崩された平穏2
生徒会室は騒然としていた。
マリアから突然伝えられた第二形態の襲来。
それは平和という名のぬるま湯に漬かってきたセリナ達を震撼させるには十分過ぎるほどの威力があった。
もちろんセリナ達生徒会メンバー(自警団と魔法学校の教師達も含めて)とて、決して怠けていたわけではない。
セントクレアは魔物の繁殖地と隣接しているため、度々魔物に襲われる。
それらを討伐隊を組んで何度も倒してきたセリナ達の実力と実戦経験は、下手をすればそこら辺の騎士団にも匹敵するだろう。
しかし今度の相手は魔物ではなく魔獣。しかも第二形態だ。
はっきり言って規模と桁が違う。
力も。
大きさも。
能力も。
生命力も。
獰猛さも。
飢えも。
破壊衝動も。
全てが違う。
些細なこぜりあいと戦争程の違いが両者にある。
……そう。魔獣との戦いはもはや戦争なのだ。
魔獣が人里近くに現れれば、国はより多くの魔法剣士を集めて討伐、もしくは撃退を試みる。
駄目なら次、駄目なら次といった具合に。
しかしセントクレアは国ではない。
規模は大きいけれどただの一都市でしかないのだ。
撃退に失敗したら次なんてものは無い。
待つのは都市の滅亡という運命だけである。
そしてそんな物を突然背負わされる事になってしまった、力の無い者達はいったいどうするのか。
その問いの答えがセリナの眼前で繰り広げられていた。
「まさか校長が不在の時に魔獣が現れるなんて……いったい私達はどうすればいいんだ!」
「お、お、落ち着いてくださいクロード先生。ま、魔獣が現れたといっても確実に襲ってくるとは、か、限らないじゃないですか」
「なにを呑気な事を仰っているんですかジル先生! セントクレアに接近しているのは人里近くに殆ど姿を現さない第二形態の魔獣ですぞ! きっと我々を捕食するためにここに向かっているに違いありません!」
「あぁ! こんな時に校長がいてさえくれれば!」
生徒達を全員大講堂に召集した後、戦力になりそうな先生達と自警団のリーダー格の人達がこの生徒会室に集まっていたのだが、彼らの顔は皆等しく絶望の色を成していて、今にも発狂せんばかりに混乱していた。
つまり彼らは早くも諦めているのだ。
みんなが住んでいるこのセントクレアを魔獣から守るということを。そして自分達が生き残るということを。
それなのにどうして避難勧告を出そうという意見が彼らから出てこないのか?
これ以上の混乱を避けるためというのもあるだろう。
セントクレアの住人全てが避難に動けば、それだけで大惨事になることは間違いない。
その点に関しては一応納得がいく。
しかし彼らがそうしない一番の理由は自分達の変なプライドによるものなのだ。
いつもは勇猛果敢に戦って魔物を退治しているのに、いざ魔獣が現れたとなって逃げ腰では生徒やセントクレアの一般市民に示しがつかない。そう思っているのだろう。
諦めずに戦う気もなければ、覚悟を決めて逃げ出す勇気もない。
それに振り回される者達のことを彼らは考えているのだろうか?
このままみんなの士気が低いままだと、私達は全員魔獣にやられてセントクレアが滅茶苦茶になっちゃう――――少なくとも魔獣と戦う気のあるセリナにもそんな不安が襲ってくる。
だが、その不安を打ち消す材料があることもセリナは知っていた。
……もちろん迷いもあるけれど。
「みなさん静かにしてください!」
「おらっ冴えねぇ野郎共! 我等が女神であるマリアちゃんの話を聞けぇ!」
マリアとケヴィンは大きな声を同時に張り上げて、混沌とするこの場を制すると、
「いい大人達がいったい何をやっているんですか。今は遊んでいる場合ではないんですよ」
威厳の篭もったマリアの冷たい声。
あからさまに顔をしかめてむっとした者もいたが、正論なのでマリアを咎めるようなことは無かった。
「事態は緊急を要します。
魔獣は竜種の飛行に特化したタイプで、私が最初に視認した時点での魔獣の位置はここから南に約八十キロの地点でした。
しかしあれから何度か確認してみたところ、魔獣は北進、つまり真っ直ぐこちらに向かってきています。私が最初に視認してから既に一時間。予想ではおそらく三十キロ圏内に到達している筈です」
さ、三十キロ……っ! もうそんなところまで……っ!
