2.砂漠に落ちる月
砂漠に落ちる月
砂漠に落ちる月は七色。今日は二色目、はいねず色だ。明日は納戸色になると、何故かあたしは知っていた。あたしは、いつからココにいるんだろう?
あたしは、誰なの?
つい今しがた、砂漠の中で目覚めたあたしは、それまでの記憶を全て…失っていた。
ただ、心の奥に一人の少女がいる。深層心理の奥深く、彼女は昏昏と眠り、目覚めるその日を待っているようだ。その“アサヒ”と、いう少女の存在があったから、あたしはこの荒涼とした砂漠に立っていられるのだと思う。
自分が誰かわからないし、ここがどこなのかわからない。
とにかく、ここを抜け出ようと思った。冷たい風が吹きすさぶ、七色の月の眼下から。
「ごきげんよう、ハイネ」
見たこともないような美男子があたしの前に現れた。砂嵐で視界が悪かったせいもあるが、目の前の何もない空間に突如出現したようにも見えた。あたしは言葉を失った。
「どうしたの?何故黙ってるの?僕はアルシオンっていうの、たぶん…。ねぇ、ハイネは?ハイネ、名前はなんていうの?」
透き通るように白い肌に、漆黒の髪。唇はぷっくりとした林檎色で、まるで白雪姫のような男の子。目は何処までも蒼く、大きい。あたしと同じか、上くらいの歳なのだろうが、このあどけなさは何だ。
綺麗で、愛らしい…とても、この世のものとは思えない少年だった。
「あ、あたしは…」
少年――たしか、アルシオン――は黒いポンチョのようなものをまとっていて、それがなお更、彼の肌の白さを際立たせている。顔だけが空中に浮いているような錯覚を得る。
少し不気味に感じながら、何とか名乗ろうとした。言葉に窮す。当たり前だ、あたしは自分の名前を覚えていないんだから。ふと、アルシオンがあたしに“ハイネ”と呼びかけていたことを思い出す。どういうコトだろうか。
「は、ハイネ!ハイネよ、あたし」
「えぇ?それ、本当なの?」
アルシオンは目を真ん丸くして、あたしの顔を覗き込んだ。懐疑の眼差しだ。どうやら、ハイネというのは名前には向かない言葉だったらしい。
「可笑しいね。僕はアルシオンなのに、ハイネはハイネなの?ハイネって“どなたか存じ上げないご婦人”って意味でしょう?アルシオンってね、とある地方の古い言葉で“存在できなかった妻”って意味なんだって、おもしろいね」
彼はニコニコと笑って、そう言った。
しまった!「どなたか存じ上げないご婦人」よ、なんて。変な名前を名乗ってしまったものだ。恥ずかしい。
「わ、笑い過ぎ!は、発音、そうだよ、発音が違うのよ、あたしはハイネじゃなくて、ハ・イ・ネ、よ」
照れ隠しに喚きたてる。アルシオンはごめんね、と小首をかしげて愛らしく謝った。
「だって“どなたか存じ上げないご婦人”でしょ?“存在できなかった妻”に、実は知り合いにね“誰にも知られない老婆”って意味の名前の人がいるの、三人の名前を並べただけで、サァガァができちゃうよ」
サァガァとは、物語とかそういう意味だろう。
「そうだぁ、その知り合いに逢わせてあげるよ、彼もきっと、おもしろがるんじゃないかな、ねぇ、いいでしょ、早くいこうよ」
アルシオンはあたしを急かした。あたしは、首を振った。足が疲れて歩けないのだ。先ほど目覚めてニ、三歩歩いた。それだけで、ねっとりと絡みつく砂の中で、足を踏み出すのがどれほど大変か知らしめられた。
それに、この美貌の少年を、信じきれない。
確かに、疑う余地もないほど美しく、純心無垢な男の子だけれど、なにか心に引っかかるものがあった。無気味にも見える、白い肌。
「何故?」
「だって、疲れて動きたくないし」
「へ?」
アルシオンは、きょとんとしてからニヘラ、笑った。
「ハイネったら、ケチん坊だなぁ、そんなに魔力をセェブしてどうするの?」
「魔力?」
今度は、あたしがきょとんとする番だった。アルシオンは、しかたないなぁというように肩をすくめて、ひょい、あたしをお姫様抱っこした。
男子にお姫様抱っこされるなんて、初めてだった。
初めてだと、思う。確信がない。
「い、嫌ぁ!降ろしなさいよ、ちょっと、なにすんのよ」
「行くよ」
フッと、それまで一面に広がっていた砂漠がフイドアウトして、紫色の光がスパァクした。恐ろしくなって、瞳を閉じるとそこに人影が見えた。
白を基調にしたセェラァカラァのツゥピィス。紺のニィソックスにバックルに凝ったベルトがまかれ、茶色いロゥファを履いている。そして、おかっぱ頭。けして可愛いとはいえないものの、愛嬌のある人懐っこい顔立ち。ぽっちゃりした身体つきに、アヒルと罵られる大きな口。
あたしだ。
あたしは、誰?
いつから此処にいるのか解らない。生まれたときからいるのかもしれないし、ついさっきまでは、違う場所にいたのかもしれない。
心の中にアサヒという少女がいる。
それだけが、確かだ。
ぱっと、クラッシュして、光が飛び込んできた。アルシオンの黒いポンチョに包まれているのに、強烈な光。
次に喧噪。
砂漠の真ん中でお姫様抱っこされて、光が舞って、一瞬で市街の中。
そう、これは…
「まち?」
「そう、クモの糸広場、来た事ない…?」
アルシオンが言った。あたしの知っているクモの糸は、大きくてもせいぜい顔の大きさだったはず。足元に、広がったクモの糸はとてつもない大きさだった。
アルシオンにそっと下ろされ足をつく。白い、円筒状の道。クモの糸だ。
夜空を照らす、淡いオレンジの光はそれぞれの屋台や劇場から。太いクモの糸は道路で、その他の空洞にはあたしの知っている太さのクモの糸が、張り巡らされている。
中空に浮いた、クモの糸の巨大ハンモックに、堤燈をぶら下げた屋台とテント……糸は触ると、ふんわりしていて、少し粘っこい。
さあ、安いヨ安いヨ!
とうきび汁のタイムサァビスをはじめるよ!
二皿でなんと、赤花びら三枚!
