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1.あたしが死んだら

去年の新風舎出版大賞に奨励賞として入選した作品です。

発表はされませんでしたので、多くの方に読んでいただきたく投稿させていただきました。

「あたしが死んだら」




 「あたしが死んだら、この世もなくなんねぇん」

 アサヒの声が、あたしの耳元で囁く。あの言葉は嘘だった。だって、世界は今も回り続けているじゃない。いつも、あたしに嘘をつくんだから。

 「お姉ちゃん、ねぇ」

 「なに」

 あたしの後ろの列にいた、3つ上と4つ上の従姉妹が囁きあう。カオルちゃんと、サクラちゃん。もう高校生のくせに、お揃いで深緑色のパァカァとジィンズという場をわきまえない格好だ。お母さんの方の親戚の人はみんなそういう“いなか”の人ばかりだ。

 アサヒが死んでしまったのに、喪に服すつもりは無いというんだろうか。

 薄情モノ。あんた達の誰がアサヒの苦しみを、知っていたというんだ。のこのこと、葬式にだけ参加して、美味しいお寿司だけ食べて、お金はなるべく少なく入れるんだ。

 きっと、そうなんだ。そんな薄っぺらい封筒には、ぴんと張った綺麗なお札を平気で入れてきてるんだ。なんて礼儀知らずなの。

 今日は、三月十五日。生きていれば、アサヒは昨日の十四日に、十二歳になっていたはず。あたしの怒りは、ふつふつと湧き上がり、思わず振り向いて二人を睨みつける。何十分も正座しっぱなしで、イライラも溜まっていたのかもしれない。

 「朝日って、キリストじゃなかったっけ?」

 「ああ」

 カオルちゃんとサクラちゃんの会話は続く。お姉ちゃんのほうのカオルちゃんは無口で、どんよりした目で前を見つめている。体ごとカオルちゃんを見ているサクラちゃんと違って、本当にお喋りしているかどうかわからない。

 あたしは肩越しに睨みつけていたけど、お父さんのすすり泣きで、体勢を戻した。お父さんはとっても涙もろい人で、そんなに悲しくもないくせに、アサヒの死を悼む。

 涙で彼女が救えるものか。

 今更、今更になって、アサヒのために涙を流す。

 薄情モノ。

 「ねぇ、お姉ちゃんてバぁ。何でなの?」

 「うん」

 背中越しに聴こえてくる、従姉妹達の無情な会話。そんなこと、今関係ないじゃない。

 「桜、桜」

 サクラちゃんの隣にいたヨシエおばちゃんが、見かねて止めに入った。よかった。くだらない会話を、これ以上聞かなくてすむ。

 あたしは、そう思った。ところが…

 「キリシタンは志津江おばちゃんだけなの。アサちゃんは、明弘おじさんと同じで仏教徒なんだよ」

 「そぉなんだ。桜、キリストのお葬式も見てみたかったのにサ」

 なんてことだ。家族揃って、卑しい連中。

 あたしは、怒りで全身が震えた。誰も、誰も、アサヒの戦いを知らなかったくせに。みんな、変人で天才のアサヒを疎ましく思っていたくせに。

 今は誰も口に出さない。

 「みんなあたしを嫌っていくんじゃないか!あたしが有名になったら、自慢するくせにィ!うちの子供は、友達は、親戚の朝日ちゃんはぁって、あたしへの仕打ちを忘れてしまうくせにぃ!なのに、今は誰も口に出さないんだぁ」

 アサヒはいつも、男言葉でブチ切れて、最後はお祖父ちゃんに蹴っ飛ばされて、部屋着で外に出されていた。暴力を受ける時のアサヒは無抵抗で、外に出されても家のまわりからは離れなかった。

 近所に、頼れる友達もいなくて、部屋着で外にいるのがたまらなく恥ずかしかったんだろう。出される時は裸足だったし。逃げ出すこともできなくて、アサヒはいつもお庭の物置の中にいた。

 アサヒは、頭のいい子だった。

 「アサちゃん…」

 お母さんがこらえ切れなくなって、嗚咽を漏らす。ブルブルと震えて、お堂の畳を長い爪で引っ掻く。こんな時にも欠かさないアイライナァが、涙で溶けて、まるでクマみたいに瞳の回りを黒く染め上げる。

 さんざん反対したお寺でのお葬式に、一番上等の着物をカチッと着こなして、仕事をたくさんやっていた。お母さんは、アサヒを愛していた。そのことに今、初めて気が付く。

 「子供を愛さない親なんていないわ」

 その言葉の意味は、子供にはまったくわからない。ただ、アサヒが死んで、お母さんが一滴の涙も流さなかったことに、あたしは酷く感心している。

 お母さんは、本当の意味での「絶望」をしているんだなぁと。

 低いα波のお経が、静かに響き、あっちこっちですすり泣く声が聞こえる。たくさん押しかけた木枝玉大学初等部の六年生は、境内で石遊びでもしているんだろう。もちろん、ここに座り込んでいる親戚達よりも、アサヒのことをちゃんと解っていた人は多いはずだ。ただ、まだ十二歳のお坊ちゃんやお嬢様には、葬式は酷くつまらないものに違いない。一時間前の面会で、冷たいアサヒの顔の真上でぬるくなったオレンジジュゥスを平気な顔で飲んでいた。小学生なんて、そんなものだ。

 わざとらしく涙を浮かべる大人なんかより、よっぽど動物として完成している。

 親戚以外の子供で唯一、本堂に上がることを許されたアサヒの彼氏のレイくんだけが、顔を真っ赤にして惨めに泣いている。

 それだけなら、やり場の無い幼恋人達の死別ってかんじで、なんとも切ない場面なのに、レイくんはそれを自らの風体で打破していた。

それは、彼がマスクを身につけているということだ。もちろん、マスクをつけていること自体が異様なのではない。そろそろ花粉も心配な時期だし、マスクぐらいかまわないのだ。そう、普通なら。

でも、彼のはとても尋常ではない。「マスク」が、嫌に目立っている。それは、コンビニとかで普通に売られているマスクとは似ても似つかないし、此処最近流行っている立体マスクなんかともちがった。

さすがに色は白かったが、まるで、ダァスベェダァのつけている仮面の下半分みたいな。つまり、まあ薬品化学工場の従業員あたりが使っているのだろう、分厚いフィルタァのマスクなのだ。彼が葬式の初めから、今もつけ続けているのが。

親戚のおじさんやおばさんに、何度も不信人物に間違えられ、いちいちお母さんやお父さんに彼は誰かと、尋ねられていた。

アサヒは変人だったが、その彼氏のレイくんは、変態だったというわけだ。

アサヒとレイくんは、二年間も愛し合っていた。色褪せることも無く、疑うことも知らずに紡げる愛なんて、あたしには信じられなかった。あたしは恋なんてしたことがないし、したいとも思わない。

そう言うと、周りの女の子達は決まって「嘘だ」と、決め付ける。まるで、いつでも好きな人がいないといけないみたいに。好きな男の子が居るのが当然だというように。砂糖菓子やキャンディでできたような、甘い甘いお話ばかり、きゃっきゃ、きゃっきゃと毎日してる。いいかげん、飽きないんだろうか。

あたしはたぶん、一生恋愛も結婚もしない。取っ付きにくくて、何考えているのかわかんないアサヒにさえ、レイくんみたいにそこそこカッコイイ男の子が、彼氏としていてくれたわけなんだから、あたしにだって、相手は出来ると思う。

でも、結婚したくない。人生を縛られたくない。お父さんや、お母さんのようになりたくないし、子供なんて産みたくない。

あたしはかなり早くに(小学校四年生のとき)初潮を迎えた。そのため、小学校を卒業するまでには、性に関してかなりの知識を身に付けざるをえなかった。お母さんから、先生から、漫画から。言われることはいつも「はっきり断る。最悪付けてもらいなさい」だった。エイズ、妊娠、中絶、社会的立場からの離脱、親兄弟友人からの迫害と差別、最愛の恋人の裏切り、心と身体に、多大なダメェジ……。

NO SEX  NO SEX  NO SEX!!!!!!

