第6話 《真言の鏡》は、嘘より先に私を焼く
朝の森は、冷たい。
夜露が葉の縁に残っていて、指で触れるとすぐ掌に移る。湿り気は透明なのに、体温に触れた瞬間だけ「ここにある」と主張する。
王都の香水みたいに、ずっと残らない。だから森の匂いは好きだ。正直で、しつこくない。
……しつこいのは、手首の枷だけだ。
私は小屋の外に出て、枷を見た。
黒い金属の輪が、朝の斑な光を吸って鈍く光る。触れるとまだ熱い。昨夜も、今朝も。まるで私の身体に「黙れ」を焼き付け続けているみたいに。
梁の上から、寝起きの悪い声。
「カー……姫さん、朝から顔、死んでる」
「……」
返事をしようとして、喉が動かないのを思い出す。
思い出すたび、胸の奥が黒くなる。
扉が軋んで、グリムが出てきた。
今日はいつもの外套じゃなく、少しだけ厚い布を羽織っている。森の朝は、老人の骨にも堪えるらしい。
「昨日言った“見せるもん”だ」
そう言って、グリムは小屋の隅の棚の奥から、古い木箱を引きずり出した。
箱は節だらけで、蓋に傷が何本も走っている。鍵はない。代わりに、革紐が巻いてあった。
グリムは紐を解き、蓋を開ける。
中に入っていたのは――布に包まれた、小さな何か。
布をほどいた瞬間、私は息を止めた。
ガラスみたいな欠片。
でもただのガラスじゃない。火の光でも朝の光でも、反射が“深い”。光が表面で跳ねるんじゃなく、一度沈んでから戻ってくる。暗い水面みたいな光。
欠片の縁は鋭く、指を切りそうだった。
クロが、妙に真面目な声で鳴く。
「カー……それ、嫌なやつ」
グリムが鼻で笑う。
「お前でも分かるか。……これは《真言の鏡》の欠片だ」
《真言の鏡》。
聞いたことはある。
噂話の中でだけ、何度か。
嘘を見破る鏡。
裁判で使われ、貴族の虚飾を剥がし、最後は「危険すぎる」として封印された――そんな類の話。
(……そんなものが、なんで森の爺さんの小屋に?)
グリムは欠片を指で弾いた。
こん、と乾いた音がする。音はただのガラス。でも空気が少し張った。
「昔、王都の連中が“便利な物語”を作る前は、こういう道具で嘘を潰してた」
グリムが言う。
「だが、嘘で飯食ってる連中には邪魔だ。鏡は割られ、欠片は消えた。……俺はたまたま拾った」
たまたま、の言い方が雑すぎて信用できない。
でもこの人は、こういうところが正直だ。
グリムは私の手首の枷を見て、欠片を私の前に差し出した。
「こいつは嘘を嫌う。……お前の“見える目”も嫌う連中がいる。つまり相性は最悪だ」
「……」
「だが、最悪だからこそ武器になる」
武器。
その言葉が、胃の奥をきゅっと掴んだ。
私は武器を持ったことがない。
王都では、武器を持つのは男の仕事で、女は微笑みを持てばいいと言われた。
微笑みは武器じゃない。檻だ。
グリムが続ける。
「触るなら覚悟しろ。嘘に触れるってのは、汚れに触るってのと同じだ。……指先じゃ済まん。喉が焼ける」
クロがすかさず言う。
「カー! 姫さん、もう喉、焼けてる」
「黙れ」
私は欠片を見た。
深い光。鋭い縁。
怖い。
でも怖いのに、目が離せない。
(……私は、黙ったまま死ぬの?)
(それとも、痛くても喉を取り返す?)
