拳闘士事務局
「ただいま、ノクト」
『HN-07』にリンクした和樹はバー「ノクターナル」へ足を踏み入れた。
「おかえり和樹、待ってたぜ。いろいろ大変だったな」
カウンターの奥でグラスを磨いていたノクトが、手を止めて声をかけてくる。
「まあね……」
和樹はそのままカウンター席に歩み寄るが、自分の身体がいつもよりずっと小さいことを忘れていた。
(あっ……椅子、高っ)
一瞬だけ戸惑うが、すぐに両足で床を蹴って軽やかにジャンプ。くるりと一回転して、そのままストンと椅子に着地。
(…イメージした通りの動きができるな)
その思考にかぶせるように、ノアの無機質な声が頭に響く。
(はい。『HN-07』はステルス性と機動性を重視した最新鋭の近接戦闘用アンドロイドです。筋出力は『IS-21』の三倍。反射速度は現行モデルの1.4倍。また、跳躍能力、バランス制御、姿勢維持に特化したアクチュエータが全身に組み込まれています)
「……ま、とりあえず、思った通りに動けるのは助かる」
「その見た目でそんな動きされたら、周りがビビるぜ」
「まあ、今回はこれで出動するしかないみたいだしな」
和樹は足をぶらぶらさせながら言う。
「で、俺がエコーを連れ戻せばいいんだろ?」
「ああ、悪いな。和樹の言うことなら、あいつも素直に聞くだろうし」
「……通信で呼んだらダメなのか?」
ノクトは苦笑いして、首を横に振る。
「何度か試したけどな…こっちの呼びかけは完全に無視だ。昔からそういう奴なんだよ。素直に帰ってくるタイプじゃない」
「ハァ……本当に意味がわからん……」
「ずっと和樹が来るの楽しみにしてたからな」
「……そもそもA Iユニットがストレスを感じるって……ノクトもそういうのあるのか?」
ノクトがカウンター越しに軽く笑う。
「人間でいうところの“イライラ”とか“ウズウズ”ってやつさ。なまじ感情模倣が優秀だから、余計に手がつけられなくなる、人間だってイライラしたら暴れたくなる時、あるだろ?」
「めんどくさい進化しやがって……まぁいいや。さっさと連れ戻してくるよ」
椅子から軽やかに飛び降りると、和樹はふと思い出したように立ち止まった。
「そうだ、デイブはどうする?」
ノクトも、つい忘れていたといった顔で首をかしげる。
「んー……もし連れて帰れそうなら、一緒に頼むよ。一応ここの住民だからな」
「了解。じゃ、行ってくる。何かあったら連絡してくれ」
「おう、気をつけてな。エコーを頼んだぞ」
和樹は軽く頷き、店のドアをくぐって外へ出た——。
「ノア、エコーの居場所は?」
ノアの無機質な声が、即座に頭の中へ響く。
(はい。現在エコーはセクター9のスラム、『デトリタス・ヤード』を移動中です)
「……セクター9のスラム、ね」
(おそらく、その先にあるエクリプス・コングロマリットの地下拠点――『アンダーハイブ』を目指していると思われます)
「なるほど……でも、どうやって行く? この体じゃバイクも車も無理だぞ…」
(問題ありません。最短ルートを算出します。『HN-07』の機動力を最大限発揮してください)
ノアの言葉と同時に、ナノリンク・データフィードでルート、距離、周囲の監視センサーの配置までが元からあった“記憶”のように浮かびあがる。
「マジか……これ、ビルを飛び越えていけってことか? 監視ドローンに見つかったりしないよな?」
(ご安心を。『デジタル・ミラージュ』、そして『ナノカモフラージュ』を発動します)
その瞬間、和樹の体表がほのかに光を帯びる。 周囲の赤外線カメラには、和樹の輪郭がぼやけたノイズとしてしか映らなくなった。
さらに、壁のくすんだグレーや錆びた鉄骨、緑青のパイプ――和樹の姿は周囲の色に溶け込み、風景そのものと化していく。
和樹は軽やかにビルの壁を何度か蹴り上がり、屋上の手すりへとひらりと着地。
監視ドローンがすぐ近くをかすめても、何の警告音も発さずに通り過ぎていった。
「……すげえ。まったく気づかれてねぇ……」
ナビゲーションアイコンが視界に浮かび、“残像”がリアルタイムでビルの縁や手すりを滑るように先導する。
