二人の女の子1
軽快なメロディは流れるように頭内へ染み渡り、弾けるようなテンポは心を踊らせる。子犬のワルツは確かに有名な曲だけど、クラシックに触れるような日常を送っていなければこんな気持ちになる事もないだろう。
――だから。
「きっと私、ピアノを習ってたのよ」
「……は?」
私の閃きに、直人は何とも形容し難い呆れ顔で振り返った。
別々の空間を抜け合流した私達は、おなじみの一方通行な道をひたすら突き進んでいた。落書きな空も瓦礫な道も相変わらず。唯一違う事といえば、さっきまでは所々あった曲がり角が一切無くなったという事ぐらい。おかげで普通に暮らしてたんじゃ一生出会う事が無いであろう、どこまでも続く地平線という代物を経験することが出来た。決して嬉しい体験とは言い難いけれど。
二、三歩前を歩く直人を早足で追い掛け隣に並ぶ。気遣ってくれたのか直人の歩く速度が落ち、私も普段通りの歩幅に戻す。
「いきなりどうしたんだ?」
顔をしかめながら訊いてくる。私は今までずっと考えていた事を話した。
「だから、私きっとピアノを習ってたんだって」
「何で」
そう思うんだ、とでも言うように直人は首を傾げた。ハニーブラウンの髪が重力に従ってサラリと流れる様が、女の私の目から見ても綺麗だと思う。
――いやいや、何見とれてるのよ!
直人の眉が顰められ、私もようやく我に返る。今はそんな事考えてる場合じゃない。
「ほら、さっき話したでしょ?誰かの家で小さな子供がピアノを弾いてたって。あの曲、子犬のワルツだったのよ」
「それで?」
「クラシックってテレビとか色んな場所で聞くけれど、曲の名前までは普通わからないものでしょ」
「だからピアノを習ってた、と?」
「そう。女の子がクラシックと触れる機会なんてそれしか考えられないもの!」
ぎゅっと拳を握り締めて力説していると、隣からククッと喉の鳴る音が聞こえた。見てみれば、前髪で表情を隠しながら小刻みに肩を揺らす直人の姿。
「笑わないでよ。ちょっと失礼じゃないの?」
「だって、単純過ぎっ……!」
非難の目で見ても直人の笑いは収まる事を知らず、堪えていた声さえも漏らす始末で。私は横目に彼を睨み付け、肩を怒らせ大股で歩き出した。
単純だって事ぐらいとっくの昔に自覚している。本当はわかっている。あれだけ有名な曲なんだから、ちょっと興味さえ湧けば知る事は出来る。そうじゃなくても他にも方法は沢山ある。でも自分の事がわからないこの状況下、些細な事だろうと自分を知りたいと強く願うのはそんなにおかしい事だろうか。それが間違った情報でも、何の役にも立たないような情報でも、自分自身の事なのにわからないという不安を紛らわす材料になるのなら。
一度は開いた距離が、どんどん縮まっていくのがわかる。靴の底がコンクリートに触れる、カツンカツンという音が近付いてくる。
「そんな怒んなって」
やがて隣に並んだ直人が、ポケットに手を突っ込みながら上半身を乗り出して私を見た。ぶつかる視線をすぐに逸らすと溜め息の音が耳に届く。
「おい明日香」
「……」
名前を呼ぶ声でさえ無視する私は、凄く子供っぽいんだろう。その上、わかっていて行為を続ける辺りかなりの負けず嫌い。
――と。
不意に制服の襟首が後ろに引かれた。それはもうグイッとおもいっきり。咄嗟に逃れる事も出来ず、私は体勢を崩し直人に寄り掛かった。見た目通り直人の体は痩せていて柔らかみなんてあったものじゃない。彼の胸にぶつけた後頭部が結構痛い。これがコンクリートじゃなくて良かったと、そんな風に思えるほど私の心は広くなく。肩を支える手を払い退け、上半身を捻って振り返ると彼に食ってかかった。