8章
夢をみた。
忘年会の夢だ。
黒い壁の個室にはもうもうと煙がたち込め、赤いソファがずらりと並んでいる。
その中央にすわるのは、もちろん部長だ。
そして、几帳面に紙ナプキンを首にまく課長。
となりでは中野さんがせっせと肉を焼いている。
何の肉かはわからないが、よくみると「別府産」と書かれた札がついている。
女性社員が気を利かせて注文を頼み、学生のアルバイトらしき店員が次々とお酒を運んでくる。
乾杯のビールが空くたびに、男性社員の顔がだんだんと気持ちよさそうに溶けていく。
空っぽのジョッキを下げる代わりにおしぼりや箸を配る先輩を見て、宮崎千穂もせっせと全員分のサラダを小皿に取り分けていく。
うるうるとした赤い肉に火が通り始めると、部長はそれを舌のうえに乗せて満足そうにうなずいた。
そして、またじぶんの自慢話をし始める。
課長がお酌をしながら大袈裟に相づちを打ち、となりでは中野さんがやっぱり肉を焼いている。
ふと視線をずらすと、箸も持たずに放心する別府さんの姿が映った。
こんこんとしゃべり続ける部長を前にして、じゅうじゅうとただれていく高級肉を悲しそうにじっと眺めている。
あのね、こういうときは部長としっかり目を合わせて、にこやかな表情で話を聴くんだよ。
宮崎千穂はそう伝えたかったが、彼女とは席があまりにも遠く離れていた。
やがてその様子に気がついた部長は、別府さんに肉を食べるよう勧める。
「ほら、若いんだから遠慮せずに食べなさい」
そう言って網のうえであぶられた肉をトングでつかみ、彼女の取り皿にどんどん盛っていく。
よかれと思ってやったことだった。
別府さんは炭火を見つめたまま、ボソッと何かをつぶやく。
声が小さくて聞き取れない。
役職の偉い方を前にして、緊張しているのだろうか。
「おい、今の聞こえたか」
部長が訊ねると、課長は怪訝そうな顔をして肩をすくめる。
若い女の子だったら、もっと明るい雰囲気で場を和ませてくれないと困る。
そのために部長の正面にすわらせたというのに。
「ほら、我々のことをお父さんだと思って、なんでも言ってごらん」
課長がそう声をかけると、別府さんはお礼を言うどころか、急に目つきを変えて、彼らを睨みつけた。
…食べられません。
げっそりと頬のこけた肉体と、ギリギリまで追い詰めた精神で、彼女は溜まりに溜まった怒りを目で激しく訴える。
最も立場の弱い人間として、これまで被ってきた理不尽な怒りの源泉が彼らの無関心にあることを警告していた。
目が覚めてもなお、宮崎千穂はそのまなざしを思い浮かべていた。
閉めっぱなしのカーテンをひらくと、あの変態が窓にべったりと貼りついている気がする。
会社へ行くには、どうしてもあの駅を通らなければならない。
憂うつだ。
「あの子、父親とすごく仲が悪いらしいよ。それで実家を出て、一人暮らしをしていたのかあ」
いつどこで訊いたのか知らないが、田口さん曰く、別府さんは独学で絵の勉強をしながら生活費を稼ぐために就職したという。
しかし、数ヶ月前から誰が見てもわかるほどガリガリに痩せ細り、ついには会社を辞めてしまった。
先輩は最後まで彼女のことを嘘つき呼ばわりしていた。
病気のフリをして甘えているのだと。
しかし、宮崎千穂が察するに、あれは拒食症だったと思う。
あんなに痩せてしまっては、おそらく毎月の生理も来なくなる。
放っておいたら将来妊娠できなくなるかもしれない。
それに体調を崩してしまっては、絵だって描けなくなるだろうに。
「親元に帰れないのに、家賃とか生活費とか、いったいどうするんだろうね」
と、田口さんはいつまでもヒソヒソと興奮している。
忙しく湯呑を洗う宮崎千穂は、一旦、手を止めて前かがみになった。
背中からみぞおちにかけてぐうっと息苦しさがのしかかる。
別府さんがいなくなってから少しはマシになったものの、今でも突発的な倦怠感に押しつぶされそうになることがよくある。
無意識に溜め込んだイライラのせいで、ちょっとした人とのコミュニケーションにもすごく体力を消耗するのだ。
いったい、この人はいつまでしゃべり続けるつもりだろう。
若い女性社員が一人でいるところを狙って、彼は給湯室にやってくる。
にこやかな表情で話を聴いて欲しいのかもしれないが、今のじぶんにそんな心の余裕は残っていない。
むしろ、そういった田口さんのユートピアを一回でもいいからめちゃくちゃに壊してやりたいと思った。