その殆どが食べ物屋で、五軒に一軒の割合で土産屋が軒を連ねている。まるで、お祭りだった。屋台は葉っぱを丸めたものを幾重にも重ねてできていて、あたしは、自分の中に残る不確かな記憶が、いよいよ確かでなくなったのを感じた。
住人達は、青白い肌をしていて、男も女も(男と女の区別は付かないが)あたしの二倍の身長。猫背で、頭が小さく不思議な装飾品と、化粧をしている。青く巨大なその人たちが、クモの糸広場にいる人間の大半を占めていた。
数人、違う人種を見たけれど、すぐに青い巨人の雑踏にまぎれてしまう。
青い巨人は、ぎょろりとした目で値踏みするようにあたし達を見る。けして敵意のある視線ではないのだが、大きい分だけ威圧感があって、思わず物怖じしてしまう。
「こわい…」
思わず、アルシオンにしがみ付く。彼は、ニコニコとしてあたしを慰めた。
「“あおじん”を見るのは、初めてなの?可笑しい人…、ハイネのこと、もっと知りたくなっちゃったよ」
「え…?」
カッと、顔が熱くなった。アルシオンの笑顔が、あたしの胸に飛び込んだのを感じた。
うろたえるあたしを追い立てるように、彼は厳かにお辞儀をした。そして、姿勢を戻す前に、すっとあの大きな青い瞳であたしを盗み見た。
なんでも、しってるよ。
その顔が、語っていた。
「お腹はすいていないんだ、でも、来た事ないなら案内するよ」
「う、うん…」
初恋だなんて。そんなもの、信じてないのに。
「お嬢さん、どう?コレ、新鮮なんだよ?」
「い?」
目の前に突き出されたのは、得体の知れない緑色の塊。首を振っても、屋台のあおじんは試食だからと、スプゥンでえぐって、顔の前に持ってくる。
「あの、その…」
戸惑い、あたしはアルシオンに判断を乞う。当然、断ってくれるものかと思ったら、
「どうして食べないの?お腹いっぱいなの?」
と、こうだ。
こんな不気味なもの、食べれるわけないじゃない。
ちょうどそのとき、ぐぐぅと、最低なことに腹の虫が鳴った。あたしは真赤になって、慌てて弁解しようとしたが屋台のあおじんに、無理やりスプゥンを押し込められた。
「うぐぐ」
「ほらぁ、美味しいでしょ?」
口に広がるほのかな酸味と、程よい冷たさ。柑橘類のアイスクリィムのようだった。口で、すぐに溶けてなくなる。不思議な食べ物だったが、とても美味しい。
「これ、何ていうの?」
あたしは思わずそう聞いていた。
「“ユウキ”ですよ、今朝とれたばかりなんです」
「ユウキ?変な名前ね」
「そらぁ、生きてる人間の付ける名前ですからね、変な名前でしょうな」
あおじんは、にんまり微笑んだ。あたしは、よく分からないまま頷いた。
「お夕食にいかが?」
「あたし、お金持ってないのよ」
あたしはポケットをとんとん叩く。と、ポケットがほのかに光った。
「赤い花びら二枚で一食分」
あわててポケットをひっくり返すと、萎れかけたポピィが落ちた。花びらが僅かに光っていたのだが、外に出すと普通のポピィに戻った。あおじんはにんまりして、
「二枚だよ」
と、言った。あたしは戸惑いながらも花びらを二枚、彼の大きな青白い手に乗せた。ポピィの花びらはあと四枚。何故、砂漠にいたあたしが、ポピィなんて持っていたんだろう?首を傾げるあたしの手に、ずっしりとビニィル袋につまった緑の塊が、手渡された。
「こんなに?」
あおじん達は、これほどの量を一食で食べてしまうらしい。袋に振り回されるように、あたしはアルシオンを追った。彼は、小さな男の子のように微笑む。あたしは、彼が振り向くたびに顔が火照るのを感じた。守ってあげたくなるような、それでいて謎めいた、美しい男の子。こんなこ、今まで見たことない。
?あれ?
なんとなく腑に落ちない気がした。
表情にも表れていたらしく、アルシオンも首をかしげる。黒いポンチョを翻して、それでもあたしを促す。オレンジ色に満たされた、クモの糸広場の中心に、大きな黄色いテントが見えてきた。周りの身長が高いせいで、今まで良く見えなかったが、どうやらテントは朽ちた月桂樹の葉を赤い毛糸で繋ぎ合わせてできているようだ。
中から、聞いたことのあるような、ないような音楽。
テントを通り過ぎて、いくらか歩いた。そこは、白い建物が並ぶ住宅街。やはり、オレンジ色の堤燈をぶるさげてる。思い出したように屋台があるが、先ほどのような活気はない。白い建物は蜘蛛の糸を練り上げて作っているらしく、歪で気味が悪かった。
「ここは…?」
「ルシアに、“誰にも知られない老婆”に、逢いたいでしょう?彼はココに住んでいるんだ、可笑しいでしょう?“蜘蛛の糸広場”はあおじんの町なのにサ、物好きだよね」
「ルシア…?」
懐かしい響きだった。もしかしたら、今までのあたしを知っているかもしれない。
アルシオンは白い住宅のある一戸の前で立ち止まって、こう言った。
「ごきげんようルシアァ!」
しん、と静まり返っている。
白い住宅には扉はなく、穴が穿ってあるだけだ。穴のすぐ横の堤燈は光を発しておらず、朽ち落ちている。大きな虫の羽が寄り集まってできている堤燈。
その中に、顔のない虫の死骸。巨大なほたるのお尻だった。
うっ、吐き気を堪える。
「ルシアァ!」
返事はない。白い洞窟は、アルシオンの声をこだまするだけで、人の気配はない。あきらかに、誰もいない。
「むぅ、困ったね、ハイネと逢わせてあげたかったのに…」
肩を落とし、とぼとぼ元来た道を戻る。あたしに、蜘蛛の糸広場を案内してくれる気らしく、あれは白鳥の羽町の伝統工芸の店、あれはチエとカナシミ専門店、あれは蝉の茸店、あれは、あれは…と、指さし歩く。
ルシアは明らかに、あそこには棲んでいなかった。アルシオンは諦めたらしい。
不思議な店ばかり。雨水を売る店が一番多い。喉が渇いて、一食分の水を買う。花びら一枚。先ほど買ったユウキと雨水を交互に食べ歩きながら、アルシオンの後に続いて大きな黄色いテントの周りをぐるり。
「ねぇ、この大きなテントはなんなの?さっきからすっげぇ音楽とか、震動とか」
ある程度歩いて、疲れたあたしはとうとう聞いた。アルシオンは、ぎくりとしたようだ。一瞬動きが止まる。
「ここはね、今、劇団“るなざ”が公演しているんだよ、普段は落語とかばっかりやっているんだけどね、月に一度こういうカッコイイ劇団がくるんだ」
「へぇ、演劇?」
「うん、ダンスとかも入ってるんだって」
「そういえば、この音楽…チャイコフスキィ?くるみ割り人形じゃあない?」
「僕は、音楽にあまり詳しくはないんだ、ねぇ、見てみたい?」
「見たい」
あたしは即答した。どうしてだろう?なんだか、うっすらと記憶の中で踊る白い人影が見える。あれは、アサヒ。
薄れていた記憶が、少しづつ鮮明になってくる。“アサちゃん”と、声をかけられて、翼をつけた白いドレスの女の子が前に出る。あたしは斜め後ろから、じっと彼女を見ている。天使のような女の子。あたしのさらに後ろには、チュチュが並べられていて、それぞれの前に天使を睨みつける女の子達が陣取っている。その敵意は、何故かあたしにも向けられている。大人たちが回りにいる。さっき“アサちゃん”と、呼びかけた太った女の人だけが、にこにこ微笑んでいるけれど、他の大人たちは唇から血が出るほど噛みしめて、怨めしい顔をしていた。女の子がたくさんのライトの下で片足を上げて、横を向き、手を優雅に持ち上げた。美しい、美しい“アサちゃん”は神神しくて、グロテスク。あの軽やかなステップを見ろ。あの完璧なピケに感嘆して、あの礼儀正しいレヴェランスに誉れを捧げろ。
これが、あたしの記憶にあるダンス。無音の記憶。
