3章
まだ明け方の五時だったが、宮崎千穂は一人だけとっくに起きていた。
ピンセットを取り出して、頬や口周りの薄皮を慎重にむいていく。
鍵のない自室でこっそりと、家族が寝静まっている間に行う中学生の頃からの習慣だ。
これを一度でも始めてしまうと、なかなかやめられない。
なぜなら、いつまでたっても肌そのものがきれいになることはないからだ。
四十分ほど経ったところで目が疲れて嫌になり、洗面所へ顔を洗いに行く。
そして、ぬるま湯で肌をいたわるように濡らしていく。
決してごしごしとこすってはいけない。
洗顔も使ってはならない。
汚れだけでなく必要な皮脂まで落としてしまうからだ。
自分専用のきめ細かいフェイスタオルで軽く肌を押さえた後に、スキンケア用品で乾燥を防止する。
化粧水は余計な成分が一切入っていない高価なものだが、惜しみなくばしゃばしゃと使っていく。
この時、うるおい成分を肌に浸透させるために最も効果的なパッティング方法がある。それは――
「姉ちゃん、早くして」
背後から弟の真直が訴える。
姉は両手で頬をぺたぺたと叩きながら、そそくさと洗面所を後にした。
高校三年生になる真直は、未だに陸上部のジャージを履いて起きてくる。
寝ぼけ眼で歯を磨き、くせ毛だらけの頭でトースターの前にすわり込む。
じりじりと熱される角食パンをぼーっと観察していると、決まって祖母から「あんた今日も朝錬かい」と声をかけられる。
本人はやっとそこで目を覚まし、いそいそと学生服に着替えに行く。
自己ベストを更新できなかった去年の引退試合を最後に、頭の中を受験モードに切り替えたはずが、気持ちは今でもグラウンドを走り続けているようだった。
「あいつ最近、夜中までずっと部屋の明かりをつけて机に向かってるんだ。
そんなに勉強しなくても良い就職先がうちにあるって何度も言ってやってんだけどな」
父は新聞の端をホチキスで三ヶ所ずつ留めていく。
そうすると店内でお客さんが記事を広げた時にバラバラにならなくて読みやすいのだ。
「本人は店を継ぎたくないって何度も言ってるじゃないの」
母は淹れたてのコーヒーを父と息子のマグカップに均等に注ぎ、娘がそれらを食卓に運んでいく。
「昔は仕事なんて選べなかったのさ。食べていくのに精一杯でねえ」
祖母は千切りしたキャベツに胡椒と塩をなじませ、水分が蒸発してしなしなになるまで炒めていく。
トーストが焼けたらバターをうすく塗り込んで、他の具材と一緒にぎゅっと挟むのだ。
高校生の頃、自分はなりたい職業なんてあっただろうか。
宮崎千穂は自分専用のフィルター付きタンブラーにお湯を注ぎ、肌に良いとされる柿の葉茶をじっくりと抽出していく。
とくにやりたいことがなかった彼女は卒業と同時に就職活動を始めたが、特にこだわるような条件もなかったため、なんのドラマもなくあっさりと内定先が決まった。
「おばあちゃん、私キャベツだけでいいから。卵とハムいらない」
仕事を選びたい方の孫が居間に戻ってくる。
食卓の上に置かれたコーヒーに口をつけるなり、彼はハッとする。
学生服の内側に部活のユニフォームを着ていることに気づき、あわてて白いシャツに着替えに行く。
「必死こいて勉強しても、これじゃあな」と父はぼやき、息子のためにテレビのチャンネルを変える。
どの局のニュースも教員のいじめ問題で持ちきりだった。
「大学に入って教員免許を取ったところで、働く環境が悪かったらどうするんだ」
「ちなみに新人の歓迎会までは、あんたが幹事だからね」
先輩はそう言って、昼休憩から戻ってきたばかりの宮崎千穂に新しい冊子を手渡した。
表紙を見ると「新入社員の対応マニュアル:完全版」と書かれている。
「この時期の歓迎会は、納涼会と兼ねて開催することになるから、ちゃんとカラオケの準備もしてよね。
新人に幹事の仕事を引き継ぐのはそれがぜんぶ終わってから、いいわね」
その日の掃除当番だった彼女は約七キロもある業務用掃除機を雑に引きずり回した後、デスクの一番下の引き出しからカップ麺とファッション雑誌を取り出して、気怠そうに遅めの休憩に入っていった。