しかし、宮崎千穂の場合は、明日からも出勤しなければならない。
「…なんで田口さんが、そんな、私的なことまで知ってるんですか」
「え、だって、ぜんぶ別府さんが話してくれたんだもん。
こっちが訊けば訊くほど、おもしろいくらいに何でも答えてくれるからさ。
答えてくれるってことは、本人も同意してくれていたんだよ、うん。そうに決まってる」
こんな窮屈な給湯室のなかで、(田口さんから)なんども私的な感情で近寄って来られたら、人によっては怖いと感じるはずだ。
それとも、宮崎千穂がそう感じているのを勝手に別府さんに投影しているだけだろうか。
実際のところ、何もわからない。
想像するしかない。
別府さんの話を一度でもちゃんと聴いてやったことがないのだから。
彼女が本当はどんな食べ物を好んでいたのかも、最後までわからないままだ。
〈相手の話を聴くフリだけして、私はすぐに自分の話にすり替えていました。
今思えば、あまりにも一方的で、失礼なやり方だったと反省しています〉
SNSに目を通している途中、鵜戸たま子の投稿が宮崎千穂の意識に引っかかった。
(彼女の個人アカウントとはまた別のクリエイター用アカウントだ。)
読み進めていくと、ある女性との対面を通して得られた気づきと反省について書かれていた。
あるいは、彼女が運営するアパレルブランド『Tel que tu es』における基本方針の改訂について。
〈私は長年アトピーに悩まされてきた経験を生かして、「自然体を身にまとう」をコンセプトに、昨年このアパレルブランドを立ち上げました。
ブランドネームには、アトピーで生きづらさを抱える人が少しでもありのままの姿に近づけるように、という意味が込められています。
少しずつではありますが、活動に共感してくださった方々がSNS上で商品を購入してくださったり、オファーをいただいたアパレルショップの店頭に服を置かせていただいたりしています〉
商談のほとんどがオンライン上のやり取りで済むため、鵜戸たま子はカメラ付きのパソコンと業務用ミシンが完備された新居で作業をするのが常だった。
プライベートではちょうど結婚式が終わった頃で、まだ引っ越しの片づけが中途半端に残っている。
今は体調にも恵まれているのだから、もっともっと頑張らなければ。
やっと軌道に乗り始めた仕事の波に、彼女は一気に飛び乗るつもりでいた。
ある女性に呼び止められるまでは。
〈実際にアトピーの方と会ってお話しするのは、それが初めてでした。
念のためサンプル品を持って行ったのですが、その方は服に興味を示されるどころか、私がどんな服をつくっているのかも、ご存じでないようでした。
きっと、何か尋ねたいことが他にあったのでしょう。
それなのに私は、アトピーという理由だけで、じぶんのつくった服を彼女に勧めようと考えました。
純粋に、良いことを教えてあげたいという気持ちで。
こんな言い方をすると、よほど自分のつくった服に自信があると思われるかもしれません。
ですが、実際は自信の無さによる不安が、そういった行動に結びついたのだと思います。
よかれと思ってやったことが余計なお節介にならないためにも、聞く耳を持つ必要があると教わりました。
そこで当ブランドは、当事者の方により関心を持ち、理解を深めるための新しい方法に挑戦することにいたしました。
アトピーという枠に皆さんを当てはめるのではなく、一人一人の個体差を考慮しながら商品開発に取り組んでいく方針です。
何かお困りのことがありましたら、お気軽にご意見をお寄せください。
(ダイレクトメッセージにて随時、受けつけております。)
皆さまと共に創りあげていく『Tel que tu es』を、今後ともぜひよろしくお願いいたします〉
宮崎千穂は布団のうえで正座をして、会社に一報を入れた。
体調が優れないので今日は休みます。
本当は、仕事くらい行けたはずだ。
いつもより早く起きて、会社の最寄り駅を迂回さえすれば。
課長からは「体調管理も仕事のうち」という至極まっとうな返事をされた。
こんな休み方をするのは、人生で初めてだった。
いや、二回目かもしれない。
とにかく、罪悪感で休むに休めない。
誰でもいいから、大丈夫だ、と一言いって欲しかった。
「なに、寒いの。真冬みたいな格好してんじゃん」
現れた瞬間から、日南洋は笑っていた。
