始動
アルトはセリナと共に生徒会室を目指していた。
今の状況をセリナから簡潔に説明されながら。
とはいえ、迷いは今でも残っていた。
もしここでセリナの望みをアルトが達成してしまえば、在学中は間違いなく面倒ごとに巻き込まれ続けるに違いなかったからである。
しかしそれも仕方の無いことだ。
どんなに嫌でも、どんなに迷っていても、魔獣がこのセントクレアを襲おうとしているのは変えようのない事実なのだから。
そしてアルトの力が今、この場で必要とされているということも。
「ここよアルト」
アルトの少し前を走っていたセリナが、豪華な装飾品のたくさんついた扉の前で足を止めた。
「ふぅん、ここがね」
アルトも足を止めると、生徒会室の扉を眺めてそう呟く。
生徒会室の場所などまるで知らなかったのだ。
「……ねぇアルト。やっぱり、辞めない?」
「どうして?」
不意に投げかけられた言葉に反応して、アルトは視線をセリナに向ける。
「今思ったんだけど、他の先生方や自警団の人達はともかく、生徒会長のマリアがそう簡単に許してくれるとは思えないもの……やっぱりアルトも」
「そこは何とか許してもらうしかないね」
アルトはやれやれと言わんばかりに手を小さく広げて、セリナが言おうとしたその言葉を遮った。
それだけはどうしても譲れない。
アルトは悠然とした歩みで豪華な扉の前まで歩いていくと、その扉を両手を使って勢いよく開く。
そしてセリナを引き連れて部屋の中へと入ると、アルトの姿を確認した中の人間達は皆大きく狼狽した。
「き、君!? いったいどうしてここに!? 生徒は皆大講堂に集められているはずだが!?」
「セリナに呼ばれたんです」
疑問を突き放すような淡々とした返事を返す。
普通組の生徒であるアルトを見れば彼らの反応は当然のことなのだが、事の成り行きをいちいち説明する気がアルトにはなかった。
とその時、動揺する人の群れを掻き分けながら、マリアが大きな叱声をあげた。
「こんな大変な時に今まで何処に行っていたんですかセリナ!! ……あら、あなたはセリナの――――」
アルトの存在に気付くと訝しげな視線を送ってくる。
その猜疑心にまみれた深い青色の瞳がとても怖い。それは戦うと決意した今でもあまり変わらない。
しかし今のアルトには後に退いて身を隠すという選択肢が存在しない。
自分の取るべきたった一つの道の為に、アルトはここにやって来たのだ。だから絶対に逃げ出したりはしない。
……もちろんその間に様々な葛藤や苦しみがあったのだけれど。
「セリナから話は聞きました。時間稼ぎの為の囮になる人を皆さんは探しているんですよね。その囮を僕とセリナが努めたいと思います」
そう宣言すると、部屋の中のざわめきと動揺がより一層強くなった。
「君! それはいったいどういうことだね!」
そんな中、一人の自警団らしき男が声を荒げながらアルトに食って掛かる。
「どういうことと言われましても……僕はセリナのパートナーなので、その彼女が囮になると決めたのなら、僕も囮になるのが普通じゃないですか」
しかししれっとした態度でさらりと嘘を述べると、その男の怒りにも似た言葉を軽く受け流す。
「そういうことを君に聞いているのではない! 私が聞きたいのは君がどうしてそんな事を突然言い出したのかを――――ぐえっ!」
「セリナちゃんのパートナー? まさか……お前がアルトとかいう奴か!」
すると装飾品過多の金髪の男が、アルトを問い詰めていた自警団の男を無理矢理脇に押しのけてアルトの前にやって来た。
どうやらこの男は生徒会のメンバーらしい。
だが腰に据えられた双剣の片方の柄に手が伸びているのはいったいなぜだろうか?