テントの中は湿っぽく、蒸し暑い。扇に並べられた木のイスに、ふんぞりかえるあおじん達。みな、一様に柄が悪い。あたしの不確かな記憶は、これが演劇の会場であるはずがないと、告げている。
宙を横切るゴミと花びら。大半があおじんだったが、数人身体がひん曲がった白い人達がいた。蝉に似た羽を生やし、あちらこちらを飛んでいる。
中央に据えられた切り株の舞台に、バイオリンに似た楽器を弾くあおじんと、大声で歌う太ったあおじんがいた。太った方は、花や木の実で着飾っている。オカマみたいだ。
「スベレツェッペ、ツァナイコァァァ!パボロワシャァデ、ツェナイコァァァ!」
チャイコフスキィのくるみ割り人形のような曲が、テンポを落とし、わけのわからない曲になり、時時アラベスクが入って、聞いたことのあるようなないような曲に変貌した。
バイオリンのような楽器には、弦が二十六本も取り付けられていて、様様な音を出す。
「ペペッツィッカァ、ツゴイネルァル、アツェ、ディアシャァデ、ツェコリン」
太ったあおじんは悲鳴のような歌声を上げる。体の芯がぼうっとなるような声で、あたしの知らない言葉で。
「るなざの歌姫、流魚だよ“あかじん”の歌だね、コレ」
「ルナ…?」
女性なのだろうか。オカマにしか見えないが。
いや、あおじん達は皆大きくゴツイ人種らしいから、太っているだけでも女性らしいのかも知れない。
「となりのバイオリフはやんちゃ坊主の吾逗、僕の知り合い」
「アズ?ってゆうか、子供なの?」
ゆうに三メェトルはありそうだ。
「まだ二歳だよ。ああ、僕達“きじん”に例えると、一五歳くらいだから、体型は大人だね」
「うっそぉ、二歳?ってゆうか、ふん、あたし達って“きじん”なんだ」
頭に奇人とうかべる。
「…ぴったりだわ」
肌の色で人種が決まっているんだ。青白い肌はあおじん、黄色い肌はきじん、じゃああの蝉の羽のやけに細っこいのは、ちょっと透明だけど、しろじんだろう。歌姫ルナの歌っている曲があかじんのものだというけど、じゃあ肌は真赤なのかな。
ルナは一生懸命歌うけれど、観客は足を投げ出し、つまらなそうに鼻糞をほじっている。これじゃあ、ルナが可哀想だ。時折、花びらが投げられる。
そのようすに圧倒されていると、アルシオンが肩を抱いてくれた。
「怖いの?ハイネ」
「うぅん、てゆうか、態度悪ィくなぁい?」
眉間に皺の神様。
「しかたないよ、演劇なんて最下層の見ものだもん、見たいって言ったの、ハイネでしょう?どうする?出る?」
演劇が、最下層の見もの?少し、意外。あたしは目を細くすぼめて、会場内を見回した。時折、あおじんと目が合う。
「アズくんと、知り合いって?」
「うん、彼の親の最期を看取ったんだ、彼も僕には懐いているようでね」
ころころと、愛らしく笑う。本当に、男の子なんだろうかと思うほど、華やかなアルシオン。どうやら、アズの親と旧知の仲らしい。
「あおじんの寿命はせいぜい六、七年だから、僕は吾逗の祖父の代から知ってるよ」
「アルシオン、何歳?」
「はたち」
「……商売できるわよ」
半分本気だった。それにしても、二十歳とは…。記憶があいまいなため、自分の年齢がどのくらいかはわからない。しかし、二十歳ではないだろう。この美しい少年は、少年ではなく青年なのだ。すごいベビィフェイス。
同じくらいだろうと踏んでいたのに。
「あたし、歌手になりたかったんだ」
本当だった。あたしはしゃがみこみ、両手をすり合わせた。少しずつ、記憶が戻ってくる。あたしは、ここの人間ではない。違う場所にいた。そこで、歌手になりたいと思っていたんだ。きっとそう。違うかな?
「ねぇねぇ、アズくんに話とか聞けるかなぁ?上手くいけばルナさん?にも会えたりする?ちょっとさぁ、聞いてみたい」
「そうなの?」
ダンスが始まった。期待していたものとは違って、激しく腰を振り、足を高く上げるアメリカンな踊りだった。踊っているあおじんは少し小柄で、頭に葉っぱをつけている。
「アン、アン、ヘェイヘェイ!ア、アン、ヘェイヘェイ!」
そこでバイオリフ(?)と、歌手が交代した。しろじんと、派手な化粧をしたあおじんだった。アズとルナは楽屋に引っ込む。五人の踊り子は、フラメンコと日本舞踊が混じったような踊りをはじめた。花びらは舞わない。客が半分引き上げる。
どんなに柄が悪くても、客を引き付けていたのはルナだったのだ。歌姫というのも頷ける。いよいよ、あたしの中で埋もれていた好奇心が頭をもたげ始めた。
「行こうよ!」
「え?うん」
気の進まない様子のアルシオンを引っ張って、楽屋へのテント幕をくぐる。あたしは、歌手になりたかったんだ。テレビに出るようなすごい有名人になりたかった。…どうして、ならなかったんだろう?
生きているうちに。
あたしは、自分が死んでいるというコトを思い出した。此処は死後の世界。
楽屋に入ったあたし達を迎えたのは、とても穏やかではない一声だった。
「よくもおめおめ顔が出せたもんだな、アルツェウォン」
ひらり、巨大な身体で実に軽軽宙を舞って、アズが手に持った、銀に輝く何かを、アルシオンのこめかみにごり、押し当てた。
それがピストルだと知って、あたしは「ひいい」硬直する。
「失礼、今はアルシオンっていうんだよ吾逗」
ピストルを突きつけられても、飄飄と言ってのくアルシオン。どうやら、あたしが想像していたのとは違う友情だったらしい。アズの敵意はあたしにも向いている。
「ハッ、きじん気取りの名前かヨォ?女まで作って」
あたしは、ただ脅える。すぐそばに、歌姫ルナも控えている。顔は険しい。
とても「歌手ってどんなっすかぁ?」なんて、間抜けな質問できる状況じゃあない。
「やめたほうがいいよ、吾逗、僕に勝てると思うの?」
「死ぬ気ならなあ、相打ちだ」
アズが不適に笑う。歌姫の顔がみるみる青ざめて、涙を流した。
「?」
彼女は首を振って、優しくアズの手を包み込んだ。拳銃が下げられて、あたしは、はぁ、安堵のため息をついた。
「流魚、とめんじゃねぇよ!コイツは、俺とお前の敵だろうが、あ?」
アズはまだ、敵意を剥き出しにしている。ルナは首を左右に振って、涙を流しながらアルシオンに微笑みかける。脂肪をかき分けて、口が左右いっぱいに開かれる。
アルシオンの機嫌を取っているようだが、彼女は何故か言葉を発さない。
「流魚ちゃんはお利口だよ、相打ち?そんなの奇跡でしょ?」
醜くゆがめられるアルシオンの容貌。あたしは、思わず息を呑む。アズとルナは恐れおののき、あとずさる。これでは、アルシオンが悪だ。
「ここにいるのはハイネ、クモの糸広場には始めて来たんだ、ねぇ?ハイネ」
「うん、そう」
いきなり、ふるなよ。
「太っちょ流魚ちゃんみたいな、歌手になりたかったらしいよ、ちょっと、お話したいのだって、僕はこうなるって…」
ちょんと、アズの手に乗っているピストルに触れた。
「分かっていたんだけれど」
ぼぅ――!
「…!」
突然、ピストルが消えた。煙のように。
その手を顔の前にもっていき、バイバイするみたいに手をにぎにぎした。あたしから、表情は見えないけれど、アズとルナは顔を伏せた。
「ハイネを“誰にも知られない老婆”に逢わせたいと思っていたんだけれど、彼、不在だったんだ」
ルシアのことだ。彼に会わなければならない気がする。
アズとルナは、顔を見合わせた。どうやら、彼らもルシアを知っているらしい。
「あの方は、羊の毛の森に帰ってるぜ?七色の月の砂漠に、異邦人が現れたらしい…、大事件さ」
七色の月の砂漠…!それは、あたしが先ほど目覚めた砂漠じゃないの?
