第4話 森の飯は、喉より先に効く
「よし。じゃあまず飯だ。話はそのあと」
老人――名前も知らないその人は、そう言って私に背中を向けた。
杖をついた歩き方は遅いのに、不思議と置いていかれる気がしない。たぶん、私の歩幅が今、「生きるか死ぬか」のところまで落ちているからだ。
森の入口の光は、もう夕方の色になっていた。
白日は弱まり、木々の影が長く伸びる。影が伸びると、王都の光よりずっと落ち着く。……落ち着くのに、怖い。
森の闇は、噂みたいに広がらない。噂より正直に、こっちの首を取りにくる。
「……待ってください」
私は言ったつもりだった。
でも、声が出なかった。
口は動いたのに、喉が空回りして息だけが漏れる。手首の枷が、じり、と熱を持った。
黙れ、と言われているみたいに。
老人が振り返り、私の喉を見て、鼻で笑った。
「ほらな。鎖は手首だけじゃねぇ。喉まで来てる」
その言い方が、腹立たしいほど正確だった。
私は歯を噛んだ。
噛むと口の中が痛い。痛いと現実に戻れる。
現実は、私が今、森の入口で立っていること。
そして――王都で“毒婦”と呼ばれたこと。
(……私は、ここで死ぬの?)
そう思った瞬間、老人が杖で地面をとん、と叩いた。
「歩けるか」
私は頷いた。
「なら歩け。倒れるなら、飯食ってから倒れろ。腹が空いて死ぬのは、いちばん間抜けだ」
間抜け。
王都で言われたら腹が立つのに、森で言われると不思議と腹に落ちる。
森は、言葉がそのまま命に繋がってる。
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小屋は、森の中にあった。
正確には“森の中”というより、森の「癖」を知っている場所だった。
大きな木の根元、風が通りにくく、地面が少し高いところ。周囲の茂みは濃いのに、小屋の周りだけ妙に歩きやすい。踏み固められた土が、暮らしの時間を教えてくる。
屋根から、細い煙が上がっていた。
煙は灰色で、まっすぐではなく、風にほどけながら空へ消えていく。
王都の煙は“汚れ”の匂いがするのに、ここは薪の匂いがする。甘くて、少し苦い匂い。
老人が扉を開けた。
「入れ」
中は狭い。
でも、妙に温かい。火の温かさがある。
壁には干した草束、棚には木の器、床には獣皮、そして鍋。
鍋から、湯気が立っていた。
湯気は鼻の奥をくすぐって、腹が勝手に鳴りそうになる。
その瞬間――
「カー」
頭上から声がした。
見上げると、梁の上に黒い影。
カラスだ。真っ黒な羽の塊が、こっちを見下ろしている。
「カー……姫さん、汚い」
……カラスが喋った。
私は一瞬、固まった。
森に来て最初に驚くのが“喋るカラス”って、私の人生どうなってるの。
老人が面倒くさそうに言う。
「おいクロ、黙れ。客だ」
「カー。客、腹減ってる」
「黙れと言ってる」
「カー。黙るのは腹のあと」
クロ。
名前まで付いてる。しかも口が悪い。
私が唖然としていると、老人が鍋を指差した。
「食え」
木の器に、粥がよそわれた。
白い粥じゃない。灰色がかった、雑穀と根菜が煮溶けたやつ。表面に小さく油が浮いて、湯気が立っている。匂いは、土と草と、ほんの少しの塩。
私は一瞬だけ迷った。
王都の教育が頭の中で囁く。
「知らない人の食べ物を口にするな」
「礼を尽くせ」
「警戒しろ」
でも腹が、それを全部踏み潰す。
私は器を持ち、ひと口飲んだ。
熱い。
喉がびっくりして、少しだけ広がる。
苦い。
でもその苦さは嫌じゃない。苦いのに、身体の芯へ落ちていく。
二口、三口。
気づけば、私はほとんど飲み干していた。
おかしい。王都の粥なら、味気ないと文句を言っていたはずなのに。
森の飯は、味が少ないぶんだけ、**命に直結**している。
「……カー、姫さん、食うの早い」
クロが梁の上から言う。
「パンも早い?」
「パンはない」
「カー……最悪」
「お前がパンを盗むからない」
「カー!? 盗んでない! 回収!」
「同じだ」
老人とカラスが、軽口で噛み合っている。
この場の空気だけ、妙に“暮らし”だ。
暮らしの空気があるだけで、私は少しだけ呼吸ができる。
私は器を置き、手首の枷を見た。
火の明かりが金属に当たり、鈍い光が揺れる。
揺れる光が、嫌に生き物みたいだ。
老人がそれを見て、眉を寄せた。
「そりゃあ……厄介だな」
「……」
声が出ない。
でも私は、口を開いて、必死に言葉を押し出そうとした。
喉が詰まる。枷が熱くなる。息が細くなる。
老人は、私の顔を見て察したのか、ため息をついた。
「喋れねぇのは分かった。無理に喋るな。喉を壊す」
その言い方は乱暴なのに、ちゃんと“守る方向”だった。
老人は棚の奥から、小さな瓶を取り出した。
中身は黒っぽい液体。匂いが強い。樹脂と薬草の匂い。
