6 ー地獄道ー (鬼乃平柊子)
抜け出せない道——というものがあるとしたら、それはなぜ存在するのだろう。
前世でよほどの悪事を働いたのだろうか?
でも・・・、今の私には、そんな「記憶」はまるでない。
せめて「記憶」でもあれば、耐えられるかもしれないのに———。
鬼乃平柊子は、5歳までは特段に「不幸」というほどの子どもでもなかった。
父親の顔は知らない。母親は「死んだ」と言っていたが、本当かどうかは判らない。
母子家庭ではあったが、母親の稼ぎが良く、いつも綺麗な服を着せてもらっていた。
ただ、母親は昼間いつも寝ていて、夕方になると仕事に出ていくから、柊子はいつも独りで晩ご飯を食べた。
お昼は冷蔵庫にあるものを適当に食べ、晩御飯は冷凍庫の「お弁当」をレンジでチンするだけだ。朝は食べないことが多い。
早くから夜間保育園に預けられ、そこで眠った。夜明け前に母親が迎えにくる。
幼稚園に行くようになっても、そこは変わらなかった。朝、幼稚園バスに柊子を送ると、それから母親は眠るのだろう。帰りのお迎えはなかった。
幼稚園の先生が、バスから降りてアパートの玄関まで行く柊子を、中に入るまで見守ってくれていた。
そんな先生に、柊子は玄関ドアを閉める前に必ず手を振った。
幼稚園では、好きな男の子の友だちができた。「かずまくん」という名前で、明るく親切な子だった。
なにより「かずまくん」が柊子を見る目には、他の子のお母さんたちが柊子を見る時のような「奇妙な冷たさ」がなかった。
それはまだ、恋、と言うには幼すぎるが、柊子はいつも「かずまくん」のそばにいて、遊びの仲間の端っこに加えてもらっていた。
それだけで、柊子には十分満足だった。
「かずまくん」との時間は、それほど長くは続かなかった。
柊子が5歳の誕生日を迎えてすぐ、引っ越すことになったからだ。新しいお父さんと一緒に住む——と、母親は言った。
幼稚園最後の日、帰りのバスの中で「かずまくん」が柊子の名前を呼んだ。
「これ・・・。誕生日に渡せなかったから——。」
照れながら差し出した小さな包みは「かずまくん」が自分で包んだらしく、ちょっとシワがよっていたけれど、かわいいピンクのリボンが蝶々結びにしてあった。
突然のことに驚いて、柊子はすぐに言葉を発することができなかったが、心臓の鼓動が聞こえてしまっているのでは——と思うほどに胸が高鳴った。
たぶん、柊子にとって生涯で最も輝いた笑顔で、小さく「ありがとう」と言った時、意識せず、その目から1粒の涙がこぼれた。
離ればなれになってしまうことが寂しかったのか、「かずまくん」がプレゼントをくれたことが嬉しかったのか——、柊子自身にもぜんぜんわからなかった。
その小さな包みを大事そうに幼稚園バッグにしまうと、バッグごと胸に抱えて、柊子はバスを降りるまで「かずまくん」の顔ばかり見ていた。
「かずまくん」は照れちゃったらしく、窓の外を見ていた。
バスを降りて玄関の扉を開けてから、柊子はいつも通りに手を振った。
ただ、今日はいつまでもいつまでも、ずっと振っていた。
(今日が最後だから、名残惜しいのね。かわいい子。)
先生はそんなふうに思って、ステップを上ってからもう一度ふり向いて声をかけた。
「元気でね。」
違うのだ。
柊子は、ただ「かずまくん」だけを見ていたのだ。
バスが発車して見えなくなってしまうまで、柊子はバッグをずっと胸に抱えたまま、手を振り続けていた。
バスが見えなくなると、一抹の喪失感と持ちきれないほどの大きな期待の2つを抱えて柊子は玄関の中に入り、ドアの錠をかけた。
部屋の中で1人で、そっとリボンをほどき、破らないように包みを開ける。
中からは、真っ白なボール紙の箱が出てきた。
「しゅうこちゃんへ」
と、手書きの文字が書いてある。「かずまくん」の字だった。
フタを開けてみると、中にはドングリで作ったペンダントが入っていた。
ドングリのお尻の部分に小さな銀色の輪がねじ込んであり、その輪に細い銀色の鎖が通してあった。100円ショップで売っているようなメッキの鎖だ。
柊子は母親が買ってくれた「ホンモノ」のネックレスを何本も持っているが、そんなもの全く問題にならないほど素敵なプレゼントだった。
鏡の前で首にかけてみる。
艶やかなドングリが、尖った方をまっすぐ下に向けて柊子の胸のところにきた。
思わず笑みがこぼれてくる。
柊子はそのドングリを、胸の上でそっと両手で包み込んだ。
鏡の中の柊子は、たぶんもう二度と生涯で見せないであろう幸福そうな微笑を浮かべているのだった。
しばらくして、柊子はそれをそっと外すと元どおり箱の中に納め、包み紙を丁寧に元のように包み直し(よっていたシワも元のままに戻した)、リボンを結び直して、机の引き出しの中にしまった。