表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

46/62

喝采と沈黙

 一瞬だけ、世界が止まったかのような静寂が、リングを包み込む。


 ——そして、誰かがぽつりと呟いた。


 「……た、立ち上がったぞ……!」


 それをきっかけに、観客席が一気に沸点を超える。


 「生きてるぞ! ありえねぇ!」


 「すげぇ! 化け物だッ!」


 驚愕と歓喜、恐怖と興奮が渦巻き、抑えきれない叫びが場内を埋め尽くす。最初は数人だった声が、あっという間に爆発的な熱狂に変わっていく。


 「やれエコー! ぶっ壊せ!」


 「行け!! 伝説を見せろ!」


 煙の中から立ち上がったエコーは、静かに構えをとる。


 (——参照。映像データ:“ジークンドー”。再生開始)


 視界の隅に、かつて見た映画の断片がよぎる。華麗なフットワーク、しなやかな重心移動、鋼鉄をも砕く一撃。


 エコーは——鼻をこすり、手のひらを上に向け指をクイっとあげた。


 「……さぁ、カモン!」


 一体目が右前脚で爪を叩きつける。


 ——が、エコーは一瞬早くその動きを見抜き、スウェイでかわすと同時に踵落とし——


 「ヤァッ!」


 エコーは助走もなく床を蹴って宙返り。敵の頭上を飛び越え、着地と同時に後ろ回し蹴り——


 「ウォァチャッ!」


 「……あれ、人間の技じゃねぇぞ……!」


 「昔のカンフーの映画、そのままだ……」


 「映画で見たんだよ——こうやって戦うんだって!」


 (——参照。映像データ:“酔拳”。再生開始)


 そして、エコーはふらふらと千鳥足で上体を揺らし、まるで酔っぱらいのような無防備な姿勢——


 「な、なんだあれ……酔っぱらってるのか?」


 「あのガキ、何やってんだ……?」


 観客のざわめきと笑いが交錯する中、クアッドハウンドが襲いかかる。


 エコーはよろめきながら、敵の一撃をヒラリとかわし、転びそうになった勢いそのままに床を転がって足元に滑り込む。


 「うわっ、なんだ今の動き……!」


 一体目の頭部を、エコーはくるりと回転しながら肘で突き、あっけなく破壊した。


 すぐさま二体目が迫るが、エコーはよろけて倒れ込むフリをしつつ、そのまま敵の腹部の下に潜り込む。


 まるで映画のワンシーン、両脚で蹴り上げるように、腹部に一撃――装甲が砕け、二体目も床に沈む。


 三体目が飛びかかると、エコーはフラフラと立ち上がりながら“酒壺を持つ仕草”で胸元をなで、「ひっく」と笑う。その隙だらけの動きに惑わされ、クアッドハウンドの爪が空を切る。


 エコーは最後の敵の背中をひょいと跳び越え、肩の上に乗ったかと思えば、そのまま重力を利用して頭部に足蹴り――「シャァア!」と叫びながら、見事にリングに叩きつけた。


 三体のクアッドハウンドが同時に沈黙する。エコーはよろよろと観客席に手を振り、最後に指先で乾杯のジェスチャー。


 観客の熱狂は一気に爆発する。


 「なんだ今の……!?」


 「酔拳だ、あれは!」


 「映画みたいだ! 信じられねぇ!」


 エコーの戦いは、“伝説”の域に届こうとしていた。



 ***



 両親に手を引かれて、女の子が新品のぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめている。


 その光景を、スヨンは路地の隅からぼんやりと見つめていた。


 女の子のぬいぐるみは、ふかふかで真っ白。青いリボンと、つぶらな瞳。両親は微笑みながらその頭を撫で、女の子は「ありがとう!」と何度も叫んでいた。


 楽しそうな声が、まるで夢の世界みたいに遠くで響く。


 スヨンは立ち止まり、その様子をじっと見ていた。自分でも、なぜ立ち止まったのかわからない。


 「……スヨン?」


 後ろからテグが声をかけてくる。


 「ぬいぐるみ、欲しいのか……?」


 スヨンは必死に首を振った。


 「ううん、欲しくない」


 そう言いながらも、スヨンの心の奥はずっと“ふかふかのぬいぐるみ”に触れてみたい気持ちでいっぱいだった。


 テグはしばらく黙って、スヨンの顔をじっと見ていた。


 「……そっか」


 

