猪宰相は狼王子の夢を見るか?
聖女召喚と魔王討伐の物語を外側から見ていた人々の話。
或いは年上の女性が年下の青年に絡めとられるまでの物語
「早く、真偽を確かめねば。」
石造りの床に響き渡るは高らかな足音。擦れ違う人々に頭を下げられながら。足音の持ち主は迷いなく歩みを止めはしない。
足音の主は黒髪を後頭部で纏めた凡庸な面貌の女性であった。
しかし、真実。彼女が凡庸であるかと問われたならば否であると女性を知る者は首を黙って振ることだろう。
彼女は帝国エヒトグラールには彼の人ありとまで謳われる才媛。
帝国エヒトグラールの宰相にして、帝国史上初の女性官吏ネルケローザ・フォン・ヴィルド・シュヴァインであり。
“猪宰相”と近隣国に留まらずその辣腕振りから本国の貴族らに酷く恐れられる女性だ。
彼女を知らない者は、一人の女性を捕まえて猪と揶揄することを笑う。しかし自国の利益の為ならば立ち塞がる者を猪の如く貴賤の有無を問わずに蹴散らし。真っ直ぐに邁進していく様を知る人々は彼女を見事に表した渾名だと肩を竦めて見せるという。
そんな彼女は普段ならば鋼鉄の意思を滲ませる切れ長の瞳に微かな焦りを覗かせて。定規を当てて測ったような均一な歩幅を持ってして忙しげに廊下を歩いていた。
「失礼致します!」
辿り着いたのは帝国で唯一彼女が頭を垂れる人がおわす豪勢な執務室だった。
「皇帝陛下はおられるか!!」
ノックする暇すら惜しいと無礼を承知で執務室の扉を開け放った彼女は、飛び込んで来た光景に部下達の噂は本当であったかと唇を噛みしめた。
執務室には黙っているだけで無駄に威圧感を醸し出す強面な帝国エヒトグラールの皇帝その人と。彼女の出現に不思議そうに首を傾げる一人の少年の姿があった。
「····余の硝子のように繊細な心臓を潰すつもりか宰相よ。」
心臓に悪いではないかと胸を押さえ。顔をひきつらせる皇帝に宰相は眉を跳ねらせる。
「そんなことよりも皇帝陛下にお訊ね申し上げる!!何故、此度の魔王討伐の旅に皇太子のみならず第二王子たるヴォルフ閣下までご参陣召されるのですか!?」
その言葉に皇帝の傍らに立っていた少年は聡明な貴女らしくないと苦笑を溢した。
「ヴォルフ閣下!」
宰相に閣下と呼ばれた少年は線の細い華奢な体躯をしており。皇帝譲りの菫色の瞳と肩に掛かる長さで切り揃えた黒色の髪を揺らし、未だあどけなさが抜けない顔に大人びた眼差しを乗せて宰相に向ける。
「それが聖女様のご要望であることを宰相の貴女は既にご存知なのではありませんか?」
肩を戦慄かせた彼女にヴォルフはやはりと困ったように笑う。
“それ”が何時からこの世界に存在を根差してその脅威を奮うようになったのか。
歴史を紐解くところによれば千年ほど前を起点にして。人類は百年周期ごとに魔王と自らを称する魔族と魔王に率いられる形で猛威を撒き散らす魔物らによって苦しめられてきたという。
事態が動いたのは五百年前のことで。長きに渡る魔王との戦いの最中で国力が低下し劣勢側となった当時の人類を憐れんだ神が異世界から神の依り代となる【清らかなる聖女】を喚び寄せ。
依り代となった聖女に神の力を貸し与えたのである。聖女の力は絶大で。劣勢だった人類は戦局を覆し、魔王を討ち滅ぼすことに成功した
以後、魔王の出現毎に聖女を召喚することが慣例化し。丁度百年目の今年に大陸の名だたる諸国らと協議した結果。帝国にて五度目の聖女召喚の儀が行われた。
召喚により異世界から聖女を招くことに帝国は成功したが裏返せばそれは魔王が確かに存在しているということでもある。
聖女召喚から早三ヶ月。各地で頻繁する魔物らの被害が上がるようになり帝国は直ぐ様軍備を整えると喚び出した聖女を旗頭に据え少数精鋭の討伐軍を組織した。
討伐軍には帝国でも指折りの実力を持つという騎士団の団長や新進気鋭の宮廷魔術師。
