3.彼岸会に誰殺
彼岸会に誰殺
彼岸会に誰が殺がれたのだろうか。お線香の匂いが心地よい。
この煙の向こう、きっとアサヒが待っている。ああ、そうか“誰か”でなくて、あたしが死んでしまったのか。良かった。嬉しい。あたしは煙をたどってく。
妹が死んで四年目。
その妹の彼氏が死んで、二年経ち、母と父が離婚して一ヶ月が経った。今でも、アサヒのお葬式の日のことが頭から離れない。
あたしはあの日、やたらとカヲルちゃんと、サクラちゃんを意識していた。親の仇と、でも言うような目線で射抜いていたに違いない。姉妹らしい姉妹に嫉妬していたし、従姉妹の葬式に喪服を着てこない非常識さに、爆発しそうだった。
考えてみればカヲルちゃんなんかは、今のあたしと同じ十七歳で、高校三年生だった。まだまだ、子供だった。あの頃は中学三年生だって大人に見えていたのに、今では二十歳の人を見ても“自分と変わらない”と、思えてしまう。
自分は、歳を取った。
大人が見ればまだ子供だろう。でも、あたしの心は老婆のように荒みきり、心の声はしわがれて、腕は何も抱かない。頭も悪いし、状況も良くない。老いゆく一方。
「山口さん、今度間違えたら本気で怒るから」
「はい、すみません」
あたしは、どうでもいいやって思った。一週間前から、少しでも家計の助けになればと始めたバイト。たかがバイトで、たかが800円で、人使いが荒すぎる…!
ファァストフゥドは、もう厭だな。今度は既製品を売るところにしなくっちゃ。接客業は、すぐに客が怒るし、こっちだって急いでるのに、更に混乱させようとけしかけてくる。洗い物なんかやったことない。トイレ掃除なんかやらせるな。客の声が小さい。
バイトに行く前は、胃が痛くて痛くて仕方ない。向いていない。でも、これが本当の仕事だったら、就職したらこんな感じの所だったら…。そう思って、自分を鍛えようと思って、一週間続けた。でも、もういっぱいいっぱい。
来週から、行かない。絶対に、行かない。
毎日が、こんな感じ。何かしようとしても、続かない。高校も、楽しくない。
毎日が、気持ち悪い。
進路も決まらず、だらだらと無意味に過ごす。蝉が五月蝿い夏の午後、薄情モノのあたしは、忘れかけていたアサヒの言葉を、突然思い出した。それが、運命の始まりだった。本当は四年前のあの葬式の日に、回り始めるはずだった歯車がやっと、噛み合った。
タッチを見ながら、カップらぁめんができるのを待っていた。お母さんは、仕事。昔は服飾といって、ファッションデザイナァのようなことをやっていたらしいが、今は福祉の仕事をしている。学童保育の子供達の面倒を、見ているのだ。
それだけでは生活できず、社会保障と、あたしがお父さんから毎月貰う援助金でなんとかやっている。実は、あたしの学校では奨学金が受けられない。個人の『あしなが奨学金』を利用しているけれど、貸し制度なので何年か後に学費を返済しなければならない。
苦しい生活。
それ以上に、あたしの家が母子家庭で社会保障金を受けていると、いうのをクラスの人たちが知っているのが、死んでしまいたいくらいに厭だった。いじめられたりはしていないけれど、皆と対等に立てていない気がする。
「アサヒ、あんたがいた頃は、幸せだったわ」
薄暗い台所。カップ麺タイマァは、未だ鳴らない。昼下がりのアニメ番組は退屈で、何度も見た十四話目。あたしは、麦茶を飲み干す。台所に、萎れかけたポピィの花が生けてある。強い陽射しを浴びて、灰になってしまいそう。あたしは、なんとなくポピィを一本抜き取って、ポケットの中に入れた。
かったるい。バイトも学校も進路も、家族もお金も、なにもかもがかったるい。
生きている意味なんて…。
「ブラック・シープ!」
稲妻が、あたしの体の芯を貫いた。アサヒの声だ。
思い出した…。
記憶をどんどん失ってゆく病気になって、死んでいったあたしの妹。彼女の病気になる前の言葉。一体どんな場面で、どんな表情での言葉だったか。
「ブラック、シープ…?」
黒い羊という意味だ。そういえば、お葬式の日に畳に座っていたのは、黒い羊達ではなかったっけ…?あたしは、突然混乱した。
なんだったっけ、なんだったっけ。アサヒ、黒い羊って何よ。
ふらふらと、あたしは和室に向かった。昔、おじいちゃんの部屋だったところに、アサヒのお仏壇はある。美貌の少女がヘラヘラ笑っている白黒の写真が、天井付近に掲げられ、カビたご飯が供えてあった。
頭がぼうっとする。
「アサヒ、ハルノはどうして連れていってくれなかったの?レイくんは連れていったじゃなぁい?ねぇ、ブラック・シィプって何さ?」
アサヒは何も応えない。死者は何もしてはくれない。
仏壇に、薬があった。アサヒが死ぬまで飲んでいた、精神科の薬だった。火葬する時、入れ忘れたからとお母さんは、仏壇においているのだ。ご飯と、お茶と、薬。
「ブラック・シープ」
あたしは、全ての薬を体内に流し込んだ。何故だか、解らない。ただ、面倒くさかったんだ、なにもかも。バイト先に連絡するのも、勉強するのも、息をすることさえ。
黒い風が吹いて、あたしの頭を覆った。
悪夢の始まりではない、現実への旅立ち。
八月三日、午後2時半。高校三年生の山口春野は、四年前に病死した妹、犬童朝日の薬を大量に摂取し、死亡。日記の内容から、自殺と推定された。
「ここは、どこ…?」
ハルノは、現実に目覚めた。
「はぁっ」
肺に大量の空気。ねっとりと絡みついた汗が、急速に冷めてゆく。蘇芳色の月が、赤赤とあたしを照らしている。砂の上だ。
ここは、七色の月の砂漠。あたしたちは、魔法使いのドロの家に居たはずだが…?
「よっこらせっと」
我ながら、年寄り臭い気合の入れ方だなと思いながらも、何とか身を起こす。側にはヘベルツが、ビニルの袋から水を飲んでいた。ライオンの頭部をもっているのに、牙を使わないなんて、ナンセンスな生き物ねぇ。
にゃあ?