それを布に染み込ませ、私の手首の周りに塗った。
ひり、と痛い。
痛いのに、そのあと少し冷える。
「……熱は引く。だが鎖は外れねぇ。外したけりゃ、外せる奴に会うしかない」
老人が言った。
「王都の魔封じは、森の爺の歯じゃ噛み切れん」
クロが、間の悪いタイミングで鳴く。
「カー……姫さん、ずっと黙ってると、ざまあできない」
私は思わず、口の端が動いた。
笑うかどうか迷う笑い。
笑える余裕なんてないのに、クロの言い方は妙に核心を突く。
ざまあ。
復讐。
私の中のドロドロしたものが、粥の熱で少しだけ溶けて動いた。
老人が、私の顔を見て言った。
「お前、王都に恨みがある顔してるな」
私は視線を落とした。
否定できない。
恨みは、いま一番手近な燃料だ。
でも燃料は、扱いを間違えると自分が燃える。
老人が続ける。
「いいか。森で生きるのに必要なのは、恨みじゃねぇ」
杖の先で床をとん、と叩く。
「呼吸と、足と、腹だ。まずそれを整えろ。生き延びたら、恨みは勝手に牙になる」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
“まず生きろ”。
王都で誰も言ってくれなかった言葉だ。
私は、頷いた。
老人がようやく名乗った。
「グリムだ。……お前の名前は?」
私は口を開く。
喉が狭くなる。枷が熱い。
でも、さっきよりほんの少しだけ通る気がした。
「……リ……」
声にならない。
息だけが漏れる。
グリムは、私の口の動きだけを見て、勝手に頷いた。
「リーゼ、か。いい。覚えた」
勝手に決めるな、と言いたいのに、言えない。
言えないのに、なぜか少しだけ救われた。
名前を呼ばれるって、こんなに体温があるんだ。
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その夜、外が騒がしくなった。
最初は、風の音かと思った。
でも違う。
低い唸り声。獣の息。枝を踏む足音。
グリムが即座に立ち上がり、火を大きくした。薪をくべると、炎がぱち、と跳ねる。
火の光が壁に揺れて、部屋の影が踊る。踊る影は不安を増やす。
クロが梁から降りて、私の肩に飛び乗った。
「カー……外、犬。腹減ってる」
犬。
野犬か、狼に近いものか。
扉の外で、爪が木を引っ掻く音がした。ぎり、ぎり、と嫌な音。
次の瞬間、どん、と衝撃。扉が揺れる。
私は反射で後ずさりした。
背中が壁に当たり、息が止まる。
グリムが低く言った。
「動くな。目を離すな。――息を吐け」
私は言われた通りに息を吐いた。
吐くと、喉の中の氷が少し溶ける。
吐けば、目が開く。
扉がもう一度、どん、と叩かれる。
木が軋み、隙間から冷たい夜気が入る。
グリムは棚の下から短い刃物を取り出した。
刃は長くない。でも鈍くもない。
火の光を受けて、刃が一瞬だけ白く光る。白い光は刃の光だ。
「クロ」
「カー」
「出たら目を狙え」
「カー! 得意!」
……会話が軽い。
軽いのに、内容は物騒だ。
扉が、ついに割れた。
板が裂け、黒い影が頭を突っ込む。
黄ばんだ牙。濡れた舌。獣臭。
目が光っている。腹を空かせた目だ。
私は息を止めかけて、吐いた。吐け。吐け。
吐けば、身体が固まらない。
グリムが動いた。
一歩。
迷いがない。迷いがない動きは速い。
刃が、犬の鼻先をかすめる。
犬が悲鳴を上げて引く。
引いた瞬間に、クロが黒い弾丸みたいに飛んだ。
「カー!!」
くちばしが、目元を狙う。
犬が吠え、頭を振り、爪で空を掻く。
その混乱の隙を、グリムが蹴った。
鈍い音。
犬の体が外へ転がり、雪崩みたいに枯れ葉が舞う。
舞った葉が火の光を拾って、赤く瞬く。
グリムは扉を蹴り閉め、すぐに横木をはめた。
息が荒い。
でも手は震えていない。
私はその場に立ったまま、ようやく気づいた。
森は、私を“裁かない”。
森はただ、**食う**。
だからこそ、こちらもただ、**生きる**しかない。
クロが肩に戻ってきて、誇らしげに鳴いた。
「カー……勝った」
「勝ってない。追い払っただけだ」
「カー……同じ」
「同じじゃない」
グリムが私を見た。
火の光が彼の顔の皺を深くし、目だけが鋭い。
「今のが森だ」
「……」
「王都みたいに“空気”で殺しに来ねぇ。牙で来る。だから――」
杖が、とん、と床を叩く。
「明日から、お前は牙より速くなる。腹より賢くなる。喉より先に動く」
言い切って、彼は薪を足した。
炎が大きくなり、影がまた踊る。
私はその炎を見つめた。
火の光は、白日と違う。
火の光は、私を晒すためじゃなく、私を生かすためにある。
(……生きる)
喉はまだ狭い。
手首の枷はまだ熱い。
でも腹は温かい。足はまだ動く。目は逸らさない。
私は、明日へ向けて息を吐いた。




