第5話 黙る癖は、森じゃ死ぬ
夜が明ける前の森は、世界が息を潜めているみたいに静かだった。
小屋の隙間から入り込む冷たい空気が、肺の奥まで刺す。
昨日の犬(たぶん狼寄り)の獣臭はまだ残っていて、薪の煙と混ざって、鼻の奥にしつこく居座っていた。
私は毛布の中で目を開けたまま、しばらく動けなかった。
手首の枷が、じんわり熱い。
熱いのに冷える。痛いのに鈍い。
矛盾した感覚が、ずっとそこにある。
(……私、本当に追放されたんだ)
頭で分かってるのに、身体が追いついてこない。
王都の白日の広間は、遠いはずなのに、目を閉じるとすぐに戻ってくる。
“婚約破棄”
“毒婦”
“口を潰せ”
……誰も、私の言葉を必要としていなかった。
必要とされるのは、私じゃなくて、私が悪役であることだった。
梁の上で、羽音がした。
「カー……朝。腹。空」
クロが寝起き最悪の声で鳴く。
相変わらず、容赦がない。
「……」
私は返事をしようとして、喉が動かないのを思い出した。
悔しくて、枷を握りしめた。
金属の縁が皮膚に食い込み、痛い。
痛いのに、その痛みがありがたい。現実に戻れるから。
扉の近くで、木が軋む音がした。
グリムが、折れた板を縄で縛り直している。
縄を引く腕の筋が、細いのに硬い。
老人の腕って、どうしてこういう“やる気”の形をしているんだろう。
「起きてんなら、出てこい」
グリムが言った。
「朝飯。ついでに仕事」
仕事、って言い方が腹立つ。
でも腹立つのに、少し安心する。
王都の“裁き”より、森の“仕事”の方がマシだ。
私は起き上がり、足を床に下ろした。
床は冷たい。藁は湿っている。
立ち上がると、世界が少しだけ回った。腹が空いてる。眠りが浅い。怖さがまだ残ってる。
グリムが鍋を火にかけていた。
昨日の粥の残りを水でのばしたみたいなやつ。味は薄い。でも湯気は温かい。
木の器を渡される。
「飲め。噛む必要はない」
私は黙って飲んだ。
熱が喉を通る。通る瞬間だけ、喉が“生きた”気がする。
でも次の瞬間、また縮む。縮んで、黙る癖が顔を出す。
クロが器を覗き込む。
「カー……薄い。まずい」
「腹が満ちりゃ、味なんざ後だ」
「カー……腹が満ちても、パンがない」
「盗むな」
「カー! 盗んでない! 回収!!」
「同じだ」
朝っぱらから、口喧嘩が元気すぎる。
その元気が、少しだけ羨ましい。
私は器を置いて、指先で机を叩いた。
言葉が出ないなら、何か別の手段で――と思ったのに、何をどう伝えればいいのか分からない。
(私は、何を言いたい?)
「――ミレイユがやった」
「――私は見た」
「――殿下は騙されてる」
言いたいことは山ほどあるのに、喉が閉じたままだから、全部が胸の中で腐っていく。
腐った言葉は、泥みたいに重くなる。重くなると、立っていられない。
グリムが私の様子を見て、鼻で笑った。
「喉に言葉が詰まってんな」
「……」
「詰まったままにしとくと、いつか吐くぞ。森で吐くのは死ぬぞ」
脅しみたいなのに、妙に優しい。
優しいのに、甘くない。
甘くないから、信じられる。
「外」
グリムが顎で示した。
「歩く。息を吐く。足を作る。……それが先だ」
私は外套を羽織り、外へ出た。
森の朝の光は、王都の白日とは違った。
木々の隙間から落ちてくる光が、まっすぐじゃない。斑だ。
斑だから、目が痛くない。
斑だから、逃げ道がある。
足元の土はまだ湿っていて、踏むたびに沈む。
沈むと、靴底が土を掴む。
掴める地面は、怖いけど嘘をつかない。
グリムが言った。
「走れ」
私は目を見開いた。
走れるわけがない。昨日から何もしていない。手首には枷。喉は死んでいる。世界が変わりすぎて――
「走れ」
二度目は、命令だった。
私は走った。
最初の三歩で膝が笑い、四歩目で足首がぐらりとした。
転びそうになって、私は息を止めかける。
「止めるな。吐け!」
グリムが怒鳴る。
怒鳴り声は森に吸われて、妙に短く響いた。
私は、息を吐いた。
吐くと、身体の中の力の入り方が少し変わる。
喉が少し開いて、目が前を見る。
その瞬間――足元の根に引っかかって転んだ。
土に手をついた。冷たい。
掌が擦れて、ひり、と痛い。
痛みが走り、私は思わず声を出しかけ――出ない。
(……くそ)
声が出ない苛立ちが、腹の底から湧いた。
湧いた怒りは行き場がなくて、私は土を握りしめた。爪の中に土が入る。
グリムが上から覗き込む。
「泣くな」
「……」
「怒れ。怒るなら立て。立つなら走れ」
理不尽だ。
でも理不尽なほど、森では正しい。
私は立ち上がった。足が震える。
震える足で、また走った。
走るたびに痛い。痛いのに、心が少しだけ軽くなる。
(痛い=生きてる)
昨日の言葉が、腹に落ちる。