おまけに白い制服に隠れている幅広の肩がぷるぷると小刻みに震えていて、妙な殺気までギラギラと放っている。
まるで今すぐにでも斬りかかってきそうな雰囲気だ。
(うわ~なんかこの人いろんな意味で怖いんだけど。ていうか……あまりこの人と関わりたくない)
男の妙な雰囲気にアルトが気圧されていると、男は俯きながら静かに笑い始めて、
「……ふっふっふ。待ちに待ったぜお前と会えるその時を。俺達モテない男の夢を横から奪い取り、幸せな学園生活を跋扈しているというその罪断固として赦すまじ! 俺がモテない男達&セリナちゃんファンクラブ一同に代わって、貴様という人間の皮を被った悪魔に天誅を下してくれるわ!」
などと叫ぶと、男は獲物を狩る猛禽類のように目をぎらつかせながら、いきなり抜刀してきた。
アルトに向かう過程で、その銀色の太刀が魔導石の力で朱色に変色。そのままアルトの頭を縦に割らんとする。
「うわっ!?」
それを卓越した反射神経を発揮して横にさっと避ける。
(あ、あぶな! ていうかあの人の武器刃引きされていなかったんだけど!? もしかしてあの人本気で僕を殺す気だったの!?)
命を狙われた理由が皆目検討もつかないアルトは、「ちっ外したか……」などと物騒なことを呟いている金髪の男に大声を張り上げる。
「あの! いったいどういう経緯で僕に剣を向けてくるんですか! ていうか少し落ち着いてください!」
「……落ち着けだとぅ。俺はいつも通り到って冷静そのものだ。第一お前の言葉など誰が聞くものか」
金髪の男は目を血走らせながら、紅玉石が組み込まれた朱色の太刀を構え直して曰く、
「同室のセリナちゃんに夜な夜なあ~んな事やこ~んな事を強要している“変態”の言葉など!」
アルトは思わずずっこけた。
(そんなこと僕がするわけないだろ! というかシリウスといいセリナといいこの人といい、どうしてみんな僕を変態扱いしたがるんだ!)
「なんだとケヴィン! それは本当なのか!」
「セリナさんと一緒の部屋で一緒のベッド……そこでこいつは夜な夜なセリナさんと……。ふおぉぉぉぉおお! そいつは絶対に許せねぇぇぇぇ!」
「逮捕だ! 逮捕! 婦女暴行罪でこいつを逮捕して血祭りに上げてやろうぜっ!」
そしてケヴィンという名前らしき金髪の男の言葉を、疑いもせずに信じてしまう自警団の人達が不思議でしょうがなかった。
「というわけで、死ぬ覚悟は出来たか変態野郎」
ケヴィンは朱色の太刀を片手に、じりじりとアルトににじり寄っていく。
「な、なに馬鹿な事を言ってるのよケヴィン! 私とアルトは別にそんな関係じゃ――――」
「あぁ、セリナちゃんがこんな変態を庇うなんて! きっとこの変態に弱みを握られているんだね。でも大丈夫。ここでこいつをぶちのめしてやれば、君は晴れて自由の身だ。そしたら俺と正式に付き合おう。そしたら俺が正しい知識を手取り足取り教えてあげるからさ」
「気持ち悪い! 妄想が酷すぎて気持ち悪い!」
セリナが顔を真っ赤にして否定をしても、激しい嫌悪感を全身で表現していてもなんのその。ケヴィンと呼ばれたその男は軽薄な笑みを浮かべるだけで、少しもこたえる様子がない。
……ていうかこの人思い込み激し過ぎ!
