7章
お客さんが来てから、もう10分以上は経っている。
宮崎千穂は様子が気になって給湯室を確認しに行く。
すると、そこにはまだお茶を淹れ終えていない別府さんと、なぜか田口さんの姿もあった。
たった今、手を洗い終わったという具合に、彼はのそのそと給湯室から出ていく。
「どうしたの」という宮崎千穂の問いに、別府さんはしどろもどろになるだけで何も言わなかった。
「田口さんに何か言われたなら、気にしなくていいよ。お茶出し、すぐにできそう」
えっと…、と別府さんは言葉を詰まらせる。
「もしかして淹れ方がわからないの。まあいいや。急ぐから、それ貸して」
教えるよりもまず、お客さんのお茶出しを優先しようと考えた宮崎千穂は、茶葉の入った円筒の缶を預かろうとする。
が、別府さんの手からすべり落ちたそれは、甲高い音を立てて床に転がった。
幸い、中の茶葉は飛び出なかったものの、宮崎千穂は思いの外、心を乱された。
一瞬、別府さんに手を払われたような気がしたのだ。
なんだろう、また反発されたのかな。
せっかく手伝ってあげているのに、という思いがもやもやと込み上げ、宮崎千穂はそれ以上、喋るまいと決め込んだ。
彼女が急須にポットの湯を注いでいる間も、別府さんはただじっと立っているだけだった。
気を利かせてお盆を用意したり、湯呑の下に敷く茶たくを並べたりしない。
6月に配属が決まってから、もう4ヶ月が経とうとしている。
お茶出しは新人の女性社員がいちばん最初に覚える仕事だし、今までに教わる機会なんていくらでもあったはずだ。
「せめて今のうちにメモを取っておいたら」と言わずにいられない宮崎千穂の声は、じぶんでも驚くほど低く、不安定だった。
怒りで声が震えるなんて、どうかしている。
あ、…えっと…、と別府さんがくり返しているうちに、宮崎千穂はさっさとお盆に湯呑と茶たくを乗せて、給湯室を出ていった。
7月上旬に予定されていた歓迎会および納涼会(という名のカラオケ大会)は、急きょ会社近くの焼肉店で執り行われた。
カラオケがないのはまずいけど、主役がいないのはもっとまずいという課長の判断で、今回は別府さんのために特別な配慮がなされたのだった。
おだて上手な主任によってまあるく転がされた部長も「まあ、苦手なことは無理しなくていい」という見解に至った。
ちなみにですけど、新入社員に対してきつい言い方をしていませんよね、と人事課の中野さんは経理課の女性社員に訊ねてまわった。
先輩と宮崎千穂は、この時点ではまだルールを破っていなかった。
さすがの別府さんも、ぎょっとした表情で事の成り行きを眺めていた。
単純に苦手なカラオケを避けたかっただけのことが、まさかこのような事態になるとは思ってもみなかったはずだ。
これを機に、別府さんに対する先輩の態度はガラリと変わった。
「これ、配っておいてよ」
そう言って先輩は、お客さんが手土産に持ってきた菓子折りを別府さんのデスク横にすべらせた。
それ以上は何も言わなかったが、別府さんの方は何か訊きたいことがあるらしく、恐る恐る先輩の背後へと近づく。
「そうやって後ろで待たれると、こっちが困るんだけど。
え、なに、訊きたいことがあるならさっさと訊けば」
…も、申し訳ありません、と別府さんは縮こまる。
「だからそのガチガチの敬語やめてって何回言ったらわかるのよ!