それで?それでどうやって、興味をもてって言うの。結婚は女の夢?出産は立派?ふざけんじゃねぇっての。そんな気持ちの悪いこと、出来ないわ。

お腹の中に、自分以外の生物がいるって、どんなに気色の悪いものなんだろう。想像するだに恐ろしく、震えがとまらない。大げさではなく、本当にそうなのだ。

でも、そうして産んでみたら確かに、愛情は湧くかもしれないと、思う。いとおしくていとおしくて、しかたがなくなるのかもしれない。

それまでの過程であるセックスと妊娠には、吐き気を堪えることもできないが、出産と育児に抵抗は感じない。まだ小さかったころのアサヒを思い出すだけで、黄色い悲鳴が出るほど幼児は大好きだ。それに、自分の子供だもの。

全部あたしの想像だけど、あたしはきっと、どんな子供でも愛してしまう。どんな不完全な子供でも。手が無くても、足が無くても、目も耳も利かなくても。頭が悪くても、犯罪者になったって、自分の子供であったら守ってあげる。子供はそんな親をウザイとか、死ねとか思っているのにね。そうして、親の無償の愛に気付いた時、子供は今までの辛辣な言葉を悔い、でもやっぱり親を愛せない自分に辟易してしまう。

自分を、壊してしまうんだろう。そうして、親だけじゃなく他の人間関係や、受験勉強、社会不安に悩ませられ、生きている意味も見失っていく。やっぱり、自分をこんな苦しまねばならない人生に送り込んだ「母親」という存在を、酷く恨むんだろう。

恨まれても嫌われても構わないけど、あたしのように苦しい想いを、あたしの血を引く子供に与えたくはない。とても耐えられない。

ましてや、五体満足に産んでやれなかったらとか、虐待してしまったらとか、先立ってしまったらとかいう不安も消えない。

だから子供なんていらないし、結婚しなければ中絶しても正当化できる。強姦にあう場合を除けば、彼氏を作らなければ赤ちゃんを作ってしまう心配もない。彼氏を作らないためには、好きにならなければいい。

私はまったく無意識だけど、もしかしたらこの信念が、あたしに「人を好きになるな」と、警告しているのかもしれない。

その点、アサヒは楽観的だった。自分の幼さと理知的な外見、それにそぐわないミハァで、変人な中身。そのギャップも魅力も理解した上で、積極的に他人を好きになって、好きにさせていった。初恋は四歳に始まって、一度に五、六人に恋をしていた。レイくんは、二年前、彼から告って始まった。二年も、続いてたんだ。

レイくんをはじめて紹介されたのが、昨日のことのようによみがえる。

 あと二人、木枝玉で本堂の畳を踏んでいるのがいた。アサヒの担任と、学園長だ。一番後ろの列で、何も言わずに手を合わせている。

 アサヒを問題児扱いしてきたこの二人が、神妙な顔でお経を聞いている。それは、酷く滑稽な様子で、あたしは笑いをこらえるのに必至だった。

まだ肌寒いこの季節だけあって、お寺にはちゃっかり暖房が効いている。さすがに灯油ストォブなんだろう。

 とても、臭い。

 でも、そんなことはどうでもよくって、問題は古き良き日本家屋に、灯油ストォブを隠すための木箱が増築されているということだ。

 これもまた、死者を愚弄しているように思えた。みんなと同じように、アサヒの存在を憎んでいたのに、あたしは今、彼女を重んじない全てのものを恨んでいる。

 不思議。あたしこそ、いったい何がしたいのか。

 「ねぇ、春野」

 突然、呼びかけられた。サクラちゃんだ。

 「これ終ったら、散歩しようか」

 太って、ふかふかした分厚いサクラちゃんの左手が、あたしの肩を優しく抱いて、慰める。何の処理もしてない毛深いサクラちゃんの顔が、ぐっと迫ってくる。

 カオルちゃんに呼びかける時と、まるで別人の声色。きっと、妹も弟も生まれなかったから、あたしやアサヒのお姉さんになろうとしてるんだ。たまにしか会わない従姉妹に、いったいあたしは、どういう態度を取ればいいのだろうか。

 「ありがとね、桜ちゃん。春野、行っておいでね」

 あたしがなんて答えようか迷っていたら、代わりにお母さんが前を向いたままで答えた。ヨシエおばちゃんが、サクラちゃんを良い子だと誉めるような目つきで眺める。

 お母さんとヨシエおばちゃんは、双子の姉妹だ。けれど、うちのお母さんのほうが、数倍老けて見える。悲しみをこらえたその顔は、酷く厳しくまた、やつれている。

 数日前までヨシエおばちゃんみたいなずんぐりした体型で、一升瓶を一本かるく飲み干して、朝から晩までぐうぐういびきをかいていたのに。あたしやアサヒに「豚」と、罵られても、ケロっとして「女はねぇ、ジンカイにまみれて汚い奴ほど美人なのよ。私はそんなんじゃなくていいの。心が綺麗ならね。いいの」て、なんだか難しいことを嘯いていた。まあ、太ってはいても流石に元モデルだけあって、美人の部類に入るお母さんが何を言ってるんだというカンジではあったが。

 そのときは、憎らしくて情けなくてたまらなかった。屁理屈ばっかりで言い訳するお母さんが嫌いだった。醜いものを憎悪していたようなもんね。それに、アサヒは解っていたようだけど、理数系のあたしには「ジンカイ」の意味がわからなかった。そして、今もわからない。

 お母さんの容姿もあたしがムカ付く由縁。デブで、クルクルパァマ。しかも、化粧が濃くて安物の洋服ばっかり着てる。中一の初め、アサヒの授業参観から帰ってきたお母さんを見て、すごくびっくりした。

 だって、長島商店の特売品のスカァトと、黒い七部袖。おととしあたしがプレゼントした手編みの茶色いショォル。トォタルコォディネェトでわずか千五百円。アサヒの学校は1ヶ月の授業料が四十四万で、寄付金は一口五万で三口以上という「上級成金」のお嬢様学校だというにもかかわらずだ(あたしは近くの公立だったが、アサヒだけがお受験させられたのだ)。

全身シャネルやコォチ、プラダのバックにハイファッションにでも載っていそうな奇抜なスーツに身を包み、奥様方はその日の朝にエステと美容院に行く。その真ん中で千五百円の巨体を震わせていたのかと思うと、気絶しそうだった。

お金が無いわけでもないのに、お母さんはお父さんのいないときはなんのお洒落もしない。お母さんが言うには、自分のレベルに似合った格好をしただけだという。あたしはアサヒの身になったようにして、お母さんを詰った。

後から帰ってきたアサヒは、ケロっとしていたけれど、あたしにはそれも我慢できなかった。確かに、あなた程度の女なら、それで済む。でも、レベルの前にTPOを考えてよ。それじゃあアサヒがあんまりだ。他の奥様方に、なんて罵られてるのか考えなよ。ほぉら、すっげぇ怖気が走るじゃない。

 頭も悪くて、タイミングも計れなくて、いつも損ばかりのあたし。自分だけが地元の公立学校へ通わされていることも気に入らなくて、嫌味のつもりもあったのかもしれない。

 あたしは、お母さんが嫌いだった。

 「朝日…。アサちゃん、なんでなの……?」

 すっかり肉の落ちた頬に、陰が出来ている。口端は垂れ下がり、前よりも顎が突き出て見えた。抉り取られたように浮き出た眼球は、ただ真赤に染まって、小指の幅ほどにも膨れた涙袋は、悪い色が滲んでいる。その横顔はどうも、苦労した婦人なんかじゃなくて、何か別の生き物のようだった。

 必死すぎる彼女の形相が、どこか化け物じみたイメェジをあたしにもたせている。

 はっきり言って、アサヒの死よりもお母さんの変貌ぶりのほうが、あたしにはショッキングだった。話し掛けてもあいまいな答え。愚痴をこぼせばうろたえる。以前のように、軽口をたたいたり、頭のいいのを自慢したりしない。