「へえ、凄いな」
大きな青い目を、さらに大きく見開くアルシオン。
「二年ぶりに、二時間前に…!」
「そうだぜ、あの方は新しい異邦人が城を代代継ぐと宣言してただろ?そして、自分の代はあおじん七人死ぬまで続くとも、予言した」
「なのに、二時間前に七色の月の砂漠に、新しい異邦人が現れてしまった!って、わけだね、うふふ、面白いことするねぇ、ルシアも」
アルシオンは、顔を歪めて笑った。白雪姫は醜いアヒルの子。それでも、あたしは彼が好きだった。
「ねえ、一体どういうことなの?」
あたしは、彼の黒いポンチョに乗った美貌の顔に、尋ねる。でも、美しすぎてすぐに目をそむける。いつも、そうしていたように。好きな人を、見ない。
「だから、僕の知り合いの“誰にも知られない老婆”っていうのはルシア王のことだったんだよ?ごめんね、内緒で逢わせてあげたかったのだけど…」
「ルシア王、って…?」
恐る恐る、聞いてみる。
アルシオンはきょとんとする。アズも顔をしかめ、ルナも口を両手で抑える。アルシオンの変わりに応えたのは、アズだった。
「あんた、ルシア王を知らねぇのか?」
「知らないよ?」
「たっまげたぁ、こいつぁ、驚いた!この国で、しかもきじんのあんたが、あの方を知らないなんて!違う国から来たのか?」
問われ、答えに窮する。あたしは、あたしの記憶は未だ確かじゃない。さっきは自分が死んでいた気がしていたけど、そんなはずない。じゃあ、何が真実なの?陳情しても、信じてもらえないかもしれない。記憶喪失ではない気がするのに、頭を殴られたみたいに意識がふわふわする。
自分が誰かもわからずに、今の状況も分からずに、ここがどこかも分からずに、なのに自分は自分だという根拠のないものが、あたしの機軸となっている。
「…」
あたしが黙っていると、アルシオンがにたり、嗤った。
何でも知っているよ。また、あの青い目が言う。
「あたしは!あたしは、その…、違う国から来たんじゃあないのよ、そうじゃなくって、あのね…、あたしは」
脆弱な意志を引っ張り出して、明瞭な常識にかけてみる。
あたしは、意を決して告白した。
「あたし、アルシオンに会うまでの記憶がないの…!ハイネって名前も、嘘なの」
顔を両手でふさいで、しゃがみこむ。
感極まったわけじゃない。膝が、がくがくして立っていられなくなったし、状況を甘受しきれない自分には、吹きだしてしまいそうなセリフだったからだ。
予想していた反応は、二つ。
冗談と思って、笑うか、あまりのことに驚愕して、口を聞けなくなるか。
「うっそぉ、そうなの?ハイネ、びっくりしちゃったじゃないか」
……。なんか、すっげぇ軽いことみたいに聴こえる。
「へぇ、記憶喪失ってわけだ」
こちらも含み笑いしてる。あたしは指の間から、三人をのぞき見る。ルナが、イスにかけて編み上げた白髪をほどき始めたのが見えた。大して驚いた様子もない。
「じゃあさ、土魯のところに行ったら?あのじいさん、記憶喪失とかすぐに治してくれるぜ?なんたって、きじんとのハァフだからね」
「ドロおじいさん?なんか、魔法使いみたいなことできるのね」
今度こそ、二人は驚き、慌てふためいた。
「ええ!何言ってるの、ハイネ、まさかそんなことまで忘れてしまったの?」
「きじんとのハァフだぜ?魔法使いじゃん」
「は?え?」
「きじんは、魔法使いなんだよハイネ、生まれながらの」
「じゃあ、じゃあ、あたし…?」
「そう、ハイネも、だぜ」
「くぁ…っ」
あたしは、頭がおかしくなりそうだった。てゆうか、なんかもう、顔はおもしろいことになってるけど。
「あたしが、魔法使い…!」
あたしは、ルナがのぞいてる鏡に映った、なんの変哲もないセェラァ服の自分を穴があくほど見つめた。あたしだ。それだけだった。
「しんっじらんない」
「じゃあ、ルシアのこと知らなくても、仕方ないよね」
窓枠のように黒い髪をかきあげて、呆れ顔。少し、胸がずきんとした。
「簡単に説明するよ。ルシアは、二年前に突然“七色の月の砂漠”に生まれたきじんで、もちろん、普通のきじんと同じように魔法使いだった、それも、半端ない魔力を秘めた、物凄い魔法使いだったんだ、彼は“羊の毛の森”に“ルシアの城”を築いた、それも、たった一晩!ぼくみたいな気まぐれなきじん達は傍観していたけれど、その他のきじんや、強力な先導者を欲していたあかじんは彼に憧れ、次次に仲間になっていったんだよ、でも、それを良しとしなかったのがペロペロ王という太陽の王様だった、ペロペロ王はルシアの領地に太陽を昇らせないようにした、このクモの糸広場は一日中夜のままなのだけれど、それは、この街が“羊の毛の森”に近しいから、被害を受けちゃってるってわけだ、ねぇ?難しいけど、ずっと夜のところと、ずっと昼のところがスパァンと、別れているってこと、それでね、ルシアの味方からも夜ばっかりじゃ嫌だって人が沢山でたんだけど、なにせ彼は凄まじく強いし、お城は“羊の毛の森”と迷路みたいな“朝日の鎮守森”に囲まれているしで、手も足もでない、でも、さすがに王様だけあって、ルシアは弱者達にも譲歩した「王になるべき御人が、あおじん七代分未来に生まれ、わたくしの圧政を退けて天下を極めましょう、その時、我が親愛なるペロペロは御人を許し好いて、太陽の光を傾けてくれましょう」って、高高と宣言した、みんな、ルシアが言うのだから本当だろうと思った、二十年後か、遅くとも三十年後には太陽の光が射すと信じて、彼の支配を甘んじて受け入れた…、ってまあ、こいういことになってるけどね、歴史上は」
ぺらぺらと喋られても、頭が追いつかない。とにかくこの国には、ルシアとペロペロという二人の王様がいるってことと、ここが一日中夜のままの街だということだけが理解できた。
ルシアは王様なのに、どうしてクモの糸広場になんて住んでいたんだろう?とか、そんなこと疑問にも思わなかった。ただ、どうも胡散臭い地名に鼻をヒクヒクさせていた。
「で、元の話に戻るけれど、二十年後に生まれるはずの異邦人…つまり、次王の御人が二年後の今日現れちゃったらしいんだ」
「じゃあ、ルシア王は王様を交代しなくちゃいけないじゃない?」
「そう、そいうことだよ、ハイネ」
にっこり。無邪気な笑顔に戻る。あたしは、それを見て安心する。
「だから、大騒ぎ、きじんのお人柄かねぇ…、予想外のことが起きると、とたん我を忘れっちまう、るなざのオゥナァもきじんだからか、異邦人の事件でピリピリしちまって、今日の公演は最悪だね」
