第3話 婚約破棄は、地下牢から始まる
地下牢に朝は来ない。
来ないのに、身体だけは勝手に「朝の時間」を覚えているから厄介だ。
目を開けると、石の冷たさが先に来る。
藁は湿っていて、毛布は薄い。息を吐くと白くなるほど寒いのに、手首の枷だけは昨夜の熱をまだ残していた。熱い、というより――焼けた痛みが居座っている。
(……最悪)
そう思った瞬間、枷の内側がじり、と鳴った気がした。
悪口に反応するな。腹が立つ。いや腹が立つことが多すぎて、反応していたらこっちが先に壊れる。
鉄格子の外、足音。
こん、こん、こん。
上で聞く靴音より鈍い。地下の靴音は重い。重い音は、だいたい良い知らせを運んでこない。
「起きろ、毒婦」
衛兵が鍵を回した。がちゃり、と金属の音。
扉が開くと、松明の光が私の目に刺さる。地下の光は黄色くて、煙くさくて、眩しいというより汚い。
「立て」
私は立とうとして、膝が少し震えた。
震えをごまかそうと足に力を入れたら、枷が熱を返してきた。
「……っ」
思わず息を詰める。
痛みは相変わらず、喉まで届く。喉が狭くなると、言葉が落ちる場所がなくなる。
衛兵が私の腕を掴んだ。革手袋の縫い目が皮膚に食い込む。
「今日が“裁き”の日だ。お前の晴れ舞台だな」
晴れ舞台。
王都の冗談は、いつも人の命を笑う。
私は言い返したかった。
殿下の喉に絡んだ糸を見た。ミレイユの指輪が跳ねた。紫黒の糸が落ちた。――それが真実だ、と。
でも喉が動かない。
動かない喉を、私は自分で憎んだ。
(黙る癖……やめたいのに)
やめたいのに、やめられない。
癖は、命を守るために身についた鎖だから。
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階段を上がると、空気が変わった。
湿った冷気が薄まり、代わりに香水の匂いが混ざる。花の甘さと、獣脂の重さ。王都の匂い。
そして、光が増える。増える光は、心の逃げ道を減らす。
扉が開いた瞬間――白日が来た。
目が痛い。
床の大理石が光を跳ね返し、天井の高さが光を増幅させる。
白日は「清らか」を名乗るくせに、私の喉を殺しにくる。
広間は、人で埋まっていた。
絹の擦れる音。宝石の反射。笑い声。
それらが一斉に止まる。私が入った瞬間に、止まる。
私は見られている。
人間じゃなく、“札”として。
壇上に、セドリック殿下が立っていた。
昨日までの優しい顔ではない。今日の顔は“王太子の顔”。整った表情で、整った言葉を言う準備ができている。
その隣に、ミレイユ。
白いドレス。完璧に整った髪。完璧な涙目。
でも、指輪の光だけが濁っていた。澄んだ金じゃない。濁った金。
そこから伸びる糸は――紫がかった黒を混ぜて、汚い結び目を作っている。
私は、目を細めなかった。
今日は、逸らさない。
「リーゼ・フォン・アスター」
殿下が私の名を呼んだ。
呼ばれた名が、広間の壁で反響する。
その反響が、昔の私なら「光栄」に聞こえただろう。
今は、首輪の音にしか聞こえない。
「君は、王太子妃候補として――」
殿下が言いかけて、唾を飲み込んだ。喉が鳴る。
あの喉の音が、昨日の「ひゅ」を連れてくる。
私は一瞬、殿下の喉元に目を向けた。
糸が見えた。
白い糸。誓いの色。
……でもねじれている。誰かに結び替えられた、弱い白。
(……あなたは、まだ飲み込んでる)
殿下は目を伏せず、言葉を続けた。
「――しかし、毒殺未遂という重大な罪を犯した」
広間がざわりと揺れた。
ざわめきは波みたいで、私の足元を濡らす。濡れると、立っているのが難しくなる。
「よって、ここに婚約を破棄する」
婚約破棄。
その言葉は、頭より先に身体に落ちた。
胸の奥が冷える。喉がぎゅっと縮む。
縮んだ喉に、私は言葉を通そうとした。
「違――」
声が出ない。
出ない声が、私の中で腐る。腐ると、怒りになる。
怒りは熱い。熱いのに、外へ出ない。
ミレイユが、泣きながら言った。
「リーゼ様……どうして、こんなことを……。私は……私は、殿下をお守りしたかっただけなのに……」
守りたかった。
あの日、喉を守れなかった人間が言う台詞だ。
私はミレイユを見た。
彼女の糸が、私の枷へ向かって黒く伸びているのが見えた。
見えたから、私は言った。