あたしを見て、首をかしげる。
「うふふ、なんか、考えてることバレちゃったみたいだね」
ぽんぽんと、わき腹を叩いてやる。へベルツは、気にも留めずにまた水袋に首を突っ込んだ。
「目が覚めたみたいだな、ハイネ」
気づくと、すぐ側にアズが立っていた。彼は何故か、憔悴し切った様子で棒立ちしていた。そして、その後ろにルナも控え、彼女の手に引かれたルリウミも、水を飲んでいた。
「それで、記憶は取り戻せたのか?」
「ううん」
そこで、あたしは巨大な赤い櫛を発見した。確か、ドロの家に入った時に見たような気がするが、記憶がハッキリとしない。櫛は、へベルツの肩にしっかり結わえ付けてある。一体何故だろう。
「ねぇ、てゆうか、ドロおじいさんの家に入ったあたりから、また記憶喪失なんですけどぉ……、って、あ、笑えない?」
アズが、とんでもなく怖い顔をしている。まるで、あたしに死んでくれと言っているような目だ。まずいことでも言ってしまったのかと思い、おろおろする。
「覚えてないのか…、まあ、しかたないのかもな」
「え?しかたないって?」
「アルシオンさ、アルシオンが仕返しにやって来たんだぜ、ありゃあ…」
そう言って、アズは目を細めて遠くを見やる。
「アイツの仕業だろうサ」
「何?アルシオンがもう追いついてきたの?」
「違う、土魯に会った直後、土魯がひどい目にあったんだ、お前は気絶して泡吹いてるし、流魚の身体の具合が芳しくなかったからな、急いで引き返してきた」
「そうなの…」
あたしは、しゅんとなる。折角記憶を取り戻せそうだったのに、あたしはドロおじいさんの顔もちゃんと覚えていない。それより、なにより、子供っぽいとは思ってたけど、こんな砂漠の辺境まで仕返しにくるなんて、アルシオン。よっぽどあたしを憎んでいるのね。好きなのに、結ばれない運命ってやつかしら?
………泣いちゃいそう。
と、ルナと目が合った。あたしは微笑んで、言った。
「あ、ルナさん体平気?」
びくっ
脅えた顔。ルナはあたしに、懐疑と恐怖を向けていた。不思議に思いながらも、あたしは優しく、もう一度、平気なの?と、尋ねた。
ルナは答えない。
「ああ、マタニティブルゥだよ、気にすんな」
アズがしょうもないなぁと、ルナをこずく。彼女は、泣き出しそうな顔でアズを見つめた。その瞳は、白を黒だと言わされた時のもので、諦めと怨みが混沌としていた。
彼女の藍は、こんなに濁っていたかしら。
「マタニテ?マタ…?ん?何、それ」
「マタニティブルゥ!お前女だろ?赤ん坊がお腹に来た時に、一時期女がかかる精神病だぜ?なんか、不安になって、怒りっぽくなって、男には理解不能な行動を取るようになっちまうんだと、しかたねぇから、気にしないでやってくれな」
そっけなく、アズは言う。彼は何を見てきたんだろう、翳りを隠せないようだ。
「大変だね、ルナさん、あたしが力になれることがあったら、何でも言って」
ルナは、頬の脂肪をぷるんぷるんさせて、首を横に振った。何かが、不安なんだろう。赤ちゃんをかかえていると、確かに色色心配だろうから、ノイロォゼ気味なのかもしれない。しばらくは、放っておいてあげるのが得策だろう。
しかし、あの態度は何だ。どうしてそんなに険しい目であたしを見るの?
「ちっ、だから、子供なんか…」
二人に聞こえないように、嫌味を言う。そうでもしなきゃ、気がすまない。そうよ、子供が子供なんか、生むもんじゃないわ。不潔だ。無責任だ。気持ち悪い。
どすどすと足を踏み鳴らすあたしに、アズが声をかけた。
「これから、どうしたい?」
あたしは、振り向かないままハッキリと答えた。
「アルシオンに然るべく、報復を…」
上唇を、ぺろりと舐める。何故か、血の味がした。
「あげちゃうわあ」
アサヒの声が、あたしの口からこぼれた。
「ふ、ふはは、よぉし、いいぞ、いいぞ」
アズは突然笑い出した。堀の深い顔立ちは、下から見上げるとかなりの迫力がある。深く暗い瞳の奥がぎらりと光り、アズは悪役みたいに笑った。
体中から、疲れというか、諦めというか、そんなものがじとりと立ち上っているのに、アズの顔から笑みが消えることは無かった。怖い。
「ふははは、ははは、そうこなくっちゃなぁ、あいつは化け物野郎だ、アルツェウォンは!然るべき報復か、はは、よぉし、いいぜ、くくく……」
ルナが、下唇をかむ。
アルシオンに恨みを持つらしいアズには、嬉しい申し出だったのだろう。あたしは、何故そんなことを思ったのだろう…。白雪姫のように美しい王子を羨んだとしても、憎しみなんて持てるわけが無いのに。陶器の人形のようなあの青年が、例えどんなに幼くて非情であっても、誰もが必ず、せめて一度は恋をする。
胸が締め付けられる思いがした。
「あんたは、俺達の仲間だ、きじんだけど信用できる、その上強くて、アルツェウォンに立ち向かえる、心強いよ」
「そんなこと…」
「とにかく、砂漠を抜けよう」
「え?あの、その前にドロおじいさんは?あたし、記憶取り戻したいんだけど」
ルナが、あたしの肩を二回叩いた。上背があるため、表情はわからない。
今はやめろ、というコトか。
「そうか、アルシオンに襲われた後だもんね、出直すのが当然だよね」
折角、こんな砂漠の辺境まで来たのに…。あたしは、口を尖らせて喉を鳴らした。ずうっとこの薄暗い国にいるせいで、人を思いやる心をなくしたみたいだ。もともと、あたしには無いかもしれないけど。
今も、偽りの姿で在るこの身体など、信用できないけれど。
生暖かい空気と、冷え切った砂。へベルツ達にまたがって、駆け抜ければ亜鉛の匂いがする。あたし達は、一番近くの町“蚕の繭市場”へ、向かうことになった。
「町はもうすぐだぜ、戦友よ!」
遥か遠く、砂埃の向こうからアズの怒鳴り声が聞こえてくる。紫色の変な飲み物や、緑のアイスクリィムばかり食べていたからか、腹が痛い。元元居たあたしの世界では、一体どんなものを食していたんだろう。
「待ちなさいよぉ!お腹痛いんだよ!」
怒鳴り返すが、
「イエェェェイ!境界だぁ」
とかなんとか、歓喜に打ち震えた声が返ってくるばかり。何がイエイよ、何の境界よ。
「ルナさんの旦那、妙にハイテンションね」
ルナは、お腹を庇いながらもルリウミの手綱をしっかり握っている。視線だけをあたしにやって、すぐに目を伏せた。失望と拒絶。
彼女は元元喋ることの出来ない運命だけれど、今までこんなに“無言”だったことがあっただろうか。ルナは何かに脅えているんだ。
「流魚、ハイネ、早く来いよ、月と太陽の境界だぜ?ヒュゥ、やばいよ、超綺麗だ…、吸い込まれるみてぇ…」
勝手に吸い込まれてろ。アズの背中を蹴り飛ばしてやりたい衝動を堪え、あたしは手綱をさばいた。この数日間で、へベルツを上手く扱えるようになった。姿勢を低く保っていなければならないので、腰が痛くなるけど、それだけだ。
「なんなのよ、とっとことっとこ自分ばぁぁっか先行っちゃって、あんたはとっとこハム太郎かっての、お腹痛いって言ってるじゃないの、それに何よ、その………」
あたしは、我が目を疑った。
「その、月と、太陽の、境界線……?」
へベルツの甲羅を指ではじき、腰を浮かせて体毛の中を滑り落ち、地に足をつく。砂漠はくるぶしより少し上まで、あたしを飲み込む。サラサラの、細かい粒子がほんの少し舞い上がった。
アズの背中の向こうには、七色のカァテンが引かれ、その向こうは灼熱の砂漠が広がっていたのだ。
ぶるぶる、にゃあ!