そんな恐怖に怯えた声がどんどん上がっていく。
しかし特に意に介した様子は見せず、マリアは淡々と話を進めていく。
「第二形態の魔獣はとても強力です。普通に戦っても私達だけでは勝ち目は薄いでしょう。
しかし討伐の事は一切考えずに目的を撃退のみに絞れば、私達にも勝算はあります」
今度は別な意味での動揺が彼らに走った。
ひょっとしたら生き残れるんじゃないかという期待。
いったいどこに勝算があるのかという疑問。
勝算なんてあるわけないだろうという否定。
そんな三つの色を混ぜ合わせた複雑な色が彼らの顔に表れていた。
「だ、第二形態の魔獣に対して、しょ、勝算があるとは、い、いったいどういうものなのでしょうか?」
今年セントクレア魔法学校に赴任したばかりの、臆病で有名なジル先生が少しどもりながらマリアに質問をする。
――――無機質の青い瞳が少し鋭くなったような気がした。
「魔獣の特性を利用した簡単なものです。
魔獣が人里に現れるのは主に空腹感と破壊衝動を満たすためと言われているのですが、ここで重要になって来るのがこの破壊衝動。実は魔獣には捕食対象とは別に破壊対象というものが存在します。しかも両者の優先順位は破壊の方が上。これが何を意味するのか皆さんは分かりますか?」
彼らは無言でもってマリアの問いかけに答えた。
相変わらずマリアの頭のキレは凄まじいわね。とセリナは胸中で感嘆する。
自分よりも年上。しかも人に物を教える教師以上に豊富な知識を備えているのだから、ホントに脱帽させられる。
しかしよくそこまで知っているわね。ともセリナは思った。
魔獣に関しての資料は圧倒的に少なすぎて、分からないことの方が多いというのに。
「つまり目の前に破壊対象が現れれば、もしくは魔獣が破壊対象だと認識する物があれば、魔獣は捕食対象をそっちのけで破壊対象の方へと向かうわけです」
おお~という歓声が周囲から湧き起こる。
マリアの説明を聞いたセリナも少しばかり安心する事ができた。
これで迷う必要はない。ひょっとしたら私達だけでもなんとかなるかもしれない……と。
しかしそう思ったのは早計で、すぐに裏切られる結果になるのだが。
「それで……いったいどうするのかね? どうすれば私達でも魔獣を撃退する事ができるのかね?」
少しばかり生気を取り戻した自警団のリーダーらしき男がマリアに尋ねる。
「それは……」
すると今まで鉄仮面の様に無表情だったマリアが、何かを躊躇うかのように視線を大理石の床に落とした。
その様子を見て何かが違うと思ったのか、彼らは訝しげな視線を俯いているマリアに集中させる。
マリアは無表情の中に僅かな苦悶の色を浮かべて、
「必要最低人数の囮が魔獣の注意を引き寄せている間に、周辺の都市に協力を要請して防備を固めれば、撃退する事は可能です」
そう告げた瞬間。この部屋の音という音が全て消え失せたような気がした。
誰かが身じろぎをして衣擦れする音も。
生きていると実感させる呼吸音も。
窓を揺らす風の音も。
全てがこの部屋とは隔離された虚無の世界に閉じ込められたかのようだった。
そんな沈黙を破るように魔法戦闘学の教師であるクロードが、俯いているマリアに恐る恐る問いかけて、
「……ということは、つまり……その囮というのは……」
マリアがゆっくりと唇を動かす。
「……ええ。その囮を努めた人は間違いなく死にます。さらに付け加えておけば、その後の都市の防衛でも多数の死傷者が出ることは間違いないでしょう」
「そ、そんな……」
口から思わずそんな言葉が漏れる。
つまりマリアが言うところの囮はスケープゴート。言い換えれば魔獣への生贄なのだ。
さらにその生贄を差し出しても魔獣は満たされない。
次の命、また次の命という風にセリナ達の命の灯火を食んでいく。
そんな残酷な未来をここに集まる彼らが、そしてセリナが受け入れられるわけが無かった。
「そんな博打を打つような作戦は無茶だ!」
「その通り! 囮が確実に時間稼ぎに成功するとは限らないし、他の都市が魔獣退治に協力してくれるとも限らない! 第一死ぬと分かっている囮をいったい誰が努めるのかね!」
マリアはか細い声で、
「……囮には数名が必要ですが、一人は私が努めようと思っています」
しかしケヴィンがずずいと前に出て、
「それは駄目だよマリアちゃん。ぼんくらな俺達をまとめる優秀な指揮官に先に死なれちゃあ、都市の防衛なんてできっこないからね」
「ぼんくらだとっ! それは俺達の事を言ってるのかケヴィン! 言わせておけばいい気になりやがって……!」
「おっ、やるのかい自警団の皆さん。俺は男への対応は五倍程厳しくなるぜ」
「やめてください! 今は争っている場合ではないんですよ!」
(ああ、もう滅茶苦茶だわ! こうなったら後は……)
今までずっと抱いていた迷いがようやく決意へと変わった。
少し……いや、かなりためらいがあるけれど後は行動に移すだけ。
セリナは各所で起こり始めた争いにくるりと背を向けると、生徒会室の豪奢な扉に向かって駆け出していく。
「せ、セリナさん!?」
「セリナ! こんな時にいったいどこへ行こうというのですか!」
このセリナの奇行とも取れる行動に戸惑う声や、叱咤の声が上がる。叱咤の声は勿論マリアだ。
しかしセリナは生徒会室の扉を開けて、くるりと振り返ると、
「ごめん、すぐ戻るから! あと囮役は保留にしといて! それじゃ!」
ただそれだけを言い残して、脇目も振らずに暗い廊下を駆け出していった。