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毒婦にされた令嬢は紙で殴り返す  作者: 那由多


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第13話 全てを失って――喉に残る“返事”


 

 走って、走って、走った。



 肺が痛い。脚が痛い。目が痛い。

 白い光と煙と熱が、背中から追いついてくるみたいで、私は何度も転びそうになった。


 でも、息を吐く。吐いて、足を出す。

 森で覚えた「生きる順番」だけが、今の私を動かしていた。


 ようやく足を止めたのは、倒木が重なってできた空洞だった。

 根っこが絡み合って、奥だけ黒い。

 光が入りにくい場所。――影がまだ生きている場所。


 私は膝をつき、荒い呼吸のまま額を土につけた。

 土が冷たい。冷たいのに、胸の中の熱が収まらない。


「……クロ……」


 名前を呼んだ途端、喉がひりついた。

 声が出たのが、嬉しくて。

 声が出たのに、呼びたい相手がいないのが、悔しくて。


 エレナが、私のすぐ横で封筒の束を抱え直していた。

 封蝋が溶けかけている。紙の端が、ほんの少し焦げている。

 火の手が届いた距離が、指先の焦げで分かる。


 エレナは一通ずつ、指で数えた。


「……残り、二通」

 冷静に言い切ってから、一拍遅れて、歯を噛んだ。

 その噛み方が、怒りだと分かった。


 二通。

 “二通も”じゃない。

 “二通しか”だ。


 しかも、ロッテが持って行った分が無事かどうかは分からない。

 修道院は燃えている。

 ロッテは走った。走ったけど――走り切った保証はない。


 グリムが、少し離れたところで壁に背を預けて座っていた。

 呼吸が荒い。

 荒いのに、顔はいつも通りの不機嫌。

 不機嫌は、彼の平常運転の仮面だ。


 私はその仮面の隙間を見つけた。


 ――左脇腹。

 外套の下、布が濡れている。濡れ方が、汗じゃない。

 黒い濡れ方。血だ。


「……グリム」


 声が震えた。

 震えた声が、情けないくらい真っ直ぐ彼に届く。


 グリムは見ないふりをして言った。


「擦っただけだ」

「擦っただけで、そんな色にならない」

「うるせぇ。元気になったな」

「元気じゃない」

「元気だ。うるせぇって言えるのは元気だ」


 言い返せた。

 言い返せたのに、胸の奥が崩れる。


(私、今さら声が戻っても)

(守りたいものを守れない)


 クロは取られた。

 封筒は燃えた。

 修道院は燃えている。

 ロッテが無事かどうかも分からない。


 そして――グリムが血を流している。


 私は、自分の腹の底から、黒いものが上がってくるのを感じた。

 怒りじゃない。

 もっと粘る、自己嫌悪だ。


(私は、何もできない)

(声が戻っても、結局)


