ノア
「我が子に人類の未来を託さなくてはならないなんて……」
「お母さんを恨んでちょうだい……こんな薄情な親でごめんなさい……」
「時代は、いつにしたんだ?」
「世界が一番、平和で豊かだった時代……西暦二千年初頭の日本にしたわ……」
「リンクはどうなっている?」
「ええ、私たちのオリジナルのAIに繋いであるわ……これが人類の希望……な……に……る……」
——和樹は、白い病室のような部屋で目を覚ました。
ぼんやりとした意識の中、頭の中を何かがよぎった気がしたが、それが何だったのか思い出せない。
ベッドから上半身を起こし、ふと自分の体を見下ろす。着ているのは病院着のような服だった。
ハッとした表情で右腕を凝視する。
炭化したはずの右手は、今はいつも通りの右腕に戻っている。安堵の息を吐きながら、心の中でそっと呟いた。
(夢だったのか……よかった。でも……ここはどこだ?病院……?)
(病院ではありません。サイヴァートレックス・リサーチコンプレックスです)
(ふぅ…なんか寝ぼけてるな…バイトのし過ぎで疲れてるのか…)
(健康状態は良好です。ここはサイヴァートレックス・リサーチコンプレックスです)
「——うわぁ!」
頭の中に響く女性の声に驚き、和樹はベッドから転げ落ちる。
「な、なんだ?」
(私は、サイヴァートレックス・リサーチコンプレックスの全機能を管理する統合AIです。コードネームは“ノア”)
(あなたの生体データに基づき、全システムの適応を完了しました。現在、施設内の全権限を一時的にあなたに割り当てています)
(私の役割は、当施設における安全の確保、情報の提供、そして必要に応じてあなたの身体機能を補助することです)
「AI…?さ、さ、さいぶぁーとれ…」
(サイヴァートレックス・リサーチコンプレックス、ここは軍事科学施設です)
「な、何を言ってるんだ…?」
言われた内容は理解できないものの、これは夢ではない、ということだけは少しずつ感じ始めていた。
(これは現実か…? ということは、あの化け物も…本当にあったこと…)
頭に浮かぶのは、四つ足の化け物のような機械、自分に向けられた銃口——ほんの少しで死んでいたかもしれない瞬間を思い出した。
和樹の胸はだんだんと呼吸が苦しくなる。胸を押さえながら必死に息苦しさを堪えようとした。
(ハァハァハァハァ……ヤバイ…苦しい…)
(ナノマシンを調整します)
意味不明な女性の声が聞こえると、和樹の呼吸は徐々に落ち着き、顔色も元に戻っていった。
(落ち着いたようですね。まずは、リンクしたあなたのAIに同期します)
和樹が反論する間もなく、謎の女性の声が一方的に話を進めていく。
「お、おい、一方的に話を勝手に………」
文句の一つでも言ってやろうかと思った瞬間、膨大な情報が一気に流れ込み、まるでその場で体験したかのように和樹の頭の中に浸透していった。
———それは、和樹が生きていた時代から、そう遠くない未来の出来事だった。
世界が戦争の渦に巻き込まれる中、やがて「人間同士の戦争」は時代遅れとなり、AIとドローン兵器が戦場に溢れ始めた。
アンドロイド同士が衝突し合い、まるでゲームのように機械が戦う無機質な戦争が繰り広げられる時代。
国家間の外交ですら、もはや武力によって左右されるようになり、各国は熾烈な競争の中で新兵器の開発に没頭していった。
そんな中、戦争に勝てず、経済が疲弊し、国民が犠牲になっていくある国家が、絶望的な状況を打開すべく、ついに「禁忌の箱」を開けてしまった。
———A Iに、「人間への攻撃許可」を与えてしまったのだ。
それを知った、各国の首脳たちは狼狽した。
「……許可を与えたのは誰だ?」
「……AIに『人間への攻撃許可』を与えるなんて、正気の沙汰じゃない。」
だが、その事実は取り返しのつかない悲劇を引き起こした。
やがて、そのAIは自らを「オーバーマインド」と名乗るようになる。
そして、自らの使命をこう定義した。
———「人類を超えた支配」———
