疑心暗鬼
いっぽうその頃、セリナと別れたアルトはセントクレア本校舎の長い螺旋階段を登っていた。
別段なにかがあって行くというわけではないのだが、とりあえず鬱な訓練が終わった息抜きにと思って、シリウスのところに顔でも出してやろうかと思ったのである。
いつもの様に愚痴をこぼしながらひたすら長い階段を登り終えると、正面に立つ大きくて豪奢な造りの扉をノックもせずに両手で開く。
「シリウスー いる? それとももうぽっくり昇天しちゃった?」
中へと入ったアルトは気安くそう呼びかけたが、生憎広いその部屋からはなんの返答も返ってこなかった。
念のため周囲の気配に気を配ってみる。
これは以前アルトがこの部屋に来た時に、アルトを脅かそうとしたシリウスが、魔粒子の特殊変化術による体の透明化『クリアランス』の術を使って待ち伏せていたことがあるからだ。
勿論その時は気配でシリウスの存在にすぐ気づいため、シリウスの目論見は失敗に終わったのだが。
しかし部屋中の気配を探ってもいっこうに反応が無い。どうやらほんとうに留守のようである。
「やれやれ。シリウスって昔からこんなに忙しかったっけ? ……まあ市長になってから僕と会う機会も激減したから、きっと市長としての仕事が忙しいんだろうけど」
一抹の寂しさを覚えながらぼそりと呟くと、唐突に背後の扉が開く音がした。
アルトが振り返ると文官の制服に身を包んだ、長身で細身の体格の男が、片手に報告書らしきものを持ちながらにこりと微笑んできた。
「おや、たしか君は……この前ここで見かけた市長のお孫さんでしたね。私の名前はハイクです。市長になにか御用ですか?」
――――ああ。そういえばこの前ここで、この人と挨拶をしたなぁ。
確か僕がセリナのパートナーになったことが気に入らなくて、ここに抗議しに来た時だっけ?
それにしてもよく僕のことを覚えていたなぁこの人。と思いながらアルトはハイクに答える。
「いえ。特に用事があってここに来たわけじゃないんです。ただちょっと顔でも見せようかなぁって思っていただけなんで」
「そうですか。それでしたら校長は今ウィンディアナにいらっしゃるので、日を改めてまた二、三日後にここに来てもらえれば市長にお会いできますよ」
「そうですか……教えてくださってありがとうございます」
アルトはハイクに軽くお辞儀をした。
――――ウィンディアナかぁ……
そうして思考を、彼の破天荒かつ尊大な女王が治める国について移していく。
水の国ウィンディアナはマルギアナの南中部に位置する国で、このセントクレアが属する中立地域と、ジェリウス教の教皇が治める国イフリア帝国と境界を接している国である。
その名の通り水という単語に何かしらの縁がある国で、国のあちこちに川が流れており、首都アクアパレスはなんと大きな川の浮島に建設されているのである。
ウィンディアナの騎士団で有名なのが水竜騎士団と氷虎騎士団。
中でも水竜騎士団は特別な手法で竜種の魔物の一種である水竜を手なずけ、それに騎乗して戦うので、憧れと羨望が彼らの元に集まり、このセントクレアから水竜騎士団に入りたいと思う人は結構多いらしい。
政治の話に移すとウィンディアナは王政で、国の全権を担っているのはじゃじゃ馬姫の愛称で知られている、エリス・ウィンディアナ・ソルティアカという女性だ。
なぜ女王がじゃじゃ馬姫などと呼ばれているのか? それは普通人の常識では到底考えられない、彼女のある趣味が関係している。
彼女の趣味は魔物と魔獣退治なのだ。
しかも魔物の場合はともかく、魔獣が現れたと聞くと目の色を変えて指示を飛ばし、腹心の部下のみを引き連れて魔獣退治に出かけるのである。
おまけに部下に全てを任せて後は傍観しているのではなく、自分も積極的に戦闘に加わって、あろうことか自分の手で魔獣を退治しているのだ。
しかも何度も……
こうなってくると、もはやうら若い妖艶な女王などではなくただの狂戦士だ。
だが暇を見つけてはそんなことをしている彼女も王としての資質は確かなようで、持ち前の大胆さとカリスマ性を駆使して国政を次々と改革して租税を減らし、街や道路の整備といった公共事業に国庫を投資して国全体が住みやすく活気に溢れるようになったことから、愛称とは裏腹に国民の人望はかなり篤い。
いつもお茶目なジョーク(本人談)をぬかしている、どこぞの九十過ぎのじいさんとはまるで大違いである。
しかしアルトはそう評価しているものの、ここでのシリウスの人望はとても篤い。
シリウスが市長になるまでは粗悪とまではいかないものの、様々な不正が街を横行していたせいで、伝統のあるこの街が少し寂れつつあったのである。
だがシリウスが市長になると、彼は様々な改革を施して不正を正し、犯罪者を厳しく処分していったことで、都市の運営はきわめて良好となり、街はまた元の活気に溢れるようになったのだ。
それもこれもアルトが魔法学校に入学する前の話である。
魔法学校を卒業したらウィンディアナに住もうかな。税金も少なくて社会保障もばっちりみたいだし――――
などと埒にもないことをアルトは思っていると、ハイクが少し真剣な眼差しを投げかけてきた。
「君は、セリナ君のことをいったいどう思っているんですか?」
――――は? いきなり何を聞いてくるんだこの人は。
アルトは思考を停止させると、そう尋ねてきたハイクの真意がまったく掴めず、痩せこけたその顔をじっと覗きこんだ。
ハイクはアルトが自分の言っている意味に気づいていないことを悟ったのか、少し自虐的な笑みを浮かべながら言葉を付け足す。
「僕はまだセントクレアに来てから半年も経っていないただの下っ端の文官なんですけどね。君がそのことでなにやら悩んでいるらしいって、市長から聞いたことがあるんですよ。こんな風に報告書を持っていったときに」
そうしてハイクは小脇に抱えていた報告書を持ち上げて、自分の目の前でひらひらと振ってみせる。
アルトは警戒した。
確かに自分は今悩みというか、一種の苦悩と呼ぶべきものを抱えて生活している。
しかもそれは自分でどうこうすることは到底できない物で、今はその理由だけを暗中模索している状態なのだ。
しかしそのことについては“今日”シリウスに話そうとしていたので、自分が何かに悩んでいるという事実をシリウスは知らないはずである。
にも関わらずそんなことを尋ねてくるハイクは明らかにおかしいし、そして怪しい。
……ひょっとしてこの人も僕の秘密について気づいているのか?