そして皇帝の名代として王位継承権第一位の皇太子ラーゼンが魔王の本拠地であるとされている魔大陸へと向かう手筈になっていた。
一方で第二王子たるヴォルフは本来帝国を留守にする皇太子に代わり、帝国で宰相と共に外交を行うことになっていたのだ。
(それにしても皇帝陛下の名代とは言ってもあの皇太子というだけで私には不安しか生まれないのだがな。)
ましてや聖女殿がヴォルフ閣下に討伐軍に加わることを要求するなど。
疑惑が顔に出ていたのか皇帝は宰相の言わんとすることは余の懸念するところであると肩を落とすと。ヴォルフは兄上は頭が目出度いですからねと爽やかに告げた。
「アレが目出度いで済む手合いですか?」
野心だけはやたらに強く、王位継承権第一位であることを常に鼻にかける彼の皇太子は日頃から女であるというだけで彼女を侮り。
破竹の勢いで宰相にまで登り詰めたことに対して女の手管で皇帝を弄絡したと侮蔑を向けてくることを思い出して宰相は思わず鼻白む。
「ラーゼンは愚かではあるが悪人ではない。」
親の欲目やもしれんが流石に名代として任ぜればアレもそれなりの働きはする筈だと皇帝は頭を振る。
「ましてや魔王という未曾有の危機に世界が晒されている最中で“馬鹿な真似”はしないであろうよ。」
馬鹿な真似と強調した皇帝に宰相はそれが理由ですかとヴォルフ王子へと目を向けた。
「貴女のご推察通り、兄上には困った悪癖がありますから。」
苦い顔をする皇帝にヴォルフは兄上は無類の女好きだからと苦笑を溢した。
「相手が聖女でもお構い無しですか。」
清らかなることを求められる聖女に手を出すつもりかと唖然とする宰相にヴォルフは目を眇て頷いた。
────聖女は清らかでなければならない。
というのも聖女は神の巫女でもあることから穢れのない清らかな身体を持たなければならないのだ。
また神が清らかな者を好むこともあって。聖女が清らかさを喪失した場合は如何なる事情があろうとも神は清らかさを無くした聖女には力を貸そうとしなくなる。
融通が利かないように思われるが神の力を与えられる代価が清らかさだけというのだから。神はむしろ寛大だと宰相は思う。
何はともあれ聖女が力を喪えば最早魔王に対して人類は為す術がなくなることになる訳だが。恐らく女好きのラーゼンは九割九分の確率で聖女に手を出すだろう。
例え手を出してはいけないリスクある女性でも。ラーゼンという王子はリスクさえも情欲の炎を燃え立たせる薪に変えるのだ。
それこそ聖女なんてラーゼンにとっては格好の獲物であろう。
「そうならないように!急遽、僕が聖女様の護衛として討伐軍に着いていくことになったんです。」
表向きは聖女様から着いてきて欲しいとねだられたことにしてと苦笑を溢した。
「実際に聖女様には着いてきて欲しいと再三に渡って言われていましたからね。」
その言葉に召喚の儀以来軍備を整えたり、諸国との連絡などで忙しかった彼女は直接顔を会わせていなかったなと聖女の顔を宰相は思い出した。
(確か聖女殿はまだ十八歳だったか。)
ヴォルフ王子と同い年だという十八の幼さが抜けきらない少女然とした聖女を思い浮かべ。宰相はやむにやまれない事情があったとは言え無理矢理生まれ育った国から引き離されて。きっと心細い思いをしているだろうと胸を痛ませた。
几帳面な面持ちで悔恨の念を滲ませる宰相にヴォルフと皇帝は顔を見合わせた。
「宰相は聖女の素行を知らぬようだな。」
「あれ以来聖女様と顔を会わせていませんから仕方ないかと。」
首を傾げた宰相に貴女は知らなくても良いことですよとヴォルフは菫色の瞳を伏せた。
とりあえず事情は分かったと執務室を辞する宰相に一拍遅れてヴォルフは時間はあるかと彼女に声を掛けた。
「それにしても。まさかヴォルフ閣下まで討伐軍に参陣するとは思いませんでした。」
着いてきて欲しいとヴォルフに案内されたのは先の皇帝陛下が自ら植えたと言われている可憐な花々が咲き乱れる温室だった