 ——次の日の朝。


 まだ薄暗い部屋の片隅、テグが何かを手に隠し持ってスヨンの前に現れた。


 「スヨン、今日は七歳の誕生日だろ。ほら、これ——」


 テグが差し出したのは、とても不格好で、片目がボタン、体はガーゼや古着の継ぎ接ぎだらけの、小さな手のひらサイズの熊のぬいぐるみ。


 「スヨンのためだけに作った、世界で一番強い熊だぞ」


 それは売り物のようにきれいでも、ふかふかでもなかった。でも、スヨンは一瞬でそれが“自分だけの宝物”だとわかった。


 「ありがとう……お兄ちゃん。一生の宝物にするね」


 ぎゅっと熊を抱きしめると、テグが優しく頭を撫でてくれる——。


 

 ——夢の景色が薄れていく。


 苦しげな咳とともに、スヨンはゆっくり目を開けた。


 (お兄ちゃん……?)


 不安に駆られて、スヨンは手探りでポケットを探る。


 小さな熊の感触。思わずぎゅっと握りしめると、ほんの少しだけ、体の震えが治まる気がした。


 (……あった、よかった……)


 静まり返った闇の中、スヨンはぼんやりと辺りを見渡した。


 暗闇にじっとりとした空気がこもる、コンクリートの箱のような部屋。ぼろぼろの毛布と鉄格子、壁には誰かが爪で引っかいた跡が残っている。


 スヨンはぼんやりと天井を見つめたまま、ひどく咳き込んだ。


 「コホッ、コホッ……コホッ……」


 呼吸をするたび胸が痛む。喉は焼けるように乾き、咳をこらえようとするほど苦しくなってくる。


 「……うるせぇ! クソガキ!! 寝れねぇだろうが!!」


 スヨンは肩をびくりと震わせて、慌てて口を押さえた。


 部屋の隅で、金髪で目つきの鋭い男がこちらを睨んでいる。片腕が肘から先でぷっつりと無くなっているのが、薄明かりの中でもはっきり見えた。


 「チッ……なんで俺が、こんなクソみたいな牢屋で、ガキと一緒に監禁されなきゃならねぇんだよ……くそっ!」


 不安でたまらなくなったスヨンは、ポケットから小さな熊を引き出し、胸にしっかりと抱きしめた。


 「……はあ、俺の腕が戻りゃ、こんな扉なんか一発でぶっ飛ばしてやるってのによ……」


 そのとき、扉の向こうで足音が止まった。


 「……おいデイブ、てめぇ、拳闘士大会バックレた上に、罰金払ってねぇらしいじゃねぇかぁ? カインさん、かなりお怒りだぜ……終わったな、オマエも」


 ギャング風の男が鉄格子の隙間からニヤニヤと中を覗く。


 デイブの顔色がみるみる青くなる。


 「え、えぇ〜!? ちょ、ちょっと待てくださいよ! カインの兄貴と俺、実はすげぇ仲良いんすよ! だってほら、前に飲み屋で会って、“お前、どっかで見た顔だな”って言ってもらったし……な?な?」


 ギャングは呆れたように鼻で笑う。


 「……ふん、どうだかな。お前みてぇなヘタレ、カインさんが気にするわけねぇだろ。まあ、せいぜい楽しみに待ってな」


 男が去っていくと、デイブはすぐに態度を一変させ、虚勢を張り始めた。


 「……ああクソ、なんなんだあのクズ野郎はよ。まったく……あいつは、俺の本当の強さ知らねぇだけだ。それに、俺もちょっと油断しただけだしな!」


 腕を組んで偉そうにふんぞり返るが、片腕しかないのでやたらとバランスが悪い。


 「……おいチビ。何見てんだよ、見せもんじゃねえぞ。あんなチンピラ余裕なんだからな!」


 言葉とは裏腹に、時おり鉄格子の方をチラチラと気にするデイブ。


 スヨンはそんなデイブの様子をじっと見つめた。


 (お兄ちゃん……この人……なんだか、ちょっと変な人……)


