2章
履き慣れていないせいか窮屈なパンプスに急かされているような気分になる。
一旦、立ち止まり、ショールを脱いで片腕に抱えた。
これから人に会うというのに汗をかいては困る。
長い前髪をピンで留め直し、シフォン素材の九分袖から安物の腕時計をのぞかせた。
充分、間に合うではないか。
歩けども、歩けども、胸の内のもやもやが晴れなかったあの日。
店の手伝いを終えた後、宮崎千穂は返事をした。
やっぱり結婚式に参加すると。
少し考え方を変えたのだ。
ただの人数合わせかもしれないが、結婚式に参加したことのない自分にとって、これは経験というチャンスになる。
とはいえ、一からドレスやアクセサリーを買いそろえると、それなりに費用はかかった。
もし彼女に姉がいたなら、持ち物の貸し借りができたかもしれないが、あいにく三つ年下の弟しかいない。
ご祝儀袋の使い方だけは母に教えてもらい、買い物は全てネット通販で済ませた。
試着をせずに購入した紺色のロングドレスは彼女の体型にぴったりだった。
「まあ、見違えた!」と言って、祖母は両手を合わせる。
そして、いそいそと居間の方へ姿を消した。
言われた本人は何とも思わない。
周りの大人が言うほど若さというものに価値を感じていなかったし、世間の流行がどうであれ、とりあえず自分の素肌が隠れさえすればよかった。
「ほら、こっちを向いてごらん」
使い捨てカメラを構えた祖母が、今にもシャッターを切ろうとしている。
孫は反射的に顔をそむけて、銃口を向けられている時のように両手をあげた。
「いい、いいよ、おばあちゃん。撮らなくて大丈夫だから!」
「あんたはいいかもしれないけど、ばあちゃんは撮りたいんだよ。せっかく孫がきれいにしてるっていうのに」
残念そうにカメラをしまいに行く祖母の小さな背中を、彼女はこれまでになんども見てきた。
が、嫌なものは嫌だった。
嫌だっていうことを人に伝えるとき、言い方には十分気をつける必要がある。
なぜなら嫌なものが相手の好きなものだった場合、その好きだという気持ちを否定することになりかねないからだ。
今日のためにドレスアップした女性たちがスマホを斜め上にかざして身を寄せ合っている。
おそらく自撮りをしているのだ。
手入れの行き届いた新緑のガーデニングで。
噴水のてっぺんに飾られた天使の彫像と共に。
教会へと続く赤い石畳の道中。
ホワイトニングで磨き上げられた彼女たちの歯が、まるで白い三日月のように浮かんでいる。
宮崎千穂はまちがって写り込んでしまわないよう腰をかがめ、彼女たちの背後をそそくさと通り抜けていった。
そのまま式場のエントランスを突き抜けようとしたところ、黒いスーツを着た男性から呼び止められた。
宮崎千穂は無地のトートバッグの中から恐る恐る現金三万円の入った御祝儀袋を取り出して、中身をこじ開けようとする。
受付係りの彼は「いえ、そのまま渡してもらえれば結構ですので…」と小さな声で説明した。
身に覚えのない罪を咎められたような気持ちで名簿に「宮崎千穂」と署名する。
筆ペンを置いて、顔を上げると巨大な昆虫のようなチェキのレンズがこちらに向けられていた。
彼女はぎょっとして身構えた。
「な、なにをしているんですか」
「えっと、即席カメラです。現像した写真に、このように新郎新婦へのメッセージを書いていただきたいんです」
そう言って彼はメッセージ入りの顔写真をいくつか提示した。
どの参加者も二、三人組でピースを決めている。
そして、どの参加者もおそらく新郎新婦と知り合いだった。
メッセージの内容を読めば、その親密さがよく伝わってくる。
よろしいでしょうか、と窺う男性に向かって、ぜんぜんよろしくありません、と宮崎千穂はささやいた。
体調が悪いので、ちょっとトイレに行ってきます。
彼女はトイレットペーパーの横に設置された音消しセンサーを不用意に押し続けた。
個室トイレの外では、自分の髪で頭がてんこ盛りになった女性たちが洗面台の鏡を占拠している。
そうか、美容院で髪をセットしてもらう必要があるんだ。
宮崎千穂は便器の中に溜まる水面に映った自分を見て、ため息をついた。
彼女はいつも出勤するときのように、胸の辺りまで伸びた黒髪を団子状にしてまとめていた。
前髪をピンでしっかりと固定しているのは、毛先が顔や首に当たると痒くなるからだ。