そしてケヴィンが再び飛び出そうとして、アルトが身構えた時だった。
「……少し黙っていてくださいケヴィン」
今まで黙っていたマリアが何処からともなく取り出してきた槍の柄の部分で、いきなりケヴィンの頭を後ろからぶっ叩いた。
「ぐえっ!!」
ケヴィンは奇妙な声を上げると、そのまま生徒会室の大理石の床に力無く崩れ落ちる。
(うわ~今のは痛そ~。それより眉一つ動かさずに槍を振りぬいたマリアさんがとても怖いんだけど)
自分のことを棚にあげておきながら、アルトは少しばかりこの変な先輩に同情した。
いっぽうマリアはケヴィンが動かなくなったのを確認すると、ざわざわと騒がしい周囲に向かって一際大きな声を張り上げる。
「皆さん静かにしてください! 今は非常事態なんですよ! 遊んでいる場合ではありません!」
雷鳴にも似たその声に、騒がしかった部屋の音がぴたりと停止する。
マリアは槍を分解しながらアルトに向き直ると、
「驚かせてすみません。ケヴィンはいつもこんな感じですからこのまま放って置いてください」
「は、はあ……」
床に転がっている先輩(そんな風には全く見えない)を見ないようにしながら、どこか気の抜けた返事を返す。
マリアは槍をしまい終えると、怪訝な目つきでアルトをじっと見つめて、
「……ところで、どうしてあなたが突然そんなことを言い出したのか、少し理由を説明してもらえませんか?」
――――最初にして最後の関門だな。
機械的なその声にアルトは気を引き締め直した。
セリナから聞いた話によると、シリウスは今留守で、その時の主な指揮は生徒会長のマリアが取る事になっているらしい。
つまりシリウスのいない今はマリアがセントクレアの事実上のトップで、このマリアに許可を貰わないとアルトは戦う事ができないのである。
「理由は先ほど説明した通り、僕はセリナのパートナーです。その彼女が魔獣の囮になると決めたのなら、そのパートナーである僕もまた囮になるのが普通じゃないですか」
「……どうしてセリナが普通組の貴方をここに呼んだのかとか、色々気になる事はありますがひとまずそれは置いておくことにしましょう。
ですが、あなたは自分の言っている意味をちゃんと理解した上でそのようなことを言っているのですか? 相手はあの第二形態の魔獣ですよ。その囮をたった二人で務めるのは現実的に考えて不可能だと思いますけど」
「やってみなければ分からないじゃないですか」
「いいえ。やる前から十分分かりきっている事です。……それとも、あなたにはそう思う明白な根拠があるのですか?」
「それは……」
アルトは返答に困って口をつぐんでしまう。
マリアの言うような根拠は確かに存在する。
史上最年少で魔導剣士になったという忌むべき過去が。
しかしそれを今ここで明かしても誰も信じないだろうし、アルトとて話す気などさらさらない。
となるとマリアとの交渉は平行線を辿る一方という事になる。
正直考えが足りなさ過ぎたかもしれないなとアルトは思った。
すると隣にいたセリナが一歩前に出ると、
「お願いマリア。私とアルトで魔獣の囮をさせてもらえないかしら。確かにマリアの言うことも一理あると思うけど、もうそんな事を言っている場合じゃない。こうしている間にもどんどん魔獣はセントクレアに近づいているわ。それに今ここで囮役を断っても、他に囮役をやってもいいっていう人は誰もいないでしょ。だからここは志願してくれたアルトと私を囮役にしてもらえないかしら」
マリアの無表情が崩れて少し哀しそうな顔になった。
「……セリナやあなたはそれで本当にいいのですか? 囮役を務めればほぼ間違いなく死ぬんですよ。死が怖くないのですか?」
……そうか。この人もセリナと同じで犠牲をあまり出したくないんだ。例えそれが少人数だったとしても。
だから指揮権を持っていて作戦まで立てているのに、それを強制的に実行にまで移す事が出来ない。