久しく来ていなかった場所に宰相は目元を緩めた。
「共に外交に当たるはずだった宰相殿に何の相談もせず決めてしまったことは申し訳なく思います。」
怒っていますかと不安げに問うヴォルフに。宰相は少し思案したあと。私は花がありませんからと生真面目な様子で肩を落とす。
「諸外国の外交を担う大使らの中には愛らしいヴォルフ王子が帝国に居ないことに残念がるものもおりましょう。」
残念ながら私も皇帝陛下も人受けしませんからと苦笑を溢す宰相に。父上は外交のあとに物理が付きますからねと目を泳がせた。
「····本当に討伐軍に加わるのですか?」
そう憂うるように訊ねる宰相に。ヴォルフは聖女様の件以外にも理由があるのだと握りしめた彼女の手に力を籠めた。
「僕にはどうしても欲しくて欲しくて堪らなかったものがあるのです。討伐軍に加わる報奨としてそれを特別に頂けることになりました。だから、僕は兄上のお目付け役をこなします。」
それがなにかは答えることなくヴォルフは宰相に笑みを浮かべるとそう言えばと首を傾げた。
「父上と貴女は幼い頃よりの友人だとお聞していますが。それは真ですか?」
宰相の手を取り温室の奥に向かいながら疑問を溢すヴォルフに。まだ皇帝が貴方のような少年だった頃、前の宰相であった父に学友として会わされて以来の付き合いだと頷いた。
当時は学友として。今は臣下として長きに渡る付き合いになると宰相は懐かしんだ。
そう、あの頃もこうして皇帝に連れられてこの温室に来たことがあったと思い出し。宰相は微かに顔を綻ばせた。
(まだあの頃は皇帝陛下もヴォルフ閣下のように優しげな面貌をしていたのに。)
時の流れは残酷だと脳裏に到底堅気とは思えないほどに厳つくなった皇帝の顔を思い浮かべた。
「────宰相殿、単刀直入にお聞きします。」
やがて温室の奥に設えられた椅子に隣り合うように座らされた宰相は。ヴォルフの真剣な顔つきに首を傾げた。
「貴女は父上のことがお好きですか?」
「それが友人としてならば是と答えましょう。」
一人の臣下としても忠義に値する方でもあると苦笑を溢した。
「か、顔はどうですかッ!?」
我が父ながら厳つい顔面ですがと言い募るヴォルフに。宰相はこのように自分に皇帝陛下への忠誠の是非を問うとは自国を留守にするからだろうかと不思議に思いながらも。
ならば臣下として安心して閣下が旅立てるようにと宰相はヴォルフの手を握った。
「私の皇帝陛下への忠誠は決して揺るぎはしません。」
例え大陸中に呪われし顔面と顔が怖いことで知られている皇帝陛下だとしても。自分の忠誠は微塵も損なわれはしないと彼女は力強く頷いた。
「いえ、そう言う意味で聞いた訳ではなかったのですが。」
そう言えば同じ問いかけを幼き頃に皇帝陛下にされたと笑えば。ヴォルフは神妙な顔で父上は貴女の忠誠の篤さに破れたのかと天を仰いだ。
「魔王討伐の旅は短くても三年掛かると言われています。」
ゆっくりとヴォルフは宰相に向き直ると。三年後に貴女に伝えたいことがあると菫色の瞳を揺らがせた。
「それは今聞いてはいけないことなのですか?」
「どうやらまだあまり意識されていないようなので。」
名残惜しげに宰相に握られていた手を離して。ヴォルフは見違えるような姿になって帰ってきますと驚くほど艶やかに微笑むと彼女の頬に掠める様に口付けた。
「絶対に逃がしませんから覚悟して下さいね。ネルケローザ・フォン・ヴィルド・シュヴァイン宰相殿?」
僕を夢で見る度にどうか今日のことを思い出して下さいね。
「それを励みに僕は三年の月日を耐えて見せましょう。」
それでは準備があるのでと固まる彼女を温室に残して去る彼を半ば呆然と見送りながら。宰相は彼に口付けられた頬を押さえて目を白黒させる。
(きっと閣下の言葉に深い意味はないし。頬への口付けだって親愛の表現に違いない!!)