「あなたが――」
枷が燃えた。
じり、と骨の芯が焦げる熱。
私は膝をついた。視界が白く弾ける。喉が完全に閉じる。
「ほら見ろ」
誰かが笑った。
「罪人は魔に侵されている!」
「言葉もまともに出せない!」
違う。
言葉を出せないのは、魔じゃない。
私の喉が、王都の空気に慣れすぎたせいだ。
でも、誰もそれを聞きたがらない。
聞きたくない人間は、真実より物語が好きだ。
「リーゼ・フォン・アスター」
大司教が淡々と言った。
「罪状を鑑み、王宮追放。爵位剥奪。財産没収。――そして森への流刑」
森。
その単語が、私の背中を冷やした。
森は王都の外。
王都の外は、命が軽い場所。
「……母上……!」
誰かの声がした。
振り向くと、母がいた。
頬は青白く、唇が震えている。けれど目は必死に私を追っている。
母の糸が見えた。薄い青。私へ伸びて、途中で何度も引っ張られている。
引っ張っているのは――父の糸だ。父は母の腕を掴み、口元だけで「黙れ」と言っていた。
父の糸は灰色だった。
灰色は、諦めの色。
(……父は、私を切る気だ)
切られる。
それでも、私は母から目を逸らさなかった。
逸らさないで、口の中だけで言った。
(ごめんなさい)
母は、その口の動きだけで泣いた。
泣いたのに、声は出さない。
母もまた、王都の喉を持っている。
---
私はそのまま、引きずられるように外へ出された。
広間の白日から、回廊の白日へ。
回廊の白日から、城門の白日へ。
白い光が私の影をくっきり落とすたび、私は思う。
(王都は、影を逃がさない)
荷車に投げ込まれた。背中が板に当たり、息が漏れる。
枷の鎖が鳴る。金属音が、私の心臓の音に混じる。
「食い物だ」
衛兵が乾いたパンを一切れ投げた。
硬いパンが頬に当たり、床に落ちる。
「……ありがたく噛んで死ね」
笑い声。
荷車の扉が閉まり、車輪が動き出す。
王都の石畳が遠ざかる。
パン屋の匂いが遠ざかる。
噴水の光が遠ざかる。
代わりに、土の匂いが来た。
湿った草の匂い。
そして、遠くで黒い線のように森が見え始める。
森の上を、一羽のカラスが飛んでいた。
黒い羽が光を拾って、縁だけが銀に光る。
それが妙に目に残った。
たった一羽の黒が、白い世界に刺さっているみたいだった。
---
夕方、荷車は森の手前で止まった。
扉が開き、冷たい風が入る。
風は土の匂いを運び、同時に“何かがいる匂い”も運んだ。獣。湿り気。腐葉土。
王都の香水より、ずっと正直な匂い。
「降りろ」
私は足から地面に落ちた。
足首がぐらりと揺れ、膝が土を掴む。
土が湿っていて、冷たい。
冷たいのに、なぜか息がしやすい。
「ここから先はお前の庭だ、毒婦」
衛兵が言い捨てる。
「戻ってきたら、首を落とす。……まあ、戻れないだろうけどな」
荷車が動き出す。
車輪が土を噛み、音が遠ざかる。
白い光も遠ざかる。
私は森の入口に一人残った。
手首の枷は重い。
喉はまだ狭い。
でも、空は広い。
広い空に、さっきのカラスが旋回している。
(……私は、どうする)
生きる。
生きて、言葉を取り戻す。
そう決めたいのに、決めるだけの力が足りない。
そのとき、背後で、枯れ枝が折れる音がした。
ぱき。
私は振り向く。
木々の影の中から、杖をついた老人が出てきた。背は低い。髭はぼさぼさ。目だけが妙に鋭い。
粗末な外套の裾に、泥がついている。
王都のどの貴族よりも汚れていて、王都のどの人間よりも生きている顔だった。
老人が、私の手首の枷を見て鼻で笑う。
「お嬢さん」
声は低く、乾いている。
「その鎖、喉まで繋がってるだろ」
私は息を呑んだ。
この人は――分かるのか。
老人は杖の先で地面をとん、と叩いた。
「生きたいか」
「……」
「生きたいなら、まず息を吐け。吸うな。吐け」
私は、言われた通りに息を吐いた。
吐くと、喉が少しだけ開いた。
老人が、歯を見せて笑った。
笑いは乱暴で、でも妙に温かかった。
「よし。じゃあまず飯だ。話はそのあと」
——こうして私の流刑は、終わりじゃなくて“始まり”になる。
月水金土18時30分に投稿予定です。次回もよろしくお願いします。
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