魔獣襲来!
アルトは南を目指してひたすら街道を走り続けていた。
地理的に南の方角は広大な広葉樹林地帯になっていて、そこまでは舗装された街道が繋がっているらしい。
もちろんこの事は全てセリナから聞いたことだ。
アルトは普通人が真っ青になるほどの速さで走りながら、ふと後ろを振り返ってみる。
魔物や魔獣の侵攻に備えるための灰色の高い防護壁は、今はもう全く見えない。
それは絵の具のように辺りを塗りつぶしている暗闇のせいというよりはむしろ、セントクレアから距離的にかなり離れた所までアルトが来たという明白な証拠だった。
そこから少し走ると、黄土を平らにならした街道が途切れ、視界の隅から隅まで一面に広がっている森が見えてきた。
アルトは臆することなくその森の中に飛び込んでいくと、枝から枝へと猿のように跳び移りながら、感覚を集中させていった。
(……もう随分近い所まで来ているな。あと五、六キロくらいか? それにしても……)
妙なことになってきたなとアルトは思った。
過去の自分を捨てるために、普通の生活を送るために、このセントクレアにわざわざやって来たのに、今常人から見て到底普通とは呼べないことを自分はやろうとしている。
成り行き上仕方の無いこととはいえ、あの日の決意は所詮そんなものだったのかと、頭の中でもう一人の自分が自分を糾弾していた。
しかし今さら後には退けない。
セリナも言っていたように、もしアルトが動かなかったら、セントクレアに住む多くの人達の命が危ないのだ。
色々と迷ったりもしたけれど、今ここで多くの人達を死なせるよりは、多少の事は看過して自分が魔獣と対峙するほうが数倍マシである。
……その際に付随してくる厄介事を含めても。
アルトは魔獣の位置を魔獣自身が持つ魔粒子を感じる事で捕捉しながら、どんどん前へ前へと跳んでいく。
この先あと五キロ。
四キロ。
……臭いで餌が近くにいることは、もうとっくに気付いている筈だ。
三キロ。
二キロ。
……そろそろだ。
一キロ。
……ゼロ。
そして変化はすぐにやってきた。
なんと魔獣が鯨のように大口を開けて、周囲の木々をバキバキとなぎ倒しながら、アルトに襲い掛かってきたのだ。
アルトは足の筋肉をたわめて方向転換。横に大きく跳躍してそれを避けると、倒れていない木の枝に着地する。
魔獣は民家のおよそ二倍ほどもある大きさの翼を動かして空へと飛び上がると、空中でその大きな体躯を捻って、木の上にいるアルトと正対した。
十五メートル程もある長い巨躯。
それを鎧のように覆っている頑強そうな赤黒い鱗。
筋肉が岩のように隆起している四肢は大きな爪を備えていて、尻尾や背中には変質した甲殻が鋭く尖った槍のように突き出ている。
あれも十分武器になりうるだろう。
その頭部には天をつらぬく巨大な角が立派な冠のように生えていて、まるで自分はこの世界の食物連鎖の王だと無言で主張しているかのようだ。
そして最後に第二形態の証である紫色の瞳が圧倒的な存在感を放ちながら、ぎらぎらと妖しく光っていた。
多くの魔獣を倒してきたアルトでも、この第二形態の魔獣は初見だった。
しかしあまり珍しいことではない。
魔獣は既存の生物達のように一定の進化の枠には嵌まらず、その個体毎に辿る進化の道がそれぞれ違うのだ。
魔獣は宙でその赤黒い翼をばさばさとはためかせながら、一つ一つが長いナイフ程の大きさの牙を打ち鳴らす。
自身の目の前にいる獲物に向かって大きく咆哮した。
グギャァァァァァ!