マチモチが鋭く鳴いて、ライオンの尾を揺らす。
「これは、一体…?」
「綺麗だろう」
得意そうにアズ。巨人で、しかもマチモチに跨っているのでかなり高い所から声が聞こえてくる。大木と会話してるみたいだ。
「月と太陽の境界線、ペロペロ王――昔このあたり一体を治めていた方――は、そう呼んでいるらしい」
「もしかして、ここから向こうは一日中昼なの?」
「ご名答」
肩をすくめて、マチモチから飛び降りるアズ。どしん、と大地が震えて、砂埃が起こった。砂が目に入って痛い。
「一日中夜のルシアの国と、一日中昼のペロペロの国、か…」
「俺達はるなざっていう旅劇団だから、両方の国を行ったり来たりしてきたけど、どっちがいいってことはなかったね…」
彼は、腰に手をやって、七色のカァテンを吸い込もうとしているかの様に、息を思い切り吸った。後方から、ルナのルリウミの足音がする。早歩き、程度で、急いでいる気配はない。
ドロの家で体調の良くなかったというルナは、大丈夫なんだろうか。
まもなく、長い銀髪をぎっちり編みこんだ、太ったあおじんが姿を見せた。顔面蒼白なのは、いつものこと。だって肌は青いのだから。
「なあ、流魚、ペロペロの国は、あおじんやしろじんには向かなかったよな、酷く日焼けしたよな、ほらこの前の……お前がちゃじんの歌を歌った公演で」
ルナは頷いた。表情が硬い。
うんと、満足そうに頷き返して、アズはたぶん、あおじんは夜の国に向いているんじゃないかと、付け加えた。
「でもな、」
と、あたしに向き直って、
「暗闇は、味方も敵も隠しちまうんだよ」
月と太陽のカァテンは、ゆらゆら揺れた。
あたし達は、神の御業ともいえるほどに美しい、輝くカァテンを飽かず眺めた。どのくらいそうしていただろう、あたしとアズは、何か重いものが倒れるような音に忘却の彼方へと飛び立っていた意識を取り戻した。背後に、砂に埋もれるようにして倒れ込んだルナと、そして見知らぬ人影が一つ。
アズが息を飲む。
今までどうして気が付かなかったのか、ほんの二、三メェタァ後ろの見知らぬ人影は、砂を巻き上げ倒れ込んだルナを、不思議そうに見下ろしていた。
もしかしたら、アルシオンか、血の気がスゥッと引いて膝がひとりでに揺れ出した。人影は、なにか動物の皮らしいものを頭から被った髪の長い人間だった。
背はあたしよりも少し小さいくらいで、斑点のある動物のロゥブの裾からは、真っ黒な棒のような足が一本と、銀の甲冑で覆われた太く異様な足が一本それぞれ突き出ていた。
「アルシオンじゃ、ない」
それでも動悸は早まるばかり、いよいよ膝はガクガクと、立っていることすら困難なほどに震え出した。それは、人影がアルシオンとは似ても似つかない背格好だったために得た安堵と、そして砂嵐の向こうからぞろぞろと姿を現したあおじんの群への驚きと恐怖の為だった。あたしは、気を失いかけた。
そんなあたしを現実に引き戻したのはアズだった。彼はいつもの、かすれた少年の声で彼らに問い掛けた。
「流魚に、何しやがった?」
あおじん達は奇妙にも、みな揃って首を振った。ルナのすぐ側に立っていた小さな人影は一歩こちらへ踏み出した。
「野郎……!」
やめてアズゥウウ!只ならぬ気配に、あたしは膝を折って懇願した。アズの懐に、鈍く光るピストルを見たのだ。すぐに血の惨事を連想した。
もう嫌だ、怖いことは嫌だ。
「いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、…」
気が付くと、あたしは耳をふさいで、砂漠に伏していた。先ほどまで、月と太陽の美しいヴェエルに心を奪われ、貪るように感動を噛みしめていたのに。
背の低いその人物は、僅かに狼狽した気配を見せた。が、銃を構えたアズの手前、その意識はピンと張り詰め、すぐにはあたしの許に返らなかった。
「流魚に、何をしたんだ、てめぇらは、何もんだ」
アズはしかし、質問の答えなど、どうでもいいかのようだった。泣き喚くあたしを突き飛ばすようにして、人影に対峙した。完全に、頭に血が上っている。それは、境界線に心奪われるあまり、自分の妻を砂漠に伏させる羽目になったことへの自責と、恥辱。そのはけ口への憎悪によるものだった。
早くこの苛苛を、誰かにぶつけなければ、アズの心底がこの時、なぜか理解できた。
あたしは、自分の身体の制御装置をもう一度握りなおし、みっともなく泣くのだけでも抑えようとした。溢れる涙、洩れる嗚咽。今までずっと、緊張していた。人見知りもしないかわりに、いささか礼儀にかけていると自負するこの性格では、悪くも良くもない沢山の驚くべき出来事の中で、満足に動くことが出来なかった。
今更、悔やむなんてしない。でも、肩肘張ることもなく、でも安らぐこともなく、あいまいに、ただあいまいに緊張してきた。それに全く気づかなかった自分は、愚かだった。
その愚かさが、こうして溢れ出ている。
引きすぎて、呼吸困難に陥った自分の胸を両腕でしっかり抱いて立ち上がった。ぶるぶると、頬を左右に振る。
記憶喪失で、自分の年齢すら確実には解らない。けれど、もう子供と呼ぶには相応しくない外見をしている。それなのに、ちょっと怖いというだけで、神経がおかしくなってしまったのだ。性格なのか、大人になりきれないのか。
アズは一触即発の状態だった。ルナが身じろぎしたことにも、気が付かない。
やはり、側に立ちすくんだ人間に、何かされたのだろうか。ルナは、苦悶に顔をゆがめる。その大きくふっくらした両手で下腹部を抑え、藍色の瞳で真っ直ぐアズを見つめているが、時時引きつったように顔面が捻じ曲がる。相当状態が悪いのだろう。
大勢のあおじんを背後に、人影は己の被った、動物の皮を脱ぎ捨てた。
腰まである長い髪の毛は砂だらけ。ドレッドヘア風、とでも形容したらよいのか毛糸の様に幾本ものアッシュブロンドの髪の毛が束になって垂れ下がっている。顔は小さく整い、男性なのか女性なのかわからない。絶世の美夫アルシオンとは、流石に比べようもないのだが、あたしはその人物の顔立ちの清楚さに嘆息した。肌はロォストアンバァ、焼け焦げたように真っ黒な四肢は細く、短い。背は、あたしの胸ぐらいしかなかったが、鍛えられた筋肉と、どこか拗ねたような瞳は、幼い少年少女のものではけして、ない。
「俺、違ウ、流魚、何モシテイナイ」
たどたどしく、彼は言った。その声は地面から直に震動を与えるような深く低いものだった。人語を操るのが難しいらしく、頭から汗を噴き出しながら、それでも真摯に、アズを説得しようとしているのだ。
低いその声からすると、浅黒い肌のそいつは男性らしい。
「落チ着ク、良イ、俺達ノ目的ノキジン、ソレ」
彼は、細い指をあたしに向けた。
「キジンノ怨ミノ、ソレ、犯ス、嬲ル、玩ブ、殺ス、キジンノ見セル、仕返シノ魂ノ浄化、魔法消エル、俺達ノウウ……俺達ノ…」