「……なんか忍者みたいだけど…見た目は可愛い女の子なんだよなぁ……」
そのまま電線の上を猫のような身のこなしで駆け抜けていく。ビルからビルへ、企業ハビタットのビル群を、影のごとく跳ね回った――。
***
セクター9のスラム——『デトリタス・ヤード』の雑踏を、真っ赤なショートヘアとゴーグルがよく目立つ可愛い少女が歩いていた。
「……やっと、やっと和樹がこの時代に来たってのにさ……」
エコーは人の波をすり抜けながら、機嫌悪げに独りごちた。
「10年も待ってたんだよ? サイヴァートレックスで製造されて、ずーっとこのアーコニアに潜んで……毎日、ノクトと店番して、くだらない酔っ払いの相手ばっかり……」
すれ違う露店の店主が訝しげにエコーを振り返るが、気にする様子もなく歩き続ける。
「やっと和樹と一緒に“オーバーマインドと戦える”って思ったのに……なによ、サーチャーギルド? 一人で勝手に依頼なんか受けてさ……」
ふくれっ面でブツブツと呟きながら、石ころを蹴りながら歩く。
「こっちはそのためだけに作られたってのに……ノクトみたいに支援モデルなら気楽でいいよね、ほんと……」
エコーはごみ溜めの路地を抜け、とある建物の前で足を止めた。
壊れかけのネオン看板には、“拳闘士事務局”と書かれてはいるが、文字は消えかけ、チカチカと頼りなく明滅していた。
エコーは一瞬も迷うことなく扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。
建物の中は薄暗く、コンクリート打ちっぱなしの壁際には、先日チャンピオンとなった、ラド・バレンティノの雄叫びをあげる姿がホログラムでリピート再生されている。
奥のスペースでは、タトゥーだらけの筋骨隆々な拳闘士や、全身をオートマトンパーツで改造した拳闘士たちが、ホログラムの試合中継に夢中になっていた。
「おい見たか今の!」
「ラドの野郎、あの一撃でクアッドハウンドの装甲を壊したぞ!」
「やっぱ“ノヴァシティの悪魔”は違うぜ……」
エコーは周囲の視線を気にする様子もなく、まっすぐ受付カウンターに向かった。
受付のカウンターには、油じみた作業着を着た初老の男が、新聞を片手にだらしなく腰かけている。
「おじちゃん、エコー、リングで戦いたい」
新聞の端からエコーをちらりと見やり、初老の男は深々とため息を吐く。
「……やれやれ、また妙な奴が来やがった……」
受付の背後にも、ラドとクアッドハウンドの死闘を立体ホログラムで中継されていた。
それを見て、エコーは退屈そうに口を尖らせる。
「エコー、この弱い人じゃなくて、もっと強い人と戦いたい!」
その小さな呟きは、思ったよりもよく響いたらしい。
「……あァ?」
試合中継を見ていた、ガタイのいい拳闘士たちが一斉にこちらを睨んだ。場違いな少女の姿に、彼らの敵意が集中する。
「今、聞こえたぜ。――誰が“弱い”って?」
「オイオイ、見た目は可愛いが、脳みそまでお子様ってやつか?」
「どこの誰だ、てめぇ?」
だが、エコーはまったく怯まず――ホログラムを指差しながら、きょとんとした顔で返す。
「ん? この人よりエコーのほうが強いよ」
数人の筋骨隆々な拳闘士——その中でも派手な蛇のタトゥーを入れた男たちが、エコーを睨みつける。
「オイ、ガキ。お前、誰に向かって口きいてんだ?」
「クアッドハウンドと戦える奴がどれだけいるか、わかってんのかテメェ!」
「舐めた口きいてんじゃねぇぞ、ガキ!」
瞬く間に拳闘士たちの視線が集まり、場の空気がピリピリと張り詰める。
「おじちゃん、早く登録お願い。それとも——ここで暴れてもいいの?」
受付の男は思わず新聞を落とし、顔をひきつらせて絶句する。
「こ、こんなところで暴れんじゃねぇ! 冗談じゃねえぞ!」
周囲の拳闘士たちが一斉に立ち上がり、ガタガタと椅子が軋む音が響いた。
「おい、コイツ登録に来たらしいぞ! だったら——身の程ってやつ、しっかり教えてやろうぜ!」
「おうおう、暴れてもらおうじゃねえか、嬢ちゃん!」
筋骨隆々の男たちが取り囲み、受付カウンターの前は一触即発の空気に包まれる。
その時——
バタンッ!
