仮説
浦添から受け取った鍵で表扉を開けると、相変わらずそこにはむせ返るようなウイスキーの香りが漂っていた。今は寝室への扉も開け放たれているから少し薄らいでいるのかもしれないが、慣れないものはしょうがない。扉の向こうには籠塚の死体がブルーシートに包まれていた。シートの隙間から白い煙のようなものが死霊のように這い出ている。ドライアイスを周りにまいているだけだというのに。紗綾はそこから目をそらすと、この居間をあらためて見回してみた。やはりそこは破壊の限りを尽くしている……、と言いたいところだったが、紗綾は途中で、実はそうでもないことに気がついた。先ほどこの事件の記録者である私も、この部屋にある物のほとんどが破壊されている、と書いたが、破壊されていない物品もこの部屋の中にはあったのだ。例えば、割れたウイスキーの瓶のすぐ近くに置いてある炭酸の瓶は割れていなかった。紗綾はそれに手を伸ばしてみたが、栓が開いているものの瓶そのものはとてもきれいで、中身がこぼれている様子もなかった。
紗綾は瓶を元の位置に戻すとあらためて机の上を眺めて、頭を掻いた。ウイスキーの瓶底だけがこの机の上には取り残されている。ちょうど真ん中あたりで瓶がへし折れたようになっていて、口の方はキャップが付いたまま底から五センチほど離れた場所に転がっていた。注意深くウイスキーの底をもちあげると、丸く液だまりの跡が残っていた。
紗綾はふと顔を上げた。すると視線は机の先に焦点を結んだ。そこにはダイニングキッチン越しに食器棚がある。この食器棚も無残な姿を彼女の前にさらしている。中の食器は粉々に砕けているものも、綺麗に放射状に割れているものも散見される。ガラスが割れて中身が雪崩を起こした棚もある。それだというのに……、食器棚の中身があの惨状だというのに、当のガラス戸が割れていない。そんな不思議な食器棚を彼女は見つけたのだ。
もしや――。
紗綾は瓶の底を置き直すと寝室へと向かった。そして寝室の中をふらふらと徘徊すると、ある一点で立ち止まった。
彼女の頭の中に宿ったのは世にも恐ろしい仮説であった。
はたしてそんなことが可能なのか? 紗綾はしばらく考え込んだ。しばらく考えても、それを否定する要素は全く現れなかった。むしろまずその可能性を検証してみるべきだと彼女の脳は結論づけた。その時である。
「どうしましたか?」
ハッとして振り返ると居間との境目に美輝がいた。彼女と目があった。いつも冷静で理知的な彼女の目を紗綾はそこに求めていたのだ。しかしこの時の美輝は違った。美輝はどこか恍惚とした目を紗綾に向けていたのだ。紗綾は一瞬にして己の身の毛がよだつ感覚に襲われた。美輝もそれを感じ取ったか、慌てて視線をそらした。
「なにか、わかりましたか」
「う、うん。まだ、仮説だけど」
「そうですか」
「少し一人で考えさせて」
「そうですか」
美輝は背を向けた。
「舞、もう少し時間がかかりそうですから、私たち、お部屋に戻っていましょうか」
ひょっこりと舞が美輝の肩から顔を覗かせた。何か言いたげに紗綾を見つめていたが、紗綾はそれに何も答えなかった。二人の姿がドアの向こうに消えるのを確認すると、紗綾は何枚か写真を撮って黒崎に送った。この仮説を検証するには彼の協力が不可欠であったのだ。




