12 犬とバター料理 ★
「おはようございます!」
朝、起きて家の居間に入ると、食堂に入ってきた俺を見つけたルーチェが近寄ってきた。
じっと俺の目を見つめて尻尾をぶんぶんと忙しなく左右に振り回す。
「ああ、おはよう」
挨拶を返し、頭を撫でてやる。
これをしてやらないと、ルーチェはいつまでも俺の前で待機し続ける。
ここ一ヵ月ですっかり朝のルーティンとなってしまった。
ブオオオオオオオ!
大風量のサーキュレーターを回しているような音が鳴る。頭を撫でられているルーチェの尻尾が発生源である。
最初の方に比べたらだいぶ頭の手触りが良くなった。
この家に来た直後は汚れを落とした後でもパサパサでゴワゴワしていたものだ。
「よく眠れているか?」
「はい! 土管の中や石畳の上に比べたら、ベッドは暖かくて柔らかくて天国みたいです」
「土管や石畳はベッドと比べないからね」
「ベッドの他にも私のお部屋まで頂けるなんていまだに信じられません。屋根や壁があるだけで有難いですのに」
「一ヵ月経ってもまだ慣れないか?」
「恵まれ過ぎていて、そんなすぐは無理です」
祈るように両手の指を組んで目をぼんやりとさせて薄い笑みを浮かべるルーチェ。
リラックスできているのだろう。警戒心が有ればこのような表情はできないはずだ。
俺はルーチェの頭を再度撫でてやりながら、一ヵ月前のことを思い出していた。
***
「おうち……無いんです」
ルーチェの言葉を俺はしばし理解できなかった。
まだ十代前半~に見えるルーチェは子供である。普通は親に養育されているはずだし、住む家が無いなんてことはないだろう。
「ルーチェちゃん、家の地区はどこ?」
俺が言葉に詰まっていると、ファナはルーチェの答えに特に気にした様子もなく、質問をする。
「ダチア区です」
「……そう」
ファナの表情が曇る。
何かダメな地区なんだろうか?
「そこって何かまずいのか?」
「このイリニの街で治安が悪く、整備も進んでいない場所が多い。俗にいうスラムじゃな」
「貧民街か」
「別名、修羅の国と呼ばれておる」
「いやそれ違う区じゃない?」
セザールの短い説明で何となく理解できた。
どうしても俺は現代日本の価値観で思考してしまう。
テレビやネットで見たような知識しかないが、自分は外国のスラム街に居るとでも想定していた方がまだ色々と齟齬は無さそうだ。
気を付けないとこの先、色々な場面で『脳内お花畑野郎』と周囲の人に思われてしまうかもしれない。
「ルーチェ、家が無いのはわかったが、親は?」
いくらスラム街で生活しているとしても親かせめて親族くらいいるはずだ。いや、いて欲しい。
「……いません。前まではお母さんと二人で家に住んでいたんですが、三か月くらい前から家に帰ってこなくなってそれっきりです。それでしばらく家に一人で住んでいたんですが、知らない大人の人に追い出されてしまいまして……」
追い出したのは家主なのだろうか。
ルーチェの母親が居なくなったことにより、家賃の支払いでもストップしたのが原因だろう。
俺の願望もむなしく嫌な現実を突き付けられる。
「お父さんは?」
「私が赤ちゃんの頃から見た事ないです」
「じゃあ、お母さんの行先に心当たりは?」
「たぶん……家に何回か来ていた彼氏さんと一緒にいると思うんですが、どこにいるかまでは」
こんな子供がいるのに、それを放り出して男と蒸発だと?
自分が産んだ子の養育を放棄して、男を優先するだと?