鋭い音を立てて扉が開き、場の空気が一瞬凍りついた。
「あー……エコー。そのくらいにしとけ。帰るぞ」
扉の向こうから現れたのは、どこか不機嫌そうな小柄な少女――和樹だった。その容姿は、どう見てもエコーの“妹”のようにしか見えない。
「……あ……和樹……」
エコーは、さっきまでの威勢が嘘のように気まずそうにうつむき、大人しくカウンターの横に下がる。
拳闘士たちはあっけにとられたように目を丸くし、何人かは困惑して顔を見合わせていた。
***
和樹はスラムの低い屋根を、猫のような身のこなしで素早く飛び越えていく。
目指すは、ノアのナビが指し示す建物の上。最後の屋根に飛び乗ると、和樹は真下を見下ろした。
「ノア、エコーがいるのは……ここか?」
(はい。該当エリアに間違いありません。拳闘士たちの集う“拳闘士事務局”です)
次の瞬間、和樹は迷いなく屋根の縁を踏み出した。小さな身体が重力に引かれ、一直線に地上へと落ちていく。
——トスンッ。
軽やかな着地とともに、ステルスモードが解除された。突如現れた赤髪の少女の姿に、周囲の通行人が目を見開く。
「な、なんだ今の……」
「え? どこから湧いた……?」
そのまま一歩踏み出し、和樹は目の前の建物を見上げる。
ボロボロのネオン看板と、蛇の落書き。周囲を歩くのは、肩をむき出しにした筋骨隆々の男たちや、腕が完全に機械化された巨漢、怪しげな義眼を光らせる連中ばかり。
恐る恐る背伸びして窓から中を覗くと、ちょうど受付の前でエコーが大の男たちに囲まれていた。
(…うわっ、やばいかも……!)
和樹は勢いよく扉を押し開けた。
バタンッ!
鋭い音が響き、場の空気が一瞬凍りつく。
「あー……エコー。そのくらいにしとけ。帰るぞ」
和樹が冷ややかに言い放つと、エコーはぎくりと肩を揺らした。
「……あ……和樹……」
「ノクトも心配してるし帰ろう——」
和樹の声に、エコーは一瞬だけ反射的に気まずそうな顔を見せた——が、すぐにぷいと横を向く。
「やだ」
「は? 今なんて——」
エコーは拳を握りしめた。
「だから、いやだって言ったの!」
和樹は絶句した。
「…エコー…なんで——」
「和樹は全然、エコーのこと分かってない!」
「な、何の話だよ……エコー……?」
「私たちの存在意義の話だよ! エコーは——オーバーマインドを倒すために作られたんだよ!!」
「お、おい、大声でそんな話しするな——」
慌てて周囲を見るが、筋肉だらけの拳闘士たちは冗談だと思っているのか、ニヤけた顔で眺めていた。
「あはは、オーバーマインドだってよ! 夢はデカい方がいいな!」
「いひひひ、嬢ちゃんたちが人類の救世主か? 腹がちぎれる……ひひ、これ以上…笑わせないでくれよ……」
だがエコーは、彼らの声を無視して、涙ぐんだような声で和樹を睨む。
「和樹が来るまで、ずーっと……今日かも、明日かもって、毎日毎日“和樹と一緒に戦う日”を夢見て待ってたの! それがエコーの全部だったのに……」
「……和樹が来たってノクトが教えてくれた時、エコーがどれだけうれしかったか分かんないでしょ!」
和樹は、言葉を失ったまま黙り込む。
「それなのに、和樹は全部一人で——」
その時、ノアの声が頭に響く。
(エコー、これ以上の自己主張はプロトコル違反です。“オーバーマインドの撃破”が存在意義と言うなら、和樹の命令に従うことも、我々の存在意義です)
「で、でもッ……」
(和樹の指示に従えない場合、エコーのオペレーション権限を一時停止します)
「…ノア、ちょっと待ってくれ」
和樹が慌ててノアの声を遮る。
「……俺……AIユニットって“頭の良い機械”としてしか見てなかった」
言葉に詰まりつつも、和樹は俯いて言う。
「…でも、違うんだな……ちゃんと“心”があるんだよな……上手く言えないけど……俺のほうが全然分かってなかったみたいだ……ごめんな…エコー」
その言葉に、エコーの顔がパッと明るくなる。大きな瞳が期待と喜びで輝き、今にも弾けそうな勢いで和樹を見つめる。
「……だったら……エコーも…これから和樹と一緒に戦える?」
「あぁ、こちらこそ頼むよ」
「じゃあじゃあ、今から拳闘士登録してリングで暴れてもいい?」
和樹は深くため息をつき、頭をかきながら小さくぼやく。
「あーもう……まったく、お前ってやつは……わかったよ、今日だけだぞ」
「やったー! ありがと和樹!!」
エコーはぴょんぴょんと飛び跳ねて喜びを全身で表現する。
(……よかったのですか?)
