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毒婦にされた令嬢は紙で殴り返す  作者: 那由多


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第8話 修道院の門は、紙より固い

 鐘が一回鳴っただけで、空気が変わった。


 修道院の夜は静かだ。静かだから、小さな音が刃になる。

 机の上の蝋燭の火が、ふっと細く揺れた。炎が揺れると影も揺れる。影が揺れると、胸の奥の泥も揺れる。


 扉の向こう――石廊下の向こう――門の向こうから、礼儀正しすぎる声が響いた。


「月灯修道院に告げる。王都の命により――罪人、リーゼ・フォン・アスターの引き渡しを求める」


 “罪人”。


 その言葉が、手首の枷をじり、と焦がした。

 熱が骨に刺さり、喉が反射で狭くなる。


(来た……)


 エレナは、私より先に動いた。


 机の上の誓写紙を一枚、紙束の間に滑り込ませる。封蝋と印章は布で包んで引き出しへ。

 手際が良すぎる。慣れてる。つまり、こういう日が何度もあった。


 グリムも立ち上がり、腰の短い刃物に手を添えた。

 クロは梁から降り、私の肩に飛び乗る。


「カー……性格悪い声」


 ロッテだけが青ざめて固まっていた。

 でも、逃げない。膝が笑いそうなのに、床に足を残している。


 エレナが私を見る。


「リーゼ。ここから先、あなたの“喉”は狙われる。だから――」


 私は頷いた。頷くだけで喉がひりつく。

 それでも頷く。


 エレナは短く言った。


「息を吐いて。――あなたは生き残る側」


 “生き残る側”。


 その言葉が、胸の奥の泥を少しだけ固めた。

 固まれば、足は動く。


 エレナはロッテに目を向ける。


「ロッテ、門へ。灯りを持って。記録帳も」

「え、えっと……は、はい!」

 ロッテは慌てて頷き、でも次の瞬間、口を結んだ。怖いのに、走る。


 グリムが私の肩を軽く押す。


「お前は出るな」

(でも――)

「出るな。見るなら、影からだ」


 影。

 私は影が好きだ。王都の白日よりずっと。


 でも、逃げるための影じゃない。

 戦うための影だ。


 私は外套のフードを深く被り、《真言の鏡》の欠片を握って、書記室の隣の小さな物置へ滑り込んだ。

 隙間から廊下が見える。蝋燭の光が細く伸び、石の壁に淡い金色の帯を作っている。


 枷の熱が、まだ残る。

 でも私は息を吐く。吐く。吐く。

 吐けば、喉は少しだけ開く。


 ---


 門前の灯りは、夜の中で浮いていた。


 ロッテのランプの火が丸い光を作り、その外側に闇が濃く張り付く。

 覗き窓の向こうには、松明の炎が複数揺れていた。炎が揺れるたび、甲冑の反射がぎらり、と跳ねる。あの反射は嫌いだ。白日の反射に似ている。


 エレナが門の内側から声を張る。落ち着いた声だ。冷たい、というより、温度が一定。


「ここは修道院です。夜の訪問は規則に従ってください。命令書を提示して」


 外側の男が応じた。


「王都の執行官だ。命令書ならある。――開けろ」


「封印は?」

「ある」

「印章は?」

「ある」


 エレナは譲らない。


「封印と印章は“見せて確認”するものです。声だけで信じろと言われても、修道院の規則が許しません」


 沈黙。

 松明がぱちぱちと鳴る音が、やけに大きい。


 そして、紙が擦れる音。


「……これだ」


 覗き窓の向こうに、紙が掲げられた。

 蝋で押された印章。確かに王都っぽい紋様。

 でも私の手の中の鏡が、ひやりと冷たく鳴った気がした。


 私は欠片を隙間から覗き、視界を“暗く”する。


 糸が見えた。


 命令書の封印――その周りに、薄い紫黒が滲んでいる。

 澄んだ“正当”の糸じゃない。無理やり繋いだ嘘の糸。

 印章の結び目が、汚い。


(偽物だ)


