二人の女の子2
「何するのよ!セクハラで訴えるわよ!」
「今この状況で誰に訴えるんだよ」
一方の直人は至って冷静。痛いツッコミが返ってくる。反論の言葉が思い付かずぐっと息を詰まらせる私を、直人が指差した。いや、彼の目を追う限り指の先は私じゃない。もっと後ろの――。
「……!」
指し示す先を追って振り返った後、私は暫くの間硬直した。また溜め息の音が聞こえてきたけれど、反論の言葉が思い付かない。それ以前に反論の余地なんてなかった。
背後にあったのは白のペンキで塗り潰され、その上から大量の落書きが施された扉。赤いコックさんも青いイルカも黄色いヒマワリもその他の落書きとしか言い様の無い絵も、全て見覚えがあった。扉のノブにボールチェーンで吊された、ハートとスペードのお手製マスコットも。
「ちゃんと前見て歩けよ」
その言葉から察するに、彼は私の態度に痺れを切らしたのではなく、扉にぶつかりそうだったのを助けてくれたんだろう。
「あ、その……」
自分の犯した過ちを謝ろうと俯き、しかし私は口を噤んだ。ごめんの一言をうまく紡ぐ事ができなかった。そんな私を彼がどう思ったのかはわからない。だけど、ふっと息をつく音に顔を上げると、ハニーブラウンの髪を揺らして直人が頭を下げていた。
「笑ったりして悪かったな。記憶喪失のままこんな胡散臭い場所に来たら誰だって不安になる。もう少し察するべきだった」
私にはなかなか出来なかったその行為を、直人は簡単にしてみせる。それを目にした途端、頭の中が妙に冷静になるのを感じた。考えてみたら記憶喪失のままこんな場所に連れて来られたのは直人も同じ。不安なのは彼も同じなのだ。それなのに人の事を心配し、人の心を理解しようとしてくれる。
同い年なのに私には彼が凄く大人に見えた。それと同時につまらない事で怒っていた自分が恥ずかしくなる。
「私の方こそごめん」
「ん」
短い返事だったけれど、そこには非難するような響きは一切感じられず、代わりにあったのは柔らかく包み込むような包容力。ぽんと一度私の頭を軽く叩くと、直人は扉を開き奥へと姿を消した。すぐに私もその後を追いかける。
***
暖かな日差しはうららかな午後を照らし出す。閑静な住宅に囲まれたあまり大きいとは言えない公園。そこには申し分程度の遊具が設置され、中でもジャングルジムには小さな子供達が群れをなし、我先にとてっぺんを目指して登っていく。
そこから少し離れた場所に設けられたブランコを、二人の幼い子供が占領していた。一人は真っ直ぐの黒髪を二つに結わえた、整った顔立ちの可愛らしい女の子。もう一人は癖の強い栗色の髪をショートカットにした、平凡な顔立ちの少しふっくらとした女の子。二人は隣同士のブランコに腰掛け、きゃっきゃと笑いながら漕いでいた。小さな手でしっかりと握られた鎖部分が軋んだ音を立てる。ブランコを支える梁から地面へと伸びた緋色の柱の元には、真新しいランドセルが二つ。恐らくブランコで遊ぶこの二人の物なんだろう。
黒髪の女の子が目を細める。そうする事で黒目がちの瞳を縁取る長い睫毛が際立って見えた。黒髪の女の子が何かを言うと、栗色の髪の女の子も微笑みながら何かを答える。会話の内容まで聞き取る事は出来なかった。それが距離のせいか他に理由があるのかは定かではないけれど。
ぐらり、と。視界が揺らいだ。咄嗟に額を押さえ、ゆっくりと離す。
ほんの一瞬の間に辺りの光景は一変していた。左右は相変わらず崩れかけたコンクリートに挟まれ、目の前には地平線さえ窺える先の見えない一本道。空にはぐるぐる巻きの太陽やすずめらしい茶色の物体。後ろには空間を移動したとは思えない、今まで歩いてきた証しである長い行程。
そして壁に寄掛かりながら私を待つ、ハニーブラウンの髪の男の子。
「今度は何が見えた?」
壁から背を離し直人が言った。私は扉で彼と別れてから今までに見た光景をかいつまんで話して聞かせる。あの黒髪と、栗色の髪の二人の女の子の事も。
直人はただ一言、そっかと呟いた。その時に一瞬だけ向けられた視線が気になり、肩よりも短めに切り揃えられた髪の一房に手を添える。茶髪とまではいかないにしても、薄く茶味がかった栗色に近いそれを。
「直人の方はどうだったの?」
ようやく切り返したのは道を進み始めてから数分経った頃。髪を撫でるという行為を何度か繰り返した後、手を下ろしながら問い掛けると、直人は横目に私を窺い見ながら両手をジーンズのポケットに突っ込んだ。
「レストラン」
「レストラン?」
「ああ。その辺のファミレスとかじゃなくて、腕にナプキン下げたボーイなんかが居る見るからに高級そうな店に飛ばされた」
うんうんと相槌を打って先を促すけれど、彼はそれ以上何も言わない。
「それで?」
今度はしっかりと先を促した所、直人は目を閉じて頭を左右に動かした。
「別に、なーんにも。家族連れや恋人連れなんかがメシ食ってるのを見てただけ」
あまりにどうでも良さげにきっぱりと言い切るものだから、私の方が面食らってしまった。
「本当に?」
「ホントに」
「それだけ?」
「それだけ」
その言い方はすでに清々しいの域にまで達している。
――これが普通の反応なんだろうか?
私は自分自身に訊いてみた。私がいちいち自分の事に関連付けようと難しく考えてしまうだけで、本当はこれが普通の反応なのかもしれない。そんなに深く考えるような事ではないのかも。
この時、私は自問自答するあまり気が付かなかったんだ。彼の眉間に刻まれた皺の存在とその意味を。
***