ふらふらと陽気を漂わせて、出口のある方向を軽く指さす。
弟のプルオーバーパーカーを借りて着ていた宮崎千穂は、なぜかフードのひもをぎゅっと絞ってかぶっていた。
髪の毛が隙間からはみ出しており、まるで髭の生えた小人のようだ。
新しいフィルムを買いたいけど種類がたくさんあって混乱している。
そう彼に連絡したところ、平日の午後二時だというのに「今から買いに行くぞ」と返事があった。
たまたま有給で休みだったらしい。
渋谷駅の改札口を出るまで、宮崎千穂はそわそわと辺りを見渡した。
いつになく落ち着かない様子の彼女を、日南洋はさりげなく観察する。
「そういえば俺、冬服もってないわ。写真専門店に行く前に、ちょっとだけ買い物していい」
宮崎千穂はうなずいた。
なんならフィルム選びは、また今度でいいと告げる。
本当は、フィルムくらい一人でも買えるはずだ。
スマホのグーグルに問いかければ、いつでも答えが得られる時代なのだから。
思いつきでパルコに飛び込んだ二人は、メンズファッションのショップをいくつか渡り歩く。
ボーターのカットソーにゆったりとしたシルエットのパンツを履いてきていた日南洋は、トップスを何着か手に取り、鏡の前で合わせてみる。
バブアーのジャケットかわいい、とつぶやきながら、結局、彼は飴色のローゲージニットを購入した。
金銭面を考慮して。
その様子を少し離れた場所から眺めていた宮崎千穂は、なぜかうらやましい気持ちになった。
新しい服が欲しいわけではない。
ただ、彼のような雰囲気を身にまとえたら、どんなにいいだろうと思った。
「そうだな。とりあえず、カフェにでも入ろうか」
心なしか疲れた表情の宮崎千穂を気遣い、日南洋はそう言った。
服を選ぶときもそうだが、彼は一度決めたら行動に移すのが早い。
どこにでもあるようなコーヒーショップに宮崎千穂を連れて、アイスカフェオレとルイボスティーを注文する。
それとチーズケーキも。
「ホットにする」と彼は訊ねる。
「ううん、アイスでいい」と言って、彼女はフードのひもを少し緩めた。
おそらく日南洋は気がついている。
その日、宮崎千穂がついに仕事をサボったことも、並々ならぬ問題を抱えて連絡を寄こしてきたことも。
きっと家族だったら、矢継ぎ早に訊いてくるにちがいない。
どうして仕事を休んだのか。
体調が悪いのでなければ、いったい何があったのか。
明日はどうするつもりなのか。
わからない。
自分でもどうすればいいのかわからないから、こんなにも混乱しているというのに。
訊かれる前に何か話さなければと思い、宮崎千穂はひざのうえでおしぼりをねじり始める。
ぐるぐる。
「…あのさ、日南くんが最初の頃にやってた、自撮りのレクチャー。あれ、すごくおもしろかった」
「ああ、あれね」
オンライン上で撮り方を教える際に、モデルになってくれる被写体がいないので、じぶんで自分を撮るしかなかったと彼は言う。
そのときの必死さが、のんきに視聴している側にとってはたまらなくおかしかったのだ。
「あのときは、ほとんど一人でやってるようなもんだったからね。
自分でも、何してんだろう俺、って思ってたよ」
殺風景なアパートの一室で自分の顔をさんざん撮り終えたあと、使い切ったフィルムをカメラの本体から取り出して、彼は震える声で言った。
これ一個で、だいたい二千円くらいかな。
デジタルカメラと違って撮り直しがきかないので、皆さんは一枚一枚を大切に撮ってくださいね。
「あのさ、…どうしてワークショップを始めようと思ったの」
とつぜんの問いに、日南洋は答えに窮した。
しばらく考え込んだ後で「フィルムカメラが好きだから」と首を傾げる。
「なんていうか、求める人がいなくなると、その物自体が消えてなくなっちゃう恐れがあるんだよね」
実はワークショップをひらくのが今回で二回目になると、彼は打ち明けた。
最初は、まるで希少な動物を保護するような、ちょっとした使命感で始めたことだった。
しかし、何かを流行らせようとしたり、多くの人の支持を得ようとしたりする際に、人はある手段に陥りやすい。
それは〈共通の敵〉をつくることだ。
当時、大学生だった日南洋はデジタルカメラとの差別化を図るために、何かしら理由をつけて「フィルムカメラの方が優れている」ということを安易に発信し続けた。
その結果、彼のSNSはあっという間に炎上した。