そうと分かっているのに何故こうも奇妙なほどに心臓が苦しいのだろうと。宰相は自身の不可思議な挙動に首を捻った。
それから暫くして帝国から聖女を旗頭に据えた討伐軍が人々に盛大に見送られながら出立する日が来た。
「行く先々で必ず手紙を書きますから!」
楽しみにしていて下さいねと軍服に身を包んだヴォルフ王子は出立の間際に宰相にそう言葉を掛けた。
その言葉の通りにヴォルフは立ち寄った街や村からなにくれとなく旅の道中の話であったり。討伐軍の面々に関しての話を手紙に書いては宰相に送ってきた。
間隔を開けながら届く手紙はヴォルフの目を通して世界の有り様をつぶさに語る。
気がつけば執務室に誂えたヴォルフからの手紙を保管する箱はいつの間にか積み上げられるほどに増えていった。
増えていく手紙の中でヴォルフは出来たこと。成し得なかったかったことを余すことなく語り。宰相が知る少年の姿から徐々に成長していく。
(閣下の成長は喜ばしいことではあるが少し寂しい気もするな。)
「宰相は居るか?」
城から与えられている自身の執務室で。皇帝へ上奏する政策について不備はないかと確かめていた宰相に気軽な風情で皇帝その人が顔を覗かせた。
「このように供も連れずに皇帝陛下が一人で来るなど!」
慌てて咎めようとする宰相に。皇帝は余とそなたの仲ではないかと苦笑を溢して。間違って自分のところに宰相宛のヴォルフの手紙が来ていたと手紙を彼女に渡した。
「ヴォルフはそなたの手紙にはなんと書いて寄越している?」
ペーパーナイフで封蝋を切って手紙を広げ中身を改めた宰相は伝えてよいものかと言いにくそうに。聖女とヴォルフとの間で亀裂が出来ているようだと口ごもった。
「そのことならば此方でも情報収集に放った間諜が既に情報を掴んでいる。」
手紙と皇帝の言う情報を擦り合わせて纏めてみると。聖女は皇太子を筆頭に旅の道中で討伐軍に加わった見目麗しい義勇軍の騎士や冒険者に精霊術師といった者らと恋愛関係になっていると言うことが判明した。
清らかでなければ聖女としての力を使えなくなる為、ヴォルフを中心に騎士団の団長や宮廷魔術師が目を光らせて彼等を牽制しているというが。
それを疎ましく思われたのか近頃は聖女達からヴォルフは避けられているらしく気苦労が絶えないとも手紙には書かれていた。
普段、あまり愚痴を手紙には書かないヴォルフ閣下がお珍しいと宰相は小さく笑う。
何とはなしに文字を指で辿っていると末尾に三年の間に自分の夢を見ていてくれたかと彼女に問う一節に指が行き当たる。
「旅立ってもうすぐ三年になるのだな。」
そう感慨深げに呟く皇帝に宰相は頷きながらも。あの日からヴォルフの夢を見なかった日はないと目を伏せた。
繰り返し夢を見る度に。あの日のことを思い出さずにはいられなかったと宰相は嘆息する。
(けれども思い出す度に分からないことがある。)
ヴォルフが彼女にするようにと告げた覚悟とは一体どういう意味なのだろうかと首を傾げる宰相に。皇帝は本当にお主は鈍いなと苦笑を溢した。
「なあ、宰相よ。遠国には男子三日会わざれば刮目して見よという諺があるそうだ。」
彼女の肩を叩き皇帝は意味深に親の成せぬことを子が成すだろうと笑ってみせた。
そんなやり取りから一月後のこと。魔王討伐と言う人々が待ち望んでいた一報がもたらされたことで帝国中が沸いていた。
「ただいま聖女様並び皇太子ラーゼン閣下がご帰還の途に着いていると早馬が知らせて参りました!」
(では、ヴォルフ閣下が帰ってくるのか!)