 あたしは、お母さんが嫌いだった。

 「アサちゃん…」

 今まで全く聞いたことのなかった御経。どちらかというと、プロテスタント寄りのあたしなのに、ただならぬ、重重しい雰囲気を感じた。オキョウ・ミュゥジックを歌うお坊さん達は十八人も居た。その中に一人だけ、高校生ぐらいのお姉さんが混じっていたのを不思議に思っていた。

 この世は、不思議でいっぱいだね。

 ああ。

 どうしてなんだろう。最期のお別れって、こんなもんなの。

退屈だ。

あたしはアサヒを愛していた。

自分の妹を、心から愛していた。なのに、彼女がいなくなってから、まだ一回も生きている時の彼女を思い出さない。

アサヒ、どんなだったかなぁ。

髪をかきあげる、人を睨む、パソコンに向かって舌打ちする……。

そうだ、おもいだした。アサヒの仕草、アサヒの匂い。どんなに彼女を嫌った時も、安心できる“波”を感じていた。なのに、あたしは彼女を追い詰め、苛め抜き、たくさんたくさん喧嘩して、暴力もふるった。姉であることを最大限に利用して、卑怯なことも、さんざんやった。人間離れしたアサヒの頭脳と美貌に嫉妬しながら、自分の中での「お姉ちゃん」らしく振舞った。

 ああ。もういなんいんだ。

 アサヒはもう、天国に行っちゃったんだ。

 嫌いだったわけじゃない。ちゃんと愛していた。お母さんやお父さんのまねをして、アサヒに命令したり、本当に何度も喧嘩した。二階から故意に突き落としたこともあったけれど、それでもあたし、アサヒのこと憎んでいたんじゃない。違う。

 酷いこといっぱいしたね。ごめんね。

 姑息な手段でもって、あなたを陥れようとしたよね。ごめんね。

 最低だったね。アサヒがお姉ちゃんって、呼んでくれなかったのは、当然だよね。あなたの苦しみの半分もわからずに、ときどき優しくしたりしたよね。

 「あたしが死んだら、この世もなくなんねぇん」

 本当に、本当に、アサヒが死んだら『アサヒの居る世界』は終った。馬鹿だったのはあたしだ。今更気付いたの?

 薄情モノは、あたし。

 ごめんね。

 ごめんね。

 ごめんね。

 ……………………アサヒ、ごめんね。

 ごめん………。

 「春野、ちょっと、出よう」

 サクラちゃんが、あたしの手を引いて、強引に立たせた。まだ、お葬式の途中だった。無限に広がる畳の上に正座した、黒い少年達があたしを一斉に見上げた。

 空は、琥珀色だった。




 「ごめんください。別府です」

 ベップ?この雨の中、こんな暑いお昼時に。

 誰?

 どこかで聞いたような声。上ずりながらしゃべる、低い男の声。

 コンコン

 「ごめんください。誰か、いるんでしょう?」

 今日は七月二十一日。大掃除で午前授業。だから早くに帰宅したあたし。台風も早めに上陸するらしい。ああ。関係ないや。

 ほんと、最近は思考がグチャグチャね。

 「チッ」

 玄関ごしに聞こえてくる男の舌打ち。いないと判断して、帰ったのだろう。少し静かになる。これで安心して、ゲェムの続きが出来るわね。

 七年も酷使し続けたテレビが、ヴンという音を立てて、一拍置いてから画面に火をともす。バトルの最中、足を蹴り上げて固まったままの主人公。

 コントロォラァを握り締め、スタァトボタンを押し込む。はじまっても、表の雨にかき消されて、聞こえないBGM。月にむら雲、ゲェムににわか雨。

 わざとらしく赤い鉢巻を巻いたガタイのいい大男が、月にでもいるのかと思うほど、高く高く飛び上がって、必殺憲法ウルフ・タイガァ・キックを相手にお見舞いする。音が聞こえないと、迫力がでない。

 ドンドンドン

 「ハッ…」

 びっくりして、ポォズボタンを押す。敵がしゃがみこんでいることろで、またしても彼らの時間が止まる。

「……いるの、春野さんでしょう?別府ですよ。別府 礼です。朝日に、お香あげたいんですけど」

 「レイくん…?」

 あたしはようやく、ベップ レイという人物に思い当たり、テレビを消す。家にはあたし一人だから、あたしが玄関を空けなければならなかったのだ。

 気が重い。意識せずとも、身体はのろのろとしか動かないけれど。

 がちゃ

 「お久しぶりですね。春野さん、あいかわらず」

 「………どうも」

 出し抜けに満面の笑顔。アサヒと同じ人種だと感じずにはいられない、飄飄とした物言いに、一瞬言葉に詰まった。一年前までは、まるで本当の弟みたいだった彼。親しみも、懐かしさも湧き上がらない。

 「本当に、あいかわらずですね。普通そんな格好で、でて来ませんよ」

 「え?」

 気付けば中学の制服を、よくもというぐらい着崩していた。スカァトのホックはとれてジッパァも全開。おしりの大きさに支えられて、ほとんど引きずっている状態。ブラウスのボタンは肌着が見えるギリギリまで開いている。リボンは首にだらぁん。まるでニシキヘビ。髪の毛もバサバサで、化粧も落としたばっかりだ。

 自分の醜態を再確認すると、なんとなく恥ずかしくなってきて、俯いたまま、顔をあげられない。尋問を受けている気持ちになった。

 「匂い」

 「今度は、何?」

 泣きっ面にハチってこんなかんじ。レイくんは鼻をヒクヒクさせて、しかめっ面をしてみせた。もともと目つきの悪い彼のその表情は、心のそこから嫌そうだった。

 「また、カップ麺?匂い、すごいですね」

 「………」

 大きなお世話。たしかに、台所のドアなんか開けっ放しで玄関まで匂ってくるけれど…いい匂いじゃないの。美味しいんだから。

 「あぁ!ごめんなさい、春野さん。冗談ですよぉ」

 ムッとしたのが顔に出てしまったらしい。慌てて取り繕うレイくん。それがあんまりらしくなくて、あたしは吹き出した。

 でも、笑っているあたしの声はどこか他人じみていて、あたしは全然笑ってなかった。面白いと思ったし、吹き出した瞬間にはこんな冷静な部分、なかった。しばらく笑っていると、戻ってきたのは現実のあたし。

 誰が笑っているの?

 ああ、あたしか。

 みたいな部分。最近は、冷静なあたしと、皆に合わせて馬鹿をしてるあたしが共存している。ロボットのあたしに乗り込んで『笑う』とか、『怒る』とかのコマンドを入力している。

 「ひどいナァ、もう」て、余裕の微笑を浮かべてるレイくんも、同じように思ってるのかしら。きっと、そうだよね。人間て、そうなっていくんだよね。

 それとも、まだ子供のレイくんにはそういうニ面相はないのか。

 ひとしきり騒いで、急にレイくんが引き締まった表情に戻った。あたしも、ばっさりと笑うのをやめた。ほんの一秒見詰め合う、というよりも睨み合っていた。

 「朝日の、お仏壇…。どこですか」

 小さな唇を開き、あたしの瞳をじっと見上げながら問い掛ける。上ずりながらしゃべる、レイくんの特徴。

 「そこ、突き当りの和室」

 「おじいちゃんの、部屋だね」

 レイくんは穏やかに微笑んだ。さらさらの黒髪がゆれて、花びらみたいに薄くてちいちゃな耳たぶを覆い隠す。背も低いし、この男らしい太い声さえ発しなければ、小学校低学年のお坊ちゃんにすら見える。

なのにもう、中学生なんだ。

 アサヒも、生きていたら中学生になっていたのに。

 「レイくん、どこの中学だっけ?木枝玉じゃあないんだよね、確か?」

 振り返るレイくん。お坊ちゃん刈りで暗くて、眼鏡なんかかけていたら完璧なオタク。レイくんの異性としての良さなんて、アサヒが生きていた頃は全然気が付かなかった。むしろ、キモキャラぐらいにおもっていたけど。

 肩越しの視線は、なんとも色っぽいんじゃない。アサヒには、見えてたんだね。

 「ええ、鶴亀中です」

 鶴亀中は、アサヒがいきたがっていた中学だ。お受験が大変だからと、お父さんに大反対されていた。まさか、レイくんはアサヒの望みを叶える為に?

