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毒婦にされた令嬢は紙で殴り返す  作者: 那由多


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第15話 灰市の朝は、白くならない

 

 灰市はいしの朝は、光がうるさくない。


 空の高いところに丸い光はある。

 でもそれは王都の白日みたいに偉そうに刺してこない。煙とすすに薄くされて、くすんだ銀貨みたいに鈍く光っているだけだ。


 ――助かる。

 白日が刺さると、私は思い出してしまうから。


 婚約破棄の声。

 喉が「ひゅ」と鳴った音。

 そして、途切れたグリムの声。


 返事を――。


 私は息を吐いた。吐いて、足を出す。

 煙の匂いが鼻に入る。嫌な匂いのはずなのに、王都の香水よりずっと正直で、少しだけ呼吸が楽だった。


 横にいるエレナは、何も言わずに先を歩いている。

 封蝋のついた封筒を抱え、背中を小さくして、人混みの間を縫う。

 修道服の灰色が、灰市の空気に溶ける。溶けるのに、消えない。


「……灰市って、こんな匂いなんだ」


 私がぽつりと言うと、エレナは振り返らずに答えた。


「灰は嘘をつかないから」

「……好きなの?」

「嫌い。でも、必要」


 必要。

 その言葉が、喉の奥に小さな釘みたいに残った。


 好きか嫌いかじゃない。

 必要かどうか。

 森で学んだのと同じだ。


 ---


 灰市は、王都の外縁に貼り付いた「影の街」だった。


 王都の尖塔が遠くに見える。白い。清らかなふりをした白。

 でも灰市の煙が、その白を薄い布で覆っている。

 布の下にあるのは、たぶん、うみだ。


 道は狭く、石畳は割れている。

 露店がぎゅうぎゅうに並び、干し肉の匂い、油の匂い、薬草の匂い、鉄の匂いが混ざる。

 人の声が多い。多いのに、どの声も「大きく言わない」癖がある。


 王都の人間みたいに上品に黙るんじゃない。

 灰市の黙り方は、単純に賢い。


 ここでは声が大きいと、すぐに取られる。

 財布も、命も、言葉も。


(……私、ここなら生きられるかもしれない)


 そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。

 生きられるかもしれない場所があることが、嬉しいのに――私は今、それを喜べない。


 クロがいない。

 グリムがいない。


 喜ぶ場所が、まだ見つからない。


 ---


 大きな道から一本外れた路地で、エレナが足を止めた。


 店の看板は小さい。

 煤で黒く汚れた板に、白いチョークで雑に文字が書いてある。


 『写し屋 ユスト』


 扉を開けると、墨の匂いが濃くなる。

 修道院の書記室の匂いに似ている。けれど、ここは祈りの匂いじゃない。

 “仕事”の匂いだ。


 中には紙束、刷り板、乾かしたインク壺。

 棚の奥に、封蝋の棒と印章がいくつも吊ってある。

 光が当たると、印章の金属がきらり、と嫌な笑い方をする。


 机の奥から、男が顔を上げた。


 痩せていて、目が細い。

 指先が真っ黒だ。墨じゃない。煤と墨と、たぶん、いろんな秘密の色。


「……お客さん? 朝から珍しいな」

 声は軽い。軽い声ほど、裏に重いものがある。


 エレナが淡々と言う。


「写しを頼みたい」

「何を?」

「残したいもの」

「……ふうん。値段は残したい量で変わる」


 男――ユストの目が私の袖に一瞬止まった。

 枷は隠している。隠しているけど、隠し方が下手な自覚はある。

 王都の令嬢の「隠す」は、たいてい甘い。


 ユストが笑った。


「旅人さん、ここは灰市だ。……隠してる匂いのほうが目立つ」


 エレナが封筒を机に置いた。

 封蝋の赤。月と糸の印。


 ユストの目が一度だけ鋭くなった。

 鋭くなって、すぐに元の軽さに戻る。


「……修道院の封印ねぇ」

「開けろとは言わない」

「そりゃそうだ。開けたら“残す”じゃなく“燃やされる”になる」


 言い方がやけに現実的で、私は背中が冷えた。

 ここでは、燃やされる未来がいつも隣にある。


 エレナが言う。


「誓写紙を増やしたい」

 ユストが、口笛を吹いた。


「おお。そりゃまた。……あれは高い。紙じゃない。手間と恨みの塊だ」

「金なら――」

「ないでしょ?」


 ユストが私の顔を見た。

 見ただけで、無一文だと当ててくる目。

 当たっていて腹が立つ。


 私は息を吐いて、喉を開いた。


「……仕事で払う」

 ユストが笑った。


「仕事? 修道女さんが写し屋の仕事を?」

「私じゃない」

 エレナが即答する。

「あなたが欲しいのは“確かさ”よね」


 そう言って、エレナは小さな紙片を取り出した。

 誓写紙の端切れ。

 銀の筋が、煤の光を拾って細く光る。


「嘘を言いなさい」

 ユストが眉を上げる。


「いきなり?」

「簡単でいい。……『私はこの店で不正をしたことがない』とか」


 ユストは肩をすくめて、軽く言った。


「俺はこの店で不正をしたことがない」


 次の瞬間、誓写紙の端が――じわ、と黒く滲んだ。


 ユストの笑いが止まった。


「……へぇ」

 その「へぇ」が、今までの軽さと違う。

 獲物を見つけた目の音だ。


 エレナが続ける。


「私は“真偽の写し”ができる。あなたは“増やす”のができる。組めば、王都が嫌がるものが増える」

 ユストが指で机を叩いた。

 こん、こん、と乾いた音。


「……面倒な匂いがするな。王都絡み?」

「絡みたい?」

 エレナが冷たく返す。

「絡みたくないなら、今すぐ扉を閉めて」


 ユストは笑った。

 でも目が笑っていない。


「絡みたくない。でも、面倒は儲かる」


 儲かる。

 ここは灰市だ。正直だ。正直すぎて吐き気がする時もあるけど、王都よりマシだ。


 ユストが言った。


「誓写紙の材料は、うちにはない。紙漉きかみすきばばあだ。……ただし、あの婆は金より“話”が好きだ」

「話?」

「誰が誰を食ったとか、誰が誰に食われたとか。……そういうやつ」


 エレナが頷いた。


「行くわ」

「待て」

 ユストが手を上げる。

「条件。俺の店でお前らを匿うなら、俺にも保険が要る。……お前らの“確かさ”を一枚、俺に残せ」


 エレナが少しだけ目を細めた。


「脅し?」

「商売」


 商売、と言いながらユストの糸が揺れた。

 私は無意識に《真言の鏡》の欠片に手を伸ばしかけて、止めた。

 ここで鏡を見せたら、次に狙われるのはユストじゃない。私だ。


 私は息を吐き、言った。


「……証拠を増やしたら、あなたも売れる」

 ユストの口角が上がった。


「言うね。……毒婦って聞いてたけど、口は毒じゃなく“切れ味”か」


 その言葉に、喉の奥がひりついた。

 毒婦。

 王都の札。

 札は遠くに来ても追いかけてくる。


 私は、低く言った。


「札を貼ったのは私じゃない」

 ユストが、私の顔を少しだけ真面目に見た。


「……なるほど。じゃあ貼った奴らは、面倒の中身だな」


 面倒の中身。

 面倒の中身は、たぶん、血と火と嘘だ。


 ---


 紙漉き婆の工房は、灰市のさらに奥、川の脇にあった。


 川の水は黒っぽい。

 でも流れている。流れているものは腐りきらない。

 水面に朝の鈍い光が揺れて、銀色の傷みたいに見えた。


 工房の中は湿っていて、紙の繊維の匂いがした。

 布を煮る匂い。灰を混ぜる匂い。

 ここは「残るもの」を作る場所だ。


 婆は、背中が曲がっているのに目だけが鋭い。


「なんだい、修道の匂いがする」

 婆が言う。

「それに……焼けた匂いもするね」


 エレナが一礼した。


「誓写紙を増やしたい」

 婆が鼻で笑う。


「増やす? 増やすってのはね、作るってことだ。……作るってのは、血を混ぜるってことだよ」

「混ぜるのは灰と銀」

「そう。灰は過去。銀は誓い。……あんた、どっちを持ってる?」


 エレナが答える前に、私は喉を開いた。


「灰は……たくさん」

 声が掠れて、でも声だ。

 婆の目が私へ移る。


「へぇ。灰の子かい」

「……灰の子?」

「燃えたものが多い目をしてる」


 その言葉で、胸の奥の暗闇が動いた。

 修道院の煙。封筒が焦げる音。クロの声。

 グリムの途切れた声。


(燃えた。たくさん)


