山南敬助の失踪
――どうしてサンナンさんは死んだのだろう。
自らが介錯をつとめた相手の死を疑問に思うというのはおかしい話だ。それは沖田総司にも分かる。沖田が振り下ろした刀が新選組総長山南敬助の首を落としたのだ。切腹とはいえ山南を殺したのは沖田自身なのだ。だが、どうにも腑に落ちない。そんな彼を見て「サンナンさんのことは気に病むなよ」とか「山南さんのことは残念だった」と古参の隊士からは声をかけられるが、沖田は「そうではないんです」といってそのあとの言葉が見つからなかった。
元治二年(1865年)二月二十一日。山南は「江戸に帰る」と短い手紙を残して失踪した。
それが局中法度に背くことは明らかだった。
――一、局ヲ脱スルヲ不許。
新選組結成から約二年。局中法度は池田屋事件という大舞台を経て、急速に肥大した新選組という組織を組織たらしめるために作られた掟である。違反した者は切腹というのは、この幕末にあった多くの組織のなかでも厳しい。逆に言えば、これほどの強権を効かさねば組織というタガが外れてしまう恐れがあったのだと言える。
それゆえに新選組総長山南敬助の失踪は大きな問題であった。彼の持つ総長の役職は局長近藤勇、参謀伊東甲子太郎に次ぐ第三位なのである。平隊士が遁走したというような甘いものではない。それゆえに沖田は山南が失踪したと聞いたとき、さぞ大捕り物になるに違いないと思った。
寄席の講釈で言えば、劉邦の元を逃げ出した韓信や石川数正が徳川家康から豊臣秀吉に鞍替えしたようなものだ。必死で引き留めるか捕らえるか。それくらいしか手段はない。だというのに副長の土方歳三の口から出たのは「総司。山南さんを追え」という短い命令だった。
「一人でですか? 大変だなぁ」
冗談めかして訊ねても土方は冷たい目のまま頷くだけだった。
「トシ。ひとりじゃ手が足るまい。総司と一番隊に行かせればよいだろう」
近藤が鬼瓦のような苦い顔をする。土方の表情から感情を読み取ることは難しいが、近藤は分かりやすい。沖田は近藤のそういう人間らしいところが好きである。だが、流石に山南の失踪という大事件に対して青から赤へ顔色が変わるのは大将らしくない。
「追っ手は一人でいい。相手は山南君だ。一番隊で囲んで窮鼠にでもなられたら被害が大きい。それよりも親しい総司なら手も出さんだろう」
何よりも腕が違うとは土方は言わなかった。だが、沖田と山南なら沖田のほうが上手であるという考えはあった。新選組において剣を持たせれば沖田に敵うのは二番隊助勤永倉新八、三番隊助勤斎藤一くらいしかいない。沖田を前にすれば近藤も土方も数段落ちる。
「そうですかね?」
「そうさ」
ぶっきらぼうに土方が答える。沖田は土方の面が急に憎たらしく思えた。それは山南も同じだったのではないか。少なくとも隊内の人間は思うだろう。山南は土方が憎いがあまりに嫌がらせのように置き手紙を残して失踪したのだ。
普通に考えて脱走するような人が行き先を残すはずがないのである。それなのに山南は残した。そこに意図があることは明らかだ。人に鈍感な沖田が気づくのだ。明敏な土方が気づかないはずがない。
(分かって知らぬふりをしているのだ)
そもそもの原因は土方ではないのか。
山南は総長。土方は副長。隊内の序列で言えば山南が三位で土方が四位である。だが、隊士の指揮権は土方にあり、山南は局長の相談役というような立場だった。そういう風に意図的に組織を作ったのは土方である。どんな命令も報告も一度は土方を通して上下に発される。山南からすれば自分の知らぬところでという気持ちになるのも当然である。