慌ただしく帰還の祝いに沸き立つ人々を纏め指示を飛ばしながら宰相はパレードや祝賀会の準備に忙しく駆け回る。
ここぞとばかりに仕事を放棄する皇帝を締め上げながらも。宰相はヴォルフの凱旋を誰よりも心待ちにしていた。
─────けれども帝国に戻ってきた討伐軍の一行の中に。ヴォルフの姿はどこを探しても見つけることが出来なかった。
そのことに宰相は奇妙な胸のざわめきを覚えた。
謁見の間に意気揚々と入ってきたのは皇太子のラーゼンと彼に肩を抱かれるようにしてしなだれかかる聖女と。
途中から加わったと思しき義勇軍の騎士と冒険者に精霊術師であろう見目良い青年達だけ。
謁見の間に集められた帝国の名だたる貴族や官吏達が訝し気に囁き合う。
宰相は皇帝の傍らに立ちながらも、鼓動が強く打つ音を聞いた。
喉が張り付き呼吸の仕方を忘れたかのように彼女の口からは不規則な息が漏れる。
「ッ恐れながらラーゼン王子にお訊ね申し上げる。」
それでも、ヴォルフ閣下は何処におわされるかと追求の声を張り上げたのは宰相に任ぜられた者としての半ば意地だった。
「なんだ。貴様はまだ宰相の地位にしがみついていたのか。」
例え、それによりもたらされる結果が最悪なものであっても問わねばならなかった。
「ヴォルフ閣下はどこにおられるのか今すぐ答えなさい!!」
にたにたと笑うラーゼンに宰相は気がつけば制止の声を振り払って壇上を降りると彼の胸ぐらを掴んで叫んでいた。
血の気を失った宰相にラーゼンは悪意を塗りたくった笑顔で。一月前に魔王討伐の為に赴いた魔大陸の地にて弟は見事に敵の罠に嵌まり、騎士団が団長と魔術師長の両名と共に討ち死にしたのだと笑った。
(····嘘だ、そんな筈がないじゃないか。)
懐から宰相は戦慄く指で手紙を抜き取りラーゼンに突きつける。
「ヴォルフ閣下は一月前にも手紙を出されるほどに息災であられたではないかッ!?」
瞳を揺らがせ青ざめながらも事実を否定しようとする宰相に。ラーゼンは高らかに彼女の心を突き崩す言葉を吐き出した。
「ヴォルフは魔大陸で死んだのさ!!」
宰相に突きつけられた手紙を破りさりながら。彼は愉快だとばかりにそう笑った。
硝子が砕けるように膝を着いた宰相を一瞥して。鼻を鳴らすとラーゼンは玉座にて佇む皇帝に向けて慇懃無礼に皇帝陛下に申し上げると聖女の腰を抱き笑い出す。
「今後、世論は今魔王討伐の功労者たる私と聖女を次代の皇帝にと動くことでしょう!!」
つきましては我が父上には速やかに玉座を明け渡して頂きたくと不遜に宣う己が息子に。ざわめく人々を片手で制すると皇帝は徐に口を開いた。
「愚かではあっても悪人ではないと信じていた余の考えは誤りであったようだな。」
皇帝は片手を挙げ。衛兵よ、国家転覆を謀る逆賊を捕らえよと決然と命令を下した。
「魔王討伐の英雄に何をなさる父上!!」
衛兵に次々と捕らえられ、床に叩き付けられていく討伐軍の仲間たちにラーゼンは遥かな玉座で悠然と佇む父に食ってかかる。
「お前が引き込んだそこな者らを使いクーデターを犯さんとする企みは既に我が帝国が誇る優秀な間喋により知れている。」
その言葉を引金に高らかな靴音がさざめく謁見の間に響き渡る。
「──────必ず帰ると俺は貴女に誓った筈だ。」
膝を着き、肩を震わせていた彼女の耳に飛び込んで来たのは見知らぬ筈の誰かの声。