へらへらと笑っている日南洋を見て、宮崎千穂はあぜんとした。
世の中からバッシングを受けても平気なのだろうか、この人は。
「ど、どうして本業にしないの。好きなら仕事にすればいいじゃん」
さっきから質問しかしていない。
これでは、まるで尋問だ。
訊き過ぎて嫌がられたらどうしよう。
でも、話すことがなくなったときに変な間が空いてしまうのも怖い。
居たたまれなくなった宮崎千穂は、急に席を立ち上がり「そういえば、お水が…」と言い出した。
あわててセルフの給水コーナーへ駆け出そうとする彼女を、日南洋が呼び止める。
「ありがとう。でも気を使わなくていいよ、会社の飲み会じゃないんだし」
ちょうど後ろから店員がドリンクとデザートを運んできたところだった。
余計なお金を使わないよう我慢していた宮崎千穂に、半分こしよう、と言って彼はフォークを差し出した。
「そうだね、仕事にしようと考えたことはあるよ。
でも、これはあくまでも〈遊び〉だからね。
生徒のみんなに楽しんでもらえれば、それでいいかな」
仕事にしようとすると、食べていくためにどうしても頑張ってしまう恐れがある。
頑張っていることが伝わってしまうと、周りの人たちはなんとなく楽しめなくなる。
もしくは、運営がうまくいかなくなったときに周りの人たちを利用し出すかもしれない。
だから、仕事とワークショップを両立させていく考えは今のところ変わらないと、彼は丁寧に答えた。
二人はよく冷えたチーズケーキの三角を、それぞれフォークで切り崩していく。
「なんかあんまりおいしくない」と言い出したのは、日南洋の方だった。
思わず鼻の奥で笑ってしまったが、宮崎千穂はすぐに口を手で押さえる。
そんなことを言っていいのだろうか。
「おいしくないって言うのは、悪いことじゃないよ」
と彼はさりげなく言った。
「大事なのは言い方だよね」
店内にはニック・ドレイクの「Place To Be」が流れている。
二人の間にはしばらく沈黙が続いたが、なぜか心地よかった。
日南洋はふんふんとハミングをしながら、時折スマホに目を通す。
宮崎千穂も氷で薄まったルイボスティーをストローで吸い上げながら、ぼうっと天井を眺めていた。
なんだ、話さない時間があってもいいんだ。
「いいよ、俺が払うから」
そう言って、日南洋はさっさとカードで会計を済ませてしまった。
いつまでも財布の中に指を突っ込んで、小銭をつまみ出そうとする宮崎千穂に「いい、いい」と彼は笑って言った。
「帰りの電車賃にとっておきなよ」
店の外へ出ると、すでに日が暮れ始めていた。
普段なら、まだやり終えていない仕事の多さに一分一秒がパンクしそうな頃だ。
辺りには学校帰りの学生が多く見られる。
彼らは制服のかたちを好きなように崩して、スマホのカメラと少しのお金で自由に遊んでいた。
「日南くん、訊いてもいい」
「うん」
「世の中の人からバッシングを受けても、そんなふうに平気でいられるのはどうして」
日南洋はまたへらへらと笑い出した。
どこへ向かって歩いているのかわからないが、彼の歩き方を真似して宮崎千穂もついていく。
「平気だったかなあ。まあ、でもこんなもんか、俺は」
自分もそうなりたい、と宮崎千穂は切に思った。
ついこのあいだまでは鵜戸たま子のようになりたかったが、今はちがう。
彼のように精神的にタフでいられる薬があるなら、いくら払ってでも買いたい。
「ああ、そうだ」
と日南洋は口をひらいた。
「第二次世界大戦中にドイツで起きたホロコーストって覚えてる」
とつぜんの問いに、宮崎千穂は空白にさらされる。
「…ユダヤ人の大量虐殺」
一九三三年にナチス政権が成立した頃、ドイツ国内にはユダヤ人を排斥しようとする思想が一気に強まった。
共通の敵をつくることで国民の心を一つにコントロールしようとする政策だ。
「そう。あのときナチスの強制収容所から生きて還った女性たちのなかには、心に深い傷を負った人もいれば、そうじゃない人もいた」
「…そうじゃない人なんているの」
「そうじゃない人を対象に調査が行われたんだよ。
あれほど過酷な経験をしたにも関わらず、どうして彼女たちは前向きに生きてこられたのか」
確か、三つの共通点があったはずだ、と彼は言う。
一つは、じぶんの置かれている状況が〈わかっている〉こと。
もう一つは、どんなことにも〈意味がある〉と思えること。