その音に大気が鼓動する。
しかしアルトはまだ剣を抜かない。
じっと何かを見極めるように、空中で咆哮している魔獣を眺め続ける。
そして魔獣が長い咆哮を終えた所で、ようやくアルトは腰に提げている孔雀石の長剣を引き抜いた。
アルトの体内魔粒子と自然界に存在する自然魔粒子を融合させた、融合魔粒子による白銀の刃が、夜の闇を裂くかのように顕現する。
そしてアルトは空中にいる魔獣に低い口調で問いかけた。
「……魔粒子を感じることの出来る僕には分かる。お前の持つ魔粒子はとても異形で汚い色だけど、その魔粒子に他の誰かの魔粒子が僅かだけど混ざっているんだ。
お前……ひょっとして誰かにここまで連れてこられたのか?」
問いの答えを期待していたわけではないのだが、魔獣がグルルゥとアルトの問いに答えるように唸った。
実はこれはほとんど知られていないことなのだが、魔粒子を術式を介することで様々なエネルギーへと転換させたもの。所謂魔法にも魔粒子が僅かながらに含まれているのだ。
勿論それに含まれている魔粒子は魔法を放った本人によるもので、術式で転換しきれなかった体内魔粒子そのものである。
と以上の点を踏まえると、この魔獣はここに来る前に何かしらの魔法を誰かから受けたということになる。
ところがこの魔獣の動きを無理矢理拘束してセントクレアに向かわせているとか、そういった魔法の力は全くといいほど感じられない。
僅かではあるが誰かさんの魔粒子が確かに魔獣の体内に存在するのに、おかしな話である。
(とりあえず、今はそんな事どうでもいいか。こいつがセントクレアに向かってくる以上倒さなきゃいけないのは事実だし)
抱いた疑問を剣を構えることで払拭させる。
とここで、魔獣が大口を開けながら再びアルト目掛けて突進してきた。
大気を切り裂くほどのスピードで飛来してくるそれは、荒れ狂う嵐を纏った巨大な槍のよう。
アルトは上に大きく跳躍して、その破壊的な攻撃から逃れる。
そして一瞬で星霜剣の出力を上げて光のブレードを生み出すと、それを下にいる魔獣めがけて勢いよく振り払った。
魔粒子による三日月形の刃――――疾星が飛び出し、地面に向かって勢いよく落下していく。
それが魔獣の右翼に命中して、閃光と共に爆散した。
ところがアルトの魔粒子剣技をもってしても、右翼には僅かな黒い跡が残ったぐらいで、大したダメージを与えた様子は無かった。
(……第二形態はやっぱり魔法が効き辛いね。最初は直接斬りつけなきゃだめかな)
そんなことを思考しながら宙で体を捻って体勢を整えると、手近にあった木の枝にまた着地する。
すると宙を飛んでいる魔獣の体に異変が起きた。
赤黒い甲殻の隙間という隙間からふしゅーと赤い蒸気を噴出し、アルトに向かって火打石を打つかのように牙を打ち鳴らし始めたのだ。
そして魔獣ががぱっと大口を開けた時、アルトの背中にぞくっと戦慄が走った。
今立っている木から跳んで、即座に離れる。
刹那、轟音を伴った特大の熱線がアルトのすぐ脇を通り過ぎていった。
その威力は凄まじく、直線状にあった物体を一瞬で真っ黒に炭化させ、圧倒的な熱量で暖められた熱風がぶわっと、アルトの全身を叩いた程だった。
「ふぅ、危なかった。僕じゃなかったら今ので確実に消し炭だったよ」
また別の木の枝に降り立ったアルトは、五百メートルくらいまで真っ黒に焼け焦げてしまった大地を眺めてそう呟く。
さっきのはこの魔獣の特殊能力の一つで、体内に備えている膨大な魔粒子を特殊な器官で魔法エネルギーに変えて放射したのだろう。
魔獣は人間が魔法を使う時に必ず使う術式と、ほぼ同じ機能を持つ内臓を備えているため、この程度のことではあまり驚かない。
アルトは白銀のブレードを再び構え直すと、今だ倒れていない木から木へとムササビのように飛び移っていく。
狙いは魔獣の翼。
普通の魔法を使って空を飛ぶことのできないアルトにとって、いつまでも空を飛ばれるということは、戦いの主導権を握られ続けるということになる。
それだけはなんとしても避けたい。
風の如く距離を詰めて行くアルトに対して、魔獣は三度大口を開けて噛み付いてきた。
アルトはギリギリまで魔獣に接近して、枝を蹴って大きく宙返り。紙一重のところでその攻撃から逃れる。
そのまま、迫り来る風圧に耐えながらブレード部分に溜まる魔粒子を活性化させると、それをあまり動いていない右翼の根元の部分に勢いよく叩き付けた。
――――バギャァァァァァ!