囮になる人の身を案じて、非情になりきれないから。
無機質のような外見と違ってマリアというこの女性は、実はとても優しい人なのかもしれない。
まあもっとも、自分に言わせて見れば彼女の考えている事は全て杞憂にすぎないのだが。
「大丈夫です。僕もセリナも簡単に死ぬつもりはありません。ある程度時間稼ぎをしたらすぐに戻ってくるつもりです。
ですからどうかお願いします。僕とセリナを囮として行かせて下さい」
アルトはマリアに向かって深く頭を下げた。セリナもアルトに習って頭を下げる。
しかし頭上に降って来たのは相変わらず拒否の言葉だった。
「……あなた達のその意気込みだけは買いましょう。ですがセリナはともかく普通組の貴方を魔獣との戦いに向かわせるわけにはいきません。少なくとも校長の許可がない限りは」
「その必要は無い」
マリアの言葉を遮って現れたその声に、生徒会室に集められていた全員の視線が声のしたほう。すなわち開け放たれた扉に集中する。
そして歓声にも似た驚きの声が彼らから上がった。
「「「こ、校長! 帰っていらしたんですか!」」」
みんなの視線を一身に受けているシリウスは長い顎髭を手で軽く撫でながら、
「うむ。つい先程着いたばかりじゃ。だがわしのいない間に随分と大変なことになっておるらしいのぉ」
「そ、それが……セントクレアに第二形態の魔獣が接近しつつあるのですが、この普通組の生徒が生徒副会長のセリナさんとふたりだけで魔獣の囮を務めると言って聞かないんですよ。校長からもなんとか言ってやってください。そんな馬鹿なことは言うもんじゃないって」
シリウスがローブを揺らしながら中に入ると、顔も名前もよく知らないひょろい先生がへこへことしながら訴える。
しかしそれを聞いている様子が全く無く、少し複雑そうな目をこちらに向けてくる。
そうして誰にも気づかれないようにゆっくりとしわしわの唇を動かして、
『それは君が考えて決めたことなのじゃな』
シリウスは声を出していない。アルトが相手の唇の動きから発話の内容を読み取れる事を知っているのだ。そしてアルトがこの話をマリアに切り出した真意にもちゃんと気づいているらしい。
アルトはゆっくりと首を縦に動かす。
すると一瞬だけシリウスは柔らかく微笑むと、次には毅然とした様子でアルトに向き直って、
「いいじゃろう。君の魔獣をも恐れぬ気概と勇気に免じて特別に許可する」
「こ、校長! 幾らなんでもそれは!」
「しかし生徒達だけをそんな所に向かわせるのはいささか心配じゃ。そこでわしも囮を務める事にしようかの。そうすればいざという時はわしが生徒達の盾にもなれるじゃろう」
「……へ? 校長が魔獣の囮を……ですか?」
ひょろい先生が目をしぱしぱと瞬かせると、シリウスがさも心外といわんばかりの表情でその先生を見据える。
「なんじゃアドルフ君。わしが囮を務めることに何か問題でもあるのかね? 実はわしはこう見えても、風の国シルフェリアが誇る天竜騎士団の団長を任されていた時期もあってのう。第二形態の魔獣とも何回か戦ったことがあるんじゃが」
「い、いえ、校長が囮を務める分には何も問題がございません。ですが普通組の生徒を魔獣の囮にするのは……」
「大丈夫じゃよ。いざという時はわしが全て責任を取る。だからここはわしに任せてはもらえんかの?」
「わ、分かりました」
アドルフと呼ばれた先生がへこへこしながらそう答えると、シリウスは今度は唖然としている正面のマリアを眺めて、
「そういうわけでマリア君。魔獣の囮はセリナ君とそのパートナーのアルト君。そしてこのわしの三人でやろうと思うのじゃがどうじゃろう?」
「…………校長がそう決めたのなら、私が口を出す事は何もありません」
不承不承といった感じで、皮肉にも取れる内容の返事をマリアは返す。
しかしシリウス特に気を悪くした様子は見せず、にっこりと微笑むと、