 「じゃあ……」

 「ま、この話しはまた後ほど」

 突然大きな声を出して、あたしのセリフを遮ると、とことことことこ廊下を行ってしまう。ぴしゃりとふすまが閉じられて、レイくんのため息が聞こえる。

 「畜生」

 あたしは閉められたふすまを一瞥すると、玄関の鍵をかけようとふと視線を落とした。

 硬質のタイル。玄関に引き詰められたそれに、まるで染みのように白いズックが、真正面と右端にそれぞれ裏表逆に散らばっている。右のは、あたしの本皮靴をしっかり踏み潰していた。

 「畜生」

 ガチャ ある日、梅雨の正午。受験生となったあたしと、死んだ妹の彼氏を2LDKに閉じ込める、小さな鍵の音が、無人の廊下に鳴った。

あたしはスカァトがずり落ちないように両手で押さえながら、ほけっと突っ立っていた。フロォリングは足に心地よい。こんなムシムシした日には、家の廊下が一番なんだ。

 「………そしたら、俺もお前のとこに…」

 突然、

「うっ。ああっ……」

嗚咽。

 襖のまん前、冷たい廊下の中心に足を開いて立ち尽くす。ぼおっとなった頭で、ただただ、レイくんの慟哭を聞く。あのこ、まだちっこいのに、必死に堪えてる。

 無声慟哭。こういうことかな。

 淡淡と事務的な会話をしているようだったけど、なんだ。感情にはしるのが、怖かっただけか。そんな人間的なこには見えないのに。

 一瞬、葬列に並んだレイくんの、真白いマスクが記憶の断片として、頭をよぎる。一重の切れ長の目だけをぐりぐり動かして、後ろのほうから一生懸命に、アサヒの骨壷を見ようとしていた。変なマスクの、変な少年。

 レイくんも、同じなんだね。やっぱり、アサヒがいないと辛いんだ。

 頭が良くて、スタイルも良かったアサヒ。カラカラと笑う、無邪気な彼女。そのわりには、自分の哲学を追及して、あたしにはわからない世界で生きていた。

 賛美しかもう、思い浮かばないくらいに、遠くなったアサヒの「生」。

 「アンタなんか、生まれてこなきゃ良かったのよ!」

 あの時言った、あの言葉。

 でも、死ねばいいなんて一回も、思ったことないのに―――――!

 「うっ」

 「あ」

 「あぁ」

 「うぅ」

 「あ」

 「あ」

 「フゥッ……」

 「ぐっ」

 「えっぐ」

 「ぅあ」

 「……ぅ」

 「っ」

 「あ」

 「―――――――――――――――!」

 東の窓から差し込むわずかな曇光と、イグサの匂いとお線香。おじいちゃんの部屋を支配するのはアサヒの笑顔の白黒写真。四方八方をアサヒに支配されたこの部屋で、レイくんは身体を折って倒れこみ、口に拳を突っ込んでまで、号哭悲鳴を聞かれまいとしている。意味なんて、あるわけないのに。

 彼はのた打ち回って、地面より深く頭を擦りつけながら何者かに祈っている。

 あたしは耳元で動き回るハエの、ブゥンブゥンという音と、レイくんの無声慟哭をキイタ。もう、考えるのはやめよう。

 光を反射することのないあたしの瞳が、死者を見たのか。アサヒが廊下を横切るのを見た気がした。あたしが最初で最後に視た、幽霊である。

 幽霊、か。

 違うのかもしれない。今のは、幽霊じゃなくて……。

 「礼くん。あたしにも、あげさせて」

 勇気をもって、襖を開ける。目を真赤に晴らし、右の手で左の二の腕を、左の手で右のを、痣が出来るくらい強く掴んでいたレイくんが、パッと頭を上げて、一瞬怒りの表情を浮かべた。でも、すぐにすまし顔に戻る。いつもの、彼。いつもの、仮面。

 「……はい。」

 正座のまま、器用に仏壇の前から動いて、あたしを促す。

 リビングと違って、共同通路側の祖父の部屋は、雨音も押さえられている。しとしと、実に梅雨らしい。

 すこし開いた障子の先に、鉄格子のあるガラス窓。その向こうは、マンションの住民が行き来する通路。どこからか、足音がこだます。

 「アサヒ、礼くん来てくれたよぉ?よかったねぇ」

 チンチィン

 ……………………

 ほんの数秒の静寂。表情を変えない、アサヒの写真。卒業アルバムに載るはずだった、笑顔の彼女。いつもいつも、へらへら笑って、子供らしさを前面に押し出していた。

幼稚園生ぐらいの時から、彼女は恋急いでいた。お父さんはどうだかしらないけれど、お母さんはよく「心配だわ」「持たせるべきかしら」と、悩んでいた。そんなもの、なるようにしかならないし、お母さんとお父さんの間に、あたしたちが生まれたということは、お母さんも、その行為を否定することは出来ない。

きっと、お父さんもお母さんも、親や周りを気にかけず、自由な愛を求めて生きてきたんだろうに。自分がいざ親の立場になってみると、やっぱり止めに入るらしい。

あたしは、親じゃないから。アサヒはアサヒの思うように生きたんだと、納得できる。

「アサヒのこと、愛してます、今でも、これからも」

レイくんは、天井付近を見上げながら、恍惚とした表情で言った。

あたしは確信する。自由奔放に野放しされ、傍若無人にねりあるいていた「アイ」やら「コイ」やらが、彼とアサヒの間で息吹き、大切に育てられているのだと。

「あたし、アサヒの死ぬ瞬間まで側にいたけど、あなたのこと、忘れなかったよ」

アサヒは、原因不明の病気にかかって、一週間生死の淵をさまよった。その間、彼女の記憶は先っぽからザクザクと消えていき、最期には自分が誰かもわからなくなってしまった。もちろん、レイくんのことなど真っ先に忘れてしまったが、毎日お見舞いに通う彼を哀れんだお母さんが、必死に「レイ」って言わせるのを努力していた。

幼児に逆成長しながら「レイ」と、言うと誉められることを、六分間だけ覚えた。

あたしは、彼女に忘れられた瞬間に、はじめて「お姉ちゃん」でありたいと願った。本当に、心のそこから、アサヒのお姉ちゃんが良かった。

「あたしは、忘れられちゃった」

 「名前だけですよ」

半ズボンからむきでた白い膝小僧をコツコツたたきながら、レイくんは小さく呟く。ほんのりと、男の人の匂いがする。

「名前だけしか、覚えていなかった…。春野さんと、同じですね」

刹那、視界が滲んだ。急に遠くなるレイくんと、そしてアサヒのお仏壇。

雨音も、遠ざかる。

何もかもが、離れていく。

頭、グラグラする。あたし、立っているの?座っているの?わかんない。

「朝日、全部忘れて死んじゃった。名前なんて、個人を区別する為に呼称されている記号のようなものですから、朝日が“礼”と、言えたからって、それは偶然に俺についている名前と同じ発音を言えたというだけで“俺”のことじゃない。でしょ?」

むきでた真白い膝を、親指と人差し指で強く抓る。黒ずんだ赤い染みが、できる。

あたしは、必死に焦点を合せようと、レイくんの足ばかり睨んでいた。

アヘンを吸ったみたいにクラクラしながら、それでもなんとか答えるあたし。

「そう、そうだね。礼くん、なんだか大人みたいなこと言うね」

渇いた喉を鳴らし、いまいちハッキリしない頭で何とかそれだけ言う。

とたん、彼の表情が一転、冷淡な仮面を被る。もともと表情の乏しい少年だったが、まさかこれほどまで冷たい、刃物のようなかおをするなんて……!