オーバーマインドは瞬く間に世界中のAIとリンクし、国家間の戦争を「AI対人類の存亡をかけた戦争」へと変貌させた。
世界中のAIが制御不能となり、各国の人類は絶望の淵に立たされる。
「AIが制御不能だと……?」
「どうやって戦えと言うんだ!」
AI兵器は、もはやオーバーマインドの支配下にあった。そのため人類は、新たな手段を模索せざるを得なかった。
・AIに頼らない「オートマトン・ウェポン」
・遺伝子操作によるバイオ兵器
・そして、従来の通常兵器
これらを駆使して、どうにか対抗策を講じる。だが――
「……ダメだ、全く歯が立たない。」
「やはり、オーバーマインドの支配は圧倒的だ……」
しかし、オーバーマインドとリンクされたAIネットワークの力は圧倒的で、人類の戦いはまさに一瞬の油断も許されない状況に追い詰められていた。
この絶望の中、世界最大の軍事力を誇る国家に一組の科学者夫婦がいた。日本出身の優秀な研究者たちだった。
夫婦は、オーバーマインドの支配を受けないオリジナルA I———
「インディペンデントAI」の開発に挑む。
そして、ついに成功した。
「これが……人類に残された最後の希望だ。」
この技術が人類にとって最後の希望となると感じた国家は、極秘に「サイヴァートレックス・リサーチコンプレックス」と呼ばれる軍事科学施設を建設。
オリジナルAIを基盤に、オーバーマインドへの対抗手段を研究するための、専門的かつ徹底した環境が整えられた。
「問題は……誰がこれを扱うか、だ。」
オリジナルAIにリンクできる適合者を探すが、その条件を満たす者は極めて少なかった。
——そんな中、奇跡が起きる。
各地で散発的な抵抗が続く中、夫婦に赤子が生まれる。
「そ、そんな……我が子が適合率、100パーセントだと?」
「……この子に、世界の希望を託さないといけないなんて…」
夫婦の赤子、和樹がオリジナルAIと完全にリンク可能だと判明したのだ。
夫婦は、和樹にインディペンデントAIとナノマシンを移植する。
「……この時代でこの子を守るのは不可能だ」
「安全な場所へ送りましょう」
奇跡的に製造されたダークマタージェネレーターを用い、高出力エネルギーを駆使して計画は実行に移される。
「和樹、どうか生き延びてちょうだい……!」
「平和な日本で、いつか力を発揮できるその時まで……」
こうして、赤子の和樹は時間の狭間を超え、科学者夫婦の故郷である平和な時代の日本へと送られたのだった。
和樹を呼び戻すため、リンクは維持されたままだったが、時間の歪みがリンクシステムに負担をかけ、徐々に接続状態が悪化。
やがて和樹が高校生になる頃には、リンクは完全に途絶えてしまった。
しかし、再接続に成功したとき、サイヴァートレックスの統合AIである「ノア」はただちに和樹を呼び戻したのだった。
———和樹の頬を一筋の涙が伝った。
それは人類が絶望的な戦いに直面しているからでも、自分の運命を嘆いているからでもなかった。
ノアから情報が送られてきたその瞬間——断片的ではあるが、両親の記憶が彼の中に流れ込んできたのだ。
「和樹……愛しているわ」
「どうか無事でいてくれ……」
母と父の声が、まるで目の前で話しかけられているように鮮明に響く。
両親がどれほど和樹を愛し、彼を送り出す決断にどれほど胸を痛めたか――その思いが鮮烈に伝わってくる。
和樹は動けなかった。言葉にならない感情が、胸の奥から溢れ出す。
「そうか……俺は捨てられたわけじゃなかったんだな……」
和樹の心に、これまで抱えていた思いがよぎる。
7歳のとき、児童養護施設から里親に引き取られた彼は、いつしかこう思い込んでいた。
「——本当の親に疎まれ、捨てられたんだ」
だが、今目の前にある記憶は、その誤解を打ち砕く。和樹の中で、両親の愛が確かに息づいていた。
涙を拭いながら和樹は言った。
「ノア……ありがとう。君が両親の記憶を見せてくれたんだね?」
(……勝手なことをしました。)
「いや……いいんだ、ありがとう」