崩された平穏
「ふっふっふ。さあ、楽しい宴の始まりだ。脆弱なお前達がはたしてどこまで足掻けるのか、この最高の観客席で見学することにしよう」
満天の星空の下、赤茶けた岩が剥き出しの丘陵の上で銀髪の男は薄ら笑いを浮かべる。
その手元にはビジョンの魔法で映し出されたある映像が、夜闇をぼんやりと照らし出していた。
その様はさながら、人の魂を刈り取ってほくそ笑んでいる死神のよう。
とその時、銀髪の男は背後を振り返って声を張り上げた。
「お前も見物しないかアレス」
男の誘いに答えるように、背後の漆黒の闇から重低音の声が鳴る。
「……いや、遠慮しておこう」
そしてそこから、黒いローブに身を包んだ長身の男が姿を現した。
逆立った銀色の短髪に、同じ色の顎鬚をたくわえたごつい顔。
ゆったりとした黒いローブの上からでもはっきりと分かるその逞しい身体は、力だけが自慢の魔物、オーガーにも見劣りしない。
そして、このアレスという男も銀髪の男と同様、曰く言いがたい気を持っていた。
「ふっ、俺と同じ馴れ合うことを嫌うお前のことだ。どうせ断ると思っていたさ」
アレスの返答を聞いた銀髪の男は、口に微かな笑みを浮かべつつ首を横に振る。
アレスの目が少し鋭くなった。
「……ところでゼクロス。遊ぶのは別に構わないのだが、我々の目的を忘れてはいないな。我々の目的はあの都市の――――」
「勿論分かっている。だが、俺も考え無しに遊んでいるわけじゃないさ。これであの老いぼれの治める都市が、いったいどれ程の戦力を有しているのかを把握することができるだろう? 盤を動かす策士としてはそこはちゃんと調べておかないと。それに――――」
銀髪の男、ゼクロスの笑みが一層残酷さを増す。
「ここであの都市が壊滅すれば俺達の仕事もやりやすくなる……違うか?」
アレスはゆっくりと首肯してみせる。
「……もちろんその通りだ。だが、被害は必要最小限に抑えておけ。我々の目的は破壊と暴虐の限りを尽くすことではないのだからな」
ゼクロスは無言で片手を振る。手に映し出されていたビジョンの映像がブンッと音を立てて消滅した。
そしてアレスを正面から見据えると、
「お前は寛大で慈悲深い奴だと前々から思ってはいた。ある意味では尊敬もしている……だが、人間好きも大概にしておけよ。いつかその考えが命取りになるぞ」
「……人間好き?」
アレスの太い毛虫のような眉が微かに動く。
途端、暴風にも似た強烈な殺気がアレスから沸き起こった。
その圧力は凄まじく、膝下まで伸びている周囲の雑草をハタハタとざわめかせ、所々突き出た赤茶色の岩をぴしぴしと打ち鳴らすほどだった。
「……私は人間好きなどではない! むしろあんな下等種族、この私の手で根絶やしにしてやりたいと思っているくらいだ! しかし私がそうしないのは誇りの問題もあるし、なにより無駄な殺生を私は好まない。断じて、人間が好きなわけではない!」
しかしアレスから怒声を浴びせられても、普通の者なら呼吸すらままならないほどの殺気を受けていても、ゼクロスは全く動じない。
いやむしろ、何かを面白がるように口角を吊り上げて、
「ふっ、お前の意気込みを聞けて安心したよ。他の奴らはともかく、お前は無口過ぎて考えていることがよく分からないからなぁ」
「……まさかこの私を試したのか? ……遊びが過ぎるぞゼクロス」
「まあそんなに怒るな。今のは宴の前のちょっとした余興のつもりだ。決して俺達のリーダー格であるお前を疑っているわけじゃない。それにお前が俺のやることに消極的な理由もちゃんと分かっている。奴らに目的を悟られるのが嫌なんだろう」
凄まじい殺気を引っ込めたアレスは三白眼の瞳を大きく見開くと、
「……お前は本当に頭がキレるな。あの中で気づいているのは私だけだと思っていたぞ」
「お前はまだ俺のことを甘く見てるな。頭の中身が少ない他の連中はともかく、俺がそんな見え透いたことに気付かないわけがないだろう」
心外だと言わんばかりにゼクロスは形の整った眉根をひそめる。
そうしてそこからにやりと、禍々しい笑みを浮かべると、
「だがその点に関しては問題ない。奴らは今カーミュラとオリオンの方に目がいっている。こんな辺境の土地に突然現れた魔獣の動向にまで、いちいち気を配ったりはしないだろう。精々誤差の範囲内で収める筈だ……まあ、お前の意見を尊重して半壊程度には留めておいてやるが」
アレスはゼクロスのやることにまだ不満があるのか、大きな唇を開いて何事かを口に仕掛ける。
しかし言っても無駄だと思ったのか、ゼクロスに言いかけた言葉を飲み込むと、溜め息と同時にゆっくりと頭を振るった。
「……とりあえず遊ぶのはほどほどにしておけ。私はまた“因子”を持つ者を探す。お前も遊びが終わり次第、“因子”を持つ者を探せ。少なくともあと一人は計画の為に必要なんだからな」
「勿論分かっているさ」
ゼクロスはアレスに向けて気だるげに片手を挙げてみせる。
アレスは漆黒のローブをバサッと翻すと、また漆黒の闇へと消えていった。
「リクレイム」
一人になったゼクロスは短い詠唱を唱えて、またビジョンの魔法を映し出す。
暗闇にぼんやりと映し出されたある映像を再び見て、ゼクロスはゆっくりと呟く。
「さっきお前にああは言ったが、少なくともお前は人間が好きだと俺は思うぞ…………俺よりはな」
彼の手の中では、紫色の瞳を宿した竜が羽ばたいていた。