機能的で隙の無い印象を与えるヘアスタイルは、今日のような優雅なロングドレスに合っていなかった。
「さっきすれちがった人の髪やばかった」
「ああ、青い子ね」
平等を重んじる女性たちの排他的な笑い声が聞こえてくる。
宮崎千穂はなぜか自分のことを笑われているような気がした。
居たたまれない思いで音消しセンサーを追加で連打し、スマホのメモ機能に、恥ずかしい、と文字を打ち込んだ。
自分だけ髪型がダサくて恥ずかしい。
トートバックで来たのも、もしかしたら私一人だけかもしれない。
パールやスパンコールのついたクラッチバッグの人がほとんどだ。
しかも、さっき受付でご祝儀袋の渡し方をまちがえた。失敗した、ああ、失敗した!
宮崎千穂は額に手をあてて、無意識のうちに小さな声でぶつぶつと唱え始めた。
角食パンが1斤、角食パンが2斤…
角食パンが280斤を超える頃、つい先程まで女子トイレに充満していた笑い声が、いつの間にかすっかり消えていることに気がついた。
宮崎千穂は涙目になりながらも落ち着きを取り戻し、自分は失敗したのではなく、ただ経験しただけなのだと思うようにした。
そして、暗くてせまい個室の鍵を外し、ゆっくりと扉をひらいた。
新婦新郎の入場です!
緊張を突き破るような音量で行進曲が流れると、場内は一気に明るく沸いた。
炸裂するカメラのフラッシュに迎えられて、新郎新婦が恭しくお辞儀をする。
シルバーのタキシードが光沢を放ち、レース素材のウエディングドレスが白く透き通る。
スポットライトの中をゆっくりと進む彼らに合わせて、およそ四十人の招待客がぐるぐると体の向きを変える。
どうやらカメラの焦点を合わせるのに必死なようだ。
宮崎千穂もウェルカムドリンクの匂いを嗅いでいる場合ではなかった。
あわててトートバッグの中からスマホを取り出し、何度かシャッターボタンを押してみる。
中央に設けられたメインテーブルに主役の二人がおさまると、何人かの招待客らはハッと我に返り、恥ずかしそうに自分の席へ戻っていった。
司会者が会場の空気をなだめすかしている間に、数名の従業員がこそこそとプロジェクターの準備に取り掛かる。
彼らは目立たないよう作業をしているつもりだったが、そこにいる全ての人の注目を集めてしまっていた。
ああ、さてはムービーか何かだな、と隣の席の女性がつぶやく。
ラベンダー色のセットアップスーツをまとった彼女は、脚を組んだまま軽く身を乗り出した。
「遅かったじゃん。どこにいたんだよ」
暗がりの中だったが、その声は確かに青島なぎさだった。
宮崎千穂は思わずはにかみ、笑い出しそうになった。
照れくさいのと、自分を良く見せたいのとで、少し声のトーンが低くなる。
「ええ、ちょっとお手洗いに…」
シャンパングラスに口をつけようとしていた青島なぎさは、手を止めて振り向いた。
「ここのトイレ気をつけた方がいいよ。出るって噂だから」
「出るって、なにが」
「幽霊だよ。さっき会場に来てる人たちが噂してたんだ。死ぬ前にもう一度角食パンが食べたいって言って、そのまま病気で死んじゃった女の子の幽霊」
宮崎千穂は神妙な面持ちで椅子にすわり直し、肩をすくめてスカートの裾をつまはじいた。
メインテーブルの脇に設置された即席のスクリーン。
およそ二百インチほどの画面にブルーバックが映し出されると、退屈しかけていた観客の表情に期待の色が浮かび上がる。
さっきまでそわそわしていた司会者もほっとしたらしく、「ほっ」という音声がマイクを通してスピーカーから漏れ出た。
宮崎千穂はとなりを一瞥して、前に向き直る。
そして、もう一度、となりに視線を向けた。
「なんだよ」と青島なぎさは言う。
「いや、その髪色…」
「ああ、これ。高校卒業した次の日の朝に染めた」
そう言って彼女は真っ青なショートヘアを片手でほぐした。
よく晴れた日の空にちなんで青色を選んだという。
「ミヤザキの方は変わってないね」
「高校生の時からずっとね」と、宮崎千穂は自虐的に笑った。
「いいじゃん、そのままでいてよ」
お互いにそれ以上は何も言わなかった。
しかし、青島なぎさの方はこの一瞬の沈黙のうちに、何やら壮大な宇宙を感じ取っていた。
それでは新郎新婦のご紹介に移らせていただきます!
