第9話 喉の鎖を、私が切る
地下へ降りる階段は、修道院の中なのに森みたいな匂いがした。
湿った石。古い土。水滴。
松明の火が、橙の光で壁を舐める。光が揺れるたび、影が伸び縮みして、私の心臓も一緒に縮む。
(王宮の地下牢と……似てる)
似ているのに、決定的に違うところがある。
この地下は、私を裁くための檻じゃない。――逃がすための道だ。
前を歩くグリムが、杖でとん、と地面を確かめながら進む。
エレナは私の後ろで、封蝋のついた封筒と誓写紙の束を抱えている。
ロッテはランプを胸に抱えて、震える息を必死に飲み込んでいた。
肩の上でクロが小声で鳴く。
「カー……地下、くさい」
「お前が言うな」
「カー……パンの匂いしない」
「黙れ」
「カー…...ひどい」
緊張しているときに、その雑さが救いになるのが悔しい。
私は袖の中の手首を握りしめた。
枷はまだある。重い。
でも、さっきより熱が少し弱い気がした。
……いや。気のせいだ。
都合のいい気のせいを、私は信じたくない。
《真言の鏡》は、私の嘘すら嫌うのだから。
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階段を降りきったところで、グリムが足を止めた。
「……静かに」
全員が息を止める。
止めた瞬間、耳が勝手に音を拾う。
上――修道院の床の向こうから、遠い足音。
鎧の擦れる音。男の声。
「……探せ」
「地下があるはずだ」
「火を回せ。証拠ごと燃やすぞ」
火。
その単語で、胃がきゅっと縮んだ。
森の小屋が燃えた夜の匂いが、鼻の奥に戻ってくる。
火は物だけじゃなく、あるもの全てを消してしまう。
ロッテの肩が震える。
エレナがロッテのランプを指で軽く押さえ、炎を小さくした。
火が小さくなると影が濃くなる。
濃い影のほうが、私は息がしやすい。
グリムが前を指した。
「この先に分岐がある。……そこで分かれる」
分ける。
つまり、ここから先は全員で固まらない。
エレナが小さく頷く。
「記録は分散。人も分散。……生き残るために」
私は息を吐いた。吐け。吐け。
吐けば、喉が少し開く。
開いた喉で、私は小さく言おうとした。
「……ロッテ……」
声は掠れて、痛かった。
でも、言えた。
ロッテがこちらを見る。目が大きい。怖いのに、逃げない目だ。
「だ、大丈夫です……! わたし、逃げるの……得意なので」
言い切ってから、ロッテは自分で自分に驚いたみたいに瞬きした。
次の瞬間、頬が赤くなる。
クロがすかさず鳴く。
「カー! 逃げ上手!」
「今は褒められてるのか馬鹿にされてるのか分かりません!」
「カー! 両方!」
「最悪!」
……最悪、が出るなら大丈夫だ。
言葉が出る人間は、まだ折れてない。
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分岐は、地下水路の脇にあった。
水が浅く流れていて、ランプの光が水面で揺れている。
揺れた光が天井に反射して、小さな星みたいに瞬く。
地下なのに、光がある。
光があるだけで、心の穴が少しだけ塞がる。
グリムが短く言った。
「ロッテ、右」
「はい」
「エレナとリーゼは左。……俺は真ん中」
「真ん中って何よ」
エレナが即座に突っ込む。
「こういうのは、俺が一番慣れてる」
「自慢しないで」
「自慢じゃねぇ。事実だ」
ロッテが封筒を受け取る。
封蝋の赤が、ランプの光で鈍く光った。
エレナがロッテの目を見て言う。
「走るときは息を吐いて。立ち止まって“考える”と、王都の空気に食われる」
「……はい」
ロッテは頷いて、右の道へ消えた。
ランプの光が細くなり、闇に吸われていく。
私は見送って、胸が痛んだ。
痛むのは罪悪感だ。
私がここに来なければ、ロッテは走らなくてよかった。
(……でも、走るのはロッテの選んだ選択だ)
エレナが、私の肩に手を置かずに言った。
「罪悪感で立ち止まるのは、あなたの悪い癖よ。――今は、進む」
私は頷いて、息を吐いた。
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左の道は、少しだけ広かった。
古い石の壁に、苔が薄く貼りついている。
水滴がぽたり、と落ちる。落ちた水滴が石を叩く音が、やけに大きい。
大きい音は、恐怖を育てる。だから私は息を吐く。吐いて、音を相殺する。
しばらく進むと、空気が少しだけ変わった。
湿気が減る。
代わりに、冷たい風が頬を撫でる。
(外に繋がってる……?)