答えは、もう出ていた。
私は手を伸ばした。
---
欠片は、冷たかった。
握った瞬間、掌の体温が一気に吸われる。
冷たさが骨の内側へ入って、背筋がぞわっとする。
次の瞬間。
熱が来た。
冷たいはずの欠片が、内側からじり、と灼ける。
手首の枷が反応して、さらに熱くなる。
熱が熱を呼ぶみたいに、私の腕の中で火が走った。
「……っ!」
声を出したつもりが、息だけが漏れた。
喉がきゅっと縮む。反射で「黙れ」が戻ってくる。
でも――視界が変わった。
森の色が、一段暗くなる。
その暗さの中で、糸だけが浮かぶ。
木と木の間に、細い糸。獣が通った痕の糸。風が擦った葉の糸。
そして――私の手首の枷から伸びる黒い糸。
紫がかった黒。
あの嫌な色。
黒い糸は王都の方向へ、ぴん、と張っている。
さらにその先。遠いはずなのに、鏡の欠片越しだと“焦点”が合う。
白い広間の光。
濁った金色。
ミレイユの指輪から伸びる糸が、私の枷の糸と汚い結び目で絡まっているのが見えた。
(……やっぱり)
胸の奥が、どろりと熱くなる。
怒り。
悔しさ。
そして、あの日黙った自分への憎しみ。
私は口の中で、勝手に呟いた。
(私は大丈夫。私は……)
その瞬間、欠片がびり、と震えた。
視界の端で、鏡の表面が一瞬だけ曇る。
黒い滲みが走る。
――嘘。
自分に吐いた嘘すら、嫌がる。
私は息を吐いた。
吐いて、やっと気づく。
(私は大丈夫じゃない)
(だから、武器が要る)
グリムが、私の手の欠片を見て言った。
「……反応したな。お前の目と相性が悪すぎる。つまり――効く」
効く。
その言葉に、嬉しさはなかった。
あるのは、怖さと決意だけだ。
そのとき、クロが急に首を伸ばした。
「カー……外。人の臭い。二人。鉄。汗」
空気が一瞬で凍る。
グリムもすぐに動いた。
杖を取り、刃物を腰に差し直す。
私の肩を軽く押し、壁際へ。
「黙ってる癖は置いてけ」
グリムが低く言う。
「それでは森じゃ死ぬ。……ちなみに今から来るのは、森より性格が悪いぞ」
性格が悪い。
つまり人間だ。
---
扉の外で、草を踏む音がした。
ゆっくり。慎重。獣じゃない。獣ならもっと正直に踏む。
「おーい、誰かいるか?」
男の声。
やけに朗らかで、やけに作っている。
グリムが扉を少しだけ開けた。
隙間から見えるのは、外套の男が二人。猟師みたいな格好。弓と短剣。
でも目が違う。獲物を見る目じゃない。値踏みをする目だ。
「ここは爺さんの小屋か?」
「そうだが」
「ちょっと聞きたい。王都から流れてきた女を見てないか。ほら、毒婦の――」
毒婦。
その単語が出た瞬間、枷が熱を増した。
黒い糸がぴん、と張る。
私は欠片越しに二人を見た。
二人の胸のあたりに、薄い灰色の糸が揺れている。
「正義」の色じゃない。
「仕事」の色。
金の匂いがする糸。
片方の男が、笑って言った。
「賞金が出てるんだ。大司教さまのお墨付きでな」
嘘。
鏡の欠片が、きゅ、と冷たく鳴った気がした。
嘘は黒く滲む。男の言葉の端が、紫黒く揺れた。
もう片方が続ける。
「生死は問わない。――回収できりゃいい」
回収。
その言葉が、私の枷と同じ匂いをした。
王都の言葉。
人を物にする言葉。
グリムが笑った。歯が見える、嫌な笑い。
「へぇ。猟師のくせに、随分物騒だな」
「森は危ねぇからな」
「危ねぇのは、お前らの頭だ」
次の瞬間。
外套の男が弓を引いた。
弦が鳴る。矢が飛ぶ。
私は欠片越しに、矢の糸が見えた。
矢はまっすぐ私の胸を狙っていた。
(来る)
身体が勝手に動いた。
息を吐いて、横へ倒れる。
矢が壁に突き刺さり、板がぱん、と弾けて木屑が飛んだ。
木屑が頬を掠めて、痛い。
痛いのに、頭が冴える。
「出たぞ!」
男が叫び、もう一人が短剣を抜いて突っ込んでくる。
刃が火の光を拾って白く光る。白い光は刃の光だ。
王都の白日とは違う。こっちは、迷いなく殺しに来る白。
グリムが前に出た。杖で男の手首を叩く。
ごきっ。
骨に当たった鈍い音がして、男が呻いた。短剣が床へ落ちる。
床に落ちた短剣を見た瞬間、私は思った。
(拾えば、戦える)