 それに、外の男――門前の中心に立つ男から、細い灰色の糸が伸びている。

 灰色は「正義」じゃない。

 灰色は「仕事」。

 さらにその灰色の奥に、濁った金色がちらりと絡むのが見えた。


 ――ミレイユの色。


 背中が冷えた。

 冷えたのに、腹の奥が熱くなる。泥が煮える。


 門前の男が、やけに朗らかに言った。


「規則は分かる。だが急を要する。罪人は危険だ。……修道院が匿えば共犯になるぞ?」


 共犯。

 王都は言葉が上手い。共犯という札は便利だ。貼れば、誰でも黙る。


 でもエレナの声は揺れなかった。


「共犯かどうかを判断するのも、また手順です。……まず、あなたの所属と名前を。記録帳に残します」

「そんなものは――」

「残します。修道院は“残す”場所ですから」


 ロッテが震える手で、記録帳を開いた。

 羽ペンを握る指が白い。白いのに、逃げない。


 門前の男が、苛立ちを隠しながら言った。


「……回収局執行官、ダリオだ」


 嘘だ。

 鏡が冷たく鳴る。

 そして、エレナが机から持ってきた小さな紙――誓写紙の端が、覗き窓の下でじわ、と黒く滲んだ。


 ロッテが「ひっ」と息を呑む。

 エレナは何も言わない。言わないまま、黒い滲みを見て、確信を深める目をした。


(やった)


 エレナは、相手に気づかれない角度で誓写紙を畳み、袖の中へ滑らせた。

 そして、落ち着いた声で言う。


「……では、執行官ダリオ。もう一つ確認します。命令書は“王都の誰”の名で出ていますか」


 男が答えた。


「大司教の命だ」


 また嘘。

 誓写紙の中で黒が濃くなる。


 ――相手は“正しい札”を何枚も貼りたがっている。

 札を貼れば、こちらが黙ると思っている。


 エレナは、そこでわざと少しだけ声を柔らかくした。


「大司教様の命なら、なおさら丁寧に扱わないと。……分かりました。門を開けます。ですが規則です。武器は門前で預けてください」


 門前がざわついた。

 松明の火が揺れる。

 揺れる火の中で、男の糸が一瞬だけ紫黒く跳ねた。


「……ふざけるな」

「規則です」

「時間がない!」

「時間がないなら、なおさら武器は要りません。……罪人は、修道院の中ではただの“人”です」


 その一言が、男の神経を逆撫でた。


「開けろ!!」


 次の瞬間、門に衝撃が来た。


 どんっ。


 木が軋む。横木が鳴る。

 ロッテがびくっとして後ずさりかけ、でも歯を食いしばって踏ん張った。


 どんっ、どんっ。


 一回ごとに、門が揺れる。

 揺れるたびに、私の心臓も揺れる。

 王都の白日の広間で、槍先が近づいたときの恐怖が戻ってくる。


(怖い)


 でも私は息を吐く。吐く。吐く。

 怖さがあるのは、生きてるからだ。

 怖さで固まったら死ぬ。森で学んだ。


「リーゼ!」


 グリムの声。

 いつの間にか、グリムが廊下を滑るように動いていた。

 門の内側、影になる位置に身を置き、短い刃を逆手に持つ。目が冷たい。あの目は“終わらせる目”だ。


 クロが私の肩で身を低くする。


「カー…… いく!」


 門が、ついに割れた。


 板が裂け、夜気が流れ込み、松明の火が修道院の石床に長い影を落とす。

 影は槍みたいに長い。長い影の先に、人がいる。


 外套の男たち。甲冑の男もいる。

 “回収”の言葉をぶら下げた人間たち。


「いたぞ!」


 誰かが叫び、松明の光が廊下を走る。

 光が走ると、私の喉が縮む。

 縮む喉の奥から、私は息を吐いた。


 出ていく息に、私は思う。


(私は札じゃない)

(私は――生きる)


 ---


 最初に飛び込んできた男が剣を抜いた。


 刃が松明の光を拾って白く光る。

 白い光は、殺すための光だ。


 男はエレナへ突っ込んだ。

 狙いは正確だ。心臓。動きを止める場所。


 エレナは――避けない。


 避けない代わりに、机から持ってきた分厚い記録帳を盾にした。


 ぎんっ!