 デイブは暇そうに天井を睨んでいた。ふと、牢の隅で歪んだ鉄格子を見つけ、ニヤリと口角を上げる。


 「おっ、なんだこれ……? もしかして……」


 デイブは片腕で格子を掴むと、奇声を上げながら全力で引っ張った。


 「キェ゛~~っ!! おりゃぁぁッ!!」


 ギィ……と鈍い音がして、歪みがほんの少しだけ大きくなる。


 「見たか!? チビ! やっぱ俺、パワーは人並み外れてんだわ!」


 どや顔で自慢するが、どう見ても隙間は人ひとり通れそうにない。


 「……いや、全然足りねぇな」


 がっくり肩を落とすデイブ。しばらく考え込んでから、ふとスヨンの方に顔を向ける。


 「おい、チビ。お前ならこの隙間、通れるんじゃねぇか? 外から扉を開くてくれ」


 スヨンは怯えた顔で一歩後ずさる。


 「……む、無理……」


 「何言ってんだ。ここに来たガキはな、みんなカインのクソ野郎のおもちゃになるだけだぜ? お前が来る前も、何人かガキがいたが……もういない。ここにいたって同じ運命さ」


 スヨンは恐る恐る歪んだ格子を見つめる。自分の細い体なら、無理をすれば通れるかもしれない――そう思いはじめた。


 「もし出られたら、特別に俺が一緒に連れてってやる。外で会いたい奴とか……いねぇのか?」


 「……お兄ちゃん……」


 スヨンは震える指で熊のぬいぐるみを握りしめ、意を決して格子に近づく。


 その瞬間、激しい咳がこみあげ、膝をついてうずくまった。


 「コホッ……コホッ、ゴホッ……」


 口元から鮮血が滲む。


 (だ、だめ……胸が、痛くて動けない……)


 スヨンは胸を押さえ、必死に呼吸を整えようとする。


 「……おい、チビ。動けねぇのかよ?」


 デイブはイラついたように舌打ちしながら、スヨンのそばへ寄る。


 「チッ……めんどくせぇな……」


 そう呟くと、デイブは口の中を探るように舌を動かし、“カチリ”と奥歯の中から白いカプセルを取り出した。


 「ペッ!」


 唾液まみれのカプセルを手のひらに落とす。


 「クッソ〜、俺のとっておきを、こんなガキに使う羽目になるとはな……」


 手のひらに乗せたカプセルをスヨンに突き出す。


 「ほら、これを飲め。たいていの傷や病気は治る。お前みたいなガキが一生お目にかかれねぇ高級品だぞ。感謝しろ!」


 スヨンは息も絶え絶えに首を振る。


 「や、やだ……」


 「は? 何言ってんだ、チビ」


 「……だって……汚い……」


 「テメェ、ぶっ殺すぞ!! いいから飲め!!」


 デイブは無理やりスヨンの顎を押さえ、カプセルを口の中に押し込む。


 「ん……ゃだぁ…!!」


 スヨンは涙を浮かべながら、唾液まみれのカプセルをなんとか飲み込む。


 「これで動けるはずだ。ほら、俺様に感謝しろよ」


 スヨンは涙目でつぶやいた。


 (……お兄ちゃん……スヨン、よごれちゃったよ……)


 スヨンはデイブに押されて、牢の外へと足を踏み出した。細い体を格子の隙間にねじ込むのは思ったより苦しかったが、何とかくぐり抜ける。


 「やったな、チビ! ほら、外からこのレバーを引け。……そうそう、力入れて!」


 スヨンは言われるまま、扉の脇に取り付けられた古いレバーを引いた。重たい音とともに、牢のドアが開く。


 「おお、やればできるじゃねぇか! よし、そんじゃ行くぞ」


 デイブは片腕でドアを押し開き、スヨンを引き連れて通路へと進む。そこは薄暗く、どこまでも続くようなコンクリートの地下通路だった。


 「……どこ行くの?」


 「なんだ、チビ。不安そうな顔してんな? いいか、教えてやるよ。アンダーハイブってのはな、昔の地下インフラの遺構みてぇなもんだ。いろんな場所に古いトンネルや配管が張り巡らされてんだよ。金持ちの連中が自分たち用に整備してるが、全部の通路を把握してるやつなんていやしねぇ」