簡単に言えば、山南は飾りにされた。近藤という神輿を彩る飾りである。
新選組が生まれる前、局長の近藤にしても土方も武州多摩の道場主と門弟でしかなかった。それが攘夷の先駆けになるとして時流に乗って京都守護職預かりの治安維持組織になった。天下泰平の時代では考えられないことだ。それゆえに近藤には学が足りないという負い目がある。山南は武州多摩のころからの同志ではあるが、本は北辰一刀流である。門弟の多くが水戸学の濃い水戸徳川家に召し抱えられた経緯から、この流派は門弟から坂本龍馬や伊東甲子太郎という多くの尊王攘夷主義者を生んだ。
しかし、近藤には確固とした思想はない。彼が学んだ天然理心流にはそういうものがない。あるの敵を討つという根本的な突き詰めである。それでも幕末に多くの人が抱いたように、外国勢力を打ち払うという攘夷思想はあった。だが、それをする方法となると近藤はおぼつかかない。近藤が山南や伊東を傍に置きたがったのはそのあたりに理由があったのだと思う。
反対にそういう思想を一切不要としたが、土方と沖田である。
土方にとっては新選組を強化するということが第一で多くの思想を必要としなかった。
沖田はもっと単純である。剣があるのみである。それが天賦の才がもたらす欠けなのか、沖田自身の純朴さから出てくるのか分からない。だが、彼がこの時代の多くの人のような熱狂的な思想をもったようには見えない。
「では」
沖田が立ち上がると土方が「馬で行けば大津か瀬田あたりで見つかるだろ」と『江戸へ帰る』と書かれた置き手紙に視線をじっと向けたまま言った。立ち上がっていた沖田から土方の顔は見えない。障子をかけると朝霧が薄くなっていた。
厩舎で馬丁から馬を受け取ると沖田は黙って駆け出した。
三条通を東へ向かう。棒手振りが駆け抜ける沖田に目を丸くする。粟田口に入ると京の華やかさは消える。華頂山の山門と炭焼き小屋がいくつか並んでいる。毘沙門堂を左手に山科の狭い平地を駆け抜けると細い山道になり、山頂に到ると一気に視界が開ける。
一面の青が目に染みる。琵琶湖である。そしてそれより先の伊吹山まで見える。暦の上では春の二月とはいえ伊吹山には雪が残っているらしく白い。ほうと息をついて一気に駆け降りると大津である。山南の旅路は物見遊山ではない。流石に大津の宿場にいることはないと思いつつ駆ける。
すでに中天を過ぎた宿場に人は少ない。泊り客は朝のうちに発って、呼び込みもまだ時刻も早いとのんびりしている。宿場ももうはずれというところで声をかけられた。
「沖田君」
山南であった。割と長い時間を茶屋にいたのか彼の持つ湯呑から湯気は見えない。そこで沖田は山南が猫舌であることを思いだした。皆で鍋をつついても山南だけは熱い熱いと箸が進まず。鍋のほとんどを食べられてしまうのである。
こんなときでも、と思う反面で変わらないなぁ、と親しみがあふれる。
馬をゆっくり止めて鞍から飛び降りる。茶屋の親父がひどく驚いた顔で轡を受け取ってくれた。
「サンナンさん――」
戻りましょう。
なぜ呼び止めたんです。
どちらを言おうかと考えて言葉が止まる。山南は彼の隣の席を片手でトントンと叩いた。座れということだろうと山南の腰を見る。沖田は山南の右手側に綺麗に並べられた大小を見て立ち眩みがした。追手を呼び止めたうえ、刀をわざと抜きにくい右手側に並べるとはどういう了見なのか。
沖田が隣に座ると山南が茶屋の親父に団子と茶を頼んだ。
「どうして、こんなことを?」
短い沈黙のあと山南は冷えた茶をすすった。
「――愛想が尽きてしまったんだ。それにしても君が追手とは。土方君も人が悪い」
そう答えて山南はひどく柔らかい笑みを見せた。