「そうと決まれば善は急げじゃ。早速囮役のわし達は出掛ける事にしようかの。
……他の先生方は周辺の都市に応援の要請を。自警団の方々と生徒会の諸君は何が起きても対応できるように、万全の体勢でもってこの場にて待機じゃ」
「「「は、はい!」」」
シリウスがそう指示を飛ばすと、威勢のいい返事が返って来ると共に何人かの先生達が慌しく部屋を出て行った。
「……さて。ではわし達も行く事にしようかの。彼らの仕事への意欲と情熱を無駄にしないためにも」
どこか面白おかしくそう言ってアルトとセリナにウィンクをする。そうしてシリウスはふたりを引き連れて生徒会室を後にした。
「……なぁマリアちゃん。あのアルトとかいう普通組の奴、なかなか面白いと思わない?これから魔獣の囮をしようっていうわりにはやけに落ち着いていたし、俺の剣撃をあっさりと避けたし、なにより校長があんな無茶な事を簡単に許可しちまうなんて普通は絶対にありえねぇ。これは奴には何か裏があるぜ」
「そんなことぐらい分かっていますよケヴィン。彼については今後ゆっくりと調べてみましょう。……まあ、あくまで彼が無事に帰ってこれたらの話ですが」
「わぉ。随分と厳しい意見だねぇ。
それはそうとして、あのつるぺた幼女が何処に行ったのかマリアちゃんは知ってる? さっきから全然姿が見えないんだけど」
「ミシェルのパートナーの貴方が居場所を知らないのなら、私が知っている筈がありません」
「だよなぁ……って、あれ? マリアちゃんはいったい何処に行こうとしているの?」
「……少し夜風に当たりたくなったので屋上に行ってきます。何かあったら私のところにすぐに来て下さい」
「……そこで既に俺と一緒に行くっていう選択肢が無いんだもんなぁ。なんだか切なくなってくるぜ……」
~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆~~~~~
「シリウスとセリナ。本当にありがとう。おかげで助かったよ」
セントクレアの防護壁を越え、脇に高い木々が点々と並び立つ街道をしばらく走った後、アルトは立ち止まって後についてくる二人にお礼を言った。
「いつも皮肉ばかり言っているアルトにそんなことを言われるのはとても快感じゃのう。思わずやみつきになってしまいそうじゃ」
「……やっぱり前言撤回。お礼はセリナだけにしよう。それとシリウスは早く隠居しようね。場所は牢屋辺りがいいんじゃないかな」
「相変わらず酷い言い草じゃのう。そう思わんかねセリナ君」
天上に散りばめられた星屑達が一面に光輝く薄い暗がりの中、シリウスは隣にいるセリナにそう話を振った。
しかしセリナはずっと俯いているだけで何も返事をしない。
いったいどうしたの? とアルトがセリナに尋ねようとすると、そのセリナがようやく顔を上げて、
「……ねぇアルト。やっぱり無茶よ。第二形態の魔獣を“あなたひとり”で退治するなんて……」
掠れたか細い声に影響を受けて、自然と背筋が伸びた。
アルトがセリナに協力する代わりに出した条件。それはアルトがたった一人で魔獣と戦える状況を作り上げることだった。
だがそのためにはどうしても自警団の人達と魔法学校の先生達。そしてセリナ以外の生徒会メンバー達をアルトが戦っている場所に近寄らせない必要があった。
そこでセリナのパートナーであるということを口実に、魔獣の囮をセリナと二人だけで行うと申し出て、なるべく自然な流れでみんなを戦いの場から遠ざけようとしたのである。
……まあ、半分博打みたいな作戦でかなり苦し紛れではあったのだが。
正直あの絶妙なタイミングでシリウスが現れてくれなかったら、この作戦は成功していなかっただろう。
だが作戦は見事に成功し、みんなを戦いの場から遠ざけることができた。
後はセントクレアに近づいてくる第二形態の魔獣を、この手で迎え討つだけだ。
……この憎い手で。