 剣が帳面に当たり、紙束が裂ける音がした。

 紙が裂ける音は、布が裂けるより乾いている。乾いているから、余計に痛そうに聞こえる。


 でも帳面は、刃を止めた。


「……修道院の記録を切るのは罪よ」


 エレナの声が冷える。



 グリムが横から入った。


 杖が男の膝を叩く。

 男の足が崩れた瞬間、グリムの短い刃が男の腕を切った。


 血が飛ぶ。


 赤い粒が松明の光を受けて瞬き、石床に落ちて暗くなる。

 血の匂いが一気に濃くなる。鉄の匂い。温かい匂い。

 喉がひくつく。吐き気が来る。


 でも私は吐かない。吐いたら固まる。固まったら死ぬ。


 クロが飛んだ。


「カーッ!!」


 狙うのは目。容赦がない。

 くちばしが目尻の皮膚を裂き、男が悲鳴を上げて顔を覆う。

 覆った隙に、ロッテが縄を投げた。


 縄が男の足首に絡む。

 ロッテが引く。小柄な身体が後ろへのけぞりながら、必死に引く。

 男の足がもつれて転ぶ。


(ロッテ、強い)


 強さは腕力だけじゃない。

 怖いのに手を動かすのが強さだ。


 そのとき、別の男がこちらへ向かってきた。

 私の隠れている物置の方――つまり、私を嗅ぎつけた。


「こっちだ!」


 男が短剣を抜く。

 短剣の刃が、火の光で薄く光る。

 私は反射で後ずさり――しなかった。


 森で血をつけた指が、まだ覚えている。

 逃げるだけだと、追いつかれる。

 なら、角度を変える。


 私は息を吐いて、横へ滑った。

 男の短剣が空を切り、壁に当たって火花が散る。


 その火花が、視界の端で小さな星になった。

 星は綺麗で、綺麗だから腹が立つ。


 私は《真言の鏡》の欠片を握り、男の“糸”を見る。


 男の攻撃の糸は直線だ。直線は曲がれない。

 私は曲がる。足首が痛む。心臓が脈打つ。


 棚の影から、グリムの声が飛んだ。


「リーゼ! 手ぇ動かせ!」


 私は懐の短い刃――森で拾った短剣を抜いた。

 柄は汗でぬるりとしている。嫌な感触。

 でも嫌だと言ってる暇はない。


 男がもう一度突っ込む。

 私は短剣を振った。


 当たった。


 刃が肉に当たる。嫌に重たい手応え。

 血が飛び、頬に熱い点がつく。熱い。

 男が「がっ」と声を出して膝をついた。


 私は自分の手を見た。


 刃に、赤い線。

 赤は、嘘じゃない。

 赤は、現実だ。


 吐き気がまた来る。

 でも、私は息を吐く。吐く。吐く。


「……生きる」


 掠れた声が、喉の奥から出た。

 出た瞬間、枷がじり、と熱を返した。

 それでも私は立っている。


 男が床で呻く。

 呻く声は、人間の声だ。

 私が切った。私が傷つけた。

 その罪悪感が、泥みたいに胸へ落ちる。


(私は――怪物?)


 一瞬、頭が白くなる。

 白くなると、王都の白日が戻る。

 戻るな。戻るな。吐け。


 私は息を吐いた。

 吐いて、足元を見る。

 血は床に吸われて暗くなる。暗くなるだけだ。終わりじゃない。私も終わってない。


 エレナの声が飛ぶ。


「リーゼ、そこ! 逃がすな!」


 逃がすな――何を?

 見れば、門の外へ逃げようとする男がいた。さっき名前を名乗った男だ。

 “執行官ダリオ”と嘘を吐いた男。


 彼の背中から、灰色の糸が王都へ伸びている。

 逃がしたら、また来る。もっと大きい刃を持って。


 クロが叫ぶ。


「カー!! 逃げるな!!」


 クロが飛び、男の肩に体当たりする。

 男がよろける。松明が落ち、火が石床を舐めた。

 火の明かりが、廊下の影を一瞬で変える。


 影が変わる瞬間、私は見た。

 男の腰に、紙束――命令書の束。封蝋の印章がいくつもある。


(証拠……!)