グリムが前で足を止め、天井を指差した。
そこに、小さな裂け目があった。
石と石の隙間。指一本分ほどの隙間。
その隙間から――月の光が細い糸みたいに落ちている。
月光は白日と違う。刺さない。
ただ、そこにあるものを静かに照らす。
エレナが息を呑んだ。
「……ここ、使える」
「何に」
グリムが問う。
エレナは誓写紙を取り出した。
灰色の紙。銀の筋が走る紙。
月光に透かすと、銀の筋が細い川のように光る。
「糸の写しを取る」
エレナが言う。
「リーゼが“見たもの”を、紙の上に縫い付ける。……王都が一番嫌う形にする」
私は喉がきゅっと縮んだ。
“見たものを言葉にする”
それは、枷が燃えることと同じだ。
でも、枷がある限り、私の喉はいつまでも狙われる。
狙われるなら、先に使う。
私は《真言の鏡》の欠片を布から出した。
月光を受けた欠片は、深い水みたいに暗く光る。
握ると冷たい。冷たいのに、掌の奥がじり、と熱くなる。
エレナが言った。
「順番に。――どこからどこへ、色、結び目。形容じゃなく形で」
私は息を吐いた。吐いて、喉を開く。
開いたところに言葉を落とす。
「……黒い糸……私の枷から……王都へ」
枷が熱くなる。じり、と骨が焦げる。
私は奥歯を噛んで、続きを落とす。
「……結び目……濁った金……紫黒……ミレイユ……」
言い切った瞬間、誓写紙の銀の筋が、きらり、と増えた。
紙の上に、細い線が浮かぶ。
文字じゃない。図だ。
結び目の形。ねじれた糸の形。
まるで紙の繊維が、糸になろうとしているみたいに。
ロッテのいない暗い地下で、エレナの息だけが静かに震えた。
「……できた」
エレナはすぐに封蝋を溶かし、月と糸の印章を押した。
ぬち、と湿った音。
その音が、契約みたいに耳に残る。
「これで、“ただの妄想”とは言わせない」
エレナが言う。
「見えないものを見た、じゃなく――形に残した」
形が残る。
胸の奥の泥が、少しだけ固まって足になる。
私はその足で、立っていられる。
グリムが短く頷いた。
「……よし。次は――」
次。
その言葉で、私は思わず手首を見た。
枷はまだある。
熱も、まだある。
言葉を出すたびに、焼かれる。
(これが続く限り、私はいつか折れる)
折れる前に、切らなきゃいけない。
私は、掠れた声で言った。
「……この……鎖……」
枷がじり、と反応する。
でも私は息を吐いて続けた。
「……切れ……る?」
エレナが、私を見る。
優しいめ。でも、逃がしてはくれない。
「切れる可能性はある」
エレナは言った。
「枷そのものは金属。鍵が要る。でも――“呪いの縫い目”は糸で結ばれてる。結び目を切れば、熱は止まるかもしれない」
グリムが即座に言った。
「危ねぇぞ」
「分かってる」
エレナが返す。
「でも、このままでも危ない。……リーゼは“喉を狙われる呪い”を持ったまま逃げ続けることになる」
逃げ続ける。
それは、王都の物語に負け続けるということだ。
私は《真言の鏡》の欠片を見た。
鋭い縁。冷たい光。
森で血をつけた刃より、ずっと怖い。
怖いけど――何もできないままは嫌だ。
(声が欲しい)
(言葉が欲しい)
(黙って殺されないために)
私は息を吐いた。
「……やる」
エレナが、わずかに目を細めた。
許可を出す目。
「痛いわよ」
「……もう……痛い」
私が絞り出すと、クロが肩で鳴いた。
「カー……姫さん、すでに最悪」
「黙れ」
「カー……流石に性格悪い」
「わかってる」
涙が来そうになった。
笑うのはまだ早い。
泣くのもまだ早い。
私は欠片を握り直した。
欠片の縁が掌に刺さって、ちくりと痛い。
その痛みが現実の杭になる。
エレナが言った。
「息を吐いて。止めたら喉が閉じる」
グリムが壁際に立ち、刃物を構える。
「来たら俺が止める。……お前は今、自分と戦え」
私は頷いた。
頷く代わりに、息を吐いた。
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鏡の欠片越しに見える黒い糸は、ただの線じゃなかった。
太い。粘る。
蜘蛛の糸みたいに細いのに、妙に“力”がある。
それが私の手首から伸びていて、遠くの濁った金へ繋がっている。
(この糸が、私を黙らせる)
私は欠片の縁を、糸の“結び目”へ近づけた。
近づけた瞬間、枷が燃え上がった。
じゅっ、と皮膚の内側が焼けるみたいな熱。
視界が白く弾け、喉がぎゅっと閉じる。
