4.鋼の意思(2)
顔を白いマントで覆い、あたしは赤いコォムを杖代わりにして、野原を進んだ。
空は依然暗い。数ヶ月前にふと思い立って、ペロペロ王の太陽の国へ向かうことを決めた。道行くあおじん達に方向だけを尋ねて、ただひたすら歩く。
まだか、まだ闇は止まらないのか…
疲労や、孤独を感じなくなるなんてこと、絶対ない。
何度感じても、耐えることのない嫌な感情。汚いものだけ、辛いものだけあたしの心を掴みとってゆく。いつしか星を願うこともやめてしまった。
黒 闇 錆 滅 辛 酷 涙 泣 悲 痛 喪 亡 怒 哭 腐 シ
あれだけ輝いて見えたこの世界。闇の中だからこそ映える、オレンジ色の堤燈。黄色いテント、白いビルに、落ち葉を縫い合わせた屋台。身体が恐ろしく大きく、男か女か、区別の付かないあおじん達に、ひしゃげた羽根と透けそうな肌をした、細く弱弱しいシルエットのしろじん達。はじめて出会ったきじんは、青く大きな瞳の、美しい白雪王子様。
記憶の混乱と、アイデンティティの崩壊に心を乱されながらも、あたしを取り囲むものは素朴で、豪奢で、不思議だった。
ねちょねちょした食べ物も、通貨代わりの花びらも。白いセェラァ服も、全て。
今、あたしの黒い瞳に映るのは、神出鬼没のアルシオンと、魔法で交信しただけの王、老婆のルシア。
アルシオンは、あたしにとって、恋の相手ではなくアガペを捧ぐべき人となっている。彼はあたしを監視し、おもしろがり、ルシアについて教える。あたしの仄かな恋心を知って、あたしを玩ぶ。あたしはすっかり、彼のオモチャ。
「君は、ルシアに呪われているんだよ、ちゃあんと謝って、魔法を解いてもらわなくちゃいけないんだよ?」
「どんな、呪いなの?」
「君が僕を殺すように」
「嘘ばっかり」
「うふふ、嘘だと思いたいんだろう?僕がいなくなったら、君には何も残らないものね、僕を愛することしか、できない身体だものね」
「そうしたのは、あんただよ」
尖った葉先が、素肌に痛い。脱いだ衣服を地面に敷いても、野生の野原はあたしをうがち、苦しみを与えた。懐かしい思い出。
常にアルシオンの身体からは、紫色の光りが立ち上り、あたしを優しく包み込んでいた。野生の草花よりも深く、あたしを衝きながら、アルシオンは目を開いた。
大きな青い目で、見つめてくる。
何でも知っているよ。
「嗚呼、どうしてぇ、こんなことになったのぉ?」
涙を流し、叫びながら、あたしは何もない自分に気が付いたものだ。莫迦な女と、嗤うがいいさ!あたしは事実も真実も、何も知らないベイビィだったんだからね。何十時間も抱き続けたかと思えば、ここ最近のように、何ヶ月も現れないアルシオンのことも知らない。枯れた薔薇の花を落としながら、逃げ続けるルシアのことも知らない。記憶が途切れたすぐ後に、苦楽を共にしたアズとルナの所存も、反きじん砂族のウバヤ=フキラ達の安否も、何も知らない。
「あ、はぁ、モドリタイよぉ」
「どこへ?」
「あっ、あっ、あっ。ア――!」
どこへ?
どこへ?
どこへ?
頭の中は混乱。明解になりかけた思考と、自身を貶めようとする思考とが、衝突しあっている。ヘッドヴァアンしたみたい。考えなくちゃならないことを、考えたくなくなってしまう。思考の迷宮。
少しばかり夜が明けている。
白んだ空。
ペロペロの世界が近いのだ。歩き続ける。足が痛い。
会話を忘れた喉が乾涸び、上下左右の筋肉が衰えている。長い髪の毛が風邪にさらわれる。もう少し、もう少し。
見晴らしの良い大地、その向こうに森が見えた。背の高い真っ黒な木が、肩を寄せ合っている。その向こうに光りのヴェェルが見えた。
迂回するのも面倒だ。目測では、何時間もかからずに通り抜けられるほどしかないモリじゃないか。だけど、“白鳥の羽根屋上”で手に入れた、白い僧侶のような洋服が、これ以上ボロボロに、汚れてゆくと思うと残念だった。真赤なコォムを地面に突き刺し、あたしはその森に挑むことにした。
空を見回してみても、アルシオンの気配はない。彼に伝えなくてはならないことが、あるというのに。どうして、何ヶ月も姿を見せてくれないの。
あたしはやはり、純粋なきじんではないと、告白しなければならないのに。
きじんは、生まれず、死なないのならば。三千人三千色から、変わるはずがないというのなら。あたしはやはり、異邦人だったのだ。
そうでないのなら、誰がこの坊の父親であろうか。
「かあさま?」
あたしのお尻にも届かない、小さな人。天使の産毛をもった、黒い髪と青い瞳の、アルシオンの生き写し。股のところにボタンのある、赤ちゃん用のズボンをはいている。
他人との会話は一切ない。あたしは、息子と話をする以外の口をもたない。
「くさがいっぱいよ―?こあいのぉ?」
「怖くないよ」と、あたしは答えようとしたけれど、声が出なかった。喉がからからに渇いて、接着剤で固められたみたいに、口の上下が閉じていた。
唾液が出ない。巨大な瞳をぎょろぎょろ動かすだけだ。あたしは唇を震わせる。
どうやら、唯一の肉親であるこの坊との会話も、随分怠っていたらしい。かぱっと、閉じていた口が上下に開いた。それは激痛を伴った。干からびて、くっついてしまっていた皮膚と皮膚が、ぺりぺり剥がれてしまって、唇が二つに割れた。
