前編
昔々、雪降る寒い夜に、1人の貧しい少女がとある町の大通りの端に立っていました。
「……くしゅんっ……うぅ……寒い……っ」
今にも吹き飛びそうなボロボロの服をまとい、たくさんの人が通り過ぎるのをただひたすら見届け続けていた彼女の左腕には、マッチが入った箱が幾つも入っている籠がぶら下がっていました。もしこれを1つでも使えばそれなりに暖はとれますし、道行く寒そうな人々に売れば少しでも立派なお金になるはずですが、今の彼女にそのような選択肢はありませんでした。
「……はぁ……」
安物のマッチなど売っても、僅かばかりの炎にあたっても、自分の命はこの先長くない――虚ろげな目で行きかう人々を見つめる彼女は、この夜に自分に降りかかる運命を知っていたのです。
勿論、ずっと彼女が精神的にも肉体的にも追い詰められていた訳ではありませんでした。貧乏な家を少しでも養うために安物のマッチを売り始めてから――いえ、この世界には存在しない温かな機械に囲まれながら救いのない悲しい物語を知り涙を流した幼い日からずっと、彼女はこの『マッチ売りの少女』の運命を、この寒い日を乗り越え命を繋ぐことができる素晴らしいもの、最高の結末に変えたいと願い続けていたのです。流石にある日突然、自分自身がそのマッチ売りの少女本人に生まれ変わってしまうとは夢にも思いませんでしたが、その時の彼女はむしろ好機と感じ、物語の結末を変えるべくもがき始めたのです。
ですが彼女に立ちはだかったのは、『物語』と言う決められた運命の強固さでした。寒さに耐えかね、つい思いのままマッチを擦り続けた結果、彼女の記憶の中にある結末と同じように幻影の母の導きに吸い寄せられ、そのまま命を落としてしまったのです。
それでも幸いな事に、絶対に運命を変えたいという強い意志が影響したのか、心臓の鼓動が途絶えた直後、彼女の意識は過去へ飛び、あの冬の寒い日――『マッチ売りの少女』という物語の冒頭部分へと帰ってくる事ができました。その事に気づいた彼女は喜び、今度は絶対にあのような過ちは犯さない、と心に決めたのです。
しかし、その決意は無駄に終わりました。
幻影の母の誘いを敢えて断り、その場から逃げ出そうとした彼女は、自分の凍え切った体が限界に達していた事に気づいていなかったのです。
(……結局、あの時の『私』も、雪の中で息絶えたんだ……)
ならば、マッチを一気に消費すれば母親の誘いなど見なくても良いのではないか――そんなトンチンカンな発想を何故してしまったのだろうか、と雪の中で倒れながら思ったのが3回目の彼女の最期。
マッチを売る方に尽力すればきっと大丈夫――そのような淡い考えが打ち砕かれ、1個も売れなかったマッチが入った籠をぶら提げながら、暖炉の温かさに包まれた家の光景を望みながら息絶えたのが6回目の彼女。
今度は無理やりでもマッチを売ってやる――皆が怖がって避けていく中、甘い言葉で誘ってくれた男についていった自分の浅はかさを後悔し、自ら舌を噛みちぎったのが10回目。
家に帰れば良かったんじゃないか――『マッチ売りの少女』の父親が毎日酒ばかり飲む乱暴な男である事を忘れていた結果、思い出したくもない目に遭わされた挙句家から追い出され、結局寒い夜に放置されてしまったのが20回目。
(ここから離れても駄目、離れなくても駄目、マッチを使っても駄目、使わなくても……)
何十回、何百回と失敗を繰り返していくうち、とうとう彼女は成す術が無くなってしまいました。どんな手を使おうが、どんなやり方を用いようが、結局最後に待ち受けていたのは『息絶えたマッチ売りの少女』だったのです。しかも悪い事に、どれだけ嫌がろうと、命の炎が消えた瞬間に彼女の意識は元の寒空の下へ戻るようになっていました。いつしか彼女は、ただ同じ時間をひたすら繰り返すだけの存在に成り果てていたのです。
「……はぁ……」
マッチすら売れないただのみすぼらしい少女に残されていたのは、ただ自分の運命を恨み、悲しむ事だけでした。家に帰っても父親に追い出され、街には友達どころか知っている人すらおらず、警官もあてにならない、ちっぽけなマッチを買ってくれる人なんてもっての外――彼女の体を襲っていた寒さの原因は北風や雪だけではなく、この街の住民の心の中に渦巻く冷たさでした。