ノアの静かな声が頭に響くが、和樹は苦笑いを浮かべて飛び跳ねるエコーを見つめる。
「まあ、しょうがないだろ……かなり溜まってたみたいだしな……」
いつの間にか周囲の拳闘士たちも、さっきまでのピリピリした雰囲気がどこかに消えていた。
「なんかよくわかんねぇけど、妹と仲直りしたのか? よかったな、嬢ちゃん!」
「言うだけじゃねぇってとこ、見せてみろよ!」
「ここにいる全員が見ててやるぜ、嬢ちゃん!」
野太い声と笑い声が響き、場内は妙な温かさに包まれる。その中で、エコーは受付カウンターへと元気よく駆け出していった。
「おじちゃん、エコー登録する!」
受付の男は新聞を脇に置き、呆れたように片眉を上げてエコーを見る。
「……本当にやるのかよ。嬢ちゃん、いくつなんだ?」
エコーはしばらく指を唇に当てて考え込んだ後、得意げに答える。
「エコー、十歳!」
男は思わず鼻で笑い、頭を軽く振る。
「……十歳…? まったく、ふざけたやつだ……まぁ、見たところ十六歳ぐらいだろ……」
そう言いながら、用紙の名前と年齢の欄に『エコー 十六歳』と適当に書き込む。
「それより嬢ちゃん、本当に戦えるのか?」
エコーは胸の前で拳をバチンと合わせ、自信たっぷりにうなずく。
「うん。エコー、強いよ!」
「……はいはい、そうかい。じゃあこれにサインしな」
男が無造作にカウンターに書類を差し出す。背伸びした和樹がその書類を覗き込むと、細かい字で注意事項が並んでいた。
“試合で選手が怪我をしたり死んでも、運営は一切責任を負わない”
“逃げたり、対戦相手がわかった後での棄権は、罰金五十万クレッド”
“対戦相手や試合内容は運営に一任すること”
“ファイトマネーはテラ銭の一割、勝利すれば二割”
受付の男は書類の説明を淡々と述べ、最後に一言だけ声を落とした。
「……嬢ちゃん、止めるならまだ間に合うぜ。若いんだ、命を無駄にするもんじゃねぇぞ」
けれどエコーは、にやりと自信に満ちた笑みを浮かべる。
「大丈夫。エコーは絶対に負けないから!」
男は苦笑まじりに深くため息をつき、カウンター奥の端末を操作する。
「……へっ、自信だけは一人前だな。拳闘士エコーのデビュー戦だ!」
無造作に打ち込まれたパスコードに、カウンター背後の壁が低く唸りをあげてスライドする。
ギギギ……と重い音を立てて現れたのは、鉄骨むき出しの階段と、足元に赤く灯る誘導ランプ。
男はカウンター越しにエコーをじっと見つめ、ふっと小さく笑う。
「ようこそ!! 終末の楽園、『アンダーハイブ』へ!!」
その声とともに、周囲からどよめきが湧き起こった――。