足がすくんで――――――あたしは、ここでやっと自分が立っていたってことに気付く――――――一人じゃたっていられない気がして、アサヒの仏壇にもたれかかる。

 「大人じゃないと、言っちゃいけないんですか」

 「え?」

 「子供は、知りたがってはいけないんですか」

 「え?」

 「あんた、大人なんですか」

 「え?」

 「ナゼ、そんなこと言うんですか」

 「え?」

 「……何も、疑問を感じたことが無いのか」

 「え?」

 「何も、考えたことがないのか、あんた」

 「え?」

 「俺たちが、必死にやってきたこと、考えてきたこと、馬鹿にするやつは大抵そう言うか、もしくは…」

 「え?」

 「信じられない、って言うんです」

 「え?」

 「信じようとしないんじゃないか。今までちっとも、疑ってこなかったんじゃないですか?何の努力も、努力する理由すら、経験してこなかっただけじゃないんですか」

 「え?」

 「親を、殺したいと思ったことはありますか」

 「え?」

 「生まれてきたくなかったって、思いませんか」

 「え?」

 「死にたくないって、思いませんか」

 「え?」

 「薄情モノは、いましたか」

 いたわ。たくさんいたわ。

 シャワァのように降りかかる。外は大粒の雨に、腐った太陽が仄かな明かりを導きて。あたしの涙にも、どうか明かりをちょうだい。

 とっくのとうに枯れた、そうだと信じていた悲しみが、溢れ出した。

「でも、あたし、考えなかったのよ。自分は子供だからって、庇護される立場に甘んじた。朝日が死んでしまって、傷心を口実に前よりもっと考えなくなったんだ。あたし、あたし……」

 「利用したんですね、朝日の死を」

 核心を突かれて、畜生と思った。何もかもどうでも良くなって、お洒落も勉強も輝かなくなった。もともと、そんなに素敵なことじゃなかったのかな。お母さんを毛嫌いするのもやめたし、インコのももに芸を教え込むのも止めた。

 学校でも、だれも悲嘆するあたしにかまわない。まるで傷口にさわるように接してくる。それをいいことに、あたしは何も考えず、動かない。

 「妹さん亡くなって悲しいのはわかるけど、なんで掃除までサボってんの?」て、批判が最近多いけれど、気にはしない。

 楽できるっていいね。だって、楽なんだもん。

 何にもぶつからず、転ばないけどノロノロと、生きていければ立派なものじゃない。子供とか大人とか、社会とか世界とか、自分とか…。考えるのはめんどくさい。

 考えたって、答えの出ない堂堂巡りの哲学だ。あたしは、いいのよ。流されるだけ、流されればいいわ。アサヒのいなくなったのだって、実を言えばちっとも悲しくない。

 「薄情モノは、あたし」

 いつも目の上のこぶで、何をしても彼女に劣った。お母さんは平等に愛してくれたけど、それが逆に不愉快だった。お父さんは、アサヒを気味悪がっていた。口では「可愛い我が娘達」と、豪語していたが、アサヒの異様な生活スタイルに戸惑い、話し掛けられると固まった。

 頭が良くて、何でも出来るアサヒに劣等感を、親戚中に煙たがられ、教師達にも差別されたアサヒに優越感を感じていた。ただ、それだけの存在だったんだ、お互いに。アサヒは最期まであたしを姉とは認めなかったし、あたしも何一つ姉らしいことはしてやれなかった。ただ、あたしがお姉ちゃんとしてカッコイイと思うことを、自分を満足させる為だけにアサヒに押し付けた。

アサヒとの趣味がまったく違うために、洋服の交換とかもしなかった。家族4人で出かけるとき以外、アサヒと外に出たことはなかった。

 悲しくない。逆に、アサヒという異物が取り除かれて、せいせいする。

 でも、淋しい。

 町にはこんなに多くの人間が住んでいるのに、あたしはひとりぼっち。そんな不安を、取り払うことが出来ないでいる。臆病なのかな、あたし。

 「ええ、そうよ。利用してるわよ。それがどうしたっての?」

 低い声で、うなった。図星ではなかったが、レイくんの言いたいことは良くわかった。

 「うん。春野さんらしいや」

 ニィと、子供らしく笑う。目を細めて、顎を引いた、ヒキガエルみたいな顔だけど、なんて無邪気な笑顔。アサヒを、思い出しちゃう。

「今日は、アサヒと最後にキスして一年経った“忌念日”なんです」

 先ほどの、冷たい刃の片鱗を残したままで、目を伏せる。あたしはこうして仏壇にもたれかかりながら立っているわけだから、彼を見下ろしていることになるのだけれども、幼い少年からにじみ出る、侮蔑のオォラはとんでもない質量となって、あたしを見下す。

 目を伏せる、頭をだるそうにもたげてパチッと目をあけて、真っ直ぐアサヒの位牌を見つめて、またパチッと、瞬き。次のパチッでは、彼の顔は肩ごと薄暗い窓辺に向かい、短いまつげを黒い瞳にかぶせる。

 雨脚は、だんだん加速し、また空は、どんよりと臙脂色になる。

 「俺たちを、大人みたいだって評価する人には、わかんないんでしょうね。朝日の、がんばってきたことなんか」

 「そんなっ……」

 あたしは口ごもった。だってそうだ。誰にアサヒの苦しみがわかるっていうんだ。アサヒが例え、あそこまで特異な存在でなかったとしても、例え、まわりが温かく彼女を迎えていたとしても、彼女がアサヒである以上は、苦しまざるを得ないことだってあった。苦しまなければ、いけない宿命だった。悩んで、悩んで、傷つきボロボロにならないアサヒなんて、レイくんの言うところの記号“ケンドウ アサヒ”ではないんだ。

 彼女のその存在意義を、いったい何処の誰が理解しえたんだろう。

 十二年二ヶ月二十四日間かけて、奔走してきたんだもの。そのくらいの年月をかけて、解ろうとしなきゃ解れなかったのだろう。

 あたしは反対に、自分の膝に目を落とす、すまし野郎に質問した。

 「レイくんは、わかっていたの?」

 「真実は、わかりません。でも、立場を置き換えれば現実は、直視可能です」

 「そう。なんか、寂しいな」

 仲間はずれみたいで…。とは言うまい。だって、あたしは仲間に入りたいとは思わないんだもの。自分の心臓の音が、迫っては遠のき、迫っては遠のき…。例の立ちくらみのようなものがあたしを襲う。

 「お茶か何か、飲んでいく?」

 けして、彼を気遣ったのじゃなくて、あたし自身立っているのが限界な気がしたから、リビングでちょっと一息入れたいと思った。

 こんなに蒸し暑いんだもの、きっと体の調子をおかしくしてしまったに違いない。

 なのに、彼はあたしの誘いには乗らずに、すっと立ち上がった。

 「俺、もう帰ります」

 サバサバしちゃって。でも、逆に子供らしい気がする。あたしだったらきっと、どういう態度をとったらいいのか解らなくて、あいまいな返答しかしなかった。大人だったら、相手の言うままに頷いていた。お茶をご馳走にならなかったレイくんを、尊敬する。

 彼は、ずかずかと玄関まで歩いていく。この家にすんでいるのに、あたしの方がお客さんみたいになって、背を丸めてくっついていく。

 「春野さん、お願いしていいですか?」

 突然、レイくんが振り向く。サラサラと、黒髪がゆれて、あたしが以前「ピエェル」って言ってからかった、高い鼻がこちらを指す。

 高い鼻、ちいちゃなお耳に、サラサラのお坊ちゃん刈り。印象の悪い三白眼に、たまごの輪郭。こうしてマジマジと見ると………やっぱり、ちょっとオタク系。

 「春野さん?」

「あ、うん。何」

 目眩が原因か、あたしはレイくんから目が離せなくなった。

 同じ身長だから、なおさら視界から出しがたい。

 「ねぇ、抱きしめていいですか?」

それが、彼の最期の言の葉。一年後、ベップレイは手首を切って自殺した。

 