その一。
彼らは基本的に指示しないと動けない。
が、干渉されるのをひどく嫌う。
彼らにできそうな仕事から任せて、ある程度は放っておくとよい。
その二。
人類史上最も〈怒られ慣れていない〉彼らに向かって怒る時は注意せよ。
決してきつい言い方をするべからず。
どんな時もマイルドな言い方を心得よ。
……。
新しく入ってくる子たちって、こんなに癖が強いんですか。
宮崎千穂がそう訊ねると、主任はコンパクトミラーで歯石を確認しながら「ちがうわ」と答えた。
「人事課がネットで検索した情報を載せているだけよ。
実際に本人たちにアンケート調査を行ったわけじゃないわ。
でも採用係にとっては大事なことなの。
今年もまた新卒から離職者が出たら、たくさんお金出して採用活動した甲斐がないものね」
そう言って彼女はため息をつき、中間決算に必要な書類をデスクの上に広げた。
慣れた手つきで電卓を弾きながら、もう片方の手で腹部をさすっている。
予言通り妊娠して約五カ月、お腹の膨らみは目で見てわかるほどの大きさになっていた。
それなのにオフィスは必要以上に冷房が効いていた。
肌寒さを感じる女性社員のほとんどが黒や紺色のカーディガンを羽織っている。
主任に至ってはウール素材のブランケットを腰回りに巻きつけて、母体を冷やさないよう気をつけていた。
「あと四ヶ月もしたら産休に入っちゃうけど、私の代わりに別府さんっていう新しい子が来ると思うから、よろしく頼むね」
そう言って主任は駄菓子のチョコバットにお手製のメッセージカードを添えて宮崎千穂に手渡した。
Accept what you reject first if you want to change something.
(何かを変えたいと思うなら、まずはあなたが拒否しているものを受け入れてみよう)
拒否しているものとは、いったいなんのことだろう。
宮崎千穂はメッセージの意味について考えるのを一旦やめて、貰ったチョコバットをデスクの一番上の引き出しにしまい込んだ。
そして、明日以降に出張を控えている営業社員のために仮払金の準備に取り掛かる。
出先で所持金が不足することのないよう一人当たり約三万円のお小遣いを封筒に詰めていく作業だ。
この時、主任と二人がかりでお札を数えるのは、一人の思い込みで誤った金額を出してしまわないよう客観的な視点を加えるためだ。
とはいえ、人為的なミスさえ起こさなければ、あとはパソコンの会計ソフトやエクセルの計算式が自動的に計算をしてくれる。
一円の誤差も許されない仕事だが、基本的に定時で帰れる良心的な部署だった。
その日も五時半になると、まるで下校時刻を報せるチャイムのように「お先に失礼します」と部長は言い放った。
宮崎千穂はパソコンの電源を切って、いつものように彼の背中を見送った。
肩甲骨の辺りに、うっすらと汗染みが浮かんでいるが、おそらく本人は気づいていない。
オフィスの外へ出ると、ぬるい温かさに全身が包まれる。
宮崎千穂は思わずほっとした。
日が長くなっているせいか、いつもより廊下の艶がまぶしく見える。
階段を上っていく途中、就活用のスーツを着た若い女の子が更衣室へ入っていくのが見えた。
おそらく新入社員の一人だと思われる。
入社を機に四月から会社の近くで一人暮らしを始めたらしい。
本人に直接聞いたわけではないが、電算化の田口さんが一昨日こっそりと教えてくれた。
どうしてそんなことまで知っているのだろうと宮崎千穂は訝しんだが、適当に相づちだけを打って、給湯室を後にした。
これまでに後輩を持った経験のない宮崎千穂は更衣室の前で立ち止まり、前髪を手ぐしで整えながら、不明瞭にぶつぶつと唱え始める。
扉を開けて中へ入るなり彼女はロッカーに向かって「おつかれさまです」と言い放った。
そして、何食わぬ顔でいそいそと制服を脱いでいく。
なにしろ後輩の前では先輩らしくあらねばならないと思い込んでいる。