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ケイトは生まれて始めて魔獣というものを見た。
もちろん直接というわけではないが、マリアのビジョンから送られてきた映像は今まで読んできたどの本の挿絵よりも鮮明で生々しく、生きた魔獣の荒々しさや獰猛さをそのまま映し出していた。
しかもその魔獣――――第一形態の進化系である第二形態が、セントクレアに接近しているとマリアは言ったのだ。
もはや壊滅という最悪の結末しか頭に浮かんでこない。
これは色んな本を読み漁って知り得たことなのだが、第二形態の魔獣の瞳は紫色で、第一形態の魔獣の数倍上をいく強さと生命力を誇ると云われている。
魔獣が持つ特殊能力もこの第二形態を境にどんどん複雑になっていき、中には知能を持つに到る個体まで存在するらしい。
挙句の果てには“あの”魔導剣士達でさえも、第二形態の魔獣にすんなり勝てるというわけではないらしい。
どうしてそうなのかは分からないが。
だがセントクレアの運命が、そして自分達の運命が刻一刻と絶望への階段を登っていることは確かだった。
なぜなら、マルギアナの長い歴史の中で街一つを壊滅させられたという事例が一番多いのは、他ならぬ第二形態の魔獣なのだから――――。
「……ケイトさんとレイさん、そしてアルトさんは至急自室に戻って待機していて下さい。その後の指示は追々先生が出すと思います。三人はその指示に従ってください……では行きますよセリナ」
無表情の中に僅かな焦りの色を滲ませているマリアはすっと席を立つと、食べかけの食事が載っているトレイはそのままに早足で食堂の出口へと向かっていく。
「ま、待ってマリア!」
セリナも席を立つと、一瞬だけ真横にいるアルトをちらりと見て、それから慌ててマリアの後を追っていく。
「お、おい……聞いたか今のセリナさん達の話。魔獣が現れたんだってよ。しかも第二形態……」
「や、やばいんじゃないか俺達……」
「は、早く荷物を纏めて逃げねぇと……」
偶然マリアの話が聞こえてしまった人達から、困惑と恐怖に染まった声が上がっていく。
それらひとつひとつを聞いているだけで、ケイトの中の絶望が喚起され、心に巣食う魔獣への恐怖は増幅した。
これから自分達に訪れる運命を考えると、怖くて、怖くて、怖くて、少しでも安心しようとケイトは想い人であるアルトの顔を見る。
しかしすぐに自分の考えが愚かだったことに気づかされた。
「…………そんな……僕は、いったいどうすれば…………」
アルトの顔がすっかり血の色を落とした蒼白で、これ以上ないほどの恐怖に染まっていたのだ。
羽のように軽くて折れそうな痩身は小刻みに震えていて、見開かれた漆黒の瞳はテーブルの一点だけを見つめている。
ケイトもかなり怯えているが、正直アルトの怯え方は尋常ではない。
何か、魔獣関連で強いトラウマがあるようにしか思えなかった。
私だけが怖いわけじゃない。アルト君もレイ君も、ここにいるみんな全員が怖いんだ……。
その事実が、ケイトただ一人を安心させる事を許さない。
しかし少し落ち着きを取り戻すことは出来た。
ケイトは凄絶な顔をして俯いているアルトに顔を伸ばして近づき、
「……アルト君大丈夫?」
アルトははっとしたような顔をすると、今すぐこの場から消えてしまうかのような酷く弱々しい微笑みを浮かべて、
「…………うん、大丈夫……だよ。マリアさんの話とアレに……ちょっと驚いたのと、みんなの恐怖が伝染しただけ……だから」
「アルト? おまえ顔色がかなり悪りぃぞ。何かあったのか……?」
レイもアルトの異常に気付いたらしく、心配そうにアルトの蒼白の顔を覗き込む。
「……何でもないよ。僕は大丈夫だから。それより、ケイトさんもレイ君も自分の部屋に戻ったほうがいいよ。いつ先生の指示が来るか、分からないからさ……」
相変わらずアルトは繊細そうな笑みを絶やさないでいるが、無理しているのがバレバレだ。笑顔が石のように固く強張っている。
「アルト君、ほんとに大丈夫なの?」
「うん……僕は大丈夫……それじゃあ、ふたりには悪いけど、僕は一足早く部屋に戻るね……ふたりも、早く戻らなきゃ駄目だよ」
そう言ってアルトは、セリナ達が置いていったトレイに自分のトレイを重ねて静かに立ち上がると、返却口にそれらを戻す。
そのまま生気の失った亡者のようにふらふらとした足取りで、食堂の出口へと向かっていく。
アルトの異常さに唖然としていたケイトとレイは、慌てて立ち上がって自分達のトレイを返却口へと戻すと、騒ぎがどんどん広まりつつある食堂を後にする。
そうして僅かな魔法灯が燈っているだけの暗い廊下の中を、たった一人で歩いていくアルトの背中に向かって声を張り上げた。
「アルト君! 多分私達は校舎に集められると思うから、またそこで会おうね!」
どうしてこんなことを言ったのか、自分でもよくは分からない。
魔獣がセントクレアに接近しつつあるという事態に混乱していたせいなのかもしれないし、いつもとは様子の違うアルトを心配に思ったせいのかもしれない。
ただ、妙な胸騒ぎがして止まないのだ。
アルトはくるりと振り返って、淡雪のように繊細で儚い微笑を浮かべると、
「……うん」
ただそれだけを言い残して、突き当たりの廊下の角を曲がっていった。
数十分後、事の次第を知った魔法学校の先生達が生徒達全員を大講堂に呼び集めたのだが、そこにアルトの姿はなかった――――。