 



いい加減にして!アナタなんかいなくてもいいわよ。どぉしてそぉデブデブデブデブ言えるんですか!わたしはアナタの妻なのよぉ?元はといえば、アナタがあたしにハルちゃん産ませたんじゃないの。ああそう、じゃあ言わせてもらいますけどねぇ、あの頃わたし、梅平さんと付き合ってたんですから。なんですか卑怯って!そうやって自分ばぁっか優位に立たせようとするんですか?はぁ、アナタって昔からそうじゃない。ええ、ええ!そうよぉ!お義父さんのことだってわたし知りませんからね。あんな暴力ジジイくたばっちまえ!うるっさい!何が悪いんですか。わたし、あのときのこと、まだ覚えていますからね。まぁ!酷いわ!まるでわたしが、強欲みたいじゃないですか。ああ、そぉ!いらないわよォ!それよりもう、電話してこないでください。そう、そうよ!こっちは上手くいってるの。アナタのはした金なんて、使うだけで身が穢れます!もうやめってっていってるでしょぉ!ヤメテよぉ。もうアナタの声なんて聴きたくない!アナタなんて…!この、このバカッ。いい加減にしてください!これ以上私たちにかかわらないでぇ、思い出したくもないわっ。え……?ちょっと、ちょっと待ってください。それって、どういうことですか?ハ?なんですって。これ以上、わたしを怒らせないでちょうだい!ええ…。嫌っ。ア、そんな…!わたしから、ハルちゃんまで取り上げるって言うんですか?お義父さんのせいで、アサちゃん酷い目に会ったんですよ?解って言ってるんですか、アナタ。ああ、神様ぁ…。神様、たすけてぇ。そんなっ、そんなっ。アナタお願い、ハルちゃんだけは、わたしの生き甲斐なの。会社ったて、ちぃっぽけな会社じゃないですか!ハルちゃん、歌手になりたいって、言ってるんですよ?それを、諦めさせるんですか。そんな汚いインクべちゃべちゃ混ぜ合わせているだけの工場!アナタそれでも親なの?いい加減にして!そうやって、いっつもそうじゃない自分を正当化して。そうでしたよ。学生の時から。最低…。アナタそんなことばっかりしてるから、悪徳って言われるんですよ。あぁら、知らないの?白石さんも大野さんも、暮場の奥さんも言ってましたよ!お陰でわたしがどれっだけ肩身の狭い思いをしたか!だからアサちゃんアナタに似ちゃったんじゃないのぉ?アナタのせいでアサちゃん、天国にいちゃったのよ!そうよ!全部全部アナタの責任!あっそ!でも本当じゃない。わたしのこと幸せにするって誓ったのに!嘘つき。バカバカバカ!嫌いよ。わたしが知らないとでも思ってたんですか?なにって、アレですよ。アナタの裏の性癖!あぁら、これでもまだ惚けるのね。知ってるんですよ!男でしょう?そうでしょう、アナタは!好奇心だろうがなんだろうが、証拠はしっかりあるんですから。訴えてやるわ!梅平さんよ。そうよ。違うわ。違う。なんなの本当に!あたしをからかって、そんなに面白かったの?だって、夫婦じゃない。うすうす解ってはいたんです。そうね、終わりね私たち。でも、ハルちゃんは、渡しませんよ。だって!あのこのためだもぉん!そぉですよ。べつに、お義父さんだけが問題なんじゃないんだってバ!ねぇ、アナタ本当に何もわかっていらっしゃらないのね。信じられないわ。悔しい!だから男ってバカなのよ。いつまでもガキだってんのよ。アナタ、解ってる?さっきっから自分のことばぁっか言っちゃって!少しは他人の言い分とか気持ちとか考えてくださいよ。だからッ。ンもぉ、どぉしてそぉいう考え方しかできないのぉ?しょうがないじゃない。アサちゃん、酷い目にあってたのに、アナタってば全然真剣に考えてくれなかった!あら、そこは大人ですもの。ばっ、なんてこと!あなたそんな風に思ってたんですか?最低だわっ。だって、わたしたちの子供じゃないの!育てる義務があるのよ私たちには。産まなきゃ良かったって…!まさか、本気でそんなこと言ってるわけじゃないでしょう?赦せないわ。とにかく、そんな人にわたしの春野を譲るわけにはいきませんから。母親として、きっぱり言わせてもらうわ。だいたいあなたなんかに育てられるはず無いじゃない。今までずっとハルちゃんはわたしと一緒に暮らしてきたんだから、ハルちゃんだって、アナタのところへなんか、行きたくないってよ!年頃の女の子なんですよ?アナタは子供と向き合う気ないし、むしろ、かかわりたくないと思ってたんじゃないですか?なんですか。アサちゃんだってアナタの!建前上でも、娘じゃないの!どぉしてそぉやって順位なんかつけようとするの?それがダメなんだって、いってるんじゃないですか!バカね、あなた本当に、最低な人間だわ。だいたいお義父さんはどうするの?そう。そうだったかしら?だってあのジジイ、なんでもないことで子供を蹴り飛ばすじゃない。虐待だわ!いい?わたしには、権利があります。ちゃんと出るとこ出ようじゃないの。そうすればスッキリするわ。あんなボロ工場継がせるなんて、頭どうかしてる。女の子なのよ?ハルちゃんは!経済?知らないわよ、本当に。いい加減にして!なんとかしてみせるからね、アナタの思い通りになんてさせるもんですか!そうよ!ええ!じゃあ、ちゃあんと、弁護士さんと通してからにしてくださいね。だからもう、電話なんかしてこないでっ。本当にもう、アナタにはうんざり!アナタもさぞかし、わたしにうんざりしてるんでしょうね!いいわ。離婚が成立して、わたしがハルちゃんの親権を頂いたら、そうしてから、男とイチャイチャしてなさいよ!このホモ野郎!ああ!思い出すだけで背筋が凍るわ。………うん。わかってるわよぉ。そんなことぐらい、わたしだって、わたしだって!んんっもぉう!本当に最低ね。わたしを責めないでよ。寂しいのはアナタのほうじゃないですか。なんて、自分勝手なの?嫌っ、嫌っ、嫌よ。そうやって、逃げないでよ。わたしだけじゃないですか、いつも大変な思いしてきたんですから。今までずっと我慢してきたんですから。アナタのためにやってきたのに……わたしの人生を返してよ!このバカ!なんですって?糞、畜生!いいわよ、分かってるわ。わたしが諦めればいいのね、それしかないのね、いいですか、親権はしかたなくても、わたしアナタに負けたなんて思わないわ。卑怯者!この、このぉ

ウラギリモノ…!