あんたが気を使うと、こっちも気を使うの!」
とっさに謝ろうとするが、別部さんは言葉を詰まらせて、あっ、あっと溺れそうになる。
「申し訳ありません」がダメなら、「すみません」と言えばいいのだろうか。
それとも、「すみません」も先輩のなかではガチガチの敬語に値するのだろうか。
「今いいっすかー、みたいな感じでサクッと声かけられないわけ!」
…い、今いいですか。
「ちがう! 今いいっすかー!」
どうやら先輩にとって思い通りの人間になるまで、別府さんは許してもらえないようだった。
主任が産休に入ってしまった以上、経理課で今いちばん頼りになる先輩の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
課長はというと、もう一時間以上も部長の苦労話をありがたそうに聴いている。
うまく仲裁に入れるタイプでもない宮崎千穂は、じぶんの仕事に集中する一方で、非力な別府さんを不憫に思った。
この4ヶ月間で彼女はすっかり変わってしまった。
まだ研修中の頃に更衣室で見かけた孤高の新入社員は見る影もない。
あのときの彼女はまだ世の中の理不尽さをよくわかっていなかったのだ。
だからこそ「なんかおかしい」と感じる事にはとことん生意気で、そういうところが、なんとなく青島なぎさに似ていた。
宮崎千穂は、先程のじぶんの態度をすまなく感じて、今更ながら別府さんにやさしくしようと思った。
「あの、こういうのはね、役職のえらい順に配るんだよ」
先輩による調教の後でこっそりと声をかけるが、別府さんは理解しているのかしていないのか、呼吸をぜえぜえと抑えて、ふたたび幽霊のようにふらあっと歩き出す。
なにやら体力をひどく消耗しているようだった。
あの演出まじうざい、と平気でぼやく先輩が一人浮いてしまわないよう、宮崎千穂はすぐ隣でへらへらと笑った。
するとオフィスの向こう側からどぎつい声が飛んでくる。
「ちょっと、わたし抹茶味が嫌いってこの間も言ったよね!」
人事課の中野さんだ。
お昼の時間になると、宮崎千穂は給湯室にある電子レンジで野菜たっぷりの中華丼を温め、休憩室へ移動した。
じぶんでお弁当をつくる余裕がなく、最近は専らインスタントや冷凍食品に頼っている。
類は友を呼ぶのか、電子レンジで解凍したカルボナーラを持って、先輩が後からやってきた。
先輩が急に距離を縮めてきたのは、やはり別府さんという共通の問題を抱えているからだった。
でなければ、元々タイプの異なる宮崎千穂と結託する必要もなかったはずだ。
それほど新人の持つドライな異質さは、利害関係のなかで上手に衝突を避けながら生きてきた年輩者とって受け入れがたい存在だった。
宮崎千穂は、なるべく〈あなたは悪くない〉というスタンスを保ちながら先輩の愚痴を聴き入れた。
それがどんなに個人の性格を非難する言葉だったとしても、
「いやあ、ほんとに困っちゃいますよねえ、最近の若い子ときたら…!」
なんて相づちを打ちながら、自らつくり出した笑いの中に逃げ込む。
一方、実務では新人の不足分をこっそりと補うことで、彼女はますます〈良い後輩〉になり上がっていった。
「そういえば、このあいだ腕とか太ももがすごい赤くなってさあ」
どうやら先輩は、別府さんの話題に飽きてきたようだ。
「近所の皮膚科に行ったんだよねえ。そしたら、サプリメントの飲み過ぎだって」
宮崎千穂はとろみのついた野菜をスプーンですくったまま、静止して顔を上げた。
何のサプリメントかは知らないが、先輩曰く、海外の通販サイトで取り寄せたものだそうだ。
「なんか国内でちゃんと承認されてない商品だと、体に異常が出ても補償とかが出ないらしい。
余計な医療費もかかるし、マジ金欠だわ」
ネイルの剥げた爪を弾きながら鼻で笑う先輩を見て、宮崎千穂は我が身を振り返った。
「マジですか」と言って、とりあえず一緒になって笑う。
「しかもさあ、聞いてよ。
こないだマッチングアプリで出会った男がほんとクソみたいなやつで。
そいつの話がクソつまんなかったから、もう二度と会うことはないって言ってやったの」
はあ。
「そしたら後で口座番号と金額をメールで送ってきやがって。