 私は息を吐いて、男の腰へ飛びついた。

 布を掴む。汗の匂い。獣脂の匂い。

 男が肘で私を殴ろうとする。


 その瞬間、グリムの杖が男を叩いた。


 鈍い音。


 私は紙束を引き剥がし、床へ転がった。


 紙が散る。

 封蝋が割れる。

 ぱき、ぱき、と乾いた音。

 仮面が割れる音に似ている。


 男が叫ぶ。


「クソ……! 撤退! 燃やせ!」


 燃やせ。


 その言葉が出た瞬間、私の背中が冷えた。

 森の小屋が燃えた夜が戻る。

 火は“なかったこと”を作る。

 火は記録を食う。


 でも――エレナがいる。

 紙の女がいる。


 エレナは即座にロッテへ命じた。


「水桶! 蝋燭は消せ! 火種を作るな!」

「は、はいっ!」


 ロッテが走る。

 走る足が、もう震えていない。

 怖さより、役割が勝っている。


 回収屋たちは、松明を投げて退いた。

 石床に落ちた火がぱちぱちと跳ねる。

 修道院の石は燃えない。燃えないのに、怖い。

 火が怖いのは、物じゃなくて記憶を燃やすから。


 グリムが、逃げる男の首根っこを掴んだ。


「逃げんな」


 男が暴れる。

 グリムは躊躇しない。

 短い音――空気が途切れる音。

 男の身体が一瞬だけ硬直し、崩れた。


 私は、目を逸らさなかった。

 逸らしたら、また戻る。

 戻ったら、私は黙って死ぬ。


 ---


 騒ぎが収まったとき、廊下には火の匂いと血の匂いが混じっていた。


 ロッテが水を撒き、残った火種を踏み消している。

 彼女の頬に煤がつき、息が荒い。

 荒い息は、生きてる息だ。


 クロが私の肩で羽を膨らませる。


「カー……勝った!」

「勝ってない」

 エレナが冷たく切る。

「まだ“生き残った”だけ」

「カー……同じ!」

「違う」

「カー……細かい!」

「細かいのが記録」


 そのやり取りが、妙にありがたかった。

 血の匂いの中で、言葉が日常へ戻る。日常へ戻れたなら、私は壊れない。


 グリムが床に散った紙束を拾い集め、エレナへ渡した。

 エレナは紙を見て、眉を動かした。


「……やっぱり偽造印章が混ざってる」

「だろうな」

 グリムが吐き捨てる。

「正規の連中なら、こんな乱暴はしねぇ」


 エレナが私を見る。


「リーゼ。あなたが見た“糸”の色――さっきの男たち、どこに繋がってた?」

 喉がひり、とする。枷がじり、と熱を増す。

 でも私は息を吐いて、声を絞った。


「……濁った……金……」

「……ミレイユ」

 エレナが、私の言葉の先を読んで言った。


 私は、頷いた。

 頷くと胸の泥がまた煮える。

 煮える泥は、復讐の匂いがする。

 その匂いは甘い。甘いから危ない。


 エレナは甘さに酔わない顔で言った。


「証拠を固める。……今夜捕まえた生き残りは?」


 グリムが顎で示した。

 廊下の隅、縄で縛られた男が一人、震えていた。

 まだ若い。目が泳ぎ、唇が青い。

 さっき嘘を名乗った男とは違う。格下だ。

 格下は、喋る。喋らないと死ぬから。


 エレナが誓写紙を出し、机に広げた。

 銀の筋が灯りを拾って細く光る。

 その光は、白日みたいに刺さない。

 “残す”光だ。


「名前」

「だ、ダリオ……っ」

 男が言った瞬間、誓写紙の端が黒く滲んだ。


 エレナが淡々と訂正する。


「嘘。……もう一度」

 男が震えながら言い直した。

「……ダ、ダリオじゃない。俺は、ノヴァン……回収局の下っ端です……」


 黒い滲みが止まった。

 銀の筋が、わずかに明るくなった。


 エレナはペンを走らせる。

 さらさら、という音が静かに響く。

 その音が、さっきの剣戟より怖い。

 紙の音は、逃げ道を消す。


「命令を出したのは誰」

 ノヴァンが喉を鳴らす。

「し、知らない! 上の……上の連中が……!」

 誓写紙が、じわ、と黒く滲む。