あれこれ悩んだ挙句「なるべくマイルドな言い方をする放任主義者」を装うに至ったのだ。
ところが、宮崎千穂は首が詰まったデザインの白いワンピースをかぶったまま、なかなか頭を出せずにいた。
そこで一度、クルーネックの内側からロッカーに取り付けられたミラーをのぞき込んでみる。
すると黒いワンピースを着た女の子が映り込んだ。
ピューリタンカラーのブラウスにゆったりとした大きさのスタジャンを羽織っている。
まるで思いつきでハサミを入れて、走りやすいように仕立て直した名門女子高の制服のようだ。
いずれもコムデギャルソンの服だと思われる。
スマホを片手にチョコバットをかじっている彼女を目撃した瞬間、宮崎千穂はこのタイミングで彼女と二人きりになった必然性に気がつき、思わず声を発した。
「別府さんですよね」
ベンチに腰をかけて音楽を聴いていた少女は、艶のある黒い前髪を傾けて耳からイヤホンを外し、軽く会釈した。
やはりそうだ、主任が言っていた例の新人だ。
「えっと、宮崎です。経理課の…」
そう言いかけると、別府さんは野性味のあるシャープな瞳をこちらに向けたままニコッと微笑んだ。
あごが小さく、端整な顔立ちをしている。
まるで森の奥で遭遇した子鹿を見ているようだった。
神秘的なまでに無垢で、向こうはまだ出会った人間の恐ろしさを知らない。
彼女の指導係りには先輩が就く予定だったが、宮崎千穂は早くも自分の後輩に対する親しみを禁じ得なかった。
相手が年下というだけで自然と込み上げてくる何かが彼女の先輩らしさを助長する。
「そういえば今度ね、管理本部が主体になってあなたの歓迎会を開く予定なの。
と言っても、ただのカラオケ大会なんだけど。
部長のスケジュールが決まりしだい詳細をメールで送るから」
かつて自分が新人だった頃に、指導係の主任からかけてもらった言葉を、宮崎千穂はそっくりそのまま引用した。
「よろしく頼むね」と。
別府さんは何も応えなかった。
応えない代わりにスマホで時刻を確認して、レザー素材のリュックをさくっと背負う。
スリッポンのつま先を床に打ちつけながら「すみません」と言った。
「私カラオケ苦手なんで、不参加でお願いします」
再びイヤホンで片耳を塞ぎ、彼女はそのまま出口へと向かった。
遠慮のない足取りで、さっさと更衣室を出て行こうとする。
まさかマニュアルの禁止事項に触れてしまったのではないかと思い、宮崎千穂はあわてて言動を振り返った。
が、冊子が手元に無いのでページをめくって確認することもできない。
自分の言葉で彼女を引き留めるしかなかった。
「で、でもさ、主役のいない歓迎会は、もはや歓迎会じゃないというか…」
「最初からただのカラオケ大会じゃないですか」
別府さんは扉の前で立ち止まり、平気な顔でチョコバットをかじって見せる。
宮崎千穂はごくりとつばを飲んだ。
「あなたの歓迎会」という台詞とは裏腹に、実際は課長や先輩の意向に沿うよう仕向けている。
別府さんが見抜いている通り、カラオケ以外の選択肢など最初からないに等しかった。
「なんかおかしいですよね」と別府さんは鋭く問う。
「どうしてそんなに自分の気持ちを抑圧しているんですか」
宮崎千穂は、ぱち、ぱちと瞬いた。
まるで見知らぬ大人から公共の場で怒られた子供のように、ただひたすら面食らっている。
抑圧。いったいなんのことだろう。
「どうしてやりたくもない幹事を引き受けて、行きたくもないカラオケ大会に参加するんですか」
…何を言っているんだろう、この子は。
郷に入っては郷に従え。
新人なら幹事を快く引き受けるべきだし、会社の親睦会に参加するのは社会人として当然のことではないか。
「本当は寒いと思っているのに、エアコンの温度をどんどん下げていく男性社員に抗議しないのはどうしてなんですか」
……。
カーディガンを羽織っているから平気だ。
宮崎千穂は自分にそう言い聞かせた。
が、反射的にぶるっと震えた拍子に防災頭巾のようにしてかぶっていたワンピースが、すとんと肩の辺りまでずり落ちた。