 婆は続けた。


「じゃあ条件だ。誓写紙を作ってやる代わりに、あんたの“話”を寄越しな」

「話……」

「誰が誰を燃やした。どう燃やした。……嘘じゃないやつをね」


 エレナが言った。


「それでいいの?」

「いいよ。婆は金より真実が好きなんだ。金は燃えるけど、真実は燃えにくい」


 婆の言葉が、灰市の鈍い光みたいに胸に落ちた。

 燃えにくい。

 燃えにくい形にする。


 エレナが私を見る。

「リーゼ。話せる?」

 私は息を吐いた。吐いて、喉を開く。


「……話す」


 怖い。

 話せば、また誰かが燃える気がする。

 でも、話さなければ、燃えたものが無駄になる。


 私は順番を思い出す。

 生き残る。残す。殴る。


 私は、婆に向けて言葉を落とした。


 王都の茶会。

 紫黒の糸。

 白い広間。

 婚約破棄。

 追放。

 森。

 回収屋。

 修道院。

 火。

 白日術。

 クロを取られたこと。

 グリムが囮になったこと。


 話すたび、喉が擦れる。

 でも、熱はない。枷の呪いは切った。

 痛みはある。でも痛みは私のものだ。私が選んだ痛みだ。


 婆は黙って聞いて、最後に言った。


「……なるほど。面倒の中身は、随分と上等だ」

「上等じゃない」

 私が言うと、婆は笑った。


「上等だよ。上等な嘘つきは、上等な真実に負けるときが一番派手だ」


 派手。

 派手なざまあ。

 その言葉が、胸の暗闇の中で火種になる。


 婆は紙漉き桶の中へ灰を落とし、銀の粉をひとつまみ入れた。

 灰は水に溶け、銀が筋になる。

 混ざって、渦になる。


 鈍い朝の光が、その渦の上で揺れた。

 白日じゃない。

 でも、これも光だ。生き延びるための光。


「今夜まで待ちな」

 婆が言う。

「誓写紙は急いで作るもんじゃない。……急げば、嘘が混ざる」


 嘘が混ざる。

 それが一番怖い。


 ---


 ユストの写し屋へ戻るころには、灰市の昼が始まっていた。


 昼と言っても白くはない。

 煙が光をくすませ、街全体が灰色のまま騒がしくなる。

 人の声が増え、笑い声も増える。

 増えるのに、どの笑いも少しだけ乾いている。


 店の二階の狭い部屋を借りた。

 窓は小さく、外の光は細い。

 でも今の私には、その細さがありがたい。

 光が細いと、思い出も細くなる気がする。


 エレナは机に向かい、羽ペンを走らせ始めた。

 さらさら、さらさら。

 紙の音は、剣より怖い。

 怖いけど、今はそれが頼もしい。


 私は窓の隙間から外を見て、鏡の欠片を握った。


 糸が見える。

 灰市の人間の糸は短い。結び目が多い。

 短い糸は、今日を生きる糸。

 王都の糸みたいに、誓いだの正義だのを飾らない。


 ――そして、その中に混ざる一本の白い糸。


 白い糸は、綺麗すぎる。

 綺麗すぎる糸は、だいたい刃だ。


 私は息を吐いた。

 吐いて、エレナへ言った。


「……いる。王都の糸」

 エレナはペンを止めずに言う。


「分かってる。……レグナードは灰市も使う。使わない理由がない」


「じゃあ、ここも燃やされる?」

 私の声が少し震えた。

 震えを恥ずかしいと思う前に、エレナが答えた。


「燃やされる前に、燃えない場所へ散らす」

「散らす……」

「ロッテがやったのと同じ。あなたもやる。……“残す”って、そういうこと」


 ロッテ。

 ロッテが無事ならいい。

 無事でいてほしい。