床に着いた手が取られ、抱き上げるように宰相である彼女を引き寄せたその男は。約束通り帰ってきたと口の端を吊り上げた。
自身を抱き止める厚い胸板も。逞しく引き締まったしなやかな四肢も。柔かに鼓膜を擽る低い声の感覚も。首筋から右頬に走る痛ましい傷痕も彼女の記憶にはない筈なのに。
「ヴォルフ、閣下なのですね?」
その男は記憶の中の少年と同じ菫色の瞳を宰相に向けたのだ。
驚愕に眼を見開く宰相を腕に抱き。ラーゼンへと皮肉気な色を乗せた菫色の瞳を寄越すと咆哮の如き壮絶な笑みを浮かべた。
「我が愚兄ラーゼンよ。ヴォルフ・フォン・エヒトグラールはこうして生きているぞ!!」
「どうして殺した筈の貴様が生きているッ!?」
魔王と手を組み、仲間と分断し。一人、魔王と相対することになったお前を。この手で背後から斬りつけて殺した筈だとラーゼンは泡を吹きながら叫んで慌てて自身の口を塞ぐ。
「自分から罪を白状してくれるとは説明の手間が省けた。」
ヴォルフは首筋から右頬に掛けて走る顔の傷を指で叩くと。死ぬに死ねなくてなと肩を竦めて見せる。
「魔王と結託して弟の俺を殺し。父上を追い落としたのちに。この国を魔王に売り飛ばそうとした愚兄に引導を渡すためだけに地獄から舞い戻って来たんだ。」
聖女を抱き込んで虚偽の討伐報告をしようとしたみたいだが。魔王の罠を機転で乗りきった宮廷魔術師が転移魔法で俺達を帝国まで一足早く戻らせてくれたからな。
「包み隠すことなく父上には全てを報告させて貰ったし。手勢を整えて、魔王も改めて俺が討伐した。」
振り仰ぐように玉座を見上げたヴォルフに。皇帝は鷹揚に頷き。父ではなく帝国の指導者としてラーゼンへと処分を下した。
「これより離宮にて蟄居を命じるが廃嫡は免れないと確と心得よ!!」
衛兵により聖女共々謁見の間から連れ出されるラーゼンを見送り。ヴォルフは改めて腕に抱いた宰相に向き直る。
「三年前と貴女は何一つ変わらない。」
俺はそれが嬉しくてたまらないとヴォルフは笑みを浮かべた。
「貴方は···些か、変わりすぎ···ではありませんかね?」
華奢な体躯だった少年の名残が一切見当たらない堂々たる逞しい体つきに。宰相は震える声音で問えば背も随分と伸びたからなとヴォルフは快活に笑ってみせた。
変わったのは背丈だけと言うつもりかと。少年時代の優しげな顔つきから余りにも劇的に変わってしまった厳つい相貌に目を剥く宰相に端からやり取りを見ていた皇帝は苦笑を溢し遺伝だなと口を挟んだ。
「遺伝で片付けて良い範疇を遥かに越えてやいませんか!?」
儚げな美少年が世紀末覇王に変わる遺伝とか最早呪いだろう。
むしろ呪いだと言われた方がまだ納得が出来ると額を押さえた宰相に皇帝は笑いを堪えるように語る。
「とは言ってもだ宰相は余の幼き頃を良く知っておろう。」
皇帝の幼き頃と宰相は遥かに遠い記憶を辿り。確かに貴方も紅顔の美少年でしたねと行き着いてしまった事実に頭を抱えた。
「我が家系はある日を境に必ず強面になることが遺伝で定められておるのだよ。」
物憂げな表情で語る皇帝にそれはまた嫌な遺伝ですねと宰相は唸った。
「昔話に花を咲かせているところ申し訳ありませんが。」
そんな気心知れた二人の会話に待ったを掛けたのは他でもないヴォルフであった。