クルーネックの外側に出ると、辺りには雑然とした駅のホームが広がっていた。
スーツを着た大人が黄色い点字ブロックの上を忙しなく行き交い、「危ないので下ってください」というアナウンスに混じって、時折、ポーンという電子音が響き渡る。
全てがいつも通りの光景だ。
それなのに宮崎千穂はそわそわとして落ち着かなかった。
余震に怯える飼い犬のように、何かを敏感に察知して以来ずっと神経が高ぶっている。
そのせいか、どっと疲れてベンチに座り込みたいと思う。
しかし、どこも白髪の老人で満席だった。
こんなときに限って無性にチョコバットが食べたくなる。
お腹は空いていないはずなのに、デスクの中にしまい込んだことをひどく後悔した。
今からオフィスへ走って戻るにしても、あと数分もすれば電車が到着してしまう。
世の中は人間の感情とちがって、非常に正確なスピードで進んでいる。
これまで宮崎千穂はそういった世の中の流れに逆らうことなく、極めて真面目に生きてきた。
同じ学年の子たちが大学のサークルで派手なお酒の飲み方を覚えたり、
海辺で手をつなぎ一斉にジャンプしている写真をSNSに載せたりしている傍らで、
彼女は年輩のサラリーマンに紛れて通勤し、オフィスで黙々と働いた。
休日は専ら実家の手伝いをし、友人と遊びに出かけることはほとんどない。
自分の予定といえば月に一回、かかりつけの皮膚科へ通うくらいだ。
都内に住んでいるためマイカーは所有しておらず、これといって打ち込める趣味もない。
そのため彼女は社会人三年目にして預金の残高が二百万円を超えるようになっていた。
働き出した当初は貯蓄そのものが楽しみだったが、一方的に増えていくだけの空虚な数字に、いつしか彼女は物足りなさを感じ始めていた。
何のために働いているのかわからなくなっていたのだ。
そこで彼女はネットの口コミを頼りに無添加のスキンケア化粧品や肌に良いとされるサプリメントを買ってみる。
言わば自己投資というやつだ。
それらを試した直後はぐんと背が伸びたような、見晴らしの良い気分になる。
ところが、しばらくするとまた空腹時の寝苦しさを覚え、夜な夜な布団のなかで他人のブログを読み漁るのだった。
しだいに通販サイトでは飽きたらなくなり、宮崎千穂はスマホの写真データをさかのぼり始めた。
例の新婦が写っている画像を指で拡大して、ウエディングドレスから露出した二の腕や背中をよく確かめたいと思う。
しかし、遠くの席からあわてて撮ったせいで、どの写真も全体の雰囲気しか写り込んでいなかった。
より詳しい情報を求めて、おそるおそるSNSをひらくと、案の定、青島なぎさのフォロワーから鵜戸たま子の個人アカウントを見つけることができた。
彼女の最新の投稿には結婚を報せる記事と共にプロのカメラマンによって撮影された高画質の写真がアップロードされていた。
決して多くはないが気心の知れたわずかな友人と唯一人の夫に囲まれて、満たされたようにほほ笑む鵜戸たま子の姿が写っている。
なぜだろう。
なんど見ても、きれいなのだ。
すごく美人というわけでもないのに。
ウエディングドレスのせいだろうか。
いや、違う。そうではない。
おそらく彼女の美しさとは、長い間ずっと患っていた「何か」を克服した跡なのだ。
以前までの鵜戸たま子は、カメラの前で常に自分を抑えている様子だった。
迂闊にも笑えば、きっと目元にしわが寄ってしまう。
それくらい彼女の肌はごわごわと乾燥し、慢性的な湿疹が全身に浮き出ていた。
まるで赤を塗りたくった苛烈なキャンバスに描かれた傷だらけの小動物を見ているような印象だ。
スクリーン越しに専門学校時代を眺めている途中で気がついたのだ。
あれは間違いなく「アトピー性皮膚炎」だと。
少しずつ露呈していく新婦の実態に惑わされ、動揺し、疑念を持ち始める宮崎千穂
―――彼女もまた、同じ症状を抱える患者の一人だった。
現状としてアトピー性皮膚炎は完治するのが困難だと言われている。