「当時の俺はまだ学生だったからよかったけど、実際にフィルムカメラを生業にしていたら精神的にまいっていただろうね。
とつぜん明日の飯代が消えるかもしれないんだから。
でも、あのタイミングで知ることができたから、俺は結局、就職することにしたんだ。
どっちが正解っていうわけじゃないけど、夢と現実のバランスを取るために必要な経験だったかな」
宮崎千穂はじぶんの未来を言い当てられているような、デリケートな共感を覚えた。
差し迫った問題の答案用紙が目の前に透けて見える。
「…それで、最後の一つは」
「なんだったかな、最後の一つ」
JRの原宿駅にたどり着いてもなお、日南洋はそれを思い出せずにいた。
やがて諦めるような雰囲気になり、宮崎千穂はなんとなく別れを悟った。
急に訪ねてきたというのに、彼は嫌な顔ひとつせず優しくしてくれた。
こちらの体調を気遣い、好みを尊重してくれた。
見た目や年齢、性別で差別することなく、他のみんなと同じように接してくれたのだ。
そう自覚した彼女は、素直に「ごちそうさまです」という気持ちを受け入れた。
頭を垂れたまま、フードの内側で急に泣き出したくなるのをこらえて。
来月になれば、また悪夢の忘年会が始まる。
「もちろん幹事はあんただからね」
と先輩は命令した。
「新しいお店探しておいてよ、このあいだの肉クソまずかったから。あとカラオケの準備も忘れずに」
ただでさえ人手が足りていないというのに業務時間外で店の下見までしなきゃいけないなんて、この人は鬼畜だろうか。
それに食べ物の好き嫌いが多い団体客を受け入れてくれる飲食店など、そう簡単には見つからない。
前回と同じ焼肉屋とカラオケ店ではダメなのだろうか、と宮崎千穂は思った。
何か言いたげな表情の彼女に向かって、先輩は面倒くさそうにため息をつく。
「あー、はいはい。電車賃だったらあとで払ってあげるから」
そういうことではない。
お金がちゃんと支払われるかどうかではなく、人としての敬意が払われているかどうかの問題だ。
先輩の人を見下すような態度は今に始まったことではなかったが、なぜかこのとき宮崎千穂は、まるで死期を悟った猫のように、そっとデスクを離れた。
ちょうど虫の居所が悪かったのだろうか。
女子トイレの個室に閉じこもった彼女は、か細く悲鳴をあげて泣いた。
人事課の中野さんにばれないように、音消しセンサーを長押ししながら。
どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのだろう。
もし、あのとき肌がきれいになった理由をちゃんと説明していれば、先輩は満足してくれただろうか。
彼氏がいない事実をちゃんと打ち明けていれば、こんなにも嫌われなかったはずだ。
秘密を持つことがいけないのだとしたら、話したくないと思う私は裏切り者だ。
彼女に赦してもらえない限り、おそらくこの罪悪感と疎外感はずっと続く。
今までどれだけ良い子にして、まじめに働いてきたとしても。
罰として、これからもずっと先輩から嫌われ続けるのだ。
課長はいつも肝心なときにいないし、周りの人たちも他部署の事など気にかけていない。
結局、会社の人間関係なんてただの利害関係に過ぎない。
仕事さえ回れば社員の一人や二人いなくなったって、どうってことないのだ。
だったら、もう辞めよう。
どうせ誰からも必要とされていないなら、自分なんていなくなった方がマシだ。
お金がないなら注射薬も、肌が元に戻るならワークショップも。
楽しみがないなら、生きることも。
ぜんぶ、やめてしまおう。
「…日南くんに借りてた〈現場監督〉だけど、返そうと思って」
宮崎千穂はデイパックの中からオレンジ色のフィルムカメラを取り出した。
新品のフィルムを買おうとしたのは、使い切ったフィルムと差し替えて、完璧な状態で返そうと考えていたからだ。
「どうして。新しいフィルムカメラでも買うの」
あいかわらず、どこへ向かって走っているのかわからない。
車窓を流れていく逆光の街並みが、宮崎千穂には走馬灯のように見えた。
建物ばかりが視界に入ってきて、向こう側の風景がちっとも見えない。
「…そうかもしれない」と彼女は言った。
また会うような素振りをして、そっと連絡を絶つ方が易しい。
SNSを退会すれば、人とのつながりなんて、あっという間に切れてしまうのだから。
「新しく買うくらいだったら、それあげるよ」