男は、上手く喋れないことに苛立ち始めたらしい。地団駄を踏みながら、彼は後ずさり始めた。背後に控えていた十数人ばかりのあおじん達が、どすんと足を踏み出した。
「くそっ」
アズが悪態つく。もう、ルナなど目に入らないのだろう。ただ一点だけを睨んでいる。
「ちゃじんは、お前たちきじんを憎んでいるんだ、こんな砂漠のど真ん中で賊に遭うなんて…、アルシオンからも怨まれて、土魯もあんな風になっちまって、まったく、お前は不幸のニュウタイプだなぁ」
「本当ね、でも、軽口叩いちゃいらんないよ」
「ははん、涙ぐらいぬぐってからいいな」
「…無理だぁ」
怖くて、止まらない。拭いても拭いても。
周りにいるあおじんも、黒褐色のちゃじんもけして、友好的ではない。ここで死んでしまうのだろうか?ふと、悪い予感がよぎる。
「自分が何者かもわかんないで、死ぬわけにはいかないわよ」
脆い意志を金槌で打ち裂いて、あたしは両手を前に突き出した。この前でた不思議な力が、あたしの内から溢れ出てくるのを感じたのだ。
あおじんたちが悲鳴をあげた。震え上がり、一歩ずつ後進してゆく。その間にも、あたしの両手の平は発光し続け、魔法のフォオスを溜め込んでいく。
ちゃじんの男が、砂の上に倒れ付していたルナの肩を素早く抱いた。自分の三倍は軽くある、彼女の体重、身長をものともせずに、抱えあげた。
「?」
「キ、キサマ、歌姫ノ流魚ノ命ノ道連レニナルゾ?イイノカ?」
「ルナ!」
あたしは、息を呑んだ。あんな乱暴にしたら、お腹の赤ちゃんが流れちゃう。
「糞め!女を盾にしやがって!」
アズが激昂する。完全に頭に血が上っているようだ。
「そうよ、やめてちょうだい、じゃないと、走っていって一人づつ首を刈ってやるからね!あたしは、アルシオンをも倒したきじんよ?」
「ナニ…!アルツェウォンノ?」
茶色い肌のちゃじんは、あたしの挑発に、狼狽をあらわにする。
「そうよ!ぎったんぎったんにのしたのよ?ぎったんぎったんよ?」
「オイオイ」
あたしの虚勢に思わず失笑するアズを尻目に、あたしはさらに魔力を高める。もちろん、ぽっちゃり体型で足の遅いあたしには、とてもじゃないがあおじん一人一人に走り寄っていって攻撃するなんてできない。最後の手段はルナとそのなかに宿った命を犠牲にするしかないのだが、そんなことアズが許さないだろう。
なんとか、なんとかならないのだろうか。
周囲のあおじん達も色めき立つ。
目立った装飾具を身につけた、青白い巨人達。男か女格別の付かない、ごつごつとした大きな身体。彼らから、いいしれぬ恐怖と憎しみを感じる。取り巻いていたあおじんのなかから、細くて一際上背のあるあおじんが、人垣を分けて前に歩み出てきた。
「そのきじんの言っていることは本当だろう」
声優のようなハッキリとしたアニメ声で、あおじんは言い放った。周囲は水をうったように静まり返り、あたしやアズもそいつに注目した。
「近く、クモの糸広場でアルツェウォンが気を失っていたと聞く、生憎我我が畜生の男を捕らえるには至らぬ口惜しい事件だったが、ヤツが発見される前に奇妙な異国の服を着た女と一緒にいるのを、何人ものひとが目撃しているのだ……そこにいる、きじんの服と同じさ」
アニメ声はあたしを真っ直ぐ指さした。ちゃじんは、驚きに目を見開き、あおじんたちはまた、騒ぎ出した。
アルシオンはあの後、気を失ったまま誰かに発見されたのだ。しかも噂になって、あたしのことまで…。彼がそれを屈辱としなければいいのだけど。あれは正当防衛だったんだから、気に病むこともないのだけど、やっぱり申し訳なく感じる。
「傴麼夜=蕗蠡、彼女は我我の敵う所ではない、許しを乞い、そうそうに立ち去るべきだ!でなければ、我我に未来はない」
ウバヤ=フキラと、呼ばれたちゃじんは盾にしていたルナを、ゆっくりと放した。そして、よろよろと膝をついた。分厚い唇が小刻みに震えている。ルナは、弾かれたように走り出し、アズの胸に飛び込んだ。
「………悪かった」
アズは銃をしまって、彼女を抱きしめた。彼女の足であるルリウミも、敵陣から気取った足取りで戻ってきた。何が起きたのかわかっていないのだろう、にゃあと、上機嫌になく。もしかしたら、沢山人がいるのが好きなのかもしれない。
あたしの緊張は解けた。瞬間、魔法の煌きは失われてしまった。両手を下ろし、ルナに寄り添う。彼女はあたしの緊張を理解してくれていたらしく、大きな手の平であたしの頭を優しく撫でてくれた。ルナもあたしも、顔が涙でべちょべちょだった。
「何故、こんなことをしたの?」
あたしは、興味本位で聞いてみた。自分の襲われた理由ぐらい知っておきたい。
「俺ハ、傴麼夜=蕗蠡トイウ、チャジンノ反ルシア派ノ、キジン大嫌イダカラ、キジン、沢山、沢山、殺ス目的、砂賊ダカラ、貴女襲ウノ、俺ノ信念ダッタ、曲ゲル気ノナカッタ、デモ、悪イ思ッタ、ダカラ心カラ謝ル」
ブロンドアッシュを地面に擦り付けて一生懸命謝るウバヤ=フキラ。つまり、きじんだったら誰でも良かったんだ。次第に、視線に寒いものが入り混じり始める。
「我我からも謝罪させて欲しいミス…」
先ほどのあおじんとは別の長い銀髪のあおじんが前に進み出てきた。考えあぐねているようだが、あたしは名乗った覚えはない。しかたなく“ミス・ハイネよ”と助言しようと思った瞬間に、
「ミス・ハイネ、すまなかった」
「えぇ!な、なんであたしの名前を知ってるの?」
吃驚仰天だ。しかし、もっと吃驚したのは他のあおじん達で、
「ハイネという名前なのですか?」
アニメ声が素っ頓狂な声を上げる。良く考えてみれば、ハイネってどなたか存じ上げないご婦人って意味だったんじゃない。そうだよ、たしかアルシオンに聞いた。
うう、なんて馬鹿な名前名乗っちゃったんだろう…。
「不思議な名前、奇妙な服装…もしかして」
アニメ声が、長髪のあおじんにこしょこしょと話す。ウバヤ=フキラは何のことかわからない様子で、首をかしげて、あたし達と仲間のあおじんたちを交互に眺めていた。
「ミス・ハイネ、貴女はもしや、ルシア王の探している異邦人ではないのか?」
―――シアは弱者達にも譲歩した「王になるべき御人が、あおじん七代分未来に生まれ、わたくしの圧政を退けて天下を極めましょう、その時、我が親愛なるペロペロは御人を許し好いて、太陽の光を傾けてくれましょう」って、―――
―――年後に生まれるはずの異邦人…つまり、次王の御人が二年後の今日現れちゃったらしいん―――
―――「あたし、アルシオンに会うまでの記憶がないの…!ハイネって名前も、嘘なの」
「あたし、月の砂漠に突然現れたの、それまでのことは、断片的な記憶でしかわからないの、自分が何者か、知らないの、もしかしたら、アサヒという名前かもしれない……違うかもしれない、歳も良くわからないの二十は過ぎていないけど、太っているから、若く見えるのかもしれない、異邦人だ、あたしは本当に、周りから見ても、そして自分から見たって、突然訪れた人間でしかないのよ、なんなのさ、あたしは一体、
何?
