよ?」
デイブはイラついたように舌打ちしながら、スヨンのそばへ寄る。
「チッ……めんどくせぇな……」
そう呟くと、デイブは口の中を探るように舌を動かし、“カチリ”と奥歯の中から白いカプセルを取り出した。
「ペッ!」
唾液まみれのカプセルを手のひらに落とす。
「クッソ〜、俺のとっておきを、こんなガキに使う羽目になるとはな……」
手のひらに乗せたカプセルをスヨンに突き出す。
「ほら、これを飲め。たいていの傷や病気は治る。お前みたいなガキが一生お目にかかれねぇ高級品だぞ。感謝しろ!」
スヨンは息も絶え絶えに首を振る。
「や、やだ……」
「は? 何言ってんだ、チビ」
「……だって……汚い……」
「テメェ、ぶっ殺すぞ!! いいから飲め!!」
デイブは無理やりスヨンの顎を押さえ、カプセルを口の中に押し込む。
「ん……ゃだぁ…!!」
スヨンは涙を浮かべながら、唾液まみれのカプセルをなんとか飲み込む。
「これで動けるはずだ。ほら、俺様に感謝しろよ」
スヨンは涙目でつぶやいた。
(……お兄ちゃん……スヨン、よごれちゃったよ……)
スヨンはデイブに押されて、牢の外へと足を踏み出した。細い体を格子の隙間にねじ込むのは思ったより苦しかったが、何とかくぐり抜ける。
「やったな、チビ! ほら、外からこのレバーを引け。……そうそう、力入れて!」
スヨンは言われるまま、扉の脇に取り付けられた古いレバーを引いた。重たい音とともに、牢のドアが開く。
「おお、やればできるじゃねぇか! よし、そんじゃ行くぞ」
デイブは片腕でドアを押し開き、スヨンを引き連れて通路へと進む。そこは薄暗く、どこまでも続くようなコンクリートの地下通路だった。
「……どこ行くの?」
「なんだ、チビ。不安そうな顔してんな? いいか、教えてやるよ。アンダーハイブってのはな、昔の地下インフラの遺構みてぇなもんだ。いろんな場所に古いトンネルや配管が張り巡らされてんだよ。金持ちの連中が自分たち用に整備してるが、全部の通路を把握してるやつなんていやしねぇ」
歩きながら、デイブは片腕で壁をなぞりつつ続ける。
「都市の中に住んでる奴も、ギャングも、インダストリー社の連中もな……実際は、未発見の通路なんて山ほど残ってる。下手にうろつくとセキュリティドローンにぶっ殺されるルートもあるが……噂じゃ、都市の外まで続いてる抜け道があるって話もあるくらいだぜ!」
デイブは得意げに鼻を鳴らした。
「逃げるんなら、わざわざセクター9に出るより、他のセクターに繋がる地下道を使ったほうが安全だ。下手に外に出て見つかったら元も子もねぇからな。……お前みたいなガキを連れてりゃ、なおさらだ」
デイブはえらそうに話すが、スヨンはまだ半信半疑だった。それよりも——
(……さっきまで、こんなに胸が痛かったのに……)
歩きながらスヨンは気付く。息苦しさも、咳も、まるで嘘みたいに消えていた。体も軽い。さっき飲まされたカプセルの効果だろうか。
「……なんか、体が軽い……」
不思議そうに自分の胸に触れ、熊をそっと抱きしめる。
その時、通路の壁に奇妙な爪痕を見つけた。さっき牢から出たときにも見かけたはずの傷だ。
(……あれ? さっき、ここ通った……?)
不安が胸をよぎる。
デイブは何も気にせず先を進んでいくが、スヨンの中に、じわじわと冷たい不安が広がっていくのだった——。
どれだけ歩いたのか、もう全くわからない。足元の水たまりを踏み抜きながら、スヨンはデイブの後ろ姿を黙って追いかけていた。
「おかしいなぁ……。さっきの曲がり角、右だったか左だったか……ちっ、ま、進めばそのうち出口が見つかるだろ……」
デイブはぶつぶつと独り言を繰り返し、ときおり壁を小突きながら歩いていく。
どれくらい歩いた頃だろう。ふいに通路が大きく開け、天井の高い空間に出た。冷たい風が地下にまで吹き込み、スヨンの髪をふわりと揺らす。その広間は、奥の奥まで薄暗く、どこまでも続いているように見えた。
「おっ、ラッキー! ここを歩いてけば、どっかに出られるはずだ!」
デイブが嬉しそうに声を上げる。しかしスヨンは、その言葉に思わず唖然とした。
(……え、道、知らなかったの? ずっと当てずっぽうで歩いてたの……?)
そのとき、デイブが何かにつまづいて、バランスを崩した。
「いってぇな、クソッ!」
片腕しかないデイブは、怒りまかせに足元の障害物を殴りつける。“ガン!” と甲高い金属音が空間にこだまする。
「……いってぇ……何だよこれ……」
よく見ると、地面に大きなシートがかぶせてある。
「……もしかしてお宝か?」
デイブは悪びれることなく、シートを一気に引き剥がした——。
「う、うおっ……!」
現れたのは、四本脚の機械獣——クアッドハウンドだった。メタリックなボディに沈黙の赤いセンサー。その姿を見た瞬間、デイブは腰を抜かして尻もちをつく。
「ひ、ひい……!」
スヨンも思わず息を呑み、目をこらして暗闇を見渡す。
広大な空間いっぱいに、同じようなシートがいくつも、いくつも敷き詰められている。端から端まで埋め尽くすシート。よく見れば、その下には数百体は下らないクアッドハウンドの姿が隠れていた。
ゴクリ、とスヨンは生唾を飲み込む。
そして、空間の中央には、ひときわ大きなシートが五つ、山のようにそびえていた。
デイブとスヨンは恐る恐る、吸い寄せられるようにその山の一つに近づく。
デイブが、おそるおそるシートの端をつまむ。震える手で、それを静かに引き剥がすと——
「っ……!」
巨大な鋼の巨人——ナイトメアセンチネルが、まるで王のように鎮座していた。
二人は絶句したまま、ただ立ち尽くすしかなかった。
声も、言葉も、涙すら出てこない。
圧倒的な沈黙だけが、その場を支配していた。