 その願いを、私は声に出せるようになった。


「……ロッテ、来るかな」

「来るなら、この街よ」

 エレナが言った。

「逃げ足の子は、風の匂いで集まる」


 その言葉の直後だった。


 二階の扉が、三回、短く叩かれた。


 ――とん、とん、とん。


 合図。

 修道院の門と同じ音。


 エレナがペンを置き、私を見る。

 私も頷く。喉が動く。

 扉が開いた。


 入ってきたのは――煤だらけの“小さな男の子”だった。


 髪を短く切り、顔に煤を塗り、服もぼろぼろ。

 でも目だけが大きい。

 そして、私が知っている震え方をしている。


「……エレナさま」


 声が、女の声だ。


 ロッテだった。


 一瞬、胸の奥がほどけて、息が漏れた。

 生きてる。

 生きてる。

 生きてる。


 ロッテは私を見るなり、堪えきれずに泣きそうな顔になった。

 でも泣かない。泣かないのが彼女の強さだ。


「……修道院、燃えました。……でも、みんな逃がしました」

「封筒は?」

 エレナが即座に聞く。

 ロッテは頷いた。


「一通、届けました。……銀月記録院ぎんげつきろくいんに。印章の偽造があったって、監察官に話しました。誓写紙の滲みも……見せました」


 銀月記録院。

 王都の“記録が怖い人間”がいる場所。


 希望が、胸の奥で小さく灯った。

 白日じゃない。

 灰の中で灯る、小さな火。


 ロッテは息を整えて、続けた。


「それと……悪い知らせも」

 その言葉で、空気が冷えた。

 ロッテの目が、震える。


「クロ……捕まりました」

 私の喉が、ぎゅっと縮んだ。

 縮んでも、声は出る。


「……どこに」

 ロッテが言った。


「レグナード卿の“回収車”に。……灰市に来ます。今夜」

「今夜……」

「鏡の欠片も、狙ってます。ここも嗅がれてます。……さっき、白い外套の人が――」


 ロッテの言葉の途中で、階下から笑い声が聞こえた。


 軽い。

 軽い笑い。

 軽い笑いほど、刺さる。


 私は窓の隙間から下を見た。


 路地の角に、白い外套が見えた。

 昼の灰市に似合わない白。

 白い糸が、地面を撫でるように伸びている。


(……来た)


 胸の暗闇が、また動く。

 でも今度は、ただの絶望じゃない。

 選べる。私は選べる。


 逃げるだけじゃない。

 取り返す。

 クロを。証拠を。私の人生を。


 私は息を吐いて、言った。


「……行こう」


 エレナが私を見る。

 ロッテが目を見開く。


「どこへ……?」

「回収車」

 私が言うと、喉が痛んだ。痛いのに、声が出る。

「今夜、クロを取り返す。……それが、私の返事」


 “返事”。


 グリムに言われた言葉が、胸の奥で音になった。

 生き延びること。

 そして、取り返すこと。


 エレナが短く頷いた。


「分かった。……第二手順ね」

 ロッテが震えながらも、唇を引き結んだ。


「……わたしも行きます。逃げ足、得意なので」

 エレナが即答する。

「それは武器」

 ロッテが顔を赤くする。

「褒めてます?」

「事実」


 私は、鏡の欠片を握りしめた。

 冷たい。

 冷たいのに、クロの黒い糸が、遠くでぷる、と震えた。


 生きてる。

 待ってる。


 私は小さく、はっきり言った。


「――取り返す」


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