」と、一気に喋りたてると、ハイネ(ハルノ)の人格は深層心理の奥へと潜ったわ。ふふん、でも残念。あたしはアサヒじゃない!ヤマグチハルノの妹ではあるけれど、あたしは、ホワイト・シィプドッグ。引き締まった頬に切れ長の瞳、細いうなじから足の指のピンクの爪まで、何一つハイネとは違う。人に恐怖を植え付けるための神秘的な顔立ちと、匂い立つ色香はアサヒにはない。
あたしは、ホワイト・シィプドッグ。
「ヒィヒイアヒィ…」
「うわぁ、気持ちわるぅい、大丈夫ぅ?バッタのおじいちゃぁん」
「う、くぅっ」
緑色の肌から、粘りのある真赤な血液を滴らせ、バッタ男はあとずさる。手にした真赤なコォムの歯、一つ一つに剃刀のようなものが仕組まれているので、あたしがぶんぶん振り回せば、バッタ野郎の糞汚ぇ血しぶきが舞うわ。
ビロォドのカァテンのように、しなやかに噴出すの。ああ、興奮する!
「あん、いやぁん」
あたしの身体を取り巻く純白の粘土のようなモノが、バッタ男を殺したがる。もぅん、せっかちさんなんだからぁん。厄介なのは、この子が動くと、あたしの身体も引っ張られちゃうってところだ。女の子の大切な部分を衣服の替わりに覆ってくれちゃってるのだから、この子に逃げられちゃうと袋とじになる。
「大人しくしてぇ、ハニィ」
「お前は、お前は一体なんなんじゃ…!」
息も絶え絶え。
「んぅ、ナンセンスな質問だわぁ、おじいちゃんに大事なのは、これから自分がどうなるのか、でしょぉ?」
サイディスティックに嗤ってみせる。それだけで、バッタ男は恐怖に顔を引きつらせた。ああ、なんておもしろいのかしら!
あたしの中で、更なる好奇心が頭をもたげた。殺してあげるわけにはいかないわぁ。
「あなたわぁ、罪を犯したのぉ」
あたしは、冷酷な裁判官のように、足元に這いつくばっているそいつを見下ろした。胸に真赤なコォムを抱いた、オレンジの逆毛で全裸の美女裁判官!
「ハイネの中にあるアイデンティティを呼び起こそうと、彼女の心の聖地を荒らした、そこにはあたしがいたのよ、折角眠っていたのに、あなたの穢れた緑色の光りが射した、辛かったわぁ」
あたしは、ぐっとバッタ男を引き寄せた。彼の爬虫類の瞳に、美しいあたしが映る。
「それが、わしの仕事じゃ」
「ふぅん、じゃあなんでハイネの心の部屋を見つけただけに留まらなかったの?」
「何…?」
とぼけるつもりだ。そうはいかないわよ。
「名前も、生前の記憶も、彼女がどうしてこんなわけのわかんない世界に来たのかもう、分かっていたじゃなぁい、どうしてそれ以上を知ろうとしたのぉん?」
「知らなければ、ならなかったのじゃ」
嘘。興味本位の何ものでもないのだわ。汚い欲望、穢れた魔力。
「彼女の記憶は、この世界に落ちた際に、偶然喪失されていた、じゃが、おぬしの立ち塞がっていた“心の部屋の中”の奥に、故意に消された記憶を感じたのじゃ、それが引き出されねば、生前の記憶自体戻らない…!」
この期に及んで、見苦しくいいわけ。生前の記憶はすでに引き出され始めてたのに、バッタ男は、あたしの記憶が必要だ何て…。そんなの、信じられないわぁ。
「あんまりオイタが過ぎると、チョメチョメしちゃうわよぉ?」
あたしは宛ら女王様のように、コォムを鞭の様に操った。真っ直ぐなはずの“ダァリン”は、渋柿の汁でなめしたように艶やかに、しなやかに風を切った。フワフワと浮かせていた身体に、重みを加えてみる。すると、何も命じていないのに白い“ハニィ”が変形して、真珠貝のハイヒィルに変化した。
コツ
足が地面につく。今まで辺りをゆたっていただけの、煙のようなコスチュウムが、光を失い実体化して、はちきれそうなヒップや、たわわに実った両方のバストにフィットする。髪の毛は逆立ったまま。
この星の無力さが、あたしの純粋魔法を汚しているのだわ。空に浮けばあれほどまでに豊かで美しい魔法のインスピレィションがあったのに、地に足をついただけで、何も感じない。汚い汚い、この星は。
「ゆ、許してくれぇ、頼まれたから記憶を呼び戻そうとしただけなんじゃ、お前のような強力な人格を秘めているとは思わなんだ…」
「じんかく?やだぁ、あたしわぁ、ホワイト・シィプドッグちゅわんなのよぉ?」
「人格に、名前まで…?いや、兎も角だ、二重人格とは知らなかったのじゃ、だが今後もハイネと共に生きてゆくのなら、二人で一人の人間に、戻るべきじゃ」
バッタ男は、息も絶え絶えに吐き捨てた。
「人格を、統合しなくては」
あたしは、コォムを振りかざす。一本ずつ、手足をもぎ取ってやりたい…!それが、あたしのしたいこと!