時間をさかのぼること二十一年、新郎の山田幸男は茨城県つくば市において出生する。
幼い頃より科学の分野に興味を示し、学校の勉強では常にクラスのトップだった。
中学三年生でオール五の成績を打ち出した後、推薦枠を利用して県立の最難関高校に入学。
将来は地元で宇宙関連の研究職に就くことを両親から期待されていた彼は、修学旅行で目にした「ある光景」をきっかけに本人ですら予測していなかった進路へと大きく舵を切ることに。
では、その「ある光景」とはいったい何でしょうか。
せっかくなので、ご本人の口から直接聞いてみましょう!
司会者からマイクを受け取った新郎は席から立ち上がり、その場で軽く礼をした。
ほどよく日焼けをした彼の頬は健康的にひきしまっており、切れ長の目からは聡明さが窺える。短髪で背が高く、まるで一本の銀色の稲穂が生えているような印象だ。
「ええ、この度はお忙しい中、私どもの結婚式にご列席くださり誠にありがとうございます。
さっそくですが、僕が縫製の道へ進むきっかけとなった出来事をお話します。
あ、どうぞ皆さん召し上がってくださいね」
前菜を前にして行儀よく待ち続けている招待客を気遣い、彼はそう言った。
見ると、青島なぎさのプレートはすでに半分以上が空っぽになっていた。
彼女は苦味にぶつかったような顔をして、茶碗蒸しの器を疑い深くほじくっている。
「なんだこれ、銀杏くせー」
宮崎千穂はとっさに彼女の言葉遣いをたしなめた。
「銀杏なんだから、銀杏の匂いがするのは当然でしょう」
反対側の席にすわる人は、これでもかというほどスマホを皿に近づけ、おいしそうな写真を撮りあぐねている。
アボガドとサーモンとクリームチーズの和え物、ブラッドオレンジの合鴨ロースト巻き、さやえんどうの翡翠煮、明太子風味の茶碗蒸し。
それらの品目が小さな豆皿やガラス製の器に盛られ、一つのプレートにまとまっている。
周りにはカラフルな食用花が散りばめられており、味に変化をつけるためのくるみ味噌だれが点と弧を描いていた。
写真映えするよう趣向を凝らしたというより、お祝いの席を旬の食材でさりげなく色づかせようという粋な計らいが感じられる。
食べる前に写真を撮りたくなる気持ちもわからないではない。
「その時、僕はまだ十七でした。多感な時期ではありましたが、他の男子生徒と同様に、おしゃれには疎い方です。
毎日学生服を着ていたので気づかなかったのですが、修学旅行の時にクラスメイトの私服を見てびっくりしました。
ほとんどの男子がチェック柄シャツにジーンズという、決まりきったコーディネートで現れたんです。 まあ、中にはドクロマークが入った黒装束で個性を発揮している者もいたのですが」
目の前のスクリーンにクラスの集合写真が映し出される。
言われてみれば確かに一枚の方眼用紙を眺めているようだ。
「そこで僕は思ったんです。これは日本の由々しき問題だと。
べつに私服なんだから、どんな格好をしても自由なはずです。
それなのに多くの男子生徒は、まるで第二の制服かのように、色違いのチェック柄シャツを着回します。
その方がドクロマークより無難だから、皆がそうしているから、だから自分もチェック柄。
戦後の高度経済成長期では画一的な行動様式が求められたかもしれませんが、僕たちの生きている今は多様性の時代です。
チェック柄を愛して止まない人は別として、少なくとも「なんかおかしい」と気づき始めた一部の者が変化を恐れずに個性を発揮できる、そんな社会を実現させたいと思ったのが、この道を志したきっかけです」
中島みゆきの「ファイト」がちょうどサビに差しかかる。
ここぞとばかりに音量がぐっと引き上げられ、会場全体に拍手喝采が湧き起こった。
どこかから、ずるずると鼻をかむ音が聞こえてくる。