私は反射で息を止めかけて――吐いた。
吐け。吐け。吐け。
吐いた息が震える。
震える息の中で、私は刃を押し込んだ。
黒い糸が、びり、と震えた。
“嫌だ”と暴れるみたいに。
(嫌だろうね)
(私も嫌だ)
私は歯を噛んだ。
噛むと、口の中の縫い目が痛む。痛みが私を地面に縫い止める。
欠片の縁が、糸を――
切った。
ぷつん、と。
音はしなかった。
でも、私の中で確かに「切れた」と分かった。
次の瞬間、熱が最高潮になって――
すっと引いた。
枷が、ただの重い金属になったみたいに冷える。
皮膚の上の赤い輪がじんじん痛むのに、骨の芯が焼ける感じが消えた。
私は、息を吸った。
吸える。
当たり前のことが、信じられない。
吸えるだけで、世界が一段明るくなる。
私は、試すみたいに言った。
「……リーゼ」
声が出た。
掠れている。低い。震えている。
でも、ちゃんと声だ。
胸の奥が、きゅっとして、私は笑いそうになって、泣きそうになった。
クロが、驚いた声で鳴く。
「カー……姫さん、大丈夫?」
「……うん」
「カー……ざまあの準備、できた?」
「今はそれどころじゃないよ」
「カー……仕返ししなきゃ」
エレナが、珍しく息を吐くように笑った。
「……よくやった」
褒め言葉が短い。短いのに、やけに重い。
グリムが、私の手首を一度だけ見て、頷いた。
「よし。……生きてる」
生きてる。
その言葉が、身体の芯に落ちた。
私は泣かなかった。
泣いたら楽になる。
でも、楽になったら油断する。
油断したら死ぬ。森で学んだ。
代わりに、息を吐いた。
吐いて、吐いて、吐いて――喉を自分のものにする。
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そのとき、《真言の鏡》の欠片の中で、黒い糸の切れ端が暴れた。
切れ端は、空中でひらひら揺れて――
遠くへ、ぴん、と伸びた。
まるで「こちらだ」と知らせる触手みたいに。
背筋が冷えた。
(……バレる)
エレナも気づいたらしい。顔が一段冷たくなる。
「繋ぎ直しに来る」
「早いな」
グリムが吐き捨てる。
「嘘つきほど、修繕が早い」
私は、手首の枷を握った。
熱はない。
でも、世界のどこかで“濁った金”がこちらを向く気配がした。
ミレイユが、気づく。
自分の糸が切れたことに。
(……来る)
来るなら――
来る前に、動く。
エレナが封筒を抱え直した。
「行くわよ。地下出口から森へ。修道院はロッテと他の者たちに任せる。……ここで全滅するより、いい」
「全滅しない。選びました。」
私が繰り返すと、エレナが頷いた。
「残せば勝てる。時間がかかっても、勝てる」
私は息を吐いた。
吐いて、足を動かす。
---
地下出口は、森の小さな沢へ繋がっていた。
石の隙間から外へ出た瞬間、冷たい夜気が肺いっぱいに入る。
空はまだ暗い。でも東の端が少しだけ薄藍になっている。
夜明け前の色。
一番弱いのに、一番しぶとい光の色。
私は手首を見た。
枷は残っている。赤い輪も残っている。
でも――喉は、開いている。
私は小さく、言った。
「……生きる」
グリムが隣で鼻を鳴らす。
「やっと口が働くようになったな」
「……うるさい」
「それだ。うるさいって言えるのは元気だ」
クロが肩で、勝ち誇ったように鳴く。
「カー! 姫さん、恥ずかしそう! パン!」
「パンは後」
「カー……最悪」
最悪が、いつも通りすぎて笑いそうになる。
笑いそうになったところで、私は鏡の欠片を握り直した。
欠片の中に、細い線が見える。
黒い糸の切れ端が、遠くからこちらへ向かって“引っ張られる”感じがする。
(……追手が動き出した)
私は森の上――修道院の方角を見た。
丘の向こうに、松明の光がいくつも揺れている。
橙の点が連なって、蛇みたいに伸びている。
一つや二つじゃない。さっきの回収屋どころじゃない数だ。
エレナが低く言った。
「来る。……今度は“包囲”ね」
グリムが笑う。笑いは乾いてる。
「やっと本気か。遅い」
「強がり言ってる場合じゃないわよ」
「強がりは呼吸みたいなもんだ」
私は、その松明の列を見つめた。
怖い。
でも、私はもう黙らない。
喉を潰される前に、こちらが嘘を潰す。
紙と、鏡と、残した証拠で。
夜明けの薄い光が、森の上に広がっていく。
その光はまだ弱い。弱いのに、確かに増えていく。
――私の声みたいに。




