5章
「ついこのあいだ一ヶ月分の薬を処方したばかりじゃないか」
皮膚科の医師はケンケンと咳をしながら言った。
六十代のおじいちゃん先生だ。
宮崎千穂が通い始めた十年以上前から、彼はずっと同じ咳をしている。
「あの、いつものではなくて、アトピーに効く注射薬のことです」
診察室のわきでは看護師のおばちゃんが土佐犬のようにどっしりと構えている。
待合室のカウンターには、腕と脚が枝のように細い受付のおねえさんがいつも暇そうに座っていて、だいたいこの三人で当院は成り立っている。
ああ、あれねえ、と医師は言う。
「うちみたいな小さなクリニックでは取り扱っていないよ」
開業医でも取り扱っているところはあるみたいだけど、まずは大きな病院とかで血液検査をしてからでないと。
感染症のある人には使えないからねえ。ケンケン。
それじゃあ、注射薬を取り扱っている病院へ直接、出向けばいいのだ。
と、もくろむ宮崎千穂に、医師は「まあ、待ちなさい」とつけ加えた。
「手ぶらで大きな病院に行くもんじゃないよ。
紹介状がないと、治療経過が向こうにうまく伝わらない恐れがあるから。
それに、まずはおじょうちゃんが本当にやると決めてからでないと」
なんせ、あの薬はちょっとお高いんだ、と医師がほのめかすと、宮崎千穂はたちまち鼻にしわを寄せて不満をあらわにした。
「こんなのただの水じゃん」
弟の真直は、勉強をする代わりに、姉のこだわりのスキンケア用品をネットで調べて、あれこれ口を出すようになった。
「なんでこんなに高いやつ買ってんの。もっと安いのが他にも売ってんじゃん」
アトピーでもなんでもない高校三年生の坊主に、スキンケアの重要性などわかるまい。
宮崎千穂は、余計な成分の入っていない無添加の方が肌にいいのだ、とあいまいに主張した。
それを聞いて弟はゲラゲラと笑う。
「余計な成分って、毒が入っているわけじゃあるまいし」
それじゃあ、父のタバコはどうなるのか。
宮崎千穂はじぶんを正当化しようとして、一箱およそ五百円のぜいたくを指摘した。
からだに悪いものにお金を使う方がよっぽど無駄遣いではないか。
それを聞いた父は一緒になって笑い出す。
「からだに悪いって、一日に百本も吸うわけじゃあるまいし」
彼らと話していても切りがないと感じた宮崎千穂は、夕食の支度をする祖母にすがりついた。
病気を治すには生活を根本から見直す必要があって、そのためには家族の理解と協力が不可欠である。
ねえ、おばあちゃん。
ネットの情報によると、アトピーの人は無農薬で栽培されたお米や野菜を食べた方がいいんだって。
祖母は手を止めて、口をぱくぱくとさせた。
「なんだい、そのオー、オーガニックっていうのは」
無論、家族のなかで一人だけ特別な食事を用意するわけにもいかず。
結局、宮崎千穂の言い分はだれにも認められなかった。
いつになく彼女が不満と孤独を抱え込んでいることは、医師もなんとなく察していた。
こんなふうに突然やって来ることは、滅多にないからだ。
アトピー以外に何があったかは知らないが、ここで安易にわかった振りをしたり、重症の患者と比べたりすると、今度はとつぜん来なくなってしまう恐れがある。
また、こういう心理状態のときにかぎって人は騙されやすいものだ。
世の中には民間療法を謳った詐欺なども存在する。
お医者さんは頼りにならないので、アトピーが完治するという〈奇跡の水〉を買っちゃいました、なんてことにならないよう、患者とは気長に付き合っていかなければならない。
「一ヶ月後の受診日までに紹介状を用意しておくから、そのときまで気持ちが変わらなかったら試してごらん、注射薬を」
宮崎千穂の反応をみながら、医師はそう言った。
今のところ症状が落ち着いているため、つよく勧めるほどではないが、検査結果などの条件さえ満たせば投薬してもよいと判断した。
若いうちから副作用のあるステロイド軟膏をたくさん使うより、注射薬を併用することで症状を抑えた方がいいと考えたからだ。
はい、お金のことなら心配ありません!
そう言い切ったあとで、宮崎千穂はじぶんの計算に狂いがないかもう一度確かめた。
約十七万円の月収から税金と社会保険料、そして実家に入れる生活費を差し引いても、毎月約十万円は自由に使えるお金がある。
とはいえ上限額を決めずに使い込む一方では貯金が難しくなるだろう。
問題は、いつまで注射薬を使い続けるか、ということだった。
医師の話によると、投薬を始めてから約半年の時点で症状が安定していれば一度やめてみてもいいとのこと。
だが、あくまでも症状を軽減するための対処療法でしかないため、投薬をやめた途端に肌が元の状態に戻ってしまう可能性がある。
その場合、今後もずっと投薬を続けていくかどうかは自分しだいである。
ぬるいシャワーを浴びたあと、宮崎千穂は無添加の化粧水を手に取り、じっくりと顔になじませる。
いつもより若干、量を少なめに。
処方された保湿ローションを全身にざあっと塗り、湿疹の出やすい首や肘の内側、ひざ裏に軟膏をちょんちょんと重ねていく。
見通しのつかない出費に、今にも母のため息が聞こえてきそうだった。
いつも母は家計簿をじっと見つめながら、お金がないということを態度で表現している。
直接ことばで指摘されるわけではないため、宮崎千穂はなんとなく事情を察して〈正しい選択〉をする必要があった。
たとえば進学せずに就職したのも、その一つである。
弟のためだという言い方をすれば聞こえはいいが、実際は、母をこれ以上、苦しめないためでもあった。
ただ、そういった決め方は責任の所在があいまいになり、良くない状況に陥ったときに誰かのせいにしやすい。
現に、じぶんで選んだはずの人生をあまり楽しめていない宮崎千穂は、つい他の可能性について思いを巡らせてしまうのだった。
もし自分が長女に生まれてなかったら、こんなふうに我慢ばかりしなくてよかったのかな。
もし裕福な家庭に生まれていたら自分も大学生活を謳歌していたのかもしれない。
てっきり大学で高度な知識を得た弟が、実家の経営難を立て直してくれるのかと期待していたが、そうでもなかった。
彼は、彼なりの動機で、彼の人生を進もうとしている。
それを知った姉は、なんだかバカバカしくなってしまった。
こんなふうに我慢し続けている自分とは、いったい何なのか。
そう思えば思うほど、何かあったときのために貯め込んでいたお金を、今こそ自分のために使いたくなった。
長女に生まれたことも、裕福な家庭に生まれなかったことも、全部やり直すことはできない。
だが、アトピーに生まれてきてしまった運命は今からでも変えられるかもしれない。
宮崎千穂は、家族に内緒で新しい治療に踏み切ろうと考えた。
あの日の鵜戸たま子のように、人生の祝福を受けるような瞬間が、いつか自分にも訪れることを願って。