今の話の中に泣けるポイントなどあっただろうか、と宮崎千穂は思ったが、とりあえず周りに合わせて両手を乏しく打った。
隣では青島なぎさが口いっぱいに咀嚼しながら「サイコー」と叫んでいる。
彼女のプレートを下げに来た給仕の男性は「あ、おかわりください」と言われるのを最初からわかっていたように、青島なぎさのグラスにウーロン茶を注ぐ。
「あ、そうじゃなくて、ビールください」
BGMがオルゴール調に切り替わり、久石譲の「かあさんのホウキ」が会場をやさしく包み込んでいく。
新郎がマイクを司会者に返す傍らで、新婦がはにかんだり、口をつぐんだりしている。
どうやら自分の番がきたことを察して、恥ずかしがっているらしい。
フィンガーレスタイプのグローブをはめた両手で頬を押さえ、顔を隠すように前のめりになる。
そして、膝に敷いていたナプキンをつまみあげ、そのふちから目だけを覗かせた。
なんとも愛らしい仕草だ。
続きまして新婦、鵜戸たま子様のプロフィール映像をご覧いただきましょう!
1998年、東京都杉並区にて生誕。玉のように可愛らしいことから「たま子」と名付けられた彼女は、鵜戸家の一人娘として大切に育てられる。
スクリーンには生後間もない赤ん坊の姿が映し出された。
うぐいす色のスーツを着た母親の腕に抱きかかえられており、その脇には七三分けの父親が凛々しくたたずむ。
彼の胸元にはさりげなくポロマークの刺繍が刻まれている。
お金を払って撮ってもらったような、きちんとした写真だった。
筑波宇宙センターの前で半ズボンにサンダル、ポーズはピースといった新郎の幼少期とはえらい違いだ。
両親の庇護のもと、〈ちょっぴり優雅に〉育った鵜戸たま子は、2016年に通信制の高校を卒業する。
もともと近所の仕立屋で洋服のボタン付けやアイロンがけなどの手伝いをしていた彼女は、自宅から通える範囲内で縫製の専門学校へ進学した。
そこで現在の夫である山田幸男と出会い、およそ二年の交際期間を経て婚約に至ったというわけである。
べつによそ見をしていたわけではなかったが、宮崎千穂は新婦の成長過程を見逃した。
というより、それは意図的に省かれていた。
家族旅行で訪れたのどかな田園風景がさらりと流れる一方で、彼女が部活動や習い事などのコミュニティに所属しているカットは一切、現れなかった。
そうこうしているうちに、あっという間に専門学校時代に追いついた。
当時、十九歳の鵜戸たま子は、あいかわらず誰かの後ろに隠れたがっていた。
うつむきがちで、控えめな印象だ。
仲の良い五人グループで文化祭の買い出しに手芸雑貨店へ行った時でさえ、一人だけ恥ずかしがって布地で顔を覆っている。
ちょうど今そうしているように。
宮崎千穂は直感的に悟った。
おそらく鵜戸たま子はカメラが嫌いなのだ。
自身がそうであるように、彼女もまた「見られたくない自分」がいる。
現実から目を背けるようにして、時折、自分の顔を覆い隠す癖がある。
ところが鵜戸たま子の場合、それはすでに過去の苦い思い出だった。
今はもうほとんど克服していて、ついさっきもフラッシュのしぶきを浴びて登場してきた。
変に自意識をこじらせることなく、大切な人と一緒にいる時間を慈しむような気持ちで彼女は満たされている。
専門学校を卒業するまでの二年間で、彼女にいったい何が起きたのだろう。
しだいにやさしい音楽がくもって聞こえなくなる。
春色の料理を運んできてくれた給仕たちもバックヤードに姿を消していた。
宮崎千穂は、たった一人取り残されたような思いだった。
目の前の儀式めいた光景がスローモーションで過ぎていく。
見知らぬ人々が一斉に立ち上がり、金色に泡立つシャンパングラスを片手に添えて、勝利の兆しを表情に浮かべている。
何かの合図をきっかけにそれらは音を立ててぶつかり合った。
繊細なガラスの冷たい響きが次々と波紋を広げていく。
かんぱーい!