アズが吐き捨てる。その彼の長く太い腕を押しのけて、白髪を垂らしたルナが、首を振った。大きな瞳でアズを見上げる。諌めているようだ。
おかしい。歌姫はまるで、言葉をしゃべれないかのように振舞う。
「ルナさんはその、声が…?」
ひそひそ、隣のアルシオンに尋ねると、彼はアッサリ頷いて。
「そうだよ、喋れない」
あたし以上の小声で返す。
「でも、さっき歌ってた」
「うん、喋れないけれど歌うことはできるんだ、可哀想な女の子さ」
「どぉいうことなのォ?」
「魔法だよ、とあるきじんが、彼女の声帯に魔法をかけたんだ、おかげで、普通のあおじんには発声不可能なあかじんの言葉や、聞いたこともない様な音程が出せる…その代償に、彼女は歌う以外の声を奪われてしまったんだ、悲鳴も上げられないよ」
「そんなのって、酷いわ」
あたしは沸沸とわく怒りを堪え、低い声で言った。
すると、アルシオンも低い声で、
「思惑と過去は、誰にでもある、その善悪を判断すのは本人だけだ、君が酷いなんて思っても、それは僕の存在以上に無意味なことじゃない?」
と、言った。
「ねえ、流魚?」
突然みんなに聞こえる様な大声を出したから、あたしはアルシオンが何かあたしの悪口を言うのかと思って、焦った。何故かそう思った。
「え、ちょ、ちょっと!」
根拠のない杞憂だったが。
「世間話をしにきたんじゃないんだ、ルナみたいな歌手になりたいハイネを連れてきた、だから用件済ませようじゃないか」
アルシオンがにやっとした。
ルナが真っ青になって、首を振りながらアルシオンに寄っていく。アズは、どこに隠し持っていたのか、また、ピストルを取り出した。
「てめぇはよぉ、やっぱそういう男だよなぁ?」
一体、どういうことだろう。
「速く逃げな、ハイネ、歌うこと以外できない身体になっちゃうぜ?」
「あっ」
やっと、アルシオンが何をしようとしているのか、思いついた。突如向けられた男の敵意に、あたしは戸惑う以外のすべを知らない。ルナはアルシオンを無言で叱りつけ、アズはあたしを庇うように立ち、アルシオンを威嚇する。
彼は、白雪姫のように真赤な唇を曲げて、虚空を睨んでいた。
「なんで?なんでいきなり、そぉいうことになるワケ?」
あたしは、アルシオンが冗談を言っているんだと、信じたかった。
「いやいや、面白いんじゃないかと思っただけなんだ、きじんの歌姫」
「下衆野郎、読めなさ過ぎるんだよ、おめぇは」
「読めるだろ?ぼくは砂漠で女の子を拾った、彼女の名前はハイネ、面白そうだからルシアに逢わせようとした、彼は城にいるけれど、例の事件で逢いにいけそうにない…」
「で?面白くなくなったから、ハイネに流魚がかかったのと同じ、禁断の魔法をかけちまおうって、思いついた?頭おかしいって」
「よくできました」
空気が痛くなってきた。あたしは、立ちすくむばかりで何もできない。アルシオンの性格が、わかってきた。彼は“面白いこと”だけを求めているんだ。敵も味方も、彼の頭にには何もないんんだ。
彼が、本気だろうと冗談だろうと、こんな人と一緒にいては、駄目だ。
アルシオンのことが好きなのに、一緒にいては、いつ裏切られるとも知れない。
「別に、アズの両親みたく殺すわけじゃないもの、ルナちゃんもアズも、そんな大袈裟しないでよね」
アズの両親を、殺した?
いじけて、小首をかしげる。しかし、アルシオンの背後では紫色の光というか、空気というかが渦を巻いている。魔力が高ぶっている。直感した。
「いいじゃないの、ねえ、ハイネ、ぼくに歌声を聞かせてよ」
この人は、冗談で本当にそういうコトをする。
「いやよ、ごめんだわ」
あたしは、あとずさる。そのとき、両手の平が熱くなるのを感じた。吃驚して手の平をよくよくみると、きらきらと何かが輝いていた。
白い光。
魔法の光。
かっ、頭が真っ白になった。両手を突き出し、アルシオンに突進する。
「ッワイト・シープドッグ」
叫んだ瞬間、嵐のように風が吹き荒れ、両手がコレまで以上に熱くなった。
「ぎゃっ」
どんっ
あたしが放った掌態は、アルシオンを簡単に吹き飛ばした。彼は楽屋の戸を打ち破って、地面に伸びてしまった。
あたしの両手は、白い炎のようなものに覆われ、キラキラと輝いていた。これが、きじんの、魔法の力…!
ルナもアズも立ちすくんでいる。あたしは、肩で息をしながら、何とか落ち着こうとしていた。光る手と、仰向けに倒れたままのアルシオンを見比べる。
喋ることのできない歌姫の、ふかふかとした両手が、あたしの肩を抱く。温かくて、優しい、青い大きな両手。指が四本しかないのに気づいた。
「あんた、逃げた方がいいぜ?」
アズが、低い声で言った。あたしは、どうしてだろう…化け物を見るような目つきで、アズを見上げた。彼も、嫌な虫を見るような目で、あたしを睨み返した。
「どうして?」
「どうしてって…、そっか、あんた記憶喪失だったな?こいつ、この男、アルツェウォンはルシア王に続く強力なきじん――本当は、きじんじゃなかったんだがな、そういう男をのしちまったんだ、仕返しが、怖くないのか?」
「仕返し?」
「子供っぽいからなぁ、コイツ、絶対仕返ししてくるよ」
あたしは、あとずさった。そうかもしれない。アルシオンはそういう人かもしれない。
「何処に、逃げたら良いの…、あたし、自分が誰かもわかんないのよ?」
泣きそうになる。
その時、大きな青い手があたしの両手を引っ張った。右にふかふかした手、左にゴツゴツした手、ルナとアズがそれぞれを掴んでいたのだ。彼らも一瞬顔を見合わせる。ルナが、今までの優しい聖母のような容貌を崩し、小悪魔のように微笑んだ。アズも、ニヒルな笑みを口端に浮かべて、アルシオンを睨みながら言う。
「あんたを逃がすのは俺達だ、でも、選ぶのはあんただ」
「どうして、そこまでしてくれんの?」
「アルツェウォンは、あおじんの天敵だからさ、あんたにゃスゲェ魔力がある、き っと、この男を倒してくれる」
「そんなこと、出来る筈ないじゃん!あたしは、アルシオンに何の恨みもないのよ?魔法だって、ただの偶然なのに…!」
必死に泣くまいと歯を食いしばる。アルシオンは、死んだように動かない。
「記憶を取り戻してあげる」
「え?」
「あんたが誰かを教えてくれる魔法使いの所へ、連れて行くよ、そしたら、魔法も怨みも思い出せるさ」
