2 理不尽な日々
「え……」
仕事から帰ってきた俺が自宅の2DKのアパートのドアを開けると、物が乱雑と散らばっている光景が目に入ってきた。
泥棒――そんな可能性が脳裏をよぎり、家族は大丈夫かと家の中に入るが、すぐに違和感に気付く。
冷蔵庫が……ない?
シンクの横に鎮座していた冷蔵庫が無くなっている。
いや、冷蔵庫だけではない、電子レンジ、トースタ、電気ポッドも無い。
慌てて風呂場の脱衣所に向かうと洗濯機もなく、他の部屋に向かうとテレビも無くなっていた。
もちろん妻と息子の姿も無い。
「これは……まさか……」
これは噂に聞く連れ去りだ。
俺は膝から崩れ落ちた。
『連れ去り』または『実子誘拐』という言葉がある。
親がもう片方の親に確認をとらず、無断で子供を連れて家から出る行動のことだ。
連絡は相手から遮断され、直接接触しようとすると警察から排除される可能性もある。
本来はDVなどで身の危険を感じた親が子供と共に行政などを利用して避難するものなのだが、有責側の配偶者が子供の親権を取るために悪用することがある。
それを妻にやられたわけだ。
それからの日々は理不尽しか無い生活だった。
***
『親権は妻側が持つものする』
離婚調停での審判はこのように下った。
家庭裁判所の親権判断には不貞の有無は加味されないらしい。
子供の福祉を考慮した結果らしいのだが、不貞行為を行い、子供を連れ去るような女の所で真っ当に育つという判断をしたという理解でいいのだろうか。
***
『財産分与はこのような額で算出されました』
妻と間男が雇った弁護士からの連絡。
不倫が無ければ離婚なんてせずに結婚生活を続けているつもりだった。
結婚生活を終わらす意思をもって行動した側に半分の財産を渡さないといけないルールらしい。
***
『毎月の養育費はこの算定表に従っています』
弁護士から聞いた額は多いとは言えない俺の月給手取りの半分に届く額だった。
実際の生活の支出や給与など関係なく、どんな根拠で決められたか定かではない額を提示された。
陽向が育つために必要な金額だ。養育費は当然払うつもりではある。
しかしこれは法外な額ではないだろうか。こちらの生活の考慮はされていないとしか思えない。
抗議はしたが取り合ってもらえず、払わないと職場に連絡が行き、給与差し押さえとなるらしい。
***
『今月の面会は息子さんが風邪気味なため、中止となりました』
離れて暮らしてから陽向と一回も会えていない。電話で声すら聞いてもいない。
何かしら理由をつけられて、面会が実施されることはなかった。
こっちが不倫もしていないし、DVもしていないし、養育費も欠かさず払っている。
にもかかわらず、俺は会う事ができないのだった。
***
そんな生活を続けて続けて1年も経つ頃だろうか、陽向の生活費を稼ぐために続けている会社での休憩時、社員用の休憩ラウンジで何気無く取った新聞で信じれらない見出しを見ることになる。
『母親の内縁の夫による虐待で陽向ちゃん4歳男児死亡』
ここからの記憶は正直あまり無い。すべての記憶がモヤがかかったようにあやふやである。
俺にとって地獄に落ちるような衝撃的な見出しを見た当日だけではない。
会社側が気を使ってくれて休職された期間だけでもないし、復帰後の魂が抜けた抜け殻のような状態で過ごした日々の期間だけのことでもない。
「曜子、久しぶりだな」
俺が運転する車の助手席に座り怯えた顔を向ける女。
妻の顔を見るまで今のこの瞬間のまでのことだ。
***
「ど、どこに行くの……?」
震えた声で曜子が聞いてくる。
「さぁ、特に決めてない」
なんとなく夜道をレンタカーで走らせてはいるが、どこか明確な目的地があるわけではない。
都市部ではストップ&ゴーが多く煩わしいので郊外へ向かって走っていたら、いつの間にかちょっとした峠道に入っている。