こないだの食事代をここに振り込んでください、だってさ」
……。
「きっちり一円単位まで割り勘してあって、マジきもかったわ。どんだけ器の小さい男なんだよ」
…それで、そのあと先輩はどうしたんですか。
「ああ、振り込んだよ。
一応、相手に顔を見られてるし、どこで何を言いふらされるか、わかんないじゃん」
世の中にはそんな人もいるのだ、と宮崎千穂は猛省した。
カメラのワークショップで出会った人たちが良心的な性格でよかったと、心の底から思う。
あのさあ、と先輩は続けざまに訊く。
抑えきれない下心を声に滲ませて、割り箸でくちゃくちゃとカルボナーラをこねている。
「なんか最近、あんた肌きれいになったよねえ」
何か特別なことでもしてんの、と訊かれ、宮崎千穂はとっさに口元を手で覆った。
飛び出た米粒を指で押し戻し、しばらく咀嚼に専念する。
何か答えるまで尋問は途切れそうになかった。
先輩の威圧感から目を逸らしたまま、宮崎千穂は首を小さく傾げる。
「もしかしてさあ、男でもできた、とか」
そう言って先輩は、細く尖った鉛筆のような黒目で宮崎千穂をぐりぐりと疑った。
相手の男性はいくつなの。
どこに勤めていて、どんなふうに知り合ったの。
宮崎千穂は訊かれたことに対して何も答えることができなかった。
自分より一回りも年上の女性が明らかに焦っているのを目の当たりにして、すっかり怖気づいてしまったのだ。
お願いだから落ち着いて欲しいと思ったが、先輩のじめじめとした黒さは止まらなかった。
「ねえ、どうして隠す必要があるの。それとも、なに。人に言えないような相手なの」
みるみるうちに先輩の表情が歪んでいく。
彼女の身に何が起きているのかはわからないが、今ここで「ちがう」と答えてもぜったいに信じてもらえないと宮崎千穂は感じた。
それよりも、早急に離れた方がいい。
あまりにも距離が近すぎる。
じぶんは別府さんと違って〈良い後輩〉をやっているなんて、ただの思い上がりだった。
実際は、休憩時間を削って先輩の愚痴を聴き、罪悪感から逃れたくて新人のフォローをする、都合の〈良い後輩〉に過ぎなかった。
それも、ぜんぶ自分の身を守るためだ。
自分より強い立場の人に「本当は嫌だ」と言えないもどかしさやイライラを、自分より弱い立場の別府さんにぶつけていたのだ。
先輩との関係性で立場が危うくなった今、宮崎千穂は本能的に「お金がない」と感じた。
今までのように仕事を続けられなくなったら、当然ながら、注射薬も手放さなければならない。
投薬を中止して肌が元の状態に戻ったとき、果たして周りの人たちはどう思うだろう。
ワークショップの仲間たちは、がっかりするだろうか。
裏切られたと思って自分の元から去っていってしまうかもしれない。
もし本当にそうなったら、どうしよう。
これから、どうやって生きていけばいいのだろう。
〈どうして結婚式なんかに呼んだの〉
だれもいない会社の更衣室で、宮崎千穂は制服のまましゃがみ込み、SNSのメッセージに短く文を打った。
伸びきった爪がスマホの画面にばちばちと当たる。
なかなか返事が来ない。
私服に着替えた後も、スマホの画面をひらいたり、閉じたりと、彼女は神経質に答えを待ち続けた。
駅のホームは人であふれ返り、息苦しいほどの熱気が漂っている。
人身事故の影響で電車の到着が大幅に遅れているらしく、多くの人が疲れ切った表情で時計を気にしていた。
取引先に電話をしながら改札口へと急ぐサラリーマンの苛立ちが、宮崎千穂の肩にドンッとぶつかる。
ぶつかった拍子にスマホを落とし、開きっぱなしの画面に亀裂が入った。
〈ねえ、わかってるんだよ〉〈どうせ鵜戸たま子に私を会わせたかったんでしょ〉
何事もなかったかのような素振りでスマホを拾い上げ、宮崎千穂は人混みの中を右往左往した。
人の少ないホームの端にたどり着き、そのまま柱の陰にしゃがみ込む。
まだ夕方の六時だが、とっくに陽が沈んで暗くなっていた。
蛍光灯の白々しい明るさを求めて、羽虫がぶんぶんと回り狂う。
どこからか、すり足が聞こえてくる。
それは不自然な近さで立ち止まり、宮崎千穂に気づかれるまで、ずっとそこに立っていた。