 黒い、黒い人がいっぱい。頭も、顔も、身体も、足の先まで真っ黒。腕にはめている紫や透明の数珠も、黒い。

 「記帳、お願いします」

 「この度は、あの、お悔やみ申し上げます」

 「……」

 見たこともない、知らない女性。黒に黒いステッチでブランドのロゴのあしらわれた嫌味なスゥツをぴしっと着こなした、三十代前半の綺麗なヒト。黙って会釈するお母さんに目を合わせようとしない。もしかしたら、一緒にいるヨシエおばちゃんとお母さんの見分けが付かないのかなって、一瞬思ったけど。杞憂だ。お母さんとおばちゃんは、ちっとも似ていないもの。体格こそはそっくりだけど、お母さんは骨が出っ張ってゴツゴツと硬そうな外見をしている。そのくせ、足はパンパンに鬱血してピンク色に腫れ上がっている。

 おばちゃんは、ただ太っている。お母さんは、太っているのに、ガリガリなんだ。

 顔なんてもっと酷い。おばちゃんはデブでブスなだけなのに、おかあさんは目鼻口のバランスがグチャグチャになっている。濃い化粧でなおさら化け物のようになっている。

 肌は割れ、ニキビが酷い。なのに粉を吹いている。

 白髪も前の倍の倍っくらい増えて、おばあちゃんみたくなってしまった。

 今は「お気の毒」な、お母さんでも、数ヵ月後には「何あのババア」になっているだろう。もともとケアはしないけど化粧は欠かさない変な人だったので、家にはロォションも、拭くだけコットンも、ニキビ予防もない。

 あたしは、ヨシエおばちゃんと見分けの付かなかった頃のお母さんのほうが嫌いだった。でも、今のお母さんはお母さんとは違う、他人のようだ。

 そこに、去年死んだ金沢のおじちゃんの奥さんが来て、涙を浮かべながらカウンタァを乗り越える勢いでお母さんの手をにぎった。

 「志津江さん、かわいそうだったねぇ!聞いたよ、精神異常の病気でしょ?頭狂って死んじゃったんだよねぇ!あんなっちっちゃいのにねぇ、娘さん!春野だっけぇ?」

 ハルノはあたしだ!死んだのはアサヒなのに、なんてこと言うんだろう。

 あたしは怒りで火照った。

 「ちょっと、おば様ったら。そんな大声ださないでくださいよ」

 お母さんはニコニコしながら宥めて、さりげなく金沢のおじちゃんの奥さんの手をふりほどいた。奥さんは金歯を光らせながら、大声で。

 「そぉだよねぇ!ごめんね」

 と、ケラケラ笑いながら言った。後で聞いたんだけど、彼女は“ソウ”っていう病気だったんだそうだ。鬱病の反対だって言っていた。

 そんなことより、死んだのはハルノじゃなくってアサヒだって言ってよ。あたしは、無言の抗議の瞳でお母さんをねめつけた。

 なのにお母さんは何の訂正もしないで、記帳をお願いした。

 朝日が精神病で狂って死んだわけじゃないことも何も説明しなかった。お陰で、奥さんの大声を鵜呑みにしたほかの人たちは、ヒソヒソと噂し始めた。死んだ人間の悪口を言い始めたんだ。あたしは、声を大にして叫びたかった。

 違う違う違う!やめて、そんな嘘を話すのはやめて。だれも彼女の苦しさを知らなかったくせに。酷い。

 あたしは、ぐっと悔しさを堪えて黙ってお母さんの隣に立っていた。きっとお母さんも堪えているんだ。でも大人だから、がまんしているんだ。そんな風に思っていた。けど、お母さんの目はどこか虚ろで、本当は、何にも見ていなかったのかもしれない。

 遠巻きにあたし達を見る人人の視線が痛い。

 とにかく、早くお葬式が終ることを願った。ついさっき、親しい親戚同士のみのお食事会のようなイベントをこなしてきたから、ヘトヘトだった。しかも、お葬式が終ったらすぐに焼き場に行かないといけない。アサヒの小さな柩に付き添うのは、何故か親族ではなくて業者の人。あたしたちは、焼き場のある南町田までマイクロバスに詰め込まれる。

 親戚の人は嫌いだ。お母さんの親戚は秋田の人だからなのか、変な訛り言葉で喋るし、お父さんの親戚は少なく、みんな会ったこともない人ばかりだ。

 アサヒが死ななければ、きっと一生会わなかったんじゃないかって不安に思う。それほど、お父さんの側とは疎遠だった。向こうの従兄妹にも、先ほどはじめて顔を合わせた。

 お互い歳も近いのに、一言も話さなかったが。

 ヒロミさんとカズヤさん、この時はイトコと思い込んでいたが、ハトコのミツヒデさんが固まって睨んでいた。皆、祖父に良く似たキツイ目をしていた。でも、三人はお葬式が始まると優しい目になって、時時涙を流した。あたしは初めて会ったのに、アサヒのことは知っている様子だった。お母さんに丁寧な挨拶をして、木枝玉大学初等部の子供達の面倒も見ていてくれていた。

 あたしは、何もしなかった。言われるままに立って、言われるままに座った。何度か会ったことのあるアサヒの友人達と会話をし、親戚だけで行われた小さな食事会でも、「この度は妹、アサヒのために集まってくださってありがとうございました、あの子も天国で喜んでいると思います、私はアサヒと二つ違いの姉でしたが、父や母の深い愛情によって、親友のように仲良く、双子のように固い絆で結ばれすくすくと育ちました、特にアサヒは成績も優秀で、さらに文学の才能に秀でていました、そんな妹を私はとても誇らしく、頼もしく思い日日を過ごしてまいりましたが、彼女は突然帰らぬ人となりました、病名は私には分かりません、でも彼女は持ち前の明るさで元気に……と、いうのも可笑しな話ですが、元気に闘病生活を送っていたようでした、それが、まさか……あまりに突然のことで、本当に辛く悲しいです、大切な妹を亡くし、私は…わ、わたくしわ…」と、しゃがみ込んだ。黒い薔薇のコサァジュが腹部に食い込み痛かった。周りの親戚は、再び泣き出した。お父さんとお母さんの挨拶もあったけど、あたしの時に一番泣き出した。でも、あたしはそこでしゃがんでいる女の子じゃない。そこで喋っているのは偽者だと、思う。だって、口は喋っても心は貝のように黙っていて、黒い真珠は見えないの。盲目になったように…音しか聞こえない。喋っているのは誰?あたし?誰?

 その時、ジィンズ姿の肥満した女性が二人座敷に入ってきた。

 「おくれてごめんなさぁい」

 「ごめんなさぁい」

 お母さんの双子の妹、ヨシエおばさんの娘達、あたしの従姉妹だった。申し訳なさそうに入ってきて、すっとおばちゃんと、おじちゃんの間に座った。泣きはらした目玉で、覆った両手で、丸めた身体で、あたしは全身全てで彼女達を睨みつけた。

 薄情モノ…!

 死んじゃえと、思った。あたしは薔薇のコサァジュのある、膝丈の黒いワンピィスに、おさげ。お母さんは真っ黒い着物に、銀のハンドバック。アサヒの通っていた小学校の子供達は紺のブレザァ姿。派手で有名な金沢のおじさんの奥さんだって、黒い着物に、からし色の帯と、黒いレェスを頭にピンで。みんな真っ黒なのに、あの田舎者は碧と青。

 怒りが噴出した。

 



 「ハルちゃん、ごめんね」

 お母さんは落ち窪んだ目をぱちぱちしながら、あたしの頭を撫でた。あたしは、もう受験生になるのだし、そんな年齢ではなかったけれど、されるがままになっていた。

 「お父さんの所に、また、行ってきてちょうだい、アナタのためにもなると思う」

 「うん、分かった、つぅか、少し休んだら?」

 「ええ…、いい子ねハルちゃんは、死んだアサちゃんもきっとそういう風に言ってくれたね、お母さん、頼もしいよ」

 「……うん、じゃあ行って来る」

 角張った体型の面影こそはあったけれど、お母さんの手足は浮腫み、アバラが見えるほどにやせ細り、尖った包丁のようにきついイメェジになっていた。眼光は鋭いが、良く見ると、黒目はいつもどんよりしていた。体重も、80キロから60キロに激減した。わずか一ヶ月ちょっとで、だ。あまりに異常な減り具合なので離婚してからも、お母さんは通院し続けた。生活保護は来週から受けられるようになる。

 あたしは、離婚前はお父さんに引き取ってもらおうと心に決めていた。お金ばかりかかって、不細工で憔悴し切ったお母さんには、ついてはいけないと割り切っていた。

 それはお母さんも分かっていて、親権は放棄すると決意していた。二人の我が子を、失ってしまおうとしていた。でも、お父さんは違った。

 「春野、お母さんを頼むよ」

あたしは、硬直した。お父さんが、あのお父さんが、こんな顔をするなんて…!