王都の痛みは“踏まれる痛み”だった。
森の痛みは“動く痛み”だ。
同じ痛みでも、意味が違う。
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昼前、私は汗だくになって座り込んだ。
息が荒い。胸が痛い。喉が焼けてる。
でも、息は通っていた。
通っているだけで、少しだけ勝った気がする。
グリムが水袋を投げてよこした。
私は受け取り、飲む。水はぬるい。でも喉にありがたい。
クロが枝にとまって、上から言う。
「カー……姫さん、弱い」
「うるさい」
声に出したつもりが、かすれた息だけが漏れた。
出ないのに悔しくて、私は水袋を握った。
グリムが私の手首の枷を見た。
「その鎖、喋ろうとすると熱くなるか」
私は頷いた。
グリムは眉間に皺を寄せた。
「王都の連中、用意がいいな。……喉だけじゃなく、心を縛る作りだ」
「……」
「だが、心は鍛えりゃちぎれる」
ちぎれる。
その言葉が怖い。
でも、怖いのに惹かれる。
私は今、ちぎれないと死ぬ。
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昼飯は、森らしかった。
グリムが仕掛けていた罠に、小さな兎がかかっていた。
前足が縄に絡まり、じたばたしている。目が大きい。怖がっている。
私は一歩引いた。
胸の奥が、嫌な感じに冷えた。
私は人を殺していない。でも森では、食べる=殺すだ。
グリムは迷わない。
兎の首根っこを掴み、短い刃で――一瞬で終わらせた。
血は少しだけ出た。土に染みて、すぐに暗くなる。
私は目を逸らしそうになって、逸らさなかった。
逸らしたら、また「黙る癖」に戻る気がしたから。
クロがあっさり言う。
「カー……いただきます」
「お前、切り替え早すぎだろ」
「カー! 生存!」
グリムが肉を火で炙り、塩を振って渡してきた。
「食え」
私は受け取った。
指先が脂でぬるりとする。
口に運ぶ。噛む。熱い。硬い。血の匂いが少しする。
……でも、旨い。
旨いというより、身体が「これが必要だ」と言っている。
王都の甘い菓子より、よっぽど説得力がある味だった。
私は気づいた。
森は、私に“考える前に生きろ”と言っている。
考えると、私は王都に戻ってしまう。
考えると、私はまた「黙って笑う」側へ戻ってしまう。
それはもう嫌だ。
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夕方、私は小屋の外で一人になった。
グリムは罠の見回り。クロはどこかで何かを盗んでいる(たぶん)。
森の風が、木の葉を擦って音を立てる。
その音が、妙に胸に刺さる。
私は膝を抱えて座り込み、土を見た。
土は黙っている。
黙っているのに、私の頭の中はうるさい。
(私が言っていれば)
(殿下は)
(ミレイユは)
(母は)
(私は)
考えるほど、自分が嫌になる。
嫌になると、死にたくなる。
でも私は死にたくない。死にたくないから苦しい。
喉が、ぎゅっと縮む。
私は、口を開けてみた。
「……」
音が出ない。
悔しくて、涙が出そうになって、私は奥歯を噛み締めた。
そのとき、手首の枷から伸びる黒い糸が、夕方の光の中でふっと浮かび上がった。
黒い糸は、王都の方向へ伸びている。
ぴん、と張っている。
まるで「逃がさない」と言うみたいに。
私は糸を睨んだ。
睨んで、呼吸をした。
吐く。吐く。吐く。
喉が少しだけ開いた。
私は、かすれた音をやっと落とした。
「……生き……る」
自分の声なのに、知らない声だった。
小さい。掠れてる。
でも、確かに声だ。声は、ここにある。
その瞬間、枷がじり、と熱を返した。
それでも私は、もう一度言った。
「生きる」
熱い。痛い。
でも、言えた。
言えた瞬間、胸の奥の泥が少しだけ動いた。
泥の中に、火種みたいなものが見えた気がした。
(生きる。生きて――取り返す)
取り返す。
それは復讐かもしれない。
でも今は、まず“私の喉”を取り返す。
背後で、木が鳴った。
グリムが戻ってきた。
私の顔を見て、鼻で笑う。
「やっと声が出たか」
「……っ」
私は何か言おうとして、まだうまく出ない。
悔しい。悔しいのに、嬉しい。
グリムが小屋の中を顎で示した。
「明日、お前に見せるものがある」
「……?」
「王都の嘘を嫌う道具だ。……ただし、お前の喉が折れる覚悟が要る」
嘘を嫌う道具。
私は小屋の中へ視線を向けた。
火の光が揺れる中、棚の奥に置かれた古い箱の隙間から、**ほんの一瞬だけ、ガラスみたいなものが光った**。
白日じゃない。
火の光を吸って、深く暗く光る、不思議な反射。
私は息を吐いた。
吐いた息が、火に揺れた。
明日。
明日、何かが変わる気がした。