その瞬間、宮崎千穂の中で何かがひび割れ、激しく飛び散った。
鋭利な破片が目に入るのを防ごうとして、彼女はとっさにナプキンで顔を覆う。
「なに感動してんの、ミヤザキ」
今の話のどこに泣けるポイントがあるんだよ。
そう言って青島なぎさは笑い、空っぽのシャンパングラスを宮崎千穂の額にそっと押しつけた。
おそるおそるナプキンを降ろし、冷静になって辺りを見回す。
割れたガラスの破片など、どこにも落ちていない。
目頭を指でおさえると、にじむのは血でなく涙だった。
いつの間にか会場は明るくなっていた。
給仕たちが四人がかりで運んだウエディングケーキを複数のカメラマンが取り囲んでいる。
穏やかな歓談の中で新郎新婦による入刀が行われようとしていた。
生クリームが薄く塗られた二段重ねのチョコスポンジには、みずみずしいブルーベリーや輪切りのオレンジ、深緑のローズマリーが添えられている。
切り株を模した大きなまな板の上に用意された「ネイキッドケーキ」と呼ばれるそれは、まるで森の小人たちによってつくられた自然の恵みそのものだった。
シンプルな素材へのこだわりは、ケーキのデザインだけでなく、会場の装飾にも一貫して見られた。
木素材で統一されたインテリアは緑を基調とした装花で爽やかに芽吹いており、テーブルクロスが敷かれたどのゲストテーブルにもアネモネとユーカリが淡く咲いている。
ナイフやフォークなどのカトラリー以外にぎらぎらと光る小物は一切、置かれていなかった。
華美な演出はナンセンスだということを、会場を後にする新婦の背中が物語っている。
スレンダーラインのドレスは彼女の華奢な体型によく馴染んでいた。
歩くたびに繊細に紡がれた総レースの裾がしなやかに揺れる。
まるで風のない夜明けにしか見られない神秘的な海原を眺めているようだった。
「さっきからそれしか飲んでないじゃん。ほら、こんなにもたくさんの種類があるのにさ。ぜんぶ飲み放題なんだぜ」
ドリンクバーのボタンを片っ端から押して、一つのグラスに全種類の味を注ごうとしている青島なぎさを横目に、宮崎千穂は小刻みに首を振った。
理由を訊かれても彼女は答えようとしなかった。
アルコール入りのカクテルや蛍光色の炭酸飲料よりも、ルイボスティーの方がなんとなく肌に良さそうな気がする。
そう説明したところで青島なぎさが静かに頷いてくれるとは到底、思えなかった。
酔っ払った勢いで笑い飛ばすに決まっている。
「そんなに飲んでばっかりいると後でトイレに行きたくなっちゃうよ」と宮崎千穂は注意した。
「困らないよ。みんな怖がってトイレに行きたがらないから空いてるし」
青島なぎさの言うとおり、根も葉もない噂が効いて女性たちの間では自粛ムードが漂っていた。
本当に角食パンの幽霊を恐れてなのか、彼女たちは過剰な飲食を控えている。
真実を知っている宮崎千穂からしてみれば、なんとも不思議な光景だった。
「や、やっぱりケーキくらいは食べておこうかな」
そう言って宮崎千穂は嬉しそうに迷い始めた。
Maroon5の「Sugar」が軽快なリズムで彼女を誘う。
Need a little sweetness in my life.(人生にはちょっとの甘さが必要さ)
「なんだよ、さっきまでは全部くれるって言ってたくせに」
青島なぎさはカルピスやジンジャーエール、コカ・コーラなどが混ざったグラスのふちを一口舐めて、素直に顔をしかめた。
その後ろから二人の男性が現れる。