なんだろうと思い、顔を上げると向こうは待っていたと言わんばかりにニヤニヤと笑い出す。
……でしょ。
うまく聞き取れなかったが、嫌な予感がした宮崎千穂はすぐさまその場を離れようとして立ち上がった。
その動きに合わせて目の前の人の視線が、ぞわぞわと後をついてくる。
「…男の人に見て欲しくて、そ、そういう服を着ているんでしょ」
その男性がどんな顔をしていたかも、どんな格好をしていたかも、今はもう真っ白で思い出せない。
だが、最後にそうつぶやいていたのを、宮崎千穂は背中で聞いてしまった。
改札の外へ飛び出したあとも宮崎千穂は後ろを振り返り、走っては振り返り、さっきの変態が追いかけてきていないか確かめた。
Vネックのマキシ丈ワンピースが脚にまとわりついてしょうがない。
〈ちょっと待ってよ〉〈どうしたの急に〉
青島なぎさから返事が届いていた。
〈知らない振りしてもムダだから。人の弱みにつけ込むなんてサイテー〉
宮崎千穂は割れた画面の上から、ばちばちと攻撃を打ち返した。
息を弾ませて、自分がどこへ向かって走っているのかもわからずに。
〈よくわかんないけど、結婚式に誘ったのは偶然だよ〉
〈たま子のやつ、昔いろいろあってさ、女友達が少ないんだよね。
だから、なんとなく来てくれそうな人にオレが手当たりしだいメッセージ送っただけ〉
〈結局、ほんとに来たのはお前だけだったけど〉
確かに、青島なぎさから連絡を受けた当初から、宮崎千穂は気づいていたはずだ。
誰でもいいから、とりあえず参加してくれという急ぎ足の魂胆に。
〈来てくれそうな人って、どういう意味。まさかアトピーに悩んでる人のこと〉
〈え、なに。どっからアトピーの話が出てきたの〉
〈アトピー向けの服をつくってる鵜戸たま子の元に、私みたいな患者を送り込んで、あわよくば商品を買ってもらおうっていう魂胆〉
彼女たちの生業のために都合よく利用されそうになったことを、宮崎千穂はひどくみじめに思った。
どいつもこいつも、自分の欲求を満たすことしか考えていない。
やっぱり最低だ。
返事はない。
しばらくすると、着信がぶるぶると湧き起こった。
青島なぎさからだ。
文字だけのやり取りとは異なる生身の緊迫感が、宮崎千穂の左耳にバチンッと触れた。
「ちげーよ、そんな気持ちで服つくってるわけねえだろ!」
青島なぎさは怒っていた。
保身のために感情をねじ伏せることなく、宮崎千穂と絶交するくらいの勢いで、ただ真っ直ぐに。
卒業しても、ミヤザキのことだけは絶対に忘れない。
かすり傷のような雲が一つ浮かんでいるだけの、よく晴れた空を見て、青島なぎさはそう思った。
商業高校だからという理由でなんとなく就職を志望する同級生が多いなか、一人だけ「弟のために就職する」と言い出したのは宮崎千穂だった。
彼女のまじめな決意表明を、青島なぎさは頬杖をついて聞いていた。
気怠そうにあくびをして、片方の耳にイヤホンをつなぐ。
忌野清志郎のロックを聴きながら、進路希望の調査票に服飾専門学校の名をいくつか書き殴った。
志望動機、学校の制服がダサいから。
「制服のスカートの下に体操着を履く方がよっぽどダサい」と担任の先生は指摘したが、パパさんとママさんは「まあ、あなたらしくていいじゃない」と甘く頷いてくれた。
19歳でさっそく社会に出るなんて考えられなかったし、今のうちにたっぷり遊んでおいて、それから自分の好きなことを仕事にしたい。
だって一度切りの人生なのだから。
一つしかない体で、心の赴くままに突き進んでいくのだ。
そうこうしているうちに、宮崎千穂の方もいよいよ就職先が決まった。
「なんでまた建設会社の事務なんかにしたんだよ、まじめか」と笑って、青島なぎさは彼女に連絡先を教えた。
誰にでもそうするわけではない。
そうして二人は、お互いに背を向けて、それぞれの道を進んでいった。
一年も経たないうちに会社を辞めてしまう同級生がいるなか、二年以上経ってもコツコツと働く宮崎千穂をSNSで見かけるたびに、青島なぎさは「本当だったんだ」と思い知る。
「ミヤザキのやつ、本当に弟のために就職したんだ」
それは、まるで子どものためにあらゆる資源を分け与えてくれる、親の愛情そのものだった。
