山南敬助の昔話
「――愛想が尽きてしまったんだ。それにしても君が追手とは。土方君も人が悪い」
人の好い笑顔を見せる山南の隣に座ると、茶屋の親父が湯気が立ち上る湯呑と串団子を皿に乗せて運んできた。こんな場面でなければよかったのにと思いながら沖田は団子を一つ頬張った。団子は少し炙り直されているらしく表面は固かったが中はちょうどいい柔らかさで、甘みは砂糖のほかに干し柿が混ぜられているのかほのかに香りがした。
「サンナンさん、私を斬って江戸に戻る気はないんですか?」
「それは考えたことはなかった。私が一本を取れたのはまだ君が十四、五のころだろう。府中六所宮でやった野試合では君が混ざると勝ちが決まってしまうと太鼓役にされてよく拗ねたものだったね」
それは近藤が天然理心流四代目宗家を継いだ際に行われた奉納試合である。紅白に分かれた天然理心流の門下生が合戦さながらに打ち合ったこの試合で土方と山南は紅組として参戦しているが、沖田は太鼓役で参戦していない。
「あれは口惜しかったなぁ。皆が暴れまわっているのに私だけのけ者なんだから」
「でも源さんが代わってくれようとしたんだろ?」
「その源さんだって鉦役なんですよ。兄弟子の源さんに太鼓と鉦を持たせて参戦なんて流石の私だって無理ですよ」
二人の言う源さんとは井上源三郎である。八王子千人同心の次男に生まれた人で、近藤や土方、沖田よりも天然理心流への入門は早かった。万事着実な人だったようで十年をかけて天然理心流免許皆伝を受けている。一つを打てば十になって返ってくる沖田のような天才肌ではない。だが、それゆえに工夫を欠かさない人であった。のちに阿部十郎が「大石鍬次郎、沖田総司、井上、これらは無闇に人を斬殺し致します」と語っているところを見ると剣才に関わらず市街で戦う独特の術を会得していたように思われる。
「しかし、あの野試合は楽しかった。まるで天正壬午のころに入り込んだようだった」
「私は見てるだけでしたけどね」
沖田はもう一つ団子を串から引き抜いた。あのときも参戦できないことに文句を言った記憶がある。それが誰にだったかは思い出せない。師匠であった近藤だったかもしれないし、兄弟子の土方だったかもしれない。あるいは流派に関係ない山南だったかもしれない。ただ、覚えているのは参加できないことの怒りとその理由が強すぎるということに対してだった。
もっと強い剣士がいれば、それは沖田の根本的な願いだったかもしれない。
「君は知らないだろうけど、土方君はあのときいろいろ作戦を考えて皆に命令してたんだ。だけど、試合が始まればもう誰も聞きはしない。終いには土方君自身が人の波に埋もれて打ち取られてしまった。あれは面白かった」
「そうか。サンナンさんは土方さんと同じ紅組だったから」
「あのときに彼は思ったんじゃないかな。烏合の衆じゃだめだと」
そのせいで割を食ったのが山南ではないのか。沖田はそう言いたくなった。新選組で三番目の幹部でありながら山南の命令に従う隊士はほとんどいない。それは山南が隊士から軽蔑されてるからではない。土方が定めた組織の命令系統が山南を通らないからだ。
ただ、沖田にも分かることはある。
戦の指揮を執るのなら、優しい山南よりも冷酷な土方のほうがよほど被害を減らすだろう。そういう意味では土方は正しい。それで割り切れれば良いのだが、実際はそうはならない。土方は隊士から恐れられると同時に憎まれてもいる。
その筆頭が山南なのだと沖田は思っている。
「だからって規則だ、決まりだって眉間にしわを寄せていたら素直に従うとは思いませんよ」
「そうだね。土方君はもう少し笑ったほうがいいかもしれない」
土方の笑顔を思い出そうとして沖田は考えたが、むっつりとしている土方ばかり思い出されて首をひねった。山南にもそれが分かるのか、しばらく腕を組むと「あーあれだ」と言った。
「一昨年の三月に鴻池さんから献金があったときだ」
一昨年といえば新選組が生まれた直後である。 さまざまなツテを手繰って会津藩預かりになったころだ。このころの新選組はロクに隊士もおらず、羽織袴を買う金もなく、近藤や土方の故郷に金の無心をしていた。事実、この時期に大阪の富商鴻池から献金があったことは金欠で苦しんでいた彼らにとって慈雨のようなものだった。
「そりぁ、お金は嬉しいですけど。それで笑うというのはあまり品が良くありませんよ」
「だが、あれは助かった。それに……。そうか。あのとき、私は初めて人を斬ったんだ」
「献金のときですか?」
「いや、その前さ。三条通の鴻池さんに押し込みがあったときさ」
