名古屋にて
「霧島さん、今日はここらで休んでいきませんか?」
日が沈みかけた頃、淳平は腕時計にちらと目をやり霧島と呼ばれた男にそう提案した、
「ああ、どこかいい場所があったらな」
短いやりとりをかわし、男二人は瓦礫の中、かろうじて道と呼べるアスファルトの上を歩き続けていた。
辺り一面が瓦礫の山である、
男二人以外に人の姿はない、
元はビルやマンションなどであったろう建物はすべて廃墟となり、コンクリートや鉄骨をばらまいていた、飲食店の看板、電柱、電線、木材ありとあらゆる街を作りあげていた物たちが瓦礫となり埃と泥をかぶり、視界一面に転がっていた。
ちらちらと羽虫やハエが飛び交っている。
それらが夕焼けに染まり、まるで世界の終わりを描いたSF映画の中のような風景、
さらにひどいのは腐臭だ、なんとも形容しがたい臭いがすべてを覆っていた。
瓦礫の山を目を凝らして見るとあちらこちらに以前人だったものが横たわっているのがわかる。
多少の損傷は見られるがどれもまだ人としての形を多く残していた。
男は二人はそういった状況にもう慣れてしまったのだろうか、それらに何の関心も示さずたんたんと歩いていた。
瓦礫の世界、そうとしか表現できない光景だった。
しばらくして二人は崩れたビルを見つけた。
建物の一階部分はまだ残っており、天井もボードが崩れかけてはいるもののまだ無事である。
霧島は中を見渡し、くんくんと辺りの臭いを確かめ、腐臭がしないのを確かめると、淳平に軽くうなずいて見せた。
大きな登山用のリュックを下ろしズボンのベルトを緩め、リュックから取り出したタオルで身体を拭きはじめる。
「もう名古屋市は出れましたかね。」
淳平は受付のカウンターを押しやり、大人二人が十分寝れるほどのスペースを作ると霧島と同じようにタオルを取り出し身体を拭く。
「いや、まだ市街地すら出てないだろ。避難所を出たのが昼過ぎたから、あと半日はかかるんじゃないかな」
と言ったあとひとしきり身体を拭き終えた霧島は腰を下ろし、リュックの中から乾パンを取り出して「たぶんだけど」と付け加えた。
淳平は深いため息をつく。
「やんなっちゃいますね‥‥」
霧島がそんな淳平に目をやるが何も言わずに乾パンを頬張りはじめる、
霧島は口のなかの乾パンを飲み込み、容器をリュックの中に戻すと、ごろんと床の上に身体を寝かせた。
外を見るともうすっかり日は沈んでいた。
月明かりの届かない廃墟の中はもちろん電気が通っているわけもなく、かろうじてお互いの顔が確認できる程度になっていた。
「まだまだだよ」
「まだまだっすね」
「早く帰りたいな」
「帰りたいっす」
「寝るか」
「‥‥寝ましょうか」
そうしてこの日二人は言葉を交わすことなく瓦礫の上で夜を過ごした。
淳平は夢を見た。
彼は車を運転していた。
道はまともに走れるはずもないほどの瓦礫で埋め尽くされているはずなのに彼の操る車はどんどん加速していった。
目指しているのは東京、彼の家だ、
淳平は笑った。
(これなら一日で家に帰れる)
景色がぐるぐると回る。車はさらに加速した。
(早く、早く‥)
急に車が大きく弾む、大きな瓦礫でも踏んだか、そう思っていたが、再び車は大きく弾む、
(また余震か、大きいな)
大事をとってスピードを緩める
(こんなとこで車を潰しちまったらどうしようもない)
慎重に車を進めるが、目の前に行きなり大きなコンクリートの塊が出現する。
淳平は慌ててブレーキを踏み車を止める、
車の揺れはゆっくりと大きくなっていく。
(‥‥余震なんてもんじゃない)
すると車を取り囲む瓦礫が音を立て大きく波打ちはじめた。
それは波打つ度にどんどんと膨れ上がり、車にゆっくりと押し寄せていく。
淳平は慌てて車を飛び降りるが足がもつれてドアを出た瞬間に瓦礫の上に倒れこんでしまう、
唸るような音が鼓膜を突きぬけ脳を直接揺さぶりかけてくる、
淳平はゆっくりと目を開ける、
瓦礫はもう目の前に迫っていた。
淳平は朝の日差しに気付いて目を開けた。
上半身をゆっくりと持ち上げ首を回し、背伸びをして両肩をぐるりと回す。
そして外に出て瓦礫の山を見渡す、もう何度も何度も見た朝の風景、淳平は大きく息を吸い、ため息を吐きそうになったが吐き出す瞬間に思いとどまる。
(ため息ばかりつくと早く老けるっていうからな)
今度は腰をぐるりと回し下半身のストレッチを入念に行う。
(これだけくすんだ色の中で過ごしていたらそのうち目が悪くなりそうだな)
苦笑いを浮かべ上体を反らす、
雲ひとつない澄みきった青空が視界を占める、
(ああ、今日も空が青いな、そういや最近雨も降ってないな、まあその方がいいんだけど)
鳥が飛んでいた、
(おれも飛びたい、早く帰りたい、紗季‥‥)
「あ~、寝た寝た、おはよう」
淳平よりも一時間遅れて霧島が目を冷ます、
「あ、おはようございます。今日も相変わらずの天気ですよ」