『違う!』
稲妻が、体の芯を突き抜けたわ。ヤマグチハルノ、いいえ今はハイネとなった、哀れで安っぽい女の声だわ。あたしは、突然混乱した。
『あたしがしたいことは、あたしを救うことだわ』
「ハイネ…!」
あたしは、驚きに目を見開く。その視界の端で、バッタ男が床に転がった水晶玉に額をあてがうのが見えた。ナンダラ、ナンダラ、ハイネの二重人格を戻したまえっ、唱えている。あたしは、コツ、前に進むわ。あの野郎をぐちゃぐちゃの肉塊にしてやるんだからぁ。この身体の支配権はあたしが握っているのよ?ハイネにだって、邪魔はさせない。
『してやる、してやる、してやる、あたしの身体をハイネに返してちょうだい!土魯おじいちゃんを殺したりしないでよ!』
ふふん、あんたには何もできゃしないわよぉ、あんたは何も知らないでしょ。
『知ってるわよ、今なら分かるわ、お願い、ホワイト・シィプドッグ、貴方の守っているその記憶と魔法は、一人で抱え込むにはあまりにも悲しすぎるよ、土魯おじいちゃんに任せてよ、そしたら、あたし達二人で一つになれる、朝日が死ぬ前の山口春野に戻れるんだよ?』
アサヒが死ぬ前のあたし…。ふふん、本当におもしろい子だわん、あたしはホワイト・シィプドッグ、ヤマグチハルノの妹で、彼女が忘れた彼女の魔法。むしろあたしは、ケンドウアサヒと同化する方をのぞんでいるのだわぁ。
あんたは間違っているのよ、ハイネ。
あたしが誰かを知らないのね?
『あなたの方が、狂っているんだ』
いいわ、ハイネ。認めるわ、あたしは狂人です。では、その狂人振りをとくと、ごらんあそばせぇ。
『何をするの?』
おじいちゃんは、アサヒを蹴飛ばすでしょ?彼はアサヒを、裸で外に投げ飛ばすでしょ?彼はアサヒに、お前はウチの孫じゃねぇって言ったでしょ?彼はアサヒの、日記を道路に広げておいたでしょ?彼はアサヒが、酷い孫だって親戚中に噂するでしょ?
おじいちゃんはアサヒを、狂わせたでしょ?
『土魯おじいちゃんは、関係ないわ』
だって、年老いた糞爺さんでしょ?同じだわ。同じおじいちゃんじゃない。
『何をする気か知らないけれど、やめたほうがいいわ、彼はあたし達に必要な存在だわ、彼がいなければ、それこそルシア王の魔力でしか、あたし達もとに戻れないのよ、あたし達、救われなくなるわ』
「死後の世界に、たった一人でいるのはアサヒだけなのよぉ、ハイネに救いはいらない…、むしろどうか、銀白に輝く鋭利な牙を!」
あたしは、サイディスティックにコォムを振るって、地面の土をごっそり抉り取って、その威力を見せ付ける。“ドロおじいちゃん”は、脅えて丸まった。
「ホワイト・シィプドッグ」
身体から白い光りが立ち上る。コレこそが魔力、死後の世界できじん以上の上流亜種に与えられもうた諸刃の剣。肉と、血の代わりに、あたし達を構成しているのだわぁ。
「デ・ボォテ」
ひゅんっ
「あっ」
バッタ男は胃の中身を全て吐瀉したわ。うへぇ、きちゃないぃん。彼は感じているはずだわん、あたしの魔法が自身の体の芯を蝕んでいるのをぉ。それは一瞬の出来事ではあったけれど、か弱い命の一生分だったのね。
心の防御は一方的で、外からの刺激には異常なほど強固なのに、内から広がった癌には太刀打ちする術もないのね。彼は口からヨダレを滴らせ、焦点の定まらない瞳であたしを見つめる。両手を胸の前で組み、うふふうふふと、はにかみする。そうそう、そうそう、魔法にかかった哀れな老人!
「足をお舐め、仔犬ちゃん」
あたしが命令すると、
「わん」
バッタ男は、あたしの言葉の意味を理解しないようで、気味の悪い笑みを浮かべたまま、わんわん吠えて、床に這いつくばったわ。
「オホホホホホホ!アッハッハッハ!そうよ、あんたは仔犬ちゃんですよぉん、オホホホホ!」
「わん、わん、わん、わん」
「おすわりしてぇ、よぉし、よぉし、ちんちんは?ウフフフ、かわいいこちゃん、しゃぶしゃぶは?あぁん、いいわぁ、ほら、もっと早く…」
あたしの命ずるまま、されるがまま、バッタ男は飛び回り、駆け回った。
『酷い、ドッグお願い、止めて』
ハイネが懇願する。哀れな男の姿に、彼女の精神力は弱っていった。その時だったわ。
がたん
物音がした。あたしはすぐにその正体に気が付いた。
「どうしたの、青く醜い巨人さん?」
横顔で睨んで、男だったらヨダレを垂らしてむしゃぶりたくなるような、色っぽい声で囁いてあげる。もちろん巨人は女だから、寒気を感じただけだろうけど。
「黙っていたら、わからないでしょ?ほらみてぇ“ドロおじいちゃん”はこんなに素直に悲鳴を上げてるのよぉ?キモチイィって、タノシイィってぇ」
「わんわん、わん、わん」
「……!」
青い巨人は両目から涙をこぼした。どうしてかしらぁ?
「うふふ、お互い、不便なものねぇ、その声と、あたしの魔力…」
銀の髪を乱して、彼女は震える。あたしは、静かに下を向いて、魔力を高める。
「あおじん、あなたの声を奪ったのは、あなたを守るためだったんだと思うわぁ」
首をかしげる。
「ハイネ――ヤマグチハルノが、そう言ってくれって、彼女アルシオンもルシアも好きなのよ、彼らを怨んで欲しくないって、そう願ってるぅ」
巨人は、震えながらも、力強く頷いた。どうやら、彼女は真実を知っているようね。でも、あたしが誰かは分かっていない。
魔力が、全身を満たす。ちゃりん、鍵がかかるような音がして、あたしの意識が引きずり込まれるように遠のく。心が、とても安らぐわぁ…。
「おい、何の音だった?流魚」
巨大な彼女より、さらに巨大な男が入ってきた。
―――莫迦な男。
彼女の宿した命は、あんたの血なんてただの一滴も入っちゃいないのに。薄れゆく意識の中で、あたしは嘲笑した。次にこの男に会ったら、本当のことをぶちまけてやろう。
「…え?い、一体、なんだよこれ」
んわんあwっうぇあんなわんなwwwwっわwwwっわqwwwん!
