思考が柔らかくなる文Ⅵ
恋愛とはなにか。聞かれれば、ほとんどの人が答えるだろう。だが、どの答えも的確ではない。的確にこたえられるものではない。
大好きな人を思うこと?人を大切に思うこと?かけがえのない人と過ごすこと?どれも、恋愛であるが、的確ではない。
恋愛という具体的な名詞に対する説明がきわめて抽象的すぎるのだ。通常、抽象的なものを説明するために具体が用いられる。とすると、具体的な単語の説明が抽象的なのであれば、それに対する具体的な説明がさらに必要となってくる。
では、恋愛とはなんだろうか。いうなれば、人間固有の繁殖過程、とでもいうべきものなのである。
通常動物の繁殖に、恋愛の過程は存在しない。
出会い、恋をして、デートを重ね、結婚をしてから子供を産む。生物の中で最も長い繁殖過程こそが、恋愛なのである。
なぜ、人間はこのような過程を踏むのだろうか。それは、人間には倫理と道徳いう概念があるからである。
動物は本能に従って生きる。それは自由なようで、実際自由ではない。自分で行動を選ぶことはできない。動物の行動というのは、ある程度遺伝的に決まっている。それぞれ個性はあるにしても
その個性を超えることはできない。
一方、人間は知性を手に入れた。それは、ある意味では自由すぎたのである。考えることができる以上、本能のままに行動させられるということはない。その自由が他の個体に被害をもたらす。
知性がもたらす自由の弊害による人類の滅亡を阻止するために、同じく知性が倫理と道徳を作ったのだ。
この倫理と道徳が、繁殖に対する概念を設定した。繁殖を神秘的なものであると認識し、男女の平等を見出した。
知性が知性を制御したのである。だが、繁殖は知性ではなく、本能である。いわば、知性によって与えられた自由の外側の行動なのだ。
知性によって制御された知性の中で私たちは生きている。であれば、私たちが繁殖するためには、倫理と道徳から飛び出さなければならない。
倫理と道徳から飛び出すということは、通常反社会的な行為であるといえる。
繁殖のため、倫理と道徳から飛び出し、帰り道を作ることが、恋愛なのである。
恋愛は、倫理的ではない行動を行うとき、知性によって制御された社会から追い出されないよう、帰り道を作りつつ、その社会から出ていく行動なのである。