「皇帝陛下より此度の魔王討伐の報奨を賜りたく存じます。」
そう切り出したヴォルフにラーゼンの捕縛で浮き足だっていた人々が居住まいを正し成り行きを見守る。
「その様子では三年の月日の最中でもお主の想いは変わらなかったと見える。」
宰相は咄嗟に抱き抱えられていた腕から離れようと試みるが。腰を強く引き寄せられ腕の中に笑顔で留め置かれ息を飲んだ。
「ならば余はその想いを汲んで宣言しようではないか。」
謁見の間に集う人々が決して聞き漏らすことがないように皇帝は声を張り上げた。
「魔王討伐の報奨として我が嫡子ヴォルフ・フォン・エヒトグラールと宰相ネルケローザ・フォン・ヴィルド・シュヴァインの婚姻を許可する!」
謁見の間が割れるような歓声で大きく揺れた。
「お、お待ちになられてください皇帝陛下!!どうして私と婚姻することがヴォルフ閣下への報奨になるのですかッ!?」
驚愕から抜け出すと慌てて言い募る宰相に。皇帝は三年前のあの日に魔王討伐に加わる報奨としてお主との婚姻をヴォルフにねだられていたのだと玉座に肘を着きながら息子に話を向ける。
「俺が欲しくて欲しくて堪らなかったものは貴女だ、宰相殿。」
身構える宰相に気づき。腕から解き放つと膝を着き彼女の手を取りヴォルフは笑う。
「なあ、俺の夢を貴女は見ていてくれたか?」
貴女が俺を夢に見てくれていると思えばこそ。三年という月日の長さを耐えられた。
そう微笑むヴォルフに確かに貴方の夢を見なかった日はないと震える声で頷きながらも宰相は惑うようにヴォルフを見る。
「ヴォルフ閣下は私と閣下とでは歳の差が幾つあるとお思いなのですか?」
それに魔王討伐の栄を得た貴方ならば。婚姻相手も引く手あまたに違いないと後退ろうとする彼女の手を確りと握り締めて。魔王討伐は貴女を得るための手段だったと事も無げに告げる。
「歳の差など恋心の前では些細なことだ。」
「歳の差だけじゃない。私達には身分だって大きな隔たりがあるではありませんか。」
「それを取り払う為の魔王討伐だった。」
全ては貴女を手に入れる為だけにと熱を帯びた菫色の瞳で彼女を見上げヴォルフは口角を吊り上げた。
「あの日に俺が告げた通り覚悟してくれネルケローザ。」
俺という人間に愛されるという覚悟を。彼女の手の甲に口づけながらヴォルフは柔かに甘く目を細めた。
「愛している。貴女という人を誰よりも────。」
帝国エヒトグラールには彼の人ありとまで謳われる一人の女性が存在した。
帝国史上初の女性官吏にして。宰相という肩書きを持った彼女は辣腕振りから猪宰相と近隣諸国や本国の貴族らにまで酷く恐れられた人であったという。
また長きに渡って宰相として二人の皇帝に仕え帝国の繁栄を支えた彼女は。後に帝国の中興の祖と謳われる魔王殺しの英雄。
皇帝ヴォルフ・フォン・エヒトグラールに后として召し上げられ。公私両面に渡って彼の皇帝に深く寵愛されたことでも有名であったと後の世の歴史書は語る。
補足と余談
ドイツ語でネルケローザ・フォン・ヴィルド・シュヴァインのヴィルド・シュヴァィンは【猪】をヴォルフ・フォン・エヒトグラールのヴォルフが【狼】となっていてタイトルの猪と狼はここから。
また実は乙女ゲームの世界だったりしますがそれを知らない人達から見た世界なので聖女も魔王もこの物語では非情に存在が薄いです。