やっとの思いで、吐息のような声を出す。
「怖くないよ?森さんはとっても、優しいのよ?」
「そぉなの?」
「なっちゃん、怖いの?」
坊の名前は、夏男という。夏という季節に生まれた、男の子だったからだ。当然のことながら、純粋なきじんの赤ん坊というものは、夏男以外には、この世に絶対存在しない。
あたしは、あおじん達の子育てを真似して、数ヶ月、なんとか幼児と呼ばれる程度の大きさまで育て上げた。あおじんと、ほぼ変わらない速度での成長だ。
「こあくないもん!かあさまは、こあいぃ?」
夏男は、魔力の方も目覚しく発展し、薄紫色の光りを、自由に操るようになった。紛れもなく、あたしとアルシオンの間の愛息子なのだ。
「森さんとは、お友達なの、大丈夫だよ、怖くなったら、なっちゃんの父様が助けに来てくれるからね」
夏男はきゃっきゃと手をたたいて喜んだ。
人のいない川べりで、一晩苦しんで産み落とした坊や。生んだその瞬間から今まで、この坊の父が如何に美しく、気高く、聡明か、耳元で囁いて育ててきた。夏男にとって、父は神も同然だった。そして、あたしにとって夏男は天使。父親譲りの愛くるしい外見に、強力な魔力。母の言い付けを守り、父を信じ、ルシアを憎む。
八重歯が覗く、オレンジの唇。ちっちゃな、あんよとおてて。牡丹雪が降り積もってできたような、サラサラの肌に、どこまでも深いブルゥのお目目。漆黒の頭は、母に似てストレェトだが、髪の毛をかきあげる仕草は、アルシオンそのもの。
服も好んで、派手なものを選びたがる。動きにくい上に高額だ、という理由で、あたしは赦しはしなかったが、夏男は与えた服に、花粉を擦り付けたり、昆虫の羽根を結び付けたりして、工夫しているようだ。
「かあさま?」
「なあに?」
可愛い我が子に、励まされる。
迷いなど、初めからあるものか。あたしはただただ、突き進むのみ。
「忍び込んだんですよ。去年の夏に」
右手の人差し指を唇にそっと当てて、秘密だよとでもいいたげ。でも、他人の家に忍び込んできたとは、聞き捨てならない。このマンションのセキュリティはそんなに甘いものじゃないから、誘ったのは×××のほうか。
しばらく忘れていた彼女への憎しみが湧きあがる。まさか、あたしのゲェムであそんだりしてないでしょうねぇ……。
あたしは慎重に、言葉を選んで真実を聞き出そうと考えをめぐらせる。しかし、もとより目の前のこの少年に、何かを隠すなんて気は皆無だったのだから、あたしのその努力は、全くの無意味であった。
それどころか彼は、懺悔をしに来たのだ。
「×××さん、俺、ここで彼女を抱きました」
「………」
一瞬「抱く」って、意味がわからずに、首をかしげる。
そして、首の筋肉が伸びきる前に、はたと気が付く。そのまま、硬直して、全身が熱くなった。あんまりびっくりして、ショックで噛みしめた唇を、そのまま噛み切ってしまうところだった。
あたしの動揺に気付かなかったはずは無いのに、少年はそのまま話し出す。
「去年の夏にご両親が小旅行、あなたが剣道部の合宿なのをいいことに、お邪魔しました。たしか、七月の二十一日か、二十二日だったと思います…。その節は、大変申し訳ないことをしました。彼女にも、嘘を付かせてしまった…」
「そう」
あたしは、ごくりと唾を飲み込む。一年近くまえに、×××はこの家でセックスを…。本人の口から語られると、なんだか…。
「あの時はまだ、ああいう、ああいうコトを…」
淡淡と話していた少年が、わずかにはにかむ。目をそらし、言葉を躊躇いによって結びつけたままでいる。
そこで、あたしは気付いたのだが、×××が死んだことを思うと人は悲しむのに、死んだ彼女のことを思い出す人は、いつも穏やかなんだ。お父さんも、お母さんも、あたしでさえも。懐かしがってそうなる時もあるのだけれど、普通に、生きている人のことを話すのと、寸分たがわぬ表情をする。
「特別なことだと思っていまして、好奇心から手を出したんです。でも、違ったんですね。×××のこと、もっと好きになったけど、でもそれだけで。別に、他には何も変化をもたらさなかった…。何かが、劇的に変わると思っていたけど、何もなかったんです。×××を抱くってコトは、普通のことだった。好きな人に触るのは、普通のことだった。キスも、手を繋ぐのも、愛撫も…。何も変わらないで続く、日常的なことでした。子供の俺がそう感じるんだから、人間の…動物としてってゆうか、本能ってゆうかみたいなものなんでしょうね」
「あたしには、解らないわ」
少年は、畳の染みを撫でた。茶色い、親指ぐらいの大きさの染み。
なにか、嫌な予感がした。
「そんな染み、あったかしら?」
「ごめんなさい。でも、去年からありますよ。その、これは…血です…ね。汚しちゃって…。焦りましたよ、畳、汚しちゃったから…」
やっぱり。なんで血が出るのかはわからないけれど、生理現象のイメェジがら、なんとなく彼女の汚物だろうと想像がついた。ひどく大人びた顔で、何度も茶色い染みをなぞる。とても、エロティックな手つき。
「あたりまえのこと、もうできないんです」
陰鬱に、かえるが鳴くような声で、彼は言った。