「セリナには何度も言ったと思うけど、僕は誰にも自分の力を見られたくない。例えそれが過去に僕の力を見た事がある君だったとしても」
そう言い出したセリナの本意を悟ったアルトは、首を振って優しく諭すように言った。
しかしセリナは大庭園の時のように簡単に引き下がってはくれなかった。透き通った空色の瞳を潤ませながら声を荒げて、
「でもっ! この前は私を助けた時に見せてくれたじゃない!」
「あれは例外中の例外だよ。それに……君は何か勘違いをしているみたいだけど、僕の力はまだまだあんなものじゃない。君の想像以上に僕の力は現実離れしているんだ」
「だったら何だって言うの! 私は別に」
「その点に関してはわしもアルトと同意見じゃ。セリナ君でさえも知らないことがアルトにはあるんじゃよ」
感情を昂ぶらせていくセリナをシリウスが諌める。
「それと、どうやらセリナ君はアルトと一緒に魔獣退治をしたいみたいじゃが……考えてもみておくれ。第二形態の魔獣は一つの都市を崩壊させるほどの力を持っていて、しかも魔導剣士達ですらもすんなりと勝てる相手ではないのじゃぞ。
仮にセリナ君が付いていったとしても、アルトの足手まといになるのが関の山じゃ……無論このわしも同じじゃがの」
「で、でも……校長先生はアルトが心配じゃないんですか。その第二形態の魔獣を今からたったひとりで退治するんですよ……」
不安が滲んでいるその言葉にアルトは胸を衝かれた。
セリナが心配する要素なんて砂粒ほどもないのに!
むしろ、魔導剣士だった奴を心配する事のほうがおかしいのに!
どうしてセリナはいつもいつも……!
しかしそんな彼女だからこそ、なおさら自分の戦う場所に連れて行くわけにはいかない。
第二形態の苛烈な攻撃から彼女を守りきれる自信など全くないし、なにより彼女の破滅する様など絶対に見たくないから……。
アルトは不安で揺れている空色の瞳をしっかりと見つめながら、
「いいかいセリナ。シリウスの言っていることは正しい。そして僕は、また誰かを絶望させて破滅の道へと追い込ませたくはないんだ。
これがまたどうしようもない奴なら僕も躊躇せず遠慮なくやれるけど、少なくとも君はそうじゃない。
君は僕のパートナーなんだ。
君が僕のことを心配してくれるのはとても嬉しい。
でもお願いだ。どうか僕の好きなようにやらせてほしい。
僕が我侭ばかり言っているのは分かってる。でも、どうしても僕は自分の力を人に見られたくないんだ」
セリナは暗闇の中、軽く身じろぎをして、まだなにか言いたそうにしていたが、やがて諦めたように軽く息を吐くと、
「……分かったわ。でも約束して。絶対大きな怪我もしないで無事に帰ってくるって」
――――そんなこと戦ってみなければ分からないよ。
一旦喉元まで出かけたその言葉を飲み込んで、アルトは大きく頷いてみせる。
「分かった。約束する。……じゃあ、行ってくるね」
そう言ってアルトはセリナ達に背を向けると、魔獣が向かって来る南の暗闇に全速力で駆けて行った――――。
アルトが暗闇の中に消えていった直後、一陣の強い風が吹き、セリナ達の脇に並んでいる木々達の生やしている若葉が皆激しく揺れ動いた。
そんな若葉達と同じように、セリナの心はひどく落ち着かなかった。
頭の中が不安でいっぱいで、ここから飛び出して今すぐにでも走り出したいと言わんばかりに心臓が大きく疼いていた。
もちろんアルトの力を疑っているわけではない。ただどうにも嫌な予感がするのだ。
「……さて。わし達はアルトが帰ってくるまでここで気長に待つことにしようかの。囮役の人間が今帰ったら色々と面倒じゃからな」
シリウスがセリナにそう声をかけて道を外れると、野草が絨毯のように生い茂っている場所にゆっくりと腰を下ろした。
セリナも亀のような緩慢な足取りでシリウスの座っている所へと向かう。
その過程でもう一度、アルトの消えていった方角を振り返る。
心臓がまた大きく疼いた。