夜の闇を跳ね除ける光のブレードが、翼の甲殻を切り裂いたと同時に爆発する。
赤黒い甲殻がガラスの様に砕け、鮮血が花弁の様に宙を舞った。
魔獣の悲鳴。落下していく巨大な体躯。
アルトは魔獣の背中を大きく蹴って、魔獣からなるべく離れた場所へと跳び移る。
また別な木の枝に着地したのとほぼ同時に、大地が大きく鳴動した。
(……よし、上手くいった)
砂塵を含んだ突風が体を打つ中、アルトは額から流れてきた汗を拭った。
つまり魔導剣士として数多くの魔獣と戦ってきたアルトでも、それだけ集中しているということなのである。
と、そこで墜落した辺りをベールのように覆っている砂煙の中から、魔獣が姿を現した。
怒りの炎と圧倒的な殺気を宿した紫色の瞳が、食物連鎖の王に逆らう挑戦者。すなわちアルトを捉える。
少し興奮気味に朱色の鼻息を漏らすと、魔獣は怒りの咆哮を上げた。
これで自分は確実に破壊対象として魔獣から認識された。
後は自分を殺すまで、どこまでもこの魔獣は追いかけて来るだろう。
勿論逃げるつもりは毛頭無いが。
大気を振るわせるほどの音の圧力に耐えながら、アルトは軽い身のこなしで足下の地面へと降り立つ。
そしてようやく地面に降り立った飛竜型の魔獣に向かって、アルトは疾走を開始した。
黒い痩身が大きくブレて、残像を引き連れていく。
魔獣は自分の間合いに突入してくる獲物に向かって、鋭利な棘のついた尻尾を鞭のように振り下ろしてきた。
シュッという大気を切り裂く音と共に、大きな尻尾がアルトに迫る。
アルトは横に逃れると同時に大きく跳躍する。
大地を穿つ巨大な破砕音が背後から聞こえてきたのは、アルトが宙に飛び上がったときだった。
アルトの次なる狙いは傷ついていない左翼。
先程切り裂いた右翼の傷が、魔獣の再生能力で埋まって再び飛ばれないうちに、左翼にも傷を与えて再生を遅らせるつもりなのだ。
飛ぶ矢のような勢いで揺れる左翼へと迫ると、アルトは白銀のブレードを持つ手を高速で動かした。
空間を幾重にも渡って走っていく白光が、魔獣の甲殻を断ち、左翼を切り裂いていく。
その際に降って来る生温かな血の雨が、普通組の証である黒い制服を重たく湿らせていく。
魔獣は苦しみの叫び声を上げながら、焼け焦げた大地の上を大きくのた打ち回り始める。
周囲に生えている木が次々と薙ぎ倒されてゆき、完全に燃焼しきった黒い灰が砂煙に混じって宙を舞う。
ところがアルトは迫り来る鋭利な尻尾や、勢いに乗った巨大な翼を、空中で上手く旋回しながらすいすいとかわし続けていく。
それも顔色一つ変えず、完璧に洗練された動作で。
そのまま無傷で黒い地面へと降り立つと、今度は巨角の生えた頭部に再度攻撃を仕掛けようと再び疾走を開始した。
だが、ここで思いも寄らぬ反撃にあった。
「なっ!」
なんと暴れ続ける魔獣の全身から、ボフンッと高熱のガスが噴出されたのだ。
避けられない――――。
瞬時にそう判断したアルトは、大きく後ろに飛び退きながら、剣身に溜まっている融合魔粒子を身に纏わせる。
次には、朱色の高熱ガスがその体を包み込んでいった。
