第12話 全てを失って――燃えるもの、消えるもの
白い光が、森の影を薄くしていく。
逃げ場が“見える”ようになるのは、本来ならありがたいはずなのに。
今の光は違う。私たちを見つけるための光だ。影を殺して、命を拾うための光。
その境界の向こうに、男が立っていた。
白い外套。銀の杖。
杖の先に、白日の結び目が集まっているのが見える。
空気の上に張られた白い糸が、一本一本そこに繋がって、森の夜を吊り上げていた。
「リーゼ・フォン・アスター」
丁寧で、冷たい声。
「お戻りください。あなたは“回収対象”です」
“回収”。
その言葉の響きが、胃をひねる。
人を物にする言葉。手触りのない言葉。
私は息を吐いた。吐いて、喉を開く。
開いた喉で、言った。
「……いいえ」
声が出た。
震えている。掠れている。
でも、私の声だ。
「私は、戻らない」
レグナードが微笑んだ。
笑顔が上品すぎて、吐き気がする。
「意思表示ですか。素晴らしい。……では、回収は少し乱暴になります」
彼が杖を軽く振る。
白い光が、ぱん、と弾けた。
森の斑だった暗がりが、強引に均される。
木の下の影が薄くなり、私の足元の影さえ軽くなる。
夜露がぎらつき、葉の裏が反射して、目が痛い。
エレナが歯を噛んだ。
「……白昼の狩りね」
グリムが短く言う。
「喋ってる暇ねぇ。逃げるぞ」
「逃げるだけじゃ……」
言いかけた私の言葉を、グリムの手が背中で切った。
「今は生きろ。生きてから殴れ」
正しい。
悔しいくらい正しい。
私はもう一度息を吐いて、足を出した。
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火の匂いが、背中から追いついてくる。
松明の火じゃない。もっと油っぽい。
火を“広げる”匂いだ。
振り返ると、森の端で炎がいくつも上がっていた。
白い光に照らされて、火がやけに明るく見える。
煙まで白く、綺麗に見えるのが最悪だった。
「……燃やす気だ」
エレナが低く言う。
「証拠ごと、修道院ごと、森ごと」
ロッテ。
修道女たち。
書記室の紙束。
(私のせいで――)
罪悪感が胸を噛む。
噛まれると足が止まりそうになる。止まったら死ぬ。
私は息を吐いた。吐いて、喉を開く。
開いた喉で、自分に言い聞かせる。
(止まるな)
(今は、順番)
“順番”。
エレナの言葉を、私はそのまま支えにした。
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犬の吠え声が近づいた。
「ワンッ!」
それが合図みたいに、角笛が鳴る。
ぶおお――。
白い外套が増えていく。
槍が見える。弓が見える。
そして、光。白い光が私たちを“輪郭”にしてしまう。
(影が死ぬ)
私は懐から《真言の鏡》の欠片を握り、視界を暗くした。
糸が見える。
灰色の糸が網になって、森の中を走っている。
白い糸が上から垂れて、道を塞いでいる。
その中心が、レグナードの杖の先だ。
「……糸、来る!」
私は叫んだ。
声が出た。声で仲間を動かせる。
それだけで、私は“逃亡者の札”じゃなくなる。
レグナードが、こちらへ向けて杖を突き出した。
白い糸が、蛇みたいに走る。
糸は光なのに、質感がある。冷たい布みたいに、空気を裂いてくる。
「縛れ」
命令が落ちる。
糸が地面を這い、私の足首へ絡もうとする。
私は息を吐いて跳んだ。
跳んだ瞬間、糸が空を切って、地面に白い筋を残す。
筋が残った場所の土が、一瞬だけ白く乾いた。
光が土の水分を奪うみたいに。
「気持ち悪……!」
言葉が出た。言葉が出るのが救いなのに、状況は最悪だ。
エレナが叫ぶ。
「リーゼ、切れるなら切って!」
私は鏡の欠片の縁を握り直した。
指先がちくりとする。痛みが現実を固定する。
白い糸へ、欠片を当てる。
ひやり。
欠片が嫌がるみたいに冷たく鳴る。
でも私は押し込んだ。
ぷつん。
白い糸が切れた。
切れた瞬間、光が少しだけ“揺らいだ”。
森の影が、ほんの一瞬だけ濃く戻る。
「……なるほど」
レグナードの声が、楽しそうになった。
「鏡は、やはり厄介だ。……では、鏡ごと回収しましょう」
白い糸が、今度は“束”になってくる。
一本なら切れる。
でも束は、刃でも押し返される。
グリムが前へ出た。
杖が唸り、糸の束を叩き落とす。
杖は光を割れない。だが、勢いで糸の軌道をずらせる。
「走れ!」
グリムの声