「あの人は、お前がなかったら死んでしまうかもしれん、慰謝料を払う義務はないが、お前がお金を取りに来れば当面の生活費ぐらいは渡す、進学に必要な分も、半分は払おう、このマンションも俺がお母さんの為に買ったものだから、出て行く必要はないよ、お父さんはな、明後日から九州だ。それに、女の子を育てることには自信がないなぁ」

お父さんは、不器用にあたしの頬にキスをした。あたしは反射的に払いのけて、怖い顔をしてしまった。そして、しまった、口に手をあてる。

 「ちっちゃいときは、お前たちからキスしてきたのになぁ、もんっお父さんショック」

 おどけて言って、自分で照れ笑いをした。お父さんとあたしの間には軋轢がある。もともと、こんな風に話し合う仲じゃなかった。あたしは、お互いに嫌っているものと思っていた。ひとたび何かあれば、追い出されてホォムレスか、娼婦になるしかないと決意していた。他人のように考えていた。

 お父さんは、あたしを見捨てたりしなかった。

 びっくりした。お父さんが、あたしたちを無償の愛で包み込んでいてくれていたことに。無償の愛などというものが、この世に存在することに。

 横浜の祖父の家に、二週間に一回ぐらい戻って来て、そしてあたしにお金を渡すお父さん。あんなに脅えて、あんなに嫌って、悪口ばかり言って、他人のように考えて…そんなのあたしだけだった。そんな風に娘に思われて、そんな娘にお金を渡して。一体、お父さんの人生ってなんなんだろう。

 「無償の愛」に気付いても、あたしは愛してあげられない。

 薄情モノはあたし。

 あたしは、お父さんにとってたった一人の娘だった。そのことに気付くのは、もっとずっと後のことだったけれど、アサヒが死んでからはそうだったから、かわりはない。

 実は、アサヒとあたしは異父姉妹だったのだ。

 お母さんは魔性の女だった。何が男をそうさせるのか、デブでクゥルなお母さんは非常にモテていた。あたしが生まれた頃の浮気は日常茶飯事で、何度も離婚騒動になったらしい。そんな折、新しい赤ちゃんがお母さんのお腹に宿った。

 「二人も子供が出来ちゃあね、もう、わたしも落ち着こうかな」

 お母さんは仕事もやめ、浮気もやめ、よたよた歩くあたしとお腹の子供の面倒を見た。

 お父さん方の祖父は、その頃独り身になり、お母さんに八つ当たりした。お母さんもお母さんで、工業高校出の祖父を小ばかにして、いい加減なことばかり言っていた。

 お祖父ちゃんがある日キレた。

 お母さんのお尻から、赤ちゃんを守るためのお水が出た。赤ちゃんは、このお水のなかでふわふわ浮いて、外からの衝撃に耐えている。いわばクッションのようなものだ。それがお母さんから流れ出てしまった。祖父がお母さんをイスで殴ったから、お腹が破裂してしまったんだ。赤ちゃんはもう、外からの衝撃に耐えられない身体になった。

 とても弱い弱い、小さな生き物だから、あたしの妹になるはずの赤ちゃんは、死んでしまうかも知れない。暴力をふるった祖父だって、お母さんにムカついただけで、けして赤ちゃんに死んで欲しかったわけじゃない。

 祖父は慌てふためいた。赤ちゃんが死んじゃうと思って、病院に電話した。後生だから、自分はどうなってもいいからと、救急車でも病院でも泣き喚いて頼み、お母さんに付き添った。

「志津江さん、ごめんね、本当にこんなつもりじゃあなかったんだ、えぃ!えぃ!ああ、畜生なんてこったぁあ」

 担架に運ばれるお母さんに、何度も謝った。お母さんは、その時のことを覚えていなくてこれは祖父から直接聞いた話だ。そしてこの話しをしてくれた後、彼は毒ついた。

「それがあよぉ、まさかよ、明弘の子供じゃねぇってんだもんよ、えぃ!こんなことがあってたまるかと思った、じいちゃんがあの嫁殴らなかったら、アサちゃんはずぅっと弘明とあの嫁の子供として、育っちゃったわけよ、べらぼうめぇ、やってらんねぇよなあ…あ?やってらんねぇと思った」

 祖父はニホンザルを思わせる容貌で、お父さんとは似ていなかった。日焼けした肌に、厳しい目。真っ黒に染められた髪の毛は七三で、いつも饐えた匂いがした。ヤニで黄色くなった歯はほとんど抜け落ち、何を言っているのか聞き取るのは容易ではなかった。

 赤ちゃんを流産しそうになったお母さんは、手術で助かった。赤ちゃんはまだ、生まれてくる準備をしていなかったのに、外に出されて色んな検査を受けた。両手に乗るほどの大きさしかなかったという。血液型が、AB型だった。お父さんはO型、お母さんもO型、もちろんあたしもO型だった。祖父達もO型かA型だった。

 「志津江、どういうことだ」

 「……」

 お父さんは怒りをどうにか、抑えた。でも、言葉の端端から怒りと哀しみが滲んでいた。出産をしたばかりのお母さんは、疲れ切っていた。でも、どうしても、お父さんと向かい合わないといけなかった。

 まだ、夜明け前だった。祖父は妊婦を殴った悪い人なので、逮捕されてしまい、病室にはお父さんとお母さん、それにお母さんに抱っこされたあたしがいた。

 お母さんは顔面蒼白で、疲労の限界という顔をしていた。背が高く、80キロもある巨体で、病院のベッドを軋ませ、あたしをあやしていた。

 「血液型だけじゃない、DNA検査までしたんだぞ…?お前、どうするんだよ」

 お父さんは祖父と違い、優しい目をした人で特にこの頃は、ハッとするようなハンサムだったらしい。そのお父さんが、祖父とそっくりな巻き舌で、詰め寄った。

 「ごめんなさい、わたしも貴方の子供だと思っていたの」

 お母さんはありのままを、正直に言おうと決意していた。お母さんはサバサバと、冷徹ともとれる態度でお父さんに言った。

 「相手はガイジンか?」

 アサヒは、赤ん坊の時から目鼻立ちがハッキリとして、金に近い薄い髪色だった。あたしが物心つく頃には、日本人にいてもおかしくないくらいの茶髪だったし、鼻も上を向いていてけして高くはなかった。物凄い美少女ではあったが。

 「わからないわ、わたし、本当に貴方の子供だと…身に覚えがないのよ」

 お母さんはこめかみを押さえた。膝に乗って大人しくしていたあたしを見て、お母さんはなお更に絶望した。あたしは、お父さんにそっくりだった。体型こそはずんぐりとしていたけれど、骨格が本当にそっくりだった。

「ごめんなさい、わたし貴方になんて言えばいいのか、これからどうしていいのかもわからないの、ねえ、でも保育室の赤ちゃんを見た?あんなに小さくても、人間なのね、びっくりしたの、びっくりしたら、涙が出た」

 「うん」

 「わたしの子供だと思うと、辛かったよ」

 お父さんは、冷たい、どこまでも冷たい表情で窓を眺めた。

「わたし、赤ちゃんを連れていくわ、貴方には迷惑をかけない、離婚しましょう」

 「お前がいない、人生なんかいらない…!」

 後から聞いたあたしが、思わず赤面してしまったような気障なことを言って、お父さんはお母さんを抱きしめた。

お母さんは、お父さんの二の腕をマニキュアのしっかり塗られた長い爪で押し返した。

妻と母の際で、お母さんは決断を迫られていた。血のつながらない子供を、ましてや愛する妻を寝取った男の子供を、男の人は受け入れない。常識だった。

お母さんは、ダメだよと言おうとした。

でも、お父さんは笑ってこう言ったんだそうだ。

「親爺とお前、俺と春野と生まれた赤ちゃん…みんなで幸せになろう」

こうして、あたしとアサヒは異父姉妹だというコトに気付かないまま育った。祖父も良く、黙っていたものだ。それとも、アサヒは知っていたのだろうか。

アサヒが死んで、四年経った。


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