(拾えば、血がつく)
血がつくのが怖い。
でも血がつかないまま、私は死ぬ。
私は拾った。
握った柄は、汗でぬるりとしていた。
他人の手の汗。
他人の生存の匂い。
それが、ひどく気持ち悪い。
男が私へ飛びかかってきた。
私は反射で短剣を振った。
当たった。
柔らかい感触。
布。肉。
熱いものが指に飛んだ。血だ。
男が「がっ」と声を出して膝をついた。
太腿を押さえ、指の間から赤が滲む。赤は森の土に吸われて黒くなる。
私は息が止まりそうになって、吐いた。
吐かないと、喉が死ぬ。
吐けば、私はまだ動ける。
「カー!!」
クロが弾丸みたいに飛び、弓の男の顔へ突っ込んだ。
狙うのは目。容赦がない。くちばしが皮膚を裂く。男が悲鳴を上げ、弓を落とす。
弓が床に落ちた隙に、グリムが刃物を抜いて距離を詰めた。
一瞬。
短い刃が、男の脇腹へ滑り込む。
ぐちっ、と嫌な音。
男の息が途切れ、口から泡みたいな唾が飛ぶ。
血が外套を濡らし、濡れた布が火の光を吸って黒くなる。
グリムの目は冷たかった。
怒りでもなく、興奮でもない。
ただ「終わらせる」目。恐ろしいくらいに冷静だった。
男が倒れた。
倒れた体が枯れ葉を潰し、湿った音がした。
私は、手の短剣を見た。
刃に血がついている。
血が、細い線で滴った。
吐き気が来た。
でも吐かなかった。吐いたら、また喉が死ぬ気がしたから。
もう一人――太腿を切られた男が、這って逃げようとする。
その背中に、黒い糸が伸びているのが見えた。王都へ。
逃げたら、また来る。もっと連れて来る。
グリムが低く言った。
「リーゼ。見るな」
見るな。
でも私は見た。
見たから、分かった。
逃がしたら、私はまた“黙って殺される側”に戻る。
グリムが男の首根っこを掴み、森の影へ引きずった。
影の中で、短い音がした。
骨が折れる音じゃない。
もっと鈍い、呼吸が途切れる音。
私は膝が笑いそうになり、地面に手をついた。
土が冷たい。
冷たい土が、私を戻す。
クロが肩に戻ってきて、羽をばたつかせた。
「カー……血。くさい。でも、よかったね」
「……うん」
うん、しか言えない。
言えない自分が腹立たしい。
でも――今日は、黙っていない。
手が動いた。息が動いた。私は生きた。
グリムが、死体の懐から紙を引き抜いた。
封蝋の印は王都のものじゃない。簡易なもの。裏稼業の匂い。
グリムが読み上げる。
「回収対象:リーゼ・フォン・アスター」
「抵抗時:口潰し。生死不問」
……やっぱり。
やっぱり私の喉を狙ってくる。
喉が狭くなりかけて、私は息を吐いた。
吐いて、欠片を握り直した。
《真言の鏡》は、私の手の中で冷たく光っている。
冷たいのに、さっきの血の温度がまだ指に残っている。
グリムが言った。
「もうここは安全じゃねぇ。俺の小屋が知られた」
「……」
「お前がこの鏡を持つなら、なおさらだ。真実は追われる。……俺はその辺、よく知ってる」
彼は少しだけ目を細めた。
その目は、昔の何かを見ている目だった。
「行くぞ」
「どこへ……」
声にしたつもりが、まだ掠れた息しか出ない。
グリムは私の口の形を見て、答えた。
「月灯修道院だ」
クロが即座に鳴く。
「カー! 修道院! パンある!」
「黙れ。パンの話じゃない」
「カー……でも大事」
グリムが続ける。
「そこに“書く女”がいる。口じゃ勝てねぇなら、やり方を変える。紙で殴る。
王都が怖がるのは血じゃねぇ。記録だ」
記録。紙で殴る。
その言葉が、胸の奥の泥に杭を打った。
私は欠片を見た。
嘘の糸。汚い結び目。
そして、私の枷から伸びる黒い糸。
(もう黙らない)
(黙って、踏まれない)
喉はまだ狭い。
でも狭い喉でも、息は吐ける。
吐けるなら、歩ける。
私は頷いた。
頷いた瞬間、枷がじり、と熱を返した。
それでも、私は欠片を手放さなかった。
森の夕方の光が、血の跡を淡く照らす。
照らした光は、血を宝石にしない。
ただ血を血として置く。
――これが、第一歩だった。
私はもう、“追放された令嬢”として森に沈まない。
《真言の鏡》と一緒に、王都の嘘を引きずり出すために歩く。