使い慣れたやつの方がいいでしょ、と日南洋は言った。
見た目はごつくて、頑丈なおもちゃのようだが、側面のネームプレートに現場監督者の氏名が生々しく手書きされている。
中古品として売られる前は、おそらく持ち主が水筒のように首からぶら下げて、工事現場の撮影に使用していたのだろう。
宮崎千穂は、できれば持ち物をきちんと整理してから姿を消したいと思った。
しかし、もはやこれはただのフィルムカメラではない。
彼の優しさそのものだ。
これを、どこか安全な場所に移さないと、明日もあさってもずるずると生きてしまいそうだった。
いや、それでいいじゃないか、と一瞬、吹っ切れそうになる。
が、またすぐに駄目になる。
先輩がいないと仕事が成り立たない職場で、彼女から極端に嫌われている限り、もう会社へは行けない。
会社に行けない限り、実家にも居場所がない。
他人の気持ちや体裁ばかりがぐるぐると気になって、彼女はほとんど思考ができなくなっていた。
そのあいだ、日南洋は電車の手すりをしっかりとつかんで沈黙を守り続けた。
途中でなんども声をかけようか迷ったが、宮崎千穂の抱えている問題を無理に訊き出すようなことはしなかった。
そんなことをしても余計に混乱させるだけだとわかっていたからだ。
「あれ、まだフィルム使い切ってないじゃん」
宮崎千穂が肩をびくっとすくめると、彼は、驚かせてごめん、と笑った。
明日のことを考えていた。
明日もし目が覚めたら、また振り出しに戻っている。
会社へ行くのか、行かないのか。
行ったとしても、また人に迷惑をかけてしまう。
さいきん特にもの覚えが悪くなり、簡単な計算でさえもミスを連発するようになった。
それで余計に先輩を怒らせて、また次の日、仕事へ行くのが怖くなる。
でも、もし行かない選択をしたとしても、もうそこに日南洋という猶予は残されていない。
「あと一枚、残ってるけど。どうする?」
時間を止めたい、と宮崎千穂は思った。
今この瞬間をフィルムのなかに移して、それで終わりにしたい。
ぜんぶ。
「まだ四時だし、どっか行く?」
彼女が震えるように小さくうなずくと、日南洋は決着のついた表情を浮かべる。
ちょうどそのとき扉が開き、二人はタイミングよく駅のホームへ飛び降りた。
新宿駅の東南口改札を駆け抜けて、閉園間際の新宿御苑にすべり込む。
色彩の尽きた並木道をザクザクと踏みならしながら、彼らは終わりを迎えるのにふさわしい場所を探し求めた。
園内はほとんど人がおらず、みずみずしい香りがそこらじゅうに噴霧している。
茜色の影が風に揺られて、少し肌寒いくらいだった。
まるく刈り込まれた庭木の先に、見頃を迎えた大菊花壇が展示されている。
日本庭園まで来ると、宮崎千穂は立ち止まってなんどもファインダーをのぞき込んだ。
やがて一軒の茶室に焦点を絞った彼女は、ある記憶の断片に閃光を焚きつけた。
「あちっ!」
男性講師が叫んだとき、そこにいた女子生徒たちの視線が一斉に凍りついた。
畳のうえに転がる柄杓と、熱湯のこぼれたあと。
彼の手を振り払った際に、やけどを負わせてしまったのは宮崎千穂だった。
当時、中学一年生の彼女は、
「受験で有利になるから部活はやっておいた方がいい」
と上級生から勧められ、タダでお茶菓子が食べられるなら、という甘い気持ちで茶道部に所属した。
部内は全体的におとなしい雰囲気の女子生徒が多く、そのなかでも特に宮崎千穂はまじめだと評価された。
それでいて、根がやさしい。
たとえば人は何か手に負えない雑事を抱えたとき、こぞって彼女の元へ頼みに行ったし、彼女の方も毎回それらを笑顔で引き受けるのだった。
ある日、宮崎千穂が一人で大量の雑事を抱え込んでいると、とつぜん背後から声をかけられた。
ハッとして振り向くと、そこには着物姿の講師がニコニコとして立っていた。
「まったく、宮崎はしょうがないなあ」
そう言って彼は手を貸すフリをして、なぜか彼女の手を握った。
冗談かと思われたが、あくる日もあくる日も、その手を離してもらえることはなかった。
しだいに制服の上から、わき腹をつねられたり、太ももをなでられたりするうちに、宮崎千穂は感覚的な麻痺を起こしていった。
自分がいったい何をされているのか理解できなかった。
本能的に恐怖を感じて身をよじらせるが、やめて欲しいことをわかってもらえるどころか、それすらも講師は愉しんでいるようだった。