自分の人生を犠牲にしたとも思っていない、極めて自然な行為。
おそらく人の心にずっと残り続けていくものとは、そういった現実の行動なのだ。
口だけならなんとでも言えることを、実際に行動し続けていくことで、愛情は本物になっていく。
もちろん、学費を支払ってくれるパパさんとママさんがたった一人の養女をかわいがってないわけがない。
ただ、お金や物で代替できない本物の愛を、青島なぎさはどうしても知りたかった。
そして、宮崎千穂が長い時間をかけて証明してみせたそれを、心でしっかりと感じ取った彼女は、ようやく背筋を伸ばして、世の中にふてくされるのをやめた。
いざ就職の時期を迎えると、青島なぎさは自身の価値を人にうまく伝えられず苦戦した。
「服をつくるのが好き」という理由だけでは、企業側にとって採用の決め手にならない。
採用してくれるなら「どこでもいい」という印象を受けるからだ。
かといって鵜戸たま子のように人を納得させる具体的なビジョンや固い信念を持っているわけでもなかった。
誰もが知る有名ブランドのショップ店員として働けたら、同級生たちから認められるだろうか。
たとえ一般事務職だとしても、福利厚生がきちんとしている大手企業に内定が決まったら、パパさんとママさんは安心してくれるだろうか。
やがてそんな思いが入り乱れ、さんざん振り回された挙句、彼女はことごとく選考過程で落ちていった。
派手な格好をしているわりには地味な道を選んだ、と同級生たちは噂をした。
独創的なデザインが世の中に広く認められるような、華々しいキャリアを夢みていた本人も予想外だった。
まさか郊外の小さな縫製工場で働くことになるとは。
本当にそれでいいのか、とパパさんとママさんも心配そうに訊ねた。
彼らの言っていた「あなたらしさ」は、しばしば企業の面接官から敬遠されることがあった。
そういうときは本人も負けじとガンを飛ばして、自ら辞退を申し出た。
そして、残るはあと一社というところで、ある若い経営者が笑みをこぼして言った。
「その髪色いいね。宇宙の色みたいだ」
その縫製工場は規模こそ小さいが、日本のきめ細やかな技術を後世に残すための、半ば実験的な取り組みが行われていた。
ファストファッションが主流の時代とは逆行するかもしれないが、伝承されない技術は放っておくと途絶えてしまう恐れがある。
なかにはここで修行を積むために、わざわざ国境を越えてきた者もいる。
中国人の女の子やフランス出身の黒人など、多様な背景を持つ職人たちが、お互いの色を認め合いながら働いていた。
そのような環境に居心地のよさを感じた青島なぎさは、もうそろそろ自分を許してやりたいと思った。
就職活動に区切りをつけた後も、彼女の心は揺らいでいた。
同級生たちのどうでもいいような一言にじぶんを見失いそうになり、派遣社員という立場に将来の不安を覚えた。
何が正解なのかわからない。
ただ、無性に宮崎千穂に会いたかった。
鵜戸たま子のためだと言いながら、意識の深いところでは彼女との再会を望んでいたのかもしれない。
そして、結婚式場で変わらない旧友の姿を目にしたとき、青島なぎさはやっと自分の役割を素直に受け入れることができた。
服をつくる人になるという夢を叶えた自分が、今度はだれかの夢を叶えるために服をつくり続けていく。
これまで与えられてきたものを、次は他のだれかに分け与えていく番なのだ。
始まりはどんなに不安で悲しくて孤独だとしても、これだと決めたことを毎日コツコツと続けていく習慣が、やがて人の心を変えていく。
過去のトラウマや未来の不安ではなく、今この瞬間に生きることができる。
そのためにも安定して働き続けられる環境が必要だ。
それは決して給料の高さや休日の多さではかれるものではない。
たとえ好きなことを仕事に選んでも、いっしょに働く人との相性に恵まれなければ、何事もうまくいかないからだ。
大事なのは、いじめやパワハラ、過労などで心身の不調をきたすことなく、本来の能力を仕事で発揮できること。
自分らしくいられる場所。
それがついに見つかったことを、青島なぎさは実父と実母に報告した。
結婚式場でもらったアネモネの花を、彼らの墓石に添えて。