「もう……嫌……」
所詮『親切』な心なんてマッチの幻影のようなまやかしに過ぎない、周りに輝くのはみすぼらしい少女を陰で貶し続ける醜い炎だけ、こんな世界なんてもう嫌だ、早く終わりにしたい――彼女の願いは、いつしか自分自身の運命を終わらせる事へと変わっていました。でも、最早精魂疲れ果てた彼女には、その方法を考えるだけの気力も残されていなかったのです。
「……」
いつしか彼女の体からは力が抜け、大通りの端で立ち続けるのも限界に近づいてきました。今回もまた、最後に数えた120回目からずっと続く同じ流れ――マッチを売らず、擦らず、何もしないまま静かに雪の中で命が消えていく流れになるのだろう、と彼女は静かに納得していきました。
いつになったらこの繰り返しは止まるのだろうか、いやもう無理だろう、自分は永遠に『マッチ売りの少女』の物語の中で彷徨う他ない――一筋の涙を流しながら諦めの思いを抱いた時でした。突然吹いた一陣の風に途轍もない寒さを感じた彼女の体は、考えるよりも先に安物のマッチを手に取って火をつけると言う行動を取ったのです。
「……えっ……」
そして、マッチの光の中に映し出された光景を見て、彼女は驚きました。
ほのかな光の中に現れたのは、温かな暖炉でも美味しそうなご飯でも美しい少女の母でもなく――。
「……えっ……」
――1本の安物のマッチを握りながら驚きの顔を見せる、『マッチ売りの少女』そのものだったのです。
「……ど……どう言う……」
「どういう事……?」
数え切れないほどのマッチを消費し、ありとあらゆる幻想を目にし続けていた彼女でしたが、『マッチ売りの少女』自身が光の中に映し出されるという事態はこれまで1度もありませんでしたし、そのような事を願った記憶も一切存在しませんでした。ですが、彼女の目に映り続けたのは紛れもなく自分自身でした。ボロボロになった服も、その隙間から寒空の中に晒されてしまう白い肌も、そして聞こえてくる声も、何もかも彼女と全く同じだったのです。そして、唖然としながらそっと伸ばした手の感触に気づいた時、彼女――いや、彼女たちはさらに驚きました。そっと触れた目の前の自分自身の頬に宿っていた残り少ない温かみが、かじかむ指先へと確かに届いたのです。
「えっ……」
「えっ……」
しばし無言で見つめ合い続けた後、2人の彼女は同時に同じ言葉を発しました。貴方は一体誰なのか、と。
それに対して返した言葉もまた、全く同じでした。私は私、『マッチ売りの少女』になった誰かだ、と。
「……じゃあ、貴方も……あっ……!」
「マッチが……消える……!」
その直後、互いの手に握られていたマッチの光が消えようとした時、2人の少女はとっさに新しいマッチを取り出し、自分自身ではなく目の前にいる別の自分のマッチの炎をそのまま受け継がせました。そしてそのまま、新しいマッチを相手に渡したのです。
一体どうしてそのような行動を取ったのか、今までにない何かが心に湧きあがり始めたことに困惑しながらも、彼女たちは新しい光を与えてくれた自分自身に感謝の言葉を述べました。ですが、そのほんの些細な言葉を互いに発しあった途端、突然彼女たちの体に『力』が蘇り始めたのです。それと同時に、同じ姿同じ声を持つ少女たちの心もまた、まるでマッチの炎のようにゆっくりと、しかし確かに温かさを取り戻していきました。このぞっとするほど冷たい、牢獄のような世界で自分自身という存在をはっきりと認めてくれた嬉しさを燃料にしながら。
「……ふふ……」
「……ふふ……」
そして、彼女たちが『マッチ売りの少女』になって初めての微笑みを見せあい、そして不思議とその顔に惹かれたときでした。またも手に持っていたマッチから、炎が消えようとしていたのです。慌てて互いに新たなマッチを付け、何とか目の前にいる自分自身が消え去ると言う最悪の結末を逃れる事は出来ましたが、その炎を見ているうち、2人はある事に気づいてしまいました。『マッチ売りの少女』である以上、彼女たちはマッチを手に持ち炎を灯し続けなければなりません。ですが、それは同時に、例え目の前に自分にとって大事な存在が現れたとしても、その存在を体いっぱいで感じる事が出来ないと言う事なのです。