その様子をちらりと見て、なんとなく気づいているはずの部員たちは、なぜか稽古に非常に熱心だった。
まるで何も起きていないかのように、あるいは、その雑事は私たちの手に負えないといった感じだった。
もしかすると、このような状況が異常だと感じる自分の方こそ異常なのかもしれなかった。
無意識のたがが外れたとき、宮崎千穂はだれかが講師の手を振り払うのを茶室の片隅から目撃した。
なんてことをするんだ、と彼女は視線を凍りつかせたが、その裏切り者は紛れもなく自分自身だった。
呆然とした宮崎千穂は、とっさに両手でその顔を覆った。
指の隙間から、ごめんなさい、と声を漏らすが、目の前の講師はあいかわらずニコニコとしている。
「しょうがない、しょうがない。宮崎はそういう病気だもんなあ」
そう言って彼は、宮崎千穂の手首を粗雑につかみ、藁のようにパサパサとした手の甲を周囲に見せびらかした。
「みんな、どうか赦してやってくれ。見ての通り、彼女はこういう病気なんだ」
以来、講師は二度と宮崎千穂のからだに触れることはなかった。
というのも、彼女自身がアトピーを理由に部活を休むようになったからだ。
そうすることが今後の進路に影響するかもしれないと思うと、育ててくれた両親に申し訳なかった。
だが、その後も茶道部の部長はなんども彼女を訪ねてきた。
「ねえ、宮崎さん。今週は茶道室に顔を出せそうかしら。
講師の先生から頼まれているのよ。あなたを部活に誘っておいて欲しいって」
彼女は部長の務めをまじめに成し遂げるつもりで、そう声をかけた。
ずっと罪悪感に苛まれていた宮崎千穂は、じぶんの失態を赦してもらえたのだと思い、少しだけ気分が明るくなった。
同時に、内申書の評価によろこぶ両親の顔が脳裏に浮かびあがった。
ところが、放課後に茶道室へ踏み入ると、宮崎千穂はじわじわと嫌な汗をかき始めた。
じぶんを取り巻く状況が更に悪化していたからだ。
他の部員たちは、彼女の無作法を忌諱するようなまなざしを向けた。
どうしてここに来ちゃったの、といった感じだ。
その中央奥では、右手に包帯を巻いた講師がニコニコとして立っている。
「なんだ、宮崎。病気で休むんじゃなかったのか。
まあいい。しょうがないから、今日はゆっくりしていきなさい」
さあ、みんな。稽古を始めましょう、と言って彼は壁のような背中を向けた。
たぶん、笑ってなんかいない。
ニコニコとしているのは、怒っているのを隠すためだ。
事故でなかったとするなら、やはりあれは自分の失態だ。
自分のせいで怒らせてしまったのだ、みんなを。
どうすればいいのかわからず、宮崎千穂は孤立した。
誘われたから来たというのに、来たら拒絶されてしまう。
彼らの矛盾した態度が、彼女をひどく混乱させた。
彼女の思考ごとその場に縛りつけて、身動きできなくさせた。
胸元からぐっと込み上げてくる寂寥感に目をぎゅっとつむる。
ひらくと、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
嫌な汗に混じって、宮崎千穂の肌をひりひりと刺激する。
気づけば、今までにないほどアトピーの症状が悪化していた。
体調が落ち着くまでのあいだ、宮崎千穂はしばらく学校を休むことにした。
あいかわらず両親は喫茶店の仕事で忙しかった。
彼女は独りの心細さから、台所仕事をする祖母の隣にぴったりとくっついて過ごした。
やがて、部活での出来事を少しずつ話せるようになると、祖母は表情を変えずに忙しそうな手を止めた。
まだ洗い終えてない茶碗をそのままにして、戸棚から餡麩三喜羅という土産物のまんじゅうを取り出し、温かいお茶を淹れてくれた。
「千穂、おまえはまじめでやさしい子だよ。
困っている人に笑顔で手を差し伸べられるのは、良いことだ。
そんなふうに育ってくれて、ばあちゃんは本当に嬉しいよ。
ただね、そういったおまえのやさしさにつけ込むような人が世の中にはいるのさ。
そのお茶の先生は、そうだねえ、おまえが悪い子だから身体をさわったんじゃないと思うよ。
もともと心に何か鬱憤を抱えていて、ぶつけやすそうな子に八つ当たりしたのかもしれん。
人の怒りっていうのは、強い者から弱い者に移りやすいものなのさ。
だから千穂、おまえはもうこれ以上じぶんを責めなくていい。
わざとじゃないけど、熱い湯をかけてしまったことに対して、ごめんなさいと言えたなら、もうそれで十分だ。