このときのことを沖田は話でしか知らない。この夜、近藤や沖田は大阪へ新隊士募集へ出ており不在だった。今日の居残っていたのは土方と山南。あとは数人だったらしい。
隊士がいないにもかかわらず土方と山南は巡回に出た。
春先のぬるりとした湿気が肌に着く夜だった。錦小路を抜けて四条に入ったところで足腰が立たぬように通りに這いつくばっている男を見つけた。町人風の男の身なりはいい。だが、ここに来るまでになにがあったのか着物到る場所に砂や土がついている。
「われらは市中巡察中の新選組である。なにごとか?」
土方が尋ねると男はさらに慌てた様子であわあわと叫ぶので、山南は男の傍でしゃがむとゆっくりと声をかけた。
「大丈夫です。私たちはあなたに危害を加えようと思っていません。何があったか教えてほしいのです」
男はようやく少しは落ち着いたのか。
「わたくしは三条通鴻池で手代をしております。上吉と申します。いましがた店へ押し込みがあり、番所へ駆けていたのですが恐ろしく足がすくんで……」
やや早口な男の話を聞いて、先に走り出したのは土方だった。そのあとを追いかけるように山南が駆ける。確かに鴻池別邸の前でなにやら男たちがいる。その手元がわずかに光って見えるのは提灯か何かの明かりに白刃が反射しているのだろう。
四辻の角に飛び込む。屋敷からは陰になるので相手からこちらは見えない。
「山南さん、あれだろう」
乱れた息を整えながら土方が指をさす。頭目と思われる男が数名の下っ端に「早くしろ」と命令をするが、手下たちはまだ鴻池からせびれると思っているらしく床にしゃがみこんでいる男に、天下国家のために云々という御用盗のお題目そのままの言葉を投げかけている。
「相手のほうが数が多い。私たちも番所から応援を借りよう」
「それじゃ、相手が逃げちまう。それに手柄をあげる好機だ。一人二人斬れば、相手も散るだろう」
「……私はまだ人を斬ったことがない」
山南が言うと土方は口をへの字に曲げて「俺もさ」と呟いた。その様子があまりに子供のようで山南は笑った。それを土方は黙って流すと腰の刀を抜いた。山南も抜いた。
「われらは市中巡察中の会津藩預かり新選組である!」
大音声で土方が叫ぶと男たちの動きが止まる。同時に何かを囁くような声がする。ただ「知らぬ」という断片が聞こえた。このときの新選組の名は京に鳴り響いておらず。相手は新選組を知らなかったようだ。
黙ったまま頭目らしき男が刀を構える。手下らしき数名も抜き身の刀を構える。だが、明らかに腰の引けている者がいた。土方はその男にめがけて胴を払った。踏み込んだ足は相手の足のすぐそばにあった。切り抜けると男の腹から二つ折りになるように崩れた。真横にいた男が何かを叫ぶが聞き取れなかった。
頭目らしい男はまだ落ち着いているらしく。土方に撃ちかかると二度、三度火花が散った。
このときになってようやく山南は頭目に剣を振り下ろした。
剣は袈裟斬りに相手の左肩に刃を立てたが肩甲骨にぶつかったのか右にぶれた。このとき、慌てて山南は左右に面を打ち込んだが一度は相手の剣に受けられ、二度目はこめかみにぶつかって止まった。この一撃で男は昏倒したのか、手下の一人がかばうように前に立った。
何度も剣をぶつけ合うがお互いに斬れない。にらみ合っていると背後に土方が立っていた。
「山南さん、曲がってる」
そう言われて、初めて刀が曲がっていることに気づいた。変なことだが山南は少しだけおかしくなった。あれだけ剣術を学んできたというのに、剣の刃ではなく横っ腹で殴りつけるなんて思っても見なかったからだ。
笑ったのが不気味だったのか相手が少しひるんだ。そのすきに脇差を抜き去ると山南はどっと目の前の男を突いた。今度は吸い込まれるようだった。喉元から入った刃は何の抵抗もなく突き刺さり、腰を引くだけで抜けた。
男は血の泡を吹いて倒れた。目の前の敵が片付いたのを確認して、土方のほうを見ると彼のほうも二人目を沈めていた。残された手下たちが二条と四条のほうにばらばらに散ったので二人は追撃を止めた。頭目のほうに近づくと男は、こめかみから骨が割れているらしくなにかをうわ言のように言っていたが最後には何も言わなくなった。
「これはひどいな」
男を見て土方が言う。
「それは君もだよ」
山南が土方の袖を指さすと、三つほどの切り傷が開いていた。土方自身気づいていなかったらしく、腕を改めて唸り声をあげた。
「あのときの顔は誰かに見せたかった。ナマズのような唸り声だった」
「あの土方さんがねぇ。私は見たことがないや」
最後の団子を口に放り込んで、串を皿に戻す。昔話をする山南は田舎の好々爺のような様子で、失踪するような人間には見えなかった。