第19項 錯乱と魔物
(なんであの子が…………!?)
思わず角に身を隠すゼクス。
脳内を駆け巡るさまざまな思考。高まる動悸と荒くなる呼吸。
もう一度、確信したく首を回して覗き見る。
霧が晴れ始め、確かにあの少女の姿がくっきりと浮かび上がる。
だが、さっきまでは見え無かった彼女の表情--怯えていた。
「ラルフ!! なにする気だっ!」
思わずゼクスは叫んでいた。
「おにいちゃん!!」
目尻に涙を浮かべながら安堵の笑みを浮かべる。
ラルフもピクリ、と声に反応し、動きを止めた。
ゆっくりと振り返る彼に絶句する。
真っ赤に血走った眼。ヨダレを垂らし獲物を捉えようとした獣のごとく。この一週間で知ったラルフではない。
これがラルフの本性だというのか。
その姿はまるで人間の皮を被ったーー
「魔物…………」
彼の首筋にうっすらと怪しげに赤く光る何か。
そのなにかに注視しているとーー
ウガァアアァァァッッ!!
両手でゼクスの首を締めにかかる。
ギリギリのところでゼクスは手首を掴む。人間の力とは思えない馬鹿力がジリジリと急所に迫り来る。
距離が縮まったことでラルフの首筋に光るものーー錯乱の呪符を確認できた。
(あれがラルフをーー!)
だが刻刻と近づく悪魔の手。四の五の言っていられないとゼクスは自らの魔力を一気に練り上げる。
瞬時に迫り来る腕はピタリと止まる。
だが一気に練り上げた魔力のせいで体力はもう、ほとんど残っていない。
ーーッ!ーー
ゼクスは身体を半分ひねり、ラルフの力を流す。体制を崩した瞬間、首筋の呪符狙い手を伸ばす。
指先が呪符に触れたと思った、瞬間、煌々と輝きだし魔法陣が展開された。
光の中から伸びる灰色の尖爪。眼前を掠め、身体を逸らす。
バックステップで距離をとる。浅く、左目元を掠り鮮血がじわりと滲む。
灰色の体表には毛一本もなく、小さな角が二本側頭部に異形のものと知らしめるように生えていた。肩甲骨の部分から伸びる皮羽を操り、ゆらゆらと宙を舞う。
ギ、ギギィと耳障りな軋んだ音を鳴らしていた。
魔物シュレム。ゼクスはそいつを資料でだが知っていた。魔神に使える下級魔物。人の心に入り込み、少しずつその人格を奪っていく。最後には取り込まれた人間の人格は戻らないという。
低級だが、れっきとした魔神族だ。他の自然発生の魔物とは放つ威圧から違っていた。
深紅の瞳に睨まれて、脚が震えそうだ。
シュレムをはさんで少女がジッと見つめている。期待に答えなくては。と、ゼクスは意気込むと、優しく微笑む。
「すぐ終わるから、そこで待っててな」
腰元から長剣を引き抜くと同時に、左手に大盾を出現させる。
瞬間シュレムの尖爪が再び眼前へと飛び込んでくる。狙いは――首。
だがゼクスは盾で視界を塞ぐように前へ構える。
鈍い音が鳴り響く。だが、軽い。
シュレムは一撃を加えると、空高く舞い上がっていた。ぐんぐんと高度を上げていくと、ゼクスに背を向けて、雲の中へと消えていく。
ゼクスは舌打ちをすると、すぐさま盾と剣をしまいラルフに駆け寄る。
「おじさん、気を失ってるだけみたい」
すでに少女がラルフの容態を見ていた。ゼクスもラルフの容態を見る。
呼吸、心音ともに以上はない。詳しくはないが容態を見るくらいはできる。
「ああ、そのようだな。なんだお前容態見れるんか? たいしたもんだ」
少女はラルフを横向き寝に体制を変えて楽なようにしてあげる。
「えへへ。あたしお医者さんになるの。お兄ちゃんみたいに強くは無いから……でも誰かを助けられるかなって」