「……ねえ……」
「……どうしたの……?」
「……私と同じ事、考えた……?」
「……私も同じ事、考えた……」
目の前にいるのは、いつ果てるとも知れない輪廻の中でもがき続けた哀れな存在にして、自分が唯一信用できる存在、この冷たい世界の中に残されたたった1つの希望、そして何にも代えがたい世界で最も美しい宝。その感触を確かめることができるのは、自身の目を除けば僅かばかりの掌だけ。もっと近くに寄って互いの体を抱きしめいあいたい、でもそのためにはマッチを手放さなければならない――どうすれば良いのか、と悩んでいる2人の彼女が握り続けるマッチの光は、またも無情に消え去ろうとしていました。そして、今にもこの『夢』が消えようとする状況を見ていた時、彼女の中に今までに無かった『苛立ち』のような感情が湧き始めました。一体いつまで、この炎に自分は躍らされなければならないのか。自分はずっと、マッチを握り続ける運命なのか。
「私……貴方を……」
「私も同じ……貴方を心から……」
そして、互いに全く同じ思いを抱きながら新たなマッチを取り出そうとした、その時でした。突然、2人の手に別の感触が走ったのです。しかも、とても暖かく柔らかな。
その方向を見た2人の少女は、目を丸くしながら驚きました。彼女たちにそばに佇み、優しい笑顔を見せながら、新たなマッチの光を生み出していたのは――。
「もう大丈夫よ、『私』」
「マッチは、『私たち』が灯し続けてあげるから」
――何にも縛られず、目の前の自分を思いっきり抱きしめたいと言う願いに応えるかのように現れた、3人目、4人目の『マッチ売りの少女』だったのです。
「……本当に、いいの……!?」
「私を、ぎゅっとできるの……!?」
「ええ、心配ないわ、ねぇ」
「うん、だって『私たち』は『貴方たち』だもん」
何百回、何千回と繰り返し続けた『マッチ売り』の経験、精神まで凍えさせるような世界、そしてその中でついに見つけた自分にとって一番大切な存在――寸分違わぬ同じ体、同じ服、同じ髪型、そして同じ顔を持つ4人の少女たちは、その記憶や心も全く同じでした。そのような楽園を、もう誰にも邪魔させたりはしない、心行くまでたっぷりと『私』自身を楽しめばよい――新たな2人の自分の言葉を聞いた2人の少女の行動、そして涙を止める要素は、一切存在しなかったのです。
「私……今までずっと、貴方に会いたかった……!!」
「私も……貴方を探していたのかもしれない……!!」
「「……ありがとう!!」」
感謝の言葉と共に体中を包み込んだ『自分自身』の感触は、彼女たちの中から辛く苦しい過去を拭い去るのに十分すぎるほどの心地を持っていました。みすぼらしい衣装もぼさぼさの髪型も、抱き合う彼女たちにとっては最早一切気にすることはありませんでした。2人は仄かな光の中で、涙が枯れるまで存分に嬉しさを溢れさせながら、自分自身という最高の存在が傍にいることを心行くまで確かめ合いました。
そして、彼女たち――自分たちとは別の『マッチ売りの少女』たちが最高の時間を手に入れた事に安堵するもう2人の『マッチ売りの少女』も、隣にいる別の自分を笑顔で見つめ始めました。折角目の前で『私』が互いの存在に心が燃え上がっているのなら、自分たちもその心の炎を分けて貰おうか、と。
「それに、丁度マッチの火も……ね」
「うん、うん……」
そして、2人が揃ってマッチを用意し、それに火をつけた瞬間――。
「「「「ふふ、呼んだかしら?」」」」
「「ふふ、呼んだわ、『私』♪」」
――4人の少女の傍に現れたのは、手に仄かな光を握りながら別の自分を心から応援する、新たな4人の『マッチ売りの少女』でした。
そして、彼女たちの服装、外見、そして表情からは、絶望やみすぼらしさ、惨めさや冷たさなどといった感情が消え始めていました。まるで熱い炎に燃やされていくかのように……。