アズは確信しているようだった。あたしが、自分の親の仇を討つと本気で。ルナもルナで、その通りだとばかりに微笑む。あたしは、二人に嫌悪感を抱いた。
「選ぶのは、ハイネだ」
「あたしは“アサヒ”かもしれない…?」
一枚の洋紙を前にして、白鳥の羽ペンを玩びながら、あたしは苦悩していた。ハロウィンのお化けのような頭巾を被った、巨大な動物がにゃあと、鳴いた。ライオンのようだが、背中にカメの甲羅のようなものが付いている。得体の知れない動物だ。
クモの糸広場を後にして、一日が経った。ずっと、夜のままである。
食べ物は、ピンクやグリィンのアイスクリィムみたいなものばかりで、料理名も“カナシミ”とか“ネタミ”とか“ユメ”とか、変だった。そういえば、ライオンでカメな得体の知れない動物は、三体いて、それぞれマチモチ、ルリウミ、ヘベルツという名前で、水以外の一切を摂らなかった。アズとルナとあたしを運んでくれる、気性の穏やかな動物だ。あたしは、へベルツに乗って移動する。オスかメスかはわからない。
「書けたか?」
「うん、一応ね」
銀のカップに紫色の飲み物を淹れて、アズがあたしの洋紙をのぞき見る。
場所
教室、ステェジ、病室、畳の部屋、イスのある部屋、ベットのある部屋。
人
お母さん、お父さん、友達?友達の親?先生、大人。
自分の状態
死んでいる。
自分
学生、セェラァ服、十三から十八歳くらい?女、アサヒ。
「これだけ?」
アズが首をかしげる。これは、あたしがアルシオンに出会う前の、自分に関する記憶を書き出したもので、なんでもいいから書いてみた。ほんの少しの記憶でも、こうやって書き出してみると、自分を取り戻せるような気がする。
ただ、引っかかるのは“アサヒ”だ。名前なのだろうけど、一体自分とどういう関係だったのかさっぱり思い出せないんだ。もしかしたら、あたし自身が“アサヒ”だったんじゃないかと思ってみたが、しっくりこない。
靄のかかった僅かな思い出の中で“アサヒ”という名前は、何か恐ろしい呪文だった気がするし、何かの拍子に思い出す“アサちゃん”という少女は、禍禍しく呪われたように美しかった。顔は良く、わからないけれど。
「まあ、いいさ、土魯があんたの記憶を取り戻してくれる」
「こんな砂漠生活、三日ももたないわ」
「弱音吐くなよ、しかたないだろ、クモの糸広場からきっちり三日分はなれたところに、土魯の家はあるんだから、そもそもあんたが魔法を使えれば、こんな辛い思いしなくて済んだんだよ」
魔法は、あれから一回も使っていない。というよりも、出そうと思ってでるものではないらしい。出来損ないのきじんなのだ。あたしは、アズの軽口にも取り合わず、ぼうっと月を見上げた。夜は一日中続いている。
ペロペロ王の太陽を、見てみたい。明るい朝陽を拝みたい。
今、あたし達は砂漠を縦断している。太陽が昇らないし、時計の類もないので(似たようなものはあったけど、デタラメだった)正確な時間は解らないが、食事と食事の合間にこうして数分岩ノ下でくつろぐ。他の時間は全て移動。アズによると、これで一日分移動したことになるらしいが、未だに睡眠はとっていない。
「あたしは、誰なの?」
悲嘆に暮れる。そもそも此処は、あたしの居るべき世界じゃない。此処は、この場所は、あたしが本来生きていける場所じゃあない。コレだけは確信するわ。
環境に自分を合わせるという考え方は、間違っている。満足して歩いていけない人生なんて、世界なんて、くたばっちまえ。
眉根がよる。
「飲むか?」
紫色の飲み物は、うっすらと湯気を立ち上らせる。香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……」
反射的に受取った、不気味なホットドリンクは苦くて、温かかった。その静かな水面にあたしの顔が映る。ぷっくらとしたさくらんぼ色の唇に、つぶらな瞳。赤味の強い黒髪が、黄色い肌にかかっている。クモの糸広場に来た頃は、愛嬌のある顔立ちだったはずが、いつのまにか冷たい雰囲気になっている。
水面が、一瞬歪む。
あたしの顔も歪む。
――――刹那、そこにアサヒが現れた!
あたしのいたその場所に、大粒の宝石のような瞳を潤ませ現れたのだ。理知的な輪郭、鋭利な鼻筋、あどけなさと美しさの融合した芸術的なバランス。黒曜石のようなその瞳は、長く柔らかな睫毛に縁取られている。その一本一本が、確実に上を向き、濡れたような艶かしさをもった、豊かな髪の毛に触れそうになっている。少し太い眉は、意志の強さを感じさせ、めくれ上がった唇から覗く、真白くて可愛らしい二本の前歯はリスを連想させる。頬は見事な桜色で、黒子一つない陶磁器の様な肌を明るく照らしている。
十二、三歳のその少女は、銀のコップを目をパチクリさせながら覗き込んでいた。と、耳の脇から長い長い黒髪がさらりと垂れる。コップの中に入ってしまった。
「ハ!」
有り得ない、有り得ない、有り得ない!目を見開いた美しい少女はコップを取り落とし、紫色の飲み物を砂漠の砂にぶちまける。
あたしは無心で自分の顔や髪の毛を確かめた。
ショォトボブの茶髪に、横に育った丸顔。発達しきった胸は、もう大人のものだ。
だが今、水面の揺らぎに見えた姿は、長い黒髪を垂らしたではないか!あの一瞬、あたしは湯に浸かって重くなったロングヘアを感じたし、その黒髪もしっかり見た。
あれは、アサヒだった。
では、あたしはアサヒなのだ。今こうして、自分だと思っている不細工な女の姿は、きっと誰かを模した偽りの姿なのだ。有り得る。魔法も使える世の中だもん。
あたしは、記憶喪失になって、自分を忘れてしまった。だから、記憶に残った独りの人間に魔法で変身したのだ。
「おいおい、どうしたんだハイネ?」
地面に転がったコップを拾って、微笑みかけるアズ。その向こうに、同じく吃驚した様子のルナが首を傾げて立っている。
あたしは、肩の震えを抑えきれずに、両腕で身体を抱く。まるで、自分を守るように。
あたしの記憶に一番残っているのは“アサヒ”だったけれど、目覚めた直後に、一番に思い出した人物がいるはずだ。“ハイネ”が、いるはずだ。
あたしは、自分を抱え込む。涙が出てきた。この姿は偽りだった。頑なに否定してきた、アサヒが自分であるというその現実に、打ちひしがれて……。
ハイネと名乗るその前に、思い出したその人物は――――!