爬虫類顔の方は、おそらく高校生の時にドクロマークの黒装束を好んで着ていたタイプだと思われる。
二十歳を過ぎてもなお、黒いスーツに灰色のシャツを組み合わせ、ぎらぎらと光るクロコダイル柄のクラッチバックを脇に挟んでいる。
少しでも背を高く見せようとえんじ色のストールを首からかけているが、宮崎千穂には、どうしてもプロレスラーのモノマネをするお笑い芸人にしか見えなかった。
そして、なぜかメガネだけは高校生の時のまま。
もう一人はグレーのスリーピーススーツにクリーム色のシャツと黒いボウタイ。
ぽっちゃりとした体形にダブルチェックの柄が妙に合っていた。
だが、二十歳そこそこの若さで髭を生やし、黒いハットとサングラスで決めているのは、少しやり過ぎのようにも感じる。
「おや、それはスーパーエナジードリンクじゃないか」とクロコダイルは言った。
「ぼくも小学生の時よくやっていたなあ」
すぐ隣でダブルチェックが「俺も」と言って、彼らは軽くハイタッチする。
いずれも専門学校の同級生だという。
彼らは青島なぎさの紹介を受けて初対面の宮崎千穂に軽く会釈する。
そして、訊かれてもいないのに、まるで自分の苗字を名乗るようにして内定先の社名を公表した。
あとから聞いた話では、どちらも都内にある大手のアパレルメーカーらしい。
「それで、青山さんは現在どちらにお勤めかな」
クロコダイルは濡れたようにちぢれたパーマヘアをなまめかしくかきあげる。
慣れないストールが彼にそうさせるのか、どこか気取ったしゃべり方をする。
「ああ、今は郊外の縫製工場で働いてるよ。会社名を言ってもたぶんわからないと思うけど」
青島なぎさはそう言って、何食わぬ顔でスーパーエナジードリンクを一気に飲み干した。
クロコダイルは興味深そうに「ほう」とつぶやき、あごに手を当てて考え込んだ。
「それは…、またどうして縫製工場なんかに。今時、儲かるような仕事じゃないだろう」
「まあね」と言って青島なぎさは咳払いした。
「金持ちにはなれないかもしれないけど、人間関係には恵まれてるよ。おかげさまでね」
例えるなら好きでもないボンボンと結婚するのか、はたまた貧乏だけど愛情のある生活をおくるのか。
その後者を自分は選んだのだと彼女は言いたかった。
その間、ダブルチェックはすんともうんとも答えなかった。
まるで北海道の観光地に置かれているヒグマのはく製のようだ。
サングラスをかけているせいでいかつく見えるが、実は頭の中では何も考えていないのかもしれない。
クロコダイルは人差し指で鼻の横をかきながら言った。
「そうかい。まあ、同じ業界ではたらく者同士、仲良くやっていこうじゃないか。
…そろそろお色直しの時間だ。さて、花嫁は何色のドレスを着てくるだろう」
彼が斜め後ろを見上げると、ダブルチェックは眠りから覚めたようにぶるっと反応した。
が、アイデアは一つも浮かんでこない。
「ぼくはピンクだと思うよ。鵜戸さんは実に女の子っぽい女の子だからね」
クロコダイルがそう推測すると、二、三秒経ってからダブルチェックの表情がぱっとひらめく。
「俺も」と言って、彼らは軽くハイタッチした。
男性二人がドリンクバーから姿を消すと、青島なぎさは今更思い出したようにゲーッと顔をしかめた。
ご歓談中の皆さま、新郎新婦のお着替えが済んだ模様です。
お二人はいったい何色のスーツとドレスを選んだのでしょうか。
気になる正解発表は、こちらです…!