 エレナは表情を変えない。


「知らないなら、見たものを言いなさい。……金を払ったのは?」

 ノヴァンが唇を噛み、吐くように言った。


「……おそらく......ミ、ミレイユ様の……使いの文官が……」

 誓写紙の銀が一瞬だけきらりとした。

 真実の光は、派手じゃない。

 でも確かだ。


 私の喉が、ぎゅっとなる。

 怒りと、気持ち悪さと、安堵が一緒に来て、胃が捻れる。


(やっぱり)

(やっぱり、あの女が)


 でも“やっぱり”で終わらせない。

 終わらせないために、私はここにいる。


 エレナが続ける。


「命令内容」

 ノヴァンが泣きそうな声で言った。

「……リーゼ・フォン・アスターを回収。口を潰せ。抵抗するなら……生死は問わない……」


 “口を潰せ”。


 その言葉で枷が燃えた。

 じり、と骨が熱い。視界が一瞬白く弾ける。

 私は息を吐く。吐く。吐く。

 吐いて、喉を守る。


 エレナはその文言を一字一句、誓写紙に写した。

 そして書き終えると、封蝋を溶かし、月と糸の印章を押した。


 ぬち、と封蝋が潰れる音。

 その音が、私の中の何かを落ち着かせた。


「これで一通」

 エレナが言う。

「王都は“叫び”を信じない。……でも、“封印された記録”は嫌う。嫌うなら、効く」


 効く。

 胸の奥の火種が、初めてちゃんと燃える形になった気がした。


 グリムが言った。


「だが、修道院はもう嗅がれた。次が来る」

 エレナが頷く。

「だから、分散させる。……ロッテ、今夜のうちに一通を別の場所へ」


 ロッテが目を見開いた。

「わ、私が……?」

「あなたが一番目立たない」

 エレナの声は冷たいのに、信頼の匂いがした。

「逃げ足も早い」

「……え、えっと……それ褒めてます?」

「事実」


 クロが割り込む。


「カー! ロッテ、逃げるの得意!」

 ロッテが顔を赤くして小さく怒る。

「得意って言わないでください!」

「カー! 得意は武器!」

「黙れ!」


 怒鳴ったロッテの声が、少しだけ強くなっていた。

 怖さの中で怒れるのは、強さだ。


 エレナは私を見る。


「リーゼ。あなたと鏡は、今夜ここに置けない」

 喉がひり、とする。

 でも私は息を吐いて、頷いた。


「……行く」

 声は掠れて小さい。

 それでも、言えた。


 エレナが短く笑った。笑いはほとんど息だった。


「ええ。……生き残る選択の続きよ」


 ---


 修道院の地下へ続く小さな扉が、書記室の棚の裏にあった。


 棚をずらすと、冷たい空気がふっと漏れる。

 暗い穴の向こうから、湿った土と古い石の匂いがした。

 匂いは怖い。でも、怖い匂いは嘘をつかない。


 松明の火が、穴の入口を橙に照らす。

 橙の光は、白日より優しい。

 優しいのに、逃げ場はない。


 私は最後に一度だけ、修道院の廊下を振り返った。


 さっきまで血と火があった床。

 今は水で拭かれ、石の冷たい光だけが残っている。

 その冷たい光が、逆に“記録された出来事”の輪郭をはっきりさせていた。


(ここは、私のせいで危険になった)


 罪悪感が胸を噛む。

 噛まれると、また黙りたくなる。

 でも私は息を吐く。吐いて、吐いて、吐いて――言葉を形にする。


(違う)

(私のせいじゃない)

(嘘を作った奴のせいだ)


 責任の向きを、正しく戻す。

 それが、私の“生存”の第一歩だ。


 クロが肩で小さく鳴いた。


「カー……姫さん、目、強い」

「……強くなる」

「カー! いいね! パン増える?」

「増えない」

「カー……最悪」


 いつも通りの最悪が、背中を押した。


 私は地下への段を降りた。

 冷たい石が足元に触れ、松明の光が私の影を長く引く。


 影は、私の味方だ。



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