「お姉ちゃん…!」
「ちょっと、×××くん…?」
「×××と、同じ匂いがする」
言ったが最後、×××くんの両腕が視界いっぱいに広がって、一瞬の無重力を感じた。
彼は、あたしに顔をうずめるようにして、あたしを抱きかかえた。ただでさえクラクラして、夢見心地のあたしだったのに、そんなことされて、頭は真っ白になった。二人の息遣いだけが廊下に響く。彼があたしに、彼女を求めているのはわかった。それでも、体が熱くなって、慰めの言葉でもかけてあげればいいのに、ただ小刻みに震えるだけだった。
こんなとき、抱きしめ返してあげられればいいのに。
言葉も出なくて、頭がぐるぐるしだした。ようやく、渇いた口を開けたときにはもう、数十秒間抱きかかえられた後だった。
「うわ、あ、あのちょっと、ちょっ」
「……ごめんね、×××さん」
浮いていたかかとが、そっと冷たい床に触れる。春風のように、ふわりとあたしの栗色の髪の毛をさらって、彼ははなれた。湿気の多い午後だというのに、首に巻かれていた彼の細い左腕はさらさらしていて触れ合うのが気持ちよかった。でも、すごく男臭くて女所帯のあたしには耐えられないものがあった。
男臭さに咽ていると、あのニヤという笑顔をして、
「×××に嫉妬されちまうかな」
て、飄飄と嘯く。白いズックに割りと大きいサイズの両足をねじ込んで、おじゃましましたと、振り返りもせずに玄関を出て行った。彼は、少年と男の間の年齢なんだナァと、こんな時思う。
それが、彼を見た最後。この世で、彼に会った最後だった。
「!」
意識が覚醒する。冷たい甲羅に身体を密着させて眠っていたようだ。四肢の先まですっかり冷え切っていた。
すぐ横にルリウミに揺られながら、ヘベルツの綱を引いていてくれているルナ。右前方にはマチモチとアズの陰。絶えず吹く砂吹雪に、思わず見失いそうになる。
眠っているあたしを起こさないでいてくれたんだ。
ルナとアズの優しさに感嘆する。前傾姿勢になって、巧みにルリウミ、へベルツ二体を操作するルナ。そのままでいるのも悪いので、声をかけようと身を起こした。
その時、ルナが自分の胸元を見て、微笑んだ。
いや、胸元ではなくて、その視線の先にある自らの腹部に向かって、微笑んだのだ。そういえば、肥満した身体を何とか浮かせて、冷たい甲羅に押し付けないように腹部を守っている。アズの様に、うつ伏せにしがみ付いたりしない。
「ルナさん?」
あら、起きたの、とでもいうように、こちらを振り向き微笑む。へベルツの綱を、渡してくれた。あの表情を、あたしは知っている。
「妊娠してるの?」
女の勘、というやつだ。案の定、彼女は躊躇いなく頷いた。
「ほんとにぃ?凄いじゃん、おめでとう!」
あたしは、無邪気に喜んだ。ルナも、コレまで見たこともない様な愛らしい笑みを返してくれた。はにかみながら、嬉しそうに微笑んで、お腹をさする。
「ねぇねぇ、赤ちゃんのお父さんって誰なのぉ?もしかしてぇ?」
ちらっと、アズに視線をやる。青い肌は、さすがに赤くはならなかったが、彼女は綱をもっていない方の手で頬を覆い、上唇を下唇で隠して、押さえ切れない喜びを表す。
「キャ―!やっぱりそうなのねぇ?」
きょろきょろとした瞳が、アズとあたしを交互に行き来。からかうのはやめて、とばかりしかめ面をしてみせるが、すぐに相好が崩れて、なんとも女の子らしい顔になる。
「アズくんって二歳なんでしょ?ルナさんは何歳なの?」
指が三本突き立てられた。
「わぉ!年上女房?あたしのお父さんとお母さんも……年上、…女房?だった気がした、かな?あんまりハッキリしないわ」
コツコツと、頭を叩く。此処に来て四日が過ぎた。記憶は未だにハッキリせず、昨日辺りにたどり着くはずだった土魯の家にはまだ、めぐり逢えていない。アズによると、あたしとルナが遅いせいなのだそうだ。
「ん?あたし?」
ルナがあたしを指さす。年齢を、聞いているのだろう。だが、生憎年齢に関する記憶が蘇っていない。十三から十八歳程度の見た目なのだが“アサヒ”はせいぜい十二、三歳だ。お姉ちゃんの姿は、特徴がありすぎて年齢不詳だ。
わからないと、ジェスチャァした。
少し、がっかりした後、あたしを気遣うように背を叩くルナ。
「おい!土魯の家、“七色の月の沈む丘”が見えてきた、すぐ其処だ!」
少し舞い戻って来て、アズが呼ぶ。あたしとルナは、顔を見合わせお互いにやにやしながら、それぞれの車を蹴り上げた。
ルリウミもヘベルツもにゃあと悲鳴を上げて、駆け出した。
「ずいぶん、辛気臭いとこ住んでんじゃないの」
壁にびっしりと並ぶホルマリン漬の、不可解な生物達。誇りを被った分厚い洋書、骨組みだけが残っているカラクリ人形。薄暗く、今だ全貌を把握しきれない部屋の、中心と思われる箇所には大きな壺。砂漠のど真ん中に聳え立つ、不気味な砂山、その急斜面に突き出た、タイル張りのトンネルを通ると、悪魔の巣窟のような場所に出た。
地面は湿っていて、とても砂漠とは思えない。鉱物や植物もあたりに散らばっている。何より異様なのは、壁の一角に山積みにされている人形達。それぞれ小奇麗な格好をさせられているが、球関節の人形は、あたしの知っているお人形などとは程遠く、あおじんやしろじんやきじんの形を、実に精密に再現していた。
お決まりの、得体の知れないあぶくを吹く装置やら、干からびた虫の死骸なんかも吊るされていて、恐ろしいことこの上ない。いつだって夜のはずのこの地域なのに、電気らしいものも見当たらない。不思議と、カビとか埃の匂いはしなかった。
「土魯じいさぁん!」
アズが壁をドン、叩く。サァ――と、砂が舞い落ちる。
あたしはそこで、巨大なコォムを見つけた。あたしの身長ほどもある、でっかい櫛。プラスティック製なんだろう、半透明の赤色で、星の模様がついている。
なんとなく、手にとってみる。意外と軽い。髪の毛を梳かす部分が、何故かギラギラと、この暗がりの中で光を放っていた。ただのプラスティックではないらしい。
「ちょっと、かわいいかなぁ…?」
我ながら変な感性だが、あたしは巨大コォムを気に入った。
「じいさん!」
イラついたアズが、真ん中の壺を蹴っ飛ばす。
「ほっほほい、五月蝿いのう、そんなに呼ばんでも今行くわい」
陽気な声がしたと思ったら、あおじんにしては小柄な人影が現れた。
「へぇい、流魚ちゃんじゃあないか、よう来たのう」
軽く会釈するルナ。完全に無視されたアズは、首から上をどす黒く染めてその老人を睨んだ。
「この人が、魔法使いのドロおじいさん?」
バッタのような頭部に、捻じ曲がった腹。手足は妙に細くて、節節がボォルのようにがちんとしてる。あおじんときじんのハァフと聞いていたはずだが、正体不明のエイリアンのようだ。なるほど、肌の色は青と黄色の間の緑だけど。
「むむ、見慣れないお嬢さんじゃのう、いかにも、わすが土魯じゃ」
腰の辺りを長く伸びた爪で引っ掻きながら、よく聞き取れない声で鳴く様に名乗った。殆ど機会音といっていい、普通のきじんには出せない声だ。
「あの、あたしは…」
アサヒと、名乗るのは気が引けた。
「ハイネ」
「なんじゃと?」
とたん、バッタ星人みたいなドロが無数にある目をぎらり、光らせた。
「うぅむ、どこかで聞いた、その響きは…、うぅむ、………ああ!確か、どなたか存じ上げないご夫人て意味だったかな」
その後もしばらく黙考する。ノリは良いのだが、テンポが掴めない。
「ハイネはね、アルツェウォンが連れてきたきじんなんだけど、記憶がないらしい」
「ほほぉう、そいつぁ…」
ドロは、音もなく近付いてきた。がに股で、てくてくと。
あたしは、得体の知れない昆虫に近付かれている感じがして、一歩あとずさった。
「難儀ですねぇ、ハイネさん?」