ふいに初雪が舞い降りるようにして、天井のスピーカーから聞き覚えのあるメロディが流れ出す。
一部の若い女性たちはそのイントロに触れた途端、たちまち笑顔になり隣の友人と手を合わせて頷き始めた。
アリアナ・グランデとジョン・レジェンドが歌う「Beauty and the Beast」だ。
会場の照明が落とされ、最初に登場した扉とは反対側の出入り口に新郎新婦のシルエットが浮かび上がる。
光を帯びた白い幕が開かれると、濃いブルーのタキシードと黄色のカラードレスを着た二人が現れた。
新郎の胸元には本物のバラでつくられた深紅のブートニアが添えられている。
おそろいのブーケを手にした新婦と手を取り合い、ゆっくりと歩き出す。
ドレスの上質なサテンオーガンジーに施されたグリッター刺繍がフラッシュの閃光を受けて金色にたゆたう。
膨大な時間をかけて描かれたその緻密な手仕事は、見る者に宇宙の銀河を彷彿とさせた。
複雑な模様を織り成す糸の一粒一粒に、作り手の魂が込められている。
それらの目に見えない支えを受けて、彼女はそこはかとない美しさを放っていた。
青島なぎさは両手をポケットに突っ込み、夜空を見上げるようにして静かにすわっている。
スマホのレンズ越しにではなく、自分の胸に焼きついて離れない特別な美しさだけを見据えて。
「…なんていうか、迷ったんだよね。
大きな会社に入ったら人生バラ色かなとか、その方がパパさんとママさんも喜んでくれたかなとか」
突然の独白だった。
宮崎千穂はとっさにその意味を推し量ろうとする。
しかし、この数年間で青島なぎさの人生に何が起きていたかを、彼女は知る由もない。
傾聴こそ最良の返事だと思われたが、彼女は同時に〈ある気がかり〉によって耳を塞がれていた。
主役の二人が各ゲストテーブルに用意された金色の燭台に火を灯していく。
これまでにない近さで新婦が通り過ぎる。
その度に宮崎千穂はぐるぐると体の向きを変えた。
彼女はどうしても自分の目で確かめたいことがあった。
暗がりの中で必死に目を凝らして、本人に気づかれないよう新婦の背中や二の腕にピントを合わせようとする。
いよいよ直径二メートルの丸テーブルを挟んだ向こう側から、宮崎千穂の視界に明かりが灯されようとしていた。
魔法のステッキのようなライターをかざす新郎の隣で、緊張した面持ちの新婦がブーケの中から一倫のバラを抜き取る。
そしてテーブルの中央に置かれた花器に捧げようとした。
「ねえ、美女と野獣ってどんな話だっけ」
宮崎千穂はハッと我に返った。
無意識のうちに青島なぎさに呼び止められ、自分が懐疑的な目つきで物事を捉えようとしていることに気づいた。
「…えっと、確か〈見た目よりも心が大事〉っていう物語だった気がする」
そう答えた後で、彼女は自戒した。
すでに新郎新婦は他のゲストテーブルに移っており、明かりの灯されたテーブルから順にメインディッシュの皿が下げられていく。
代わりに運ばれてきたのは限りなく平等に切り分けられたウエディングケーキだった。
「やっぱり半分あげる」と宮崎千穂は言った。「いろいろあったとは思うけど、就職おめでとう」
青島なぎさは口を半分開けたまま、大きな瞳で友人とケーキを交互に見つめる。
そして、両手の人差し指と親指を組み合わせてカメラのフレームをつくり、宮崎千穂にピントを合わせて「カシャッ」とつぶやいた。