なぜなら生まれつきアトピーの素因を持つ体質に、環境やストレスなどが複雑に絡んで発症する病気だからだ。
症状を抑えるためには、こまめな保湿で皮膚の乾燥を防ぎながら、薬による対処療法で気長に付き合っていくしかない。
ところが、どういうわけかSNSにアップロードされている鵜戸たま子の笑顔はすべすべだった。
周りの大人から「治らないのが当たり前だ」と聞かされて育ってきた宮崎千穂の前に、突如として矛盾する現実が飛び込んできたのだ。
―――目が痛い。
彼女は一旦スマホを手放した。
ぐらぐらと揺れる視界を追いかけて、布団の中から這い出る。
腕を伸ばし、なんとか襖をこじ開けた。
うずくまった状態で、黒く艶のある廊下に首を突き出し、ひんやりとした静けさの中に両手と左頬を浸す。
しばらくすると階下でカチャリと扉の閉まる音がした。
深夜十二時。
また弟がこんな時間に走りに出かけたのだろう。
オレンジ色の街灯と濃紺の影法師がタッタッタッと遠ざかっていく。
それでもやっぱり継ぎたくない、と言う一家の長男は最終的に教育学部のある国公立大学を受験することに決めた。
夕方、店のキッチンでコーヒーのドリップ作業をする父が寂しそうにそうつぶやいた。
いよいよ裏切られたような気がしなくでもない。
長女は「いいんじゃない」と、にわかに震えた声で返す。
少しいじわるな言い方だったかもしれない。
すると、背後から「あちっ!」という低いうめき声が飛んできた。
反射的に身を縮める宮崎千穂。
いつものように在庫のチェックをしていた彼女は、後ろを振り返った拍子におもちゃのような踏み台の上で大きくバランス欠いた。
しがみついた棚の底板がガタンと外れて、天日干しした枕のような角食パンが油っぽい床の上にぼたぼたと落ちていく。
どうやら父がコーヒーの粉末に熱湯を注ぐ過程で、めずらしく手にやけどをしたらしかった。
そんな災難を指さすようなタイミングで笑い声が聞こえてくる。
客席の方を見やると、あずき色の服を着たパーマヘアのおばちゃんたちが丸く集っていた。
きれいに並べてあった席のかたちを崩して、おかきや芋けんぴなど、持ち込んだ菓子を堂々とつまんでいる。
次から次へと話題をこぼし、さんざん笑った挙句コーヒーをたっぷりと残して帰るつもりだ。
きっといくつになっても、女子というものはああなのだ、と宮崎千穂は苦々しく思った。
湿気にやられないよう急いで角食パンを拾い集める彼女は、じめじめとした感情を胸の内に覚え始めた。
角食パンが一斤、二斤、三斤……一斤。
まるで文章の同じ行をくり返し読むみたいにして、ある一定の数までいくと黒い雑念にかき乱されてしまう。
中学生の頃からずっと続けてきたはずの習慣が急にできなくなるなんて、そんなバカなことあるだろうか。
結局、その日は最後まで不安を数えきれずに二階へ上がった。
宮崎千穂はこめかみを押さえて立ち上がり、浅く浸水したような廊下をすり足で渡っていく。
台所に誰もいないことを確認して、寝間着のポケットからビタミン剤の入った小瓶を取り出す。
肌の痒みを軽減するだけでなく、湿疹による色素沈着を防いでくれると個人ブログに書かれていたのを目撃し、藁にもすがる思いで海外の通販サイトから取り寄せたサプリメントだ。
彼女は青白く光る蛇口をひねり、指につまんだ一錠の期待を、月明りにさらす。
「苦しいです。サンタマリア」と小さく祈りの言葉を捧げた後、グラスに注いだ水といっしょにごくりと呑み込んだ。
しばらくすると、心の中に巣食っていたじめじめとした感情がすうっと乾いていくのがわかった。
まるで青い芝の上で自由に夢想しているような清々しい気分になり、宮崎千穂はうるうると目を潤ませた。
そして、思わず屋外へ飛び出た。
その方がきちんと月に届くと思ったのだ。
できたらもう一度だけ鵜戸たま子に会いたい。
彼女の輝かしさに近づきたいというよりも、このろくでもない今の生き方を変えたかった。
彼女に会うことで、長らく停滞している自分の人生の何かが、変わるような気がしたのだ。