「うんそぉな…あ、いえ、ハイ!そうなんです、自分に関する記憶ってゆうか、今まで何処で何をしていたのか良く思い出せないんです」
昆虫の瞳でじぃっと見られていると、具合が悪くなりそうだ。目をそらそうとするが、彼はそれを許さない。あたしが右に動くと、彼も右に。左に動いても同じ。
「土魯、ハイネの記憶を、取り戻してあげてくれないかな?」
「そりゃ良いけど、それよりお前さん、アルツェウォンと逢ったのか」
「ああ、四日前にハイネを連れて、のこのことね」
忌忌しげに、アズ。
と、ドロがこめかみ(がありそうなあたり)をゆっくりと揉む。頭から生えた触角が、気味悪く上下して、何かを探っているようだ。
「なるほど、なるほど、このお嬢さんがねぇ、アルツェウォン……ははん、やっときじんの名前を?ほうほう、アルシオンを気絶させたのだね、ううん、よしよし、なるほどねぇ……難儀だったね、流魚ちゃんも吾逗も、仕事どうしたの?夜逃げ同然じゃあないか………」
なにやら、独り言。アズも瞳をとろんと潤ませ、ドロの独り言に頷いているようだ。
「何?何してんの?」
ルナは小首をかしげる。今まで気が付かなかったけれど、彼女の両手はしっかりと下っ腹を支えている。いつも、こうしていたんだろうか。
「ふうん、じゃあハイネさん、大体の事情も吾逗から聞きましたから、記憶を取り戻して差し上げましょう」
バッタ星人があたしの肩をとんとん叩いた。
あたしは、恐ろしさと期待の入り混じった、複雑な表情で頷いた。
初め、ドロが隠れていた(?)奥の部屋に招き入れられた。先ほどの壺の広場で、ルナとアズは待っていてくれるという。奥の部屋は小さく、また一段と暗かった。
入口に、さっきから手にもっていた巨大コォムを立てかける。金属音がちぃんと、響いた。やっぱり、ただのコォムじゃないみたい。
部屋には、見たこともない動物の標本や、薬品がたくさん入ったビンが、直接地面に置かれている。何度も踏みそうになった。
「今まで、白昼夢のように思い出した記憶はありますか?」
「え?あ、はい、あります」
あたしは、るなざのテントに入る前に思い出したものと、カップに本当の自分が映ったことと、へベルツの上で居眠りしてた時の夢―――男の子に抱きすくめられた記憶のことを話した。自分がアサヒかもしれないというコトは言う気には、なれなかった。
「ふぅむ、じゃああなたの今の姿は、あなた自身による魔法だと?」
あたしたちは、不思議な模様の書いてあるカァペットにそれぞれ座った。
「そう、思ってるんだけど…?」
恐る恐る、ドロを見上げる。彼は、こめかみに両手をやって揉みだした。
「じゃあ、とりあえず、ハイネさん自身が誰なのか探って、できれば姿も元に戻して差し上げましょう心を開いて、そう、開放じゃ」
「あ……」
渋い緑色の光が、渦を巻きながらあたしの胸に入ってくるのを感じた。ちくりという僅かな痛み。体中がだるくなり、目がとろんとしてきた。
意識が暗転。あたしはそれからのことを、覚えていない。
(さぁて、お前の本当の名前は?)
あ・た・し・?
(そうじゃ、ハイネと名乗っている、お前は誰だ?)
や・ま・ぐ・ち・は・る・の
(やまぐちはるの、お前はどうしてこの世界にきたんだ?此処はお前のいるべき場所ではない、どうやら、お前は未だ生きている)
し・ん・だ
(死んでいない、お前の心を読む限りでは、お前は死んだと思い込んでいるだけだ、この世界は、死後の世界、生きた人間は来てはいかんよ)
あ・さ・ひ・は・こ・こ
(朝日?日の光は、ここには入ってこんぞ?)
れ・い・も・こ・こ
(れい?ハイネからは何も聞いていないのう、一体何故、死者の町に、生きている人間のやまぐちはるのが来たんだ?どうして来たんじゃ?)
お・ね・え・ちゃ・ん・が・た・す・け・に・き・た・よ
(……)
お・ね・え・ちゃ・ん・は・こ・こ・だ・よ
―――お姉ちゃんは此処だよ!
「ぎぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええ」
「ほっほう、それが本性か、やまぐちはるの!」
あたしは、眼球を両手で覆い、のけぞった。程よく膨らんだ乳房の間に、ドリルのように突き刺さった渋い緑の光。濁っているのは、この昆虫男がきじんではないから。
「ヴぁあ…!」
体中に張り巡らされた毛細血管の隅隅にいたるまで、光は満ちている。あたしの全身は、きっと薄気味の悪い緑色に変色しているに違いない。
「こ、こ、こ、このぉ、あ、あ、あ、あたしに、なにを……」
「何もしてやしない、エンパスでやまぐちはるの、お前の深層心理を読んだだけだよ」
え・ん・ぱ・す?意味のわからないことを言う。この昆虫男は、あたしを“山口春野”だと、思い込んでいるらしい。それはあたしの、姉の名前だ。
現世に残してきた、薄情モノの名前だ。
あたしはおかしくて、笑おうとしたが、体中がミシミシと痛んで笑うに笑えない。痛みに逆らって、ぎゅっと口端を持ち上げると、血が出た。昆虫男は一歩下がった。
「今までの人格とは違う…?バカな、この娘にこんな力はないはず……」
あたしは、彼の光を押し出した。ゆっくりと、侵略者達が抜けていく。
やがて、全てが身体から抜ける。光は、煙のように荒い分子になってゆき、最後は虚空の彼方に消えた。緑の昆虫男は、膝をつき、荒い息をしている。
コイツは、本来“光”を使える人種ではないのだ。無理が見え見えだよ。
こういう成り上がり者には、教育してやらないといけないなぁ。
「ホワイト・シープドック」
真っ白な風が吹いた。薄暗い洞窟の中だというのに、太陽がさんさんと降り注ぐ。生い茂った草花の命が匂い立つようだ。光の洪水に気圧されて、昆虫男は尻餅を付いた。そうだ、もっと怖がればいい!そしてその身に刻み込め、自分がどれほど愚かだったかを反省し、あたしをもっと怖がれ!
「コンタクト」
強い強い風が、乱暴にあたしの髪と、服の裾をかきあげる。白い光が全身を覆い、あたしの姿が変わってゆく。進化した姿に。
栗毛のショォトボブは、風に弄られながら色を落とし、光り、逆立つ。白いセェラァ服は粘土のように、自由自在に形を変える。首や肩に巻きつきながら、肌の上を蛇のように移動している。肌は白くすけるようになり、ぽっちゃりしていた体型は、すらりと伸びて、美しい。
獅子を思わせるオレンジの毛髪に、神秘的な女裸身。その回りを、衣服だったものが這いまわり、背後には大きな円形の光。身体は渡り鳥の落とす羽一本より軽く、漲る力は指一本で人間の首の骨を粉砕できるほどだ。
「……」
見ろ、昆虫男はただ呆然とするばかり。あたしの心を覗こうとしたんだ、まだまだ、報いは足りやしない。
この老人の“光”では、とうていあたしに及ばないだろう。フェアでなくちゃ、おもしろくない。あたしは、戸口に立てかけてある巨大な櫛を見つけた。
にぃ、自然と、顔がほころぶ。
「遊んであげるわ、おじいぃちゃぁん」
「ひィッ」
昆虫男は裏返った悲鳴をあげて、戸口に這った。助けを求める気らしい。あたしは、宙を舞って先回りをした。ゆたっていた白い粘土の先端が、勝手に男の頬を打った。
反対の端っこが、あたしの裸体にしっかりと巻き付いているもんだから、あたしのおしりも少し、引っ張られる。
「あんっ」
これは厄介だな。この白い粘土は好戦的なようだ。あたしの意志とは関係なく、敵を撃ってしまう。あたしの愉しみ、盗らないでよぉ。
「吾逗!流魚ちゃん!に、逃げるんじゃぁ」
「だめだよぉ、おじいちゃん、よそ見しないでぇ」
あたしは、巨大コォムを手にとって、勢いよく振り上げる。昆虫男は、偉く脅えた。
いじめたい、かわいい!
「アハハハハハハハハハハハ!逃げて、逃げて!可愛いバッタのおじいちゃぁん」
「く、狂っておる…」
赤い櫛は、昆虫男を串刺しにした。予想に反して、緑ではなく、赤い血が吹き出た。