魔獣の甲殻の隙間から噴出された高熱ガスは、魔獣の周囲一帯を朱に染め上げながら、触れるもの全てを燃焼させていく。
それはさしずめ、囚われた者には絶対の死を強制させる紅蓮の牢獄のように、破壊と焼滅を与えていく。
しかし数秒後、その死の牢獄から突き出てきた者がいた。
融合魔粒子による白銀の光をその身に纏ったアルトだった。
魔粒子による防御術――――。
それそのものは、魔法を扱える者なら誰でも扱うことが出来る。
しかし誰も本格的な戦闘で使おうとはしない。
魔粒子の反作用の影響で、実戦で扱うには程遠いレベルの威力しか出せないからだ。
だがアルトは、普通の体内魔粒子の代わりに、高エネルギーを持つ融合魔粒子を使用することで、その問題を既に克服していた。
「……なんだよあの変則的な攻撃は。危うく丸焼きにされる所だったよ」
魔獣から少し離れた地面に着地したアルトは、所々焼け焦げてしまった制服の煤を払う。
怪我らしい怪我といえば少し火傷したくらいで、後はほとんど無傷だった。
しかし魔獣の変則的かつ苛烈な攻撃はまだまだ続く。
暴れるのをやめた魔獣は、妙に高い唸り声を上げると、その場で一回転する。
するとその背中や尻尾に生えている無数の鋭い棘が、こちらにむかって一直線に飛来してきた。
(ふ~ん。こんな攻撃までしてくるんだ)
殺到してくる魔獣の攻撃を冷静に分析しながら、アルトは体に纏っている魔粒子を再び孔雀石の長剣に封入する。
そのまま一瞬で白銀のブレードを顕現させると、剣身の魔粒子を活性化させながら、その場で何度も剣を振り抜き始めた。
神速で動かされる白銀のブレードが鋭利な棘を切り裂く度に、白い大輪の花を咲かせていく。
幾つも、幾つも。
そして射線上にある最後の棘を迎撃し終えた所で、ようやくアルトはひと息をついた。
(……まったく、こっちが少しでも隙を見せればこうやってすぐに襲い掛かって来る。
これだから第二形態の魔獣は)
――――油断できない。
アルトは心の中でそう愚痴った。
もしこれが第一形態の魔獣なら、使用してくる攻撃の全てが本能に身を任せた力押しになるため、動きが単調で、次の動作を容易く読めただろう。
魔導剣士クラスの実力者ならば、第一形態の魔獣を潰すことぐらい造作も無いのだ。
しかし第二形態の魔獣の場合そうはいかない。
魔獣の持つ特殊能力が、誰も予想できない奇異なものになるのと同時に、魔獣の行動に緻密さと狡猾さが加わってくるからだ。
つまり自分の破壊的な力を考えて使うようになるのだ。
どうしたら目の前の獲物を仕留める事ができるのか――――ただそれだけを第二形態は思考する。
そうして力押しの攻撃と織り交ぜて、こちらが嫌がることを平然と仕掛けてくる。
それが第二形態の真の恐ろしさだ。
アルトは目の前の魔獣の動向に気を配りつつ、手に持っている白銀のブレードを眺めた。
眩い限りの光輝を放つ白銀のブレードの中で、孔雀石の長剣は純白に輝いている。
まるで、自分の抱いている懸念を否定するかのように。
(大丈夫……だよね。なんとか持ってくれよ)
自分の魔粒子を受け止めている孔雀石の長剣に、心の中でそう声をかける。
そして目の前の魔獣めがけて再び駆け出していった――――。