受験なんて気にしなくていい。
部活に来いと言われても、おまえが行きたくないなら行かなくてもいい。
行きたくないのに、ずるずると人間関係に引っぱられるのは、愛情に飢えている証拠さ。
なあ、千穂。
ばあちゃんはね、おまえが生きていてくれさえすればそれでいいんだよ。
心が痛いのも、肌が痒いのも、なかなか周りから理解されにくいかもしれないねえ。
けれども、頼むから他人のものさしで自分の人生を計って、すべてを投げ出すようなことはしないでおくれ。
人に好かれようとしなくても、何か一つ自分の好きなことを見つけてごらん。
コツコツと続けているうちに、きっと自分のことが好きになる。
さあ、お食べなさい。
おまえの大好きなこし餡のまんじゅうだよ」
このとき宮崎千穂は、祖母のなかに祖母ではない者を見た気がした。
誰なのかと問われれば、それは答えようがない。
ただ、その瞬間が言葉に尽くせないほど尊くて、甘かったことを覚えている。
それ以来、彼女はぼちぼちと学校に通い始めるようになった。
そして、部活の代わりに喫茶店の手伝いをした。
カウンターの拭き掃除や、テーブルに置かれた砂糖入れの注ぎ足し。
とりわけ角食パンの在庫は念入りにチェックした。
両親のつくってくれるサンドイッチが小さい頃から彼女の好物だったからだ。
「ああ、やっと思い出した」
しだれ桜の樹の下で、日南洋がそうつぶやいた。
枝の先端を見上げながら、背後で音もなく泣いている宮崎千穂に話しかける。
「最後の一つは〈なんとかなる〉。
これまでにも人生で辛いことは何度かあったけど、それを乗り越えてきたから今がある。
だから、今回も同じように乗り越えられるはずだって、自分を信じること。
そういや、桜って冬の寒さに耐えきれそうになくて、ああ、もう駄目だ、っていうときに、すごくきれいな花を咲かせるんだって」
振り返った拍子に、彼はぎょっとして身構えた。
え、なに感動してんの。
宮崎千穂は鼻をすすって笑った。
ぬれた頬を手の腹でぬぐい、頭にかぶっていたフードを外す。
夕風が吹いていて気持ちがよかった。
髪も顔もぐしゃぐしゃだったが、もうあまり人からどう見られるかを気にしていなかった。
どうやら嫌われることも自分の一部らしい。
ずっと良い子でいなきゃいけないと思っていたけど、まじめでない自分がこの身体に内在していてもいいのだ。
一部だけを拒否して、自分を愛することなんて絶対にできない。
注射薬でアトピーの症状を抑えることはできても、過去のトラウマまできれいに無くすことはできないのだ。
なぜなら、あれは人生のなかで最も深い愛情を知るために必要なできごとだったのだから。
考え方を少し変えてみよう、と宮崎千穂は思った。
会社の先輩が自分のことを良く思っていなくても、彼女の怒りは彼女自身の問題だ。
それをどうにかしようと思って彼女の機嫌を取る必要はないし、仕事中は割り切って接すればいい。
友達でもなんでもないのだから。
そう思ったとき、宮崎千穂は先輩とのあいだにだらりと垂れさがっていた目に見えないへその緒が、ぶつりと切れたように感じた。
また、半年が経過したところで一度、注射薬を中止してみようとも考えた。
たとえ肌の状態が元に戻ったとしても、人から嫌われることを過度に恐れる自分にはもう戻らないはずだ。
すべての人に好かれようとしなくていい。
本当に理解し合えるわずかな人たちとの交友関係を大切にしていこうと思った。
閉園を報せるアナウンスが流れると、日南洋は「あーあ、終わっちゃったね」と言って、のんびりと歩き出した。
使い切った一本のフィルムをカメラの本体から取り出すと、そこにはセピア色の人生が巻き取られている。
続きがあるとしたら、いったいどんな景色が見られるだろう。
宮崎千穂は清々しい気持ちで前を向いた。
フィルムカメラが好きだと思った。
なんともいえない、この光の具合が。
どこか懐かしくて、甘い香りがする。
「日南くん、このフィルムカメラ使い続けてもいいかな」
「いいよ。次はどんな写真を撮るの」
「結婚式用のドレスを着て、おばあちゃんと一緒に並んで撮るの」
「へえ、いいじゃん。何色のドレスなの」
そうだなあ、と言って宮崎千穂はことばの可能性をひろく見渡す。
濃紺を垂らした水中のような空に、ぽつりと輝く一番星を見つけた。
「宇宙の色かな」
おわり