ルーチェの母親に今のこの子の姿を見せてやりたい。
衣類は何週間も洗濯しておらずボロボロで薄汚れており、髪の毛はボサボサで伸び放題。
食事をまともに食べてないのが一目でわかるほど身体は痩せており、目の下の隈や顔のやつれ具合は十分な休息が取れていないことを表している。
怒りの矛先を向ける先が無いので、拳を強く握り込む。
もしここに握力計があれば、さぞかし今までの俺の新記録が測定できていたことだろう。
「ヒカルよ、顔が怖いぞ。この少女が怖がっておる」
「……ああ。すまない」
セザールに指摘され、深呼吸をして怒りを鎮める。
肺の中の空気を全て口から吐き出し、ゆっくりと鼻から吸ってお腹を膨らませる。
これを数回繰り返すと、ムカムカは消えることは無かったが、幾分冷静になれた。
「ルーチェちゃん、ちょっとあちらでお姉さんとお話しよっか」
ファナがルーチェの手を握って、やさしく引いて俺とセザールから少し離れた場所に移動する。
離れた理由は推測できる。
男には余り聞かせたくない繊細なことを質問するのだろう。
年頃の娘と子供を捨てるような『母親の彼氏』というキーワードだけで大人なら誰しもが想像は容易だろう。
5分ほど待っていただろうか、安堵した表情のファナが戻ってきた。
「幸いなことに、特にお母さんの彼氏さんからは酷いことはされていないみたいです」
「そうか、よかった」
「でも家を出されて野宿している時に何回か危ない目には遭ってるみたいですね」
それはそうだろう。
10代の女の子がずっと外を彷徨っているのだ。
ついさっきだって攫われかけたではないか。
むしろ今まで無事だったのが運が良かったのだ。
「じゃあここで別れたとしたら……」
別にファナにどうなるか知りたくて聞いたわけではない。
そんなの人に聞かなくてもわかる。
ただの独白である。
「時間の問題じゃな」
「いつかどこかで……ですね」
三人とも同じ意見だった。
それくらい明白な予想だった。
「孤児院とかそういう施設は無いのか?」
有るのならばとっくに保護されているとは思うが、確認せずにはいられない。
「教会が保護してたりするんだがのう。どこもいっぱいだろうの」
「私も心当たりは有るのですが……難しいと思います」
福祉は国の余裕があればこそ、予算も労力も割けるのだ。
日本で増税増税で税金や社会保障費の国民負担率が重くのしかかってきてはいたが、ここのように少し間違えればすぐ死に直結するような社会環境ではなかった。
こことは比較にならないほど余裕がある社会であっても、セーフティーネットは十分とは言えなかった。
特に児童養護関係の施設にて、人手不足や予算不足が根本原因となる不幸なニュースには、ずいぶん心を痛めたものだ。
「ファナ、セザール。俺はお前らに助けられた居候の身でしかないけれど――」
ファナが不意に人差し指を俺の唇に当て、話を中断させる。
「イリニの街はまだマシな方なんです。ここを治めている辺境伯令息は正義感の強い方で、比較的治安維持に力を入れてるから。でも、それでもここにはルーチェちゃんみたいな子はいっぱいいるんです」
ファナが俺に何を言いたいのかはわかる。
ここでルーチェを救ったとしても、他の同じような境遇の子を見つけた時にどうするのか。
今後、この世界で生きていくとしたらいくらでも孤児なんて目に入ってくるだろう。
それら全てを引き取って面倒見るなんてできるわけがない。
そもそも他人のことなぞ気にしていられる立場ではない。
自立すら俺はできていないんだ。
俺は身を屈めると足元にある拳大の岩を手に取る。
「<身体強化>」
そして、身体強化をかけた状態で石を空中に高く放り投げる。
的にするので十分な高度が無いと危ない。
続けてすぐさま魔法の構成を組む。
「ほぅ?」
「え……こんな構成?」
俺の展開した構成を読み取ったのだろう。感心したような表情のセザールに、素直に驚きを出すファナ。
俺は二人を横目に、高く放り投げた石に狙いを定める。
「<燃えろっ>!」
魔法名はパソコンに例えれば、中身にプログラムやスクリプトが書かれてあるファイルのファイル名みたいなものだ。
魔法の中身、つまりは構成さえちゃんと組めていれば、名前なんて何でもいいはずである。