純粋にゼクスを慕ってくれている。一度や二度助けただけの関係。だが、彼女の中では救世主のような存在になっているのだろう。
そんな風に思われている。ゼクスはむず痒くなり、頬をポリポリと掻く。
「それと、困ったときはお兄ちゃんがまた助けてくれるでしょ?」
少女ははにかむ。
そんな少女の頭にぽん、と手のひらを乗せる。
「ほんと、無茶はするなよ? まぁ……困ったときはいつでも助けてやるけどよ」
「ーーうん!」
「ん……あれ、俺は……」
直後、ラルフは目を覚ます。周りをキョロキョロと見回し、何が起きているのかわかっていないようだ。
「おお、にいちゃんと……この子は?」
「お前が襲おうとしていた子だ。魔物がお前から現れて――と、詳しい説明は後だ。親が心配してるだろう」
「…………ああ」
少女を貧民街の一角にあるボロ屋に帰すとゆっくりとどこかに向かって歩き出す。
ゼクスはその後ろをついていく。おもむろにタバコを取り出すと、ラルフが「俺も一本いいか」と求めてきた。
二人でタバコをふかして夜の街を静かに歩く。
中央広場まで行くと、噴水の淵に腰を下ろした。
「俺が、あの子を襲おうとしたのか?」
ゆっくりと、事実を確認するように。ラルフはうつむきながら呟く。
「ああ、事実だ。だけどそれはお前の意思じゃない。これのせいだ――」
ゼクスは懐から無地になった短冊状の紙切れを見せた。
「――錯乱の呪符。対象者の意識をコントロール下に置いて意のままに操る下衆な代物だ」
一瞥して左手でギュッと握りつぶす。赤紫の炎を不気味に上げ、灰が舞い散る。
「なんであんなものを持っていたんだ。誰かから買ったんじゃあ――」
「ち、違う! 俺は渡されただけだ! それにそんな危険な代物だとも知らなかった! 信じてくれ!」
ラルフは取り乱し、ゼクスの肩を掴む。
「落ち着け、俺は別にお前をどうこうしたいわけじゃない。言い方も悪かったな、すまん」
ラルフは手を離し「あ、ああ。すまん」と言って、力が抜けたように座り込む。
「俺はあいつ……ロクスティに渡されて持っていただけだ。『貴重なものだから大切に肌身離さず持っていて欲しい』とか言ってな」
静かに語りだすラルフを促すように、ゼクスはもう一本タバコを取り出して、二人で紫煙を曇らせる。
「お前とギルドであったあの日、ロクスティからあの札を渡されたんだ。最近物騒になってきたから、身につけているだけで様々な呪いから守ってくれるって。皮肉だな……あれ自体が呪いだなんてな」
嘲笑するラルフ。その目の奥には黒い感情が蠢いていた。
「…………。渡されたのはあれ一枚だけか? 他にはないのか?」
「ああ、あれだけだ。--だが奴は妙なことを言っていたな。『これから準備して周囲の村に品物を届けなくては』だとか。あいつは行商する奴じゃないのに……」
脳裏を駆け巡る思考。ロクスティは呪符をもっと広範囲にばらまくつもりだ。
「ラルフ。悪いが俺は急がなくちゃならなくなった」
「あ、ああ。俺は構わんが」
「それとあの子。何かあったら頼んでもいいか?」
目を見開くラルフ。さっきの一件がありながらも信用してくれているようで少しばかし気が楽になる。
「おう、なにかなくても責任を持ってあの子を守ってやるよ。なーに、娘が一人増えたと思えばなんともないさ。また、兄ちゃんには借りができちまったみたいだな」
「あんたを見習って前にしてもらった借りを倍にして返したまでだ――」
ニヤリ、と笑うゼクス。手のひらに拳をバシッと合わせて
「そんじゃ、やられたら――10倍返し。しに行くとするか!!」