 歩きながら、デイブは片腕で壁をなぞりつつ続ける。


 「都市の中に住んでる奴も、ギャングも、インダストリー社の連中もな……実際は、未発見の通路なんて山ほど残ってる。下手にうろつくとセキュリティドローンにぶっ殺されるルートもあるが……噂じゃ、都市の外まで続いてる抜け道があるって話もあるくらいだぜ!」


 デイブは得意げに鼻を鳴らした。


 「逃げるんなら、わざわざセクター9に出るより、他のセクターに繋がる地下道を使ったほうが安全だ。下手に外に出て見つかったら元も子もねぇからな。……お前みたいなガキを連れてりゃ、なおさらだ」


 デイブはえらそうに話すが、スヨンはまだ半信半疑だった。それよりも——


 (……さっきまで、こんなに胸が痛かったのに……)


 歩きながらスヨンは気付く。息苦しさも、咳も、まるで嘘みたいに消えていた。体も軽い。さっき飲まされたカプセルの効果だろうか。


 「……なんか、体が軽い……」


 不思議そうに自分の胸に触れ、熊をそっと抱きしめる。


 その時、通路の壁に奇妙な爪痕を見つけた。さっき牢から出たときにも見かけたはずの傷だ。


 (……あれ? さっき、ここ通った……?)


 不安が胸をよぎる。


 デイブは何も気にせず先を進んでいくが、スヨンの中に、じわじわと冷たい不安が広がっていくのだった——。


 どれだけ歩いたのか、もう全くわからない。足元の水たまりを踏み抜きながら、スヨンはデイブの後ろ姿を黙って追いかけていた。


 「おかしいなぁ……。さっきの曲がり角、右だったか左だったか……ちっ、ま、進めばそのうち出口が見つかるだろ……」


 デイブはぶつぶつと独り言を繰り返し、ときおり壁を小突きながら歩いていく。


 どれくらい歩いた頃だろう。ふいに通路が大きく開け、天井の高い空間に出た。冷たい風が地下にまで吹き込み、スヨンの髪をふわりと揺らす。その広間は、奥の奥まで薄暗く、どこまでも続いているように見えた。


 「おっ、ラッキー! ここを歩いてけば、どっかに出られるはずだ!」


 デイブが嬉しそうに声を上げる。しかしスヨンは、その言葉に思わず唖然とした。


 (……え、道、知らなかったの? ずっと当てずっぽうで歩いてたの……?)


 そのとき、デイブが何かにつまづいて、バランスを崩した。


 「いってぇな、クソッ!」


 片腕しかないデイブは、怒りまかせに足元の障害物を殴りつける。“ガン!” と甲高い金属音が空間にこだまする。


 「……いってぇ……何だよこれ……」


 よく見ると、地面に大きなシートがかぶせてある。


 「……もしかしてお宝か?」


 デイブは悪びれることなく、シートを一気に引き剥がした——。


 「う、うおっ……!」


 現れたのは、四本脚の機械獣——クアッドハウンドだった。メタリックなボディに沈黙の赤いセンサー。その姿を見た瞬間、デイブは腰を抜かして尻もちをつく。


 「ひ、ひい……!」


 スヨンも思わず息を呑み、目をこらして暗闇を見渡す。


 広大な空間いっぱいに、同じようなシートがいくつも、いくつも敷き詰められている。端から端まで埋め尽くすシート。よく見れば、その下には数百体は下らないクアッドハウンドの姿が隠れていた。


 ゴクリ、とスヨンは生唾を飲み込む。


 そして、空間の中央には、ひときわ大きなシートが五つ、山のようにそびえていた。


 デイブとスヨンは恐る恐る、吸い寄せられるようにその山の一つに近づく。


 デイブが、おそるおそるシートの端をつまむ。震える手で、それを静かに引き剥がすと——


 「っ……!」


 巨大な鋼の巨人——ナイトメアセンチネルが、まるで王のように鎮座していた。


 二人は絶句したまま、ただ立ち尽くすしかなかった。


 声も、言葉も、涙すら出てこない。


 圧倒的な沈黙だけが、その場を支配していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