霧島は太陽に背を向け、ラジオ体操をするようにテンポよく身体を伸ばしはじめた。
「淳平、おれなんだかこの生活でちょっと健康になる気がするよ、肩凝りもなくなったし」
「僕もですよ、早寝早起きってやっぱり大事なんですね、霧島さん、帰ったら奥さんも喜ぶんじゃないですか」
霧島は唇の端を少しだけ上げ一呼吸おき、
「‥・生きてたらな」
と言って霧島は足元にあったこぶしほどの大きさの石を蹴り上げた。
石は小さな弧を描きながら数メートル先のコンクリート塊にあたり、カツンと乾いた音を立て転がり落ちる。
「すみません、でも‥‥」
「わかってる」
霧島は淳平背を向け地べたに腰を下ろして言葉を続ける、
「気持ち的なもんだ、保険だよ保険。期待すればするほどもしもの時がしんどくなるだろ」
「‥‥そう、ですよね。でも東京のほうが救援も早かったろうし」
「大丈夫、お前の嫁さんは無事だよ、おれが保障する。さ、早く飯食って行こう」
根拠のない啖呵をきると二人はリュックから水と食
料を取り出し静かな食事に取りかかった。
「今日の目標は豊田から岡崎あたりかな」
霧島はシャツに落ちていた食べかすを払い落とすと、書店で拾ったドライバー向けの地図帳を開いて言った。
「とりあえずこのまま国道をひたすらまっすぐ進もうか」
「豊田辺りなら避難所もありそうですね」
「ああ、一応おれの予定では2日に一度は避難所に寄りたいと思ってる」
二人はリュックを背負うと足元を見渡し、忘れ物がないのを確かめると早速歩き始めた。
「あー、かゆい、蚊に刺された」
歩き始めて一時間、霧島は頬をぽりぽりと掻いた、
「そういやちょっと暖かくなってきましたね」
「くそ、蚊取り線香でも探しておくんだった」
二人は名古屋の避難所を出る際、廃墟と化したホームセンターに立ち寄っていた、水や食料品などはすでに他の手によって荒らされていたものの、靴やリュック、服などの身の回りのものは何とか見つけることができた。
霧島はそのときのことを言っているのであろう。
「これからもっと暑くなりますよ、着替えの予備ももっと持ってくればよかったっすね」
「ばか、おれの予定じゃ2週間もあれば余裕でつける、暑くなる前には東京帰ってんだろ」
少し怒ったように霧島が答える、
見た目も口調もラフな感じのする男だが繊細なところがあるようだ、
「ああ、そうですよね」
淳平もそのことは十分わかっているのだろう、何事もなかったかのようにまた歩き続ける。
「あれ、霧島さんあそこ見てください」
淳平が足を止め、霧島に声をかけた。
「おじいさんがいます」
淳平は指を指す、二人の進行方向より右手前方およそ100メートルほど離れたそこには瓦礫がほとんど落ちていなくアスファルトで舗装され、車が数台止まっていた。そこは広い駐車場だった。
その駐車場の奥、大きな建物の玄関の前に一人の老人が立っていた。
「ほんとだ、なにしてんだ?」
「あの建物って‥」
大きな建物だった、六階ほどのそれには大きな損傷は見当たらない。
「こんだけ広い駐車場だろ、スーパーとかホームセンターって感じじゃないな、役所とか‥‥いや、ありゃ病院だな」
淳平は霧島に伺うような目を向けた。
「どうします?」
「なにが?」
「あのおじいさん一人で大丈夫ですかね」
霧島ははっと短く笑った。
「おいおい、近くの避難所まで連れていってくれなんて言われたらどうすんだよ、そんな余裕ねえよ」
そう言って淳平を促す、
「だいたいおかしいだろ、あんなとこにボケッと一人で立ってるなんて」
淳平は黙って聞いている。
「なあ、おれもお前も早く東京に帰らなきゃいけないんだ、お前は嫁さん、おれは嫁と子供が待ってるんだよ」
「分かってます、でもこんなときだからこそ‥」
霧島は足を止めた。
「淳平、こんなときは目をつぶるんだ、おれだって余裕があって、そんであのじいさんも本当に困ってるならおれも手を貸すかもしれない、でも、今は無理だ」
そう言って再び歩きだす、
淳平は困ったような目でちらちらと横目で老人の方を見ていた。
「あ、」
老人との距離が少し縮まったころだった。
「こっち見てる」
霧島がはっと老人に目をやる。
老人は建物に背を向けると駐車場をゆっくりと歩き、二人の歩いている道路の方へ近づいてきた。
「まじかよ、面倒だな」
二人はそのまま歩を進め、老人のすぐ前を通りかかる。
「‥あのう、すみませんが‥」
老人からしわがれた声が発せられる。
その目に力はなかったがしっかりと霧島を見つめていた。
二人は足を止め、老人の方へと振り返った。
何か言いたそうに霧島を見ていた。
霧島は老人に聞こえないよう小さくため息をつくと、
「‥こんにちは」
と老人に挨拶をした。
(この状況でこんにちははなかったか‥)
言ってから思わず苦笑いを浮かべる。
老人も霧島の笑みを勘違いしたらしくシワだらけの顔に笑みを浮かべた。
(ああ、面倒なこと言われそうだな)
霧島は心のなかで毒づいていた。