「………土魯?ハイネ!」
大きな青い手の平が、あたしの身体を支えたのが分かった。
意識が、暗転した。
「ルナ、どうしたの?眠れない?」
「……」
彼女は二重顎を震わせて、頷いた。奥まった藍色の瞳に、灰色の月が輝く。昼間は硬く結い上げられていた銀色の髪が、今は彼女の腰で扇に開いている。
あれから、丸一日。
あたしの中の時間的感覚はすっかり失われ、アズに「半日」とか「五日」とか言われて、それを鵜呑みにするしかなくなっていた。太陽は一度も昇らず、空気があるなのないのか、疑いたくなるようなザラついた砂漠ばかりを移動していたから、当然だろう。その間に良いことと、悪いことがあった。
「今日、たくさんいっぱい、わけわからんことばっかりあった…」
彼女は、じっとあたしを見つめる。四角い無機質に切り取られた窓の下に、彼女はちょこんと座っている。ここは“蚕の繭市場”の宿屋。まだ、町の入口だから、“クモの糸広場”みたく、本物のクモの糸の上に町が築かれているとか、そういうことは分からないんだけど、確かに虫独特の篭った匂いがする。あまり気持ちの良い感じはしないけど。
「良いことは、ルナがマタニティブルゥやめてくれたこと?みたいな、あと、フキラ達が、仲間になってくれたこと…かな?」
ルナは微笑む。彼女はウバヤ=フキラ達に襲われてから、不機嫌な所をひとつも見せない。体調が戻ったのかもしれないし、まあ、あたしにとっては嬉しいことだ。
そうしてそのフキラ達は、あたしに同行することを強く望んできた。どうやら、あたしに次期王になった上で、アルシオンを倒してもらいたいらしい。そのためにはどんな協力も惜しまないとまで言ってきた。しかし、交渉は決裂。数人のあおじんたちによる、無理難題な交換条件。アズのプライド、彼らによる理不尽なまでの歌手迫害。それに、砂族…砂漠のヤンキィみたいな少年たちにできることは数限られ、砂漠を出たら右も左もわからなくなるあおじんも数人。
心強いけど、あんまりいらないカンジだった。一応好意で名乗り出てくれたので、ちゃじんのウバヤ=フキラと、アニメ声のあおじんスズと、厳つい四歳ゴワは、連れてゆく事にした。その他のあおじん達も何人かは、此処まで送ってくれた上に、こうして宿屋まで提供してくれた。基本的にきじん用に作られているこの建物の天井は、あおじんの胸ぐらいまでしかない。
しかもアンダァ。太ったルナも、あおじんのなかでも大きい方のアズも、外で寝ると言い出したほどだ。で、アズとスズとゴワは本当に外で、テントを張って眠っている。
ここにいるのは小さなフキラと、あたしと、ハイハイで移動するルナだけだ。
「悪いことは、ドロおじいちゃんと会えなかったことと、あたしが次期王らしいってのが判明したこと……ううん、もっといっぱいあるよね、アルシオンのことも気になるし、記憶も戻んないし、ルナがフキラの仲間に愛想笑いするごとに、アズ拗ねるし」
くすくす
ルナが、目を細めて笑った。もしも彼女に声があったら、どんなに可愛らしい声で笑うんだろう。仕草も女性らしいし、優しいし、素敵。
「あはは、本当にアズってヤキモチやきだよね、羨ましいぐらいだよ」
彼女は、膨れたお腹に両手を当てて、窓の外を見やる。あたしも、彼女の隣に立って、窓に乗り出す。外の風は、蒸し暑い。砂漠では、身も凍るような夜を過ごしたというのに、不思議。
あたしのハッキリしない記憶では、砂漠はもっと暑くって、町は涼しいはずなのに。
「とにかく、ルシア王に会わなくっちゃ」
あたしは、決意を固めて、拳を硬く握る。
「ソウダ、ソウシテ、成リ代ワレ、ハイネ」
「…あんたも起きてたの、フキラ」
モップの先っちょみたいな薄汚れた頭髪に、近付くだけで臭うボロをまとった男。
年齢は、自分でもわからないらしい。きじんと、くろじんの混色のちゃじんだ。と、いっても、遥か昔から増え続けた混色人種なので、一人種として確立しているらしい。数はとても少ないが。背は低く、髪色は決まって銀髪だという。
身体に傷害を持つ者が多く、フキラも生まれた時から半身が不自由なのだと話してくれた。言葉も発音が難しいらしい。
「俺、アマリ、睡眠イラナイ、ナク、イイ、カラ、聞コエタンダ、ハイネト歌姫ノ声」
「歌姫の声は聞こえなかったはずだよ?」
「ム…」
眉根を寄せる。
「うざったい髪の毛だね、切っちゃおう?町に入るんだし、その汚いボロ切れも、ずぇえったいなんとかしたほがいいってバ!」
「ムゥ、シカシ」
髪の毛と、洋服を交互に掴み、途方にくれたように棒立ちする。綺麗な瞳だけが、月明かりを浴びて浮かび上がる。意見を求めるようにルナを盗み見るが、彼女の旦那の短髪を見ればわかるもの、彼女は早く切りなさいと指示する。
フキラはしょんぼり肩を落として、
「ワカッタ、名誉ノタメダ」
と、呟いた。
ルナはにっこりと笑み、あたしの頭をひと撫でしてから、突然歌いだした。
「エルベィ、ソルッツェ、リヒ、パ、ナァヴェルウォンツェ、パロォナリッヒ、エグ」
いつか聞いた力強く重厚なものではなく、流れるような旋律に、小さな小さな囁き声のような歌だった。あのとき、アルシオンが言っていた。ルナはあおじんには不可能な音域、発音を歌のみで表せるんだと。そのために、歌う以外の目的で、声を上げられないと。悲鳴すら、あげられないと、聞いた。
「アァム、ロッツェティ、パパァン、アカルガナォン、ワ、レッツェ」
心が表れる、美しい歌。蜂蜜がそのまんま音楽になったら、こんなカンジ。甘くて、危険で、優しくて、おいしくて、綺麗なカンジ。
「ハジメテ、俺聞イタ」
フキラも、窓際によってきて、ちょこんとルナの足元に座る。ルナの歌が、お気に召したらしい。あたしも、瞳を閉じて、彼女の美声を存分に楽しんだ。
「フゥ、ウフ、アア、レェミセィッツェル」
歌い終わると、彼女はあたしの頬を撫でてくれた。そして、フキラの肩をぽんぽん叩くと、中腰になって、寝室に移っていった。後に残されたあたしとフキラは、何をするでもなくぽおっとしていた。
ルナは、子守唄として歌ってくれたのかもしれないのに、逆に目が冴えてしまった。いろんなことを、考えなきゃいけない…そんな思いに、取り憑かれた。
まるで、明日が期限切れだと、宣言されたようだ。焦る気持ちと、立ち塞がる想いと、深まる謎。何かしていないと、落ち着かない。
「髪、切ルカ?」
そのとき、黙っていたフキラが突然、そんなことを言い出した。これ幸いとばかりに、あたしは頷く。だって、無言のままで時を過ごしていたら、胃の中で鳥が何羽も羽ばたいているような不安感だけが募るから。
ちょうど側にたてかけてあった、巨大なコォムを片手に、フキラの背後にまわって、丁度いい長さで髪の毛を掴む。コォムは剃刀の刃みたいのが仕組まれていて、かなりの切れ味だ。いったい、何でこんなものがあるのか。
「よぉし、んじゃあ、バサッといっちゃうぞ?」
「ワカッタ」
エクステや髪飾りもろとも、首が見える程度までバッサリ削ぎ落とす。