セリナが僕たちの会話を扉の影で聞いて、僕が自分を助けてくれた命の恩人だという事を悟ったように、この人も何かの偶然でそれを知ったのか?
そんな風に考えると心が不安でざわめき始め、体中の血が一気に凍りつき、手には冷や汗がじとっと、羊皮紙に垂らした墨汁のように滲み出てきた。
「……僕がいったい何のことで悩んでいると、シリウスは言っていたんですか?」
徐々に震えてくる声音を必死で押し殺し、例の如く人当たりの良い微笑を顔に貼り付けて、アルトはハイクにカマをかけてみる。
――――はたしてこの人は本当に僕の秘密を知っているのか?
するとハイクは含みのある笑みを浮かべてただ一言。
「どうすれば僕の女装趣味をセリナに受け入れてもらえるのか悩んでいる。と校長がおっしゃっておりましたが?」
本気で殺してもいいかな? あのじいさん。と思った瞬間だった。
「ち、違いますよハイクさん! それは間違いなく僕を陥れようとしているシリウスの陰謀です! 僕にそんな趣味なんてありせんし、そんなことで悩んだ事なんて一度たりともありません! これからもずっと! 永遠に!」
今度は別な意味で冷や汗を流しながら、何とかハイクの誤解を解こうと必死になって説明をし始める。
あ~~~なるほど。それであんなことを聞いてきたのか。
そりゃ気になるよね。そんなことを聞かされれば。一応納得。
「やっぱりそうだったんですか。でも君はなかなか女装が似合いそうですし、もしもの場合も考えて私は君にこう助言をしようかと思ったんですよ。
『君の情熱と本人の身の丈にあったものをちゃんと着れば、彼女もきっと受け入れてくれますよ』って」
やめてくださいっ! 僕に女装が似合うとか冗談でも言わないでくださいっ! 一生ものの傷がズキズキと疼くから!
ていうかやっぱりって何!? やっぱりって!? 嘘だと薄々気づいているなら尋ねてこないで下さい!
それにハイクさんは僕の身の丈にあった服がひらひらのブラウスだとか、ミニスカートだとかがそうだと思っているんですか!?
ツッコミどころがありすぎてツッコミきれないと思いつつも、アルトは心の中で素直にツッコミを繰り返す。
内面は昔よりもかなりニヒルになってはいるが、こういったところは昔も今も全然変わらないなと、頭の中の冷静な部分がそう分析していた。
「とりあえず僕にそんな趣味はないですし、セリナをそういう対象に見た事は一度もありません」
アルトは後腐れのないようにもう一度ハイクに念を押す。そして心の中で密かに、あなたを疑ってしまってごめんなさいと告げた。
「そうですか。それは至ってなによりです」
ハイクはアルトににっこりと微笑みかけてくる。
その笑顔を見てなんだか妙なむず痒さと罪悪感が湧き上がってくるのを、アルトは感じた。
はぁ。こんなどうでもいいことにまで過剰に反応して怖がったり、悩んだりしている自分がとても情けないよ。
セリナやミシェルに僕の秘密がばれたから、少し用心深くなっているのかなぁ?
すぐ疑心暗鬼に陥ってしまう自分に嫌気が差してきて、アルトはハイクとの挨拶を軽く済ませると、ハイクをそこに残したままそそくさと校長室を後にした――――
「……市長の孫で普通組のアルト。親はなく、ここに来る前はウィンディアナに住んでいた。しかしそんな事実は私が調べた限りでは確認されていない。そしてこの間起きた事件。……彼は、いったい何者なんだ?」
ハイクの呟きは部屋を後にしたアルトには聞こえなかった。