「曜子は懲役3年、執行猶予5年か……」
「…………」
「あの間男は実行犯だから懲役だけど、お前は執行猶予なんだな」
「…………」
「外を自由に歩けるからこそ、こうしてドライブに誘うことができたんだけどなぁ」
曜子が一人で実家に帰宅途中、人気が少ないところでお願いして車に乗ってもらった。
「…………」
「本当はあいつを死刑にして欲しいところなんだが、どうやら初犯で一人しか殺してないんなら、死刑にはならないらしい」
「…………」
「おかしいよなぁ、人一人の命を奪っているんだぜ? だったら同じ命で償ってくれないとなぁ」
「…………」
俺は曜子に話しかけているのだが、返事は返ってこない。
浅い呼吸の音が微かに聞こえてくるだけだ。
「…………なんで陽向を見殺しにした」
怒気を込めて静かに呟く。
「…………」
「なんか言えっ!」
「ひっ!」
曜子は座席に小さく座っていたが、小さく叫び声を上げると身体を守るように更に小さく縮こまった。
この姿は曜子が嫌いなホラー映画を鑑賞している時に見覚えがある。
あの時は映画の内容に恐怖していたのだろうが、今は俺に怯えているという事だ。
「すまんな。俺からすればお前のやったことや今の態度に対しての正当な怒りだと思うんだが、これも『モラハラ』になってしまうんだよな?」
離婚調停中に相手側弁護士から主張されたことを思い出す。
その内容は俺からすれば普通の結婚生活では良くある些細なケンカの数々だった。
とはいえ自分の判断だけでは認識が誤っている可能性も否めないので、会社の女性社員などにも確認してもらってみたが、みんな口を揃えて『モラハラではない』と否定してくれたものだ。
「…………」
相変わらずだんまりの曜子だが、心情は理解できる。
これでも恋人から夫婦にまでなった仲だからな。
『どうして私がこんな目に遭わないといけないのか』
これである。
物事を関連して考える事が苦手な曜子は、目の前にある事柄だけで判断してしまう。
自分の行動を振り返ることはしないし、先のことを見据えて長期的な視点を持つことも難しい。
だからこそ不倫して俺を裏切ることもできたのだろう。
この峠道も標高が高い地点に差し掛かってくると休憩所が見えてきた。
俺はハンドルを切って併設の駐車場に入る。
もう夜も遅いので休憩所の施設の灯りは消えており、外にあるトイレの電灯だけが点いていた。
俺たちの他に人は居ない。
車を施設から一番遠い場所の消えかけた駐車スペースに向かう。
そこの目の前は開けた崖になっており、昼間ならさぞ見晴らしのいい景色なんだろう。
「特に何かしようとは思っていない。ただ……ただいろいろと話を聞きたいだけだ」
半分嘘で半分本当である。
内心の怒りの炎は消える事はなかったが燃え盛るようなものでもなかった。
ただ、今は曜子に対して何かしようという思いよりも、なぜ不倫したのか、なぜ間男を選んだのか、俺と離れてからの陽向の様子はどうだったのか、そして……なぜ陽向への虐待を止めなかったのかと、不倫されてから常に頭の中にグルグルと回っていた疑問の答えを知りたいだけなのである。
「うわああああああああああ!!」
「!」
目標の駐車スペースに近づいてきた瞬間、いつの間にかシートベルトを外していた曜子が大きな叫び声をあげて掴みかかってきた。
(バカ……ッ! 車も停めてないのにそんなことをされたら!)
曜子の攻撃を受け止めようと無意識に踏ん張った足はアクセルを踏み抜いてしまう。
一瞬で車は加速し、崖の前に備えてある柵はあっさりと砕け散った。
ジェットコースタ―のファーストドロップ直前のような感覚がし、数秒後に激しい衝撃を感じたと瞬間に視界は真っ暗となった。
(本当に曜子は自分の行動で何が起こるか考えられない奴だ……!)
ここで俺の意識は途切れることとなった。