「俺、苦シミ、知ッテル」
「苦しみ?」
もう一房、バッサリ。
「生キル苦シミ、ハイネ、無理強イスル気俺ナイ、嫌ナラ、ルシア会ウナ」
「どうして?今更、あたしがルシア王と接触することで、あなたたちにはなんらかの利点があるんでしょ?それを促したくてしかたがないんでしょ?」
「ソウダ、デモ俺、キジン皆嫌ウ、ハイネモ、嫌ウ」
前髪…らしきところも、つまんでコォムを引く。ザァ、髪の毛が地面に落ちる。
「デモ俺、苦シミ、知ッテル、ハイネ、ウマク……ウマク、伝エラレナイ、俺ノ、気持チノ、ナニヨリ、ハイネ、心配…」
綺麗にというわけにはいかないが、幾分かましになった。しっかりした顎、横に広がった鼻に、堀の深い目元。骨格がしっかりしている割に、肉付きが悪い。
出逢った時に感じた、胸惹かれる精悍さは感じられない。髪の毛を切ってしまっただけで、平凡な少年に変わってしまった。黒目がちで、捨てられた犬みたいな顔だ。
「言いたいことが、よくわかんないや」
「ムゥ、ツマリ、無理、シチャイケナイ」
彼は、無表情のまま親指をつき立てた。誰かに教わった行動を、機械のようにトレェスしているだけみたいだ。ただ、元気付けたがっているのは分かった。彼はあたしに、何も強要したくないと、考えているようだ。
目をしばたいて、頭を振る。
「モウ、イイノカ?」
「うん、オッケェ、なかなかの好青年ってカンジ?」
「ナラ、モウ、寝ル」
「ああ、ちょっと、ちょっと待って」
「?」
この宿屋の部屋の間仕切りは薄い。どうやら寝間着にすら着替える気もないフキラが、隣の部屋で眠ると思うと耐えられなかった。彼の衣服は信じられないほど臭いのだ。シャワァを浴びろとまでは言わない。けど、せめて着替えて欲しかった。
「洋服!」
「着替エロ、ト?」
彼は険しい顔で、あたしの用意した麻の上下を睨んだ。アズの着物だが、裾を折ってベルトで締めれば、なんとかなるはずだ。
「そうよ、じゃなきゃ外に追い出すわ」
「カマワナイ、外ニハ素逗ヤ後輪ガイル」
ふふん、髪の毛をかきあげて、彼をびしっと指さす。
「どうかしら?あおじん三人のテントの中なんて行ったら、明日の朝には踏み潰されて死んでるわよ?フキラちっちゃいんだから」
「クッ、ナルホド」
脂汗を一雫したたらせながらも、無表情にうなずく。
「着替エヨウ」
彼は不気味な色に変化した衣服を苦労して脱ぎ捨てた。細すぎる。確かに胸板はがっちりしているし、筋肉も十二分にはついているんだろう。しかし、タンクトップのようなもの一枚で、目の前に立っている男の細さは尋常ではない。
フキラはあたしがいるのも構わずに、上半身裸になった。やっぱりだ。切り詰められた身体に余分どころか、必要な肉も付いていない。あるのは極太い骨と筋肉だけ。野生のハイエナのようにしなやかで、痛痛しくて…。死と隣り合わせの身体。飢えた腹と、それを満たす為の牙、それだけの身体だった。
彼は上にすっぽりアズの麻の上着を着てから、異臭を放つスカァトを脱いだ。麻の上着は彼のくるぶしまである。ナイト・ガウンのようだ。あたしは、用意していた帯をわたし、剥がした身包みを、シャワァルゥムにつまんで投げた。
「……」
振り返ると、すでにフキラは寝る体制だった。ガリガリの一本足と、ゴツイ義足を交互に動かして、身体をうまく横たえる。あたしは、フキラを悲しいと思った。
生きるために食べて、食べるために鍛えて、鍛えるために喪失した。彼とあたしは同じ人間じゃない。なまじ、あおじんなんかよりも近しい姿であるからこそ、違うんだ。
少なくても今は、あたしにとって、フキラはかわいそうだった。
永遠の夜の中、あたしは目覚めたわぁ。まぶしい太陽が恋しいの、だって、起きるのが辛いんだもぉん。ギラギラと燃え盛るあの光りの飛礫が、まぶたを押し上げて無理やり起こす感覚ぅ。はぁ、痺れるわ。
少しはなれたところに、小さすぎるタオルケットに包まって、スゥスゥ寝息を立てているルナがいた。可哀想な少女、お腹に巣くった悪魔を追い出せないままでいる。赤ちゃんなんて、産めるはずがないのに。彼女は、気付いたのかしら。あたしが誰なのか。
「あなたの声が戻ったら、あたしは消える…、しばらくは、黙っていてもらうわ」
あたしは、細く白い手を彼女の喉にかざし、床から足を離した。
身体が浮かび上がる。とたん、ピッタリと張り付いていた白いハニィが、水中に投げ出されたようにふわふわと身体から離れ、宙をゆたい、あたし自身は白く発光する。すぐ側に赤いダァリンをみつけて、手にとったわ。
“お姉ちゃん…”
「……!」
その時よ!背後からぁ、幼い少女の声が聞こえたのよ!あたしは思わず振り返ったわ。でもぉ、そこには青白い巨人が横たわっているだけだったの。
何か不安だったわ。いったい、なんでかわかんなぁい。ただ、ただ、あの声に聞き覚えがあったの。お姉ちゃんなんて呼ばれたことないのに、どぉしてぇ?
あたしは、穴が開くほど巨人を睨みつけていたけど、彼女は会話することが出来ないのだもの。彼女ではないはずだわ。
きっと、空耳ね。
「……まあいいわ、また会いましょぉねぇ?ルゥナァ?」
目を細め、微笑みかける。あたしは、部屋を出た。ハイネが此処へ来た目的は、ただひとつ。アサヒへの懺悔。死者への熱烈な後悔の独白。
薄情モノ―――。
今さらだわぁ。何一つ、かわりはしなぁい…。お馬鹿なハイネは、記憶喪失でチャンチャラのキチガイ女。でも、このホワイト・シィプドッグ様の唯一安息の地でもあるの。万一、彼女のアサヒへの後悔が、癒えてしまう様なことがあったら…。あたしはもう、こんな風に表へ出ることが叶わないかもしれないわぁ。
そう思うと、やっぱり怖ぁい☆
出る杭は打てってゆうかぁ、備えあれば愁えなしってゆうしぃ。ハイネの傷に、塩を塗っちゃうぞ☆みたいなぁ?そうして、あたしはずうっと彼女といる。うふふ、それどころか、乗っ取っちゃう?
さあって、それにはどうすればいいか……。
答えは明白。アルシオンよ、ハイネはアルシオンが好きなんだもん。たった数時間一緒に過ごしただけのお綺麗な女男に惚れるなんてぇ、理解できなあい。でも分かってる、恋って理屈じゃないのよねぇん。ハイネの深層心理で眠っている間にも、彼女の中で愛情がどんどん膨らみあがるのが分かってた。そして、同時に憎悪も…。
もしかしたら、あたしを目覚めさせたのは、アルシオンへの押さえ切れない恋心と、憎しみだったのかもしれない。強く、強く、彼を思っていたものぉ。きっと、ハイネが思っているよりずぅっと。
アルシオンに会わなくちゃならない。ハイネを心の檻に閉じ込めるには、彼女自身が、慈しみと怒りでいっぱいにならなければならないのよぉ。
「うふふふふ、まっててぇん、アルシオンちゃん、そしてハイネ……!」
あたしは、蒸し暑い空気を切り裂くようにして、窓から飛び出した。後ろを振りかえると、小さな人影が、じっとあたしを見ていた。
美しい、月夜の晩。彼岸会に、会いたいのは少年の死体…。