 《真言の鏡》の欠片を握ると、ひやりと冷たかった。

 冷たさが、嘘を押し戻す。


 ……嘘だ。

 私は何もできないんじゃない。

 “できるのに黙る癖”が、まだ残ってるだけだ。


「おい」

 グリムが、私を見ずに言った。

「いま“自分を責める癖”に戻りかけてる。……戻るな」


 きつい。

 でも、正しい。

 正しい言葉は、痛い。


 私は息を吐いた。

 吐いて、吐いて、吐いて――喉を開く。


「……ごめん」

 声にした瞬間、自分の謝罪が嫌になった。

 謝ったら終わる気がする。

 終わりたくない。


 エレナが短く言った。


「謝るなら後。――今は生き残る」


 また“順番”。

 順番は、残酷で、ありがたい。


 ---


 空洞の外が、じわ、と明るくなった。


 白日術の白が、森の上を舐めている。

 均一な光が、影を薄くしていく。

 影が薄くなるほど、追手の足音が“近い現実”になる。


 遠くで角笛が鳴った。


 ぶおお――。


 犬の吠え声。

 鎧の擦れる音。

 そして、火の匂い。


「……追ってきてる」

 私が言うと、声が思ったより落ち着いていた。

 落ち着いているのが怖い。

 慣れたくないのに、慣れてしまう。


 グリムが立ち上がった。

 立ち上がった瞬間、外套の濡れがさらに広がる。

 血が動いたのが分かる。


「時間がねぇ」

 グリムが言った。

「レグナードは糸が切れたのを、もう知ってる」



 私は鏡を握り直した。

 欠片の縁が指に刺さる。ちくり。

 この痛みは、現実の杭だ。


 エレナが言った。


「ここで全滅したら、全部が“なかったこと”になる」

「……」

「だから、分ける」


 分ける。

 また分ける。

 分けるたびに、心臓が小さくなる。

 でも分けないと、全員死ぬ。


 グリムが私を見た。

 目がいつもより鋭い。

 鋭いのに、どこか笑っている。嫌な予感の笑いだ。


「リーゼ、お前はエレナと行け」

「……」

「俺が囮になる」


 囮。


 喉が、きゅっと締まった。

 声が戻ったのに、言葉が出ない。

 出ないのは枷のせいじゃない。

 恐怖のせいだ。


 エレナが即座に否定した。


「無理よ。あなた一人じゃ――」

「無理じゃねぇ」

 グリムが切る。

「俺は森を知ってる。……それに」


 彼は自分の脇腹を、指で一度だけ押さえた。

 その指が赤くなる。

 その赤が、白い光の中で妙に黒い。


「長く走れねぇ」


 エレナが唇を噛んだ。

 噛んだ唇が白い。

 それでも目は揺れない。揺れない目は、決断の目だ。


「……リーゼ。鏡と封筒を抱えて。あなたが“残す側”」

「いや」

 私は声を出した。

 出した声が自分でも驚くほど荒かった。


「私、もう黙らない。……置いていくのも、もう嫌だ」


 グリムが鼻で笑った。


「置いていくんじゃねぇ。送るんだ」

「同じだ」

「違う。――送られた奴は、生きたことに意味を持つ」


 意味。


 その言葉が、胸に刺さった。

 森の粥の熱みたいに、じわっと広がる痛み。


 グリムが、私の外套の襟を掴んで引き寄せた。

 老人の手は硬い。硬いのに、温かい。


「返事は言葉じゃねぇ」

 彼は低い声で言った。

「生き延びることで寄越せ。……そして、取り返せ。鳥も、紙も、お前の人生も」


 鳥。

 クロ。


 喉の奥が焼けるみたいに痛くなった。

 泣きそうで、泣いたら全部が崩れそうで、私は息を吐いた。


「……グリム」

 名前を呼べた。

 呼べたのに、言葉が続かない。


 グリムは、私の胸元へ何かを押し込んだ。


 小さな布袋。

 中で硬いものが鳴った。


「何……?」

「火打ち石と、塩。森の基本だ。……腹が減ったら死ぬ。塩は命だ」


 最悪の贈り物みたいに実用的で、涙が出そうになった。

 贈り物の中に、別れが混ざっている匂いがする。


 エレナが私の腕を掴んだ。

 掴む指が震えている。震えているのに離さない。


「行く」

 エレナが言った。

「今、行かないと、あなたが死ぬ」


 私は首を振りそうになって、息を吐いた。

 吐いて、喉を開いたままにする。


「……死なない」

「死ぬ」

 エレナは冷たく言った。

「あなたは強い。でも不死身じゃない。――順番」


 順番。

 また順番。

 順番が、私を殴る。

 殴られると、足が動く。


 私は、グリムに最後に言った。


「……絶対、取り返す」

「そういう顔だ」

 グリムが笑った。

 笑いは乱暴で、でも誇らしげだった。


「じゃあ行け。姫さん」


 ---


 私とエレナは、空洞の奥の狭い裂け目に身体を押し込めた。

 岩肌が冷たい。冷たさが背中を刺す。

 外の白い光はここまで入らない。影が濃い。影が生きている。


 でも、音は入ってくる。


 犬の吠え声。

 鎧の擦れる音。

 松明のぱちぱち。

 そして、礼儀正しい声。


「ここです。……血の匂いがする」


 レグナードだ。


 白い声。白い光。

 声の裏に、濁った金が混じっている気配。

 ミレイユの糸の匂い。


(あいつ……)