実行する際の識別でしかない。
俺の予想通り魔法はしっかりと発動し、火球が間髪入れずに5発発射される。
そして空中の石に着弾した刹那、ドドドドドンッ――と大きな音を立てて爆発を起こした。
「ふえええぇぇぇ」
獣耳を伏せて、尻尾も丸めながら縮こまるルーチェ。
「モガモガモガッ!」
ボールギャグを口に嵌められてもがくだけの男A――こいつのこと忘れてたわ。
「ここに来る最中は基本の身体強化すらできなかったのにのう」
にやりと不敵に笑うセザール。
「<火球>だけをベースにこの威力を……?」
ファナは驚いてるという感じより、構成を分析しようとしている感じである。
普段は能天気なのに魔法に関して職人みたいな雰囲気になる時があるんだよな。
「俺、ギルドに冒険者登録してお金稼ぐよ。だからルーチェの面倒を見ていいか?」
何もできない奴、実績もない奴が理想を語っても説得力は無い。
なので今の実力を見せた。
比較対象をほとんど知らないから、これがどの程度の実力になるかはわからない。
でも周りのリアクションを見るに、まぁまぁいい線いってるんじゃないかな。
「ワシはかまわんぞ。どうせ部屋は余っとるしな」
「しょうがないですね。わかりました。その代わりさっきの構成を教えてくれますか?」
よし。二人の許可が下りた。
「ルーチェ! うちに来い。部屋を用意する」
「えっ? えっ?」
唐突に部屋を提供すると言われ、まったく事態を飲み込めていないルーチェ。
それもそうか。助けられたとはいえ、まだ出会って間もない男に一緒に住めって言われても訳がわからないもんな。
ここらは女性のファナからゆっくり説明してもらうか。
「じゃ、さっさと行こうかの。ギルドにこやつを突き出すんじゃろ? 日が暮れてしまうわ」
「モガガガガガ!」
セザールが男Aを引きずりながら歩き始めた。
「行きましょ、ルーチェちゃん。歩きながらお話するね」
「は、はい……」
セザールの後に俺達三人もついて歩きだす。
突然の同居の申し出に最初は戸惑っていたルーチェだったが、ファナの説明に次第に状況を飲み込めてきたようだ。
「で、でも本当にいいんですか?」
「ああ、気にするな。それに俺は犬も好きだしな」
ルーチェの耳と尻尾を見ながら答える。
そんなルーチェはちょっと心外そうに少しむくれた顔をして言った。
「私、犬じゃなくて狼型獣人です」
***
「お前さんらいつまでそこでじゃれとるんじゃ。飯が冷めるぞ」
台所から料理を運んでいるセザールに声をかけられる。
「ああ、悪い。美味しそうな匂いだな」
「今日のメニューはじゃがバターに、キノコのバター炒めに、バタートーストです」
ルーチェがセザールのところに小走りで駆け寄り、料理を運ぶのを手伝いながら教えてくれる。
「バターばっかだな?」
「そりゃヒカルよ、だってバターけ……」
「それ以上言うな」
「犬といったらバター」
「黙れ」
「犬バターですか?」
ぴょこっと不思議そうな顔でルーチェがこちらを覗き込んでくる。
「おーっと、ルーチェちゃんはまだ知らなくていいなぁ!」
「???」
「いいからファナを起こしてこい」
「はーい」
「……ふぅ」
俺はルーチェを誤魔化すのに成功したので、安堵して食卓のテーブルに座るのだった。
■この世界の魔法の仕様について
・魔力
自然に満ちている魔素を生物は勝手に取り込んでおり、体内に魔力として変換されている。
基本的に身体が大きい方が体内に蓄積される魔力量も大きくなるが、例外も結構ある。
・魔法名
重要なのは構成であって、魔法名自体は何でもいい。
『ああああ』でもちゃんと発動する。
ただし、魔法の構成には発動効果のイメージも重要なので、期待する効果とかけ離れた魔法名はあまり推奨されてない。(対象を冷やす効果なのに「ファイア」と唱えるなど)
・詠唱
魔力を制御しながら魔法名を唱えるのが実行操作なので、必須。
無詠唱は仕組み上、不可能。
魔法を使う魔物は唸り声や咆哮をトリガーとする。
・実行フロー
①構成を組む
②コードを展開する
③詠唱
④魔法効果の発動
魔法士の実力や魔法の構成によって①~④のそれぞれにかかる時間は様々である。