 私は鏡の欠片を握り、視界を暗くした。


 レグナードの杖から、白い糸が無数に伸びているのが見える。

 その糸が地面を撫で、木の影を剥がし、獣の匂いを拾う。

 人間が森を“道具”にする時の糸だ。


 その糸の先に、グリムが立っていた。


 小さな背中。

 でも、影の中心みたいに動かない。


「ここまでだ、回収屋」

 グリムの声が響いた。

 夜の森に似合わないほど、はっきりした声だった。


 レグナードが微笑むのが見えた。

 白い外套の下で、鎧が薄く光る。


「あなたが邪魔をする理由は?」

「気分だ」

「それは残念です。……では」


 レグナードが杖を振った。


 白い糸が、鞭みたいに唸ってグリムへ飛ぶ。

 糸が空気を裂く音がした。光なのに、刃の音。


 グリムが杖で叩いた。

 杖が光を割れない代わりに、軌道をずらす。

 白い糸が木に当たり、樹皮が乾いた音を立てて裂けた。


 次の瞬間、グリムが踏み込む。

 短い刃が閃き、白い外套の男の腿を切った。


「ぐあっ!」


 血が飛ぶ。

 赤が白い外套に滲むと、やけに目立つ。

 白は血を嫌うくせに、血を一番綺麗に見せる。


 犬が飛びかかる。

 グリムが杖で顎を打つ。

 鈍い音。犬が転がる。

 転がった犬の唸り声が、森の奥へ逃げる。


 グリムの動きは速かった。

 でも――一瞬だけ、身体が揺れた。


 脇腹の傷だ。

 血が動いて、動きが遅れる。


 レグナードは、その一瞬を見逃さなかった。


「縛れ」


 白い糸が束になって、グリムの腕へ絡む。

 腕が引かれる。

 引かれた瞬間、刃が落ちた。


 金属が地面に当たり、ちん、と鳴る。

 その音が、やけに綺麗で、腹が立つ。


「グリム!!」


 私は思わず叫んだ。

 叫んだ声が、影の中で跳ね返る。

 叫んでも届かないのが、最悪だった。


 エレナが私の肩を掴む。


「見るな。行く」

「でも!」

「あなたが死んだら、グリムの“送る”が無駄になる」


 無駄。

 その言葉が胸を刺す。


 グリムが、こちらを向いた。

 影の向こうで、目だけが光った。


「行け!」


 怒鳴る声。

 怒鳴る声は、命令じゃない。祈りだ。


 私は息を吐いた。

 吐いて、足を動かした。


 裂け目の奥へ、エレナに引かれるまま滑り込む。

 岩が肩を擦る。痛い。

 痛いのに、前へ行く。前へ。


 背後で、レグナードの声が聞こえた。


「口のうるさい老人ですね」

 その言葉が、次の音を連れてきた。


 ――白い糸が締まる音。


 ぎゅ、と空気が絞られるみたいな音。

 人の喉が鳴る音。

 息が詰まる音。


 私は振り返りたくなった。

 振り返ったら、私はまた黙って死ぬ側に戻る気がした。

 だから吐く。吐いて、吐いて――足を出す。


 最後に聞こえたのは、グリムの声だった。


「リーゼ――絶対――取り戻せーー」


 言葉の途中で、音が途切れた。


 途切れた音が、世界の端を切った。


 ---


 私たちは、根の空洞を抜けて、斜面を滑り降りた。

 足がもつれる。手が土を掴む。土が爪に入る。

 土が冷たい。冷たいのに、目の奥が熱い。


 どこまで走ったか分からない。

 気づけば、沢の音が遠くなっていた。


 白い光はまだ森の上を舐めている。

 でも少しだけ遠い。少しだけ薄い。

 ――囮が効いている。グリムが、時間を作っている。


 私は木の根元に背中を預け、息を吐き続けた。

 吐かないと、喉が潰れそうだった。


 エレナが封筒を抱え直す。

 封蝋の赤が、夜明け前の薄い光で鈍く光る。

 鈍い赤は、血の色に似ている。


「……残った」

 エレナが言った。

「残ったものは、残す」


 残った。

 残ったのは紙だけじゃない。

 私の喉も、残った。

 残ったのに――グリムはいない。


 私は、胸元の布袋を握った。

 火打ち石が小さく鳴る。

 小さな音が、ひどく大きく聞こえた。


(私、どう返事をすればいい)

(生き延びるって、こんなに痛いの?)


 痛い。

 生きているだけで痛い。

 痛いのに、生きたい。


 私は《真言の鏡》の欠片を取り出した。

 欠片の中に、糸が見える。


 ――細い黒い糸。遠くへ伸びている。

 クロの糸だ。


 糸は王都の方向へ引かれている。

 白い糸が絡みつき、引っ張っている。

 “回収”の糸。


 私は糸を見つめた。

 見つめるほど、怒りが形になる。

 泣きたいのに、泣くと折れそうで、私は息を吐いた。


 そして、言った。


「……取り返す」

 声が出た。

 出た声は、震えている。

 震えているからこそ、嘘じゃない。


 エレナが私を見る。

 その目は冷たいのに、少しだけ柔らかい。


「ええ」

 エレナが言った。

「取り返す。鳥も、紙も、あなたの人生も。……でも、今は」


 彼女は封筒を抱え直し、夜明け前の空を見た。


 東が、薄く白んでいる。

 白日は来る。

 でも、あの白日は王都の白日じゃない。

 逃げ道のある白だ。


「今は生きる。――それが、グリムへの返事」


 返事。

 胸の奥が、ぎゅっとなる。


 全てを失った。

 修道院も、クロも、グリムも。

 燃えた封筒の匂いがまだ鼻に残る。


 それでも、喉は生きている。

 声がある。

 声があるなら、嘘に勝てる可能性がある。


 私は息を吐いた。

 吐いて、立ち上がった。


 足が震える。

 震える足で、私は一歩を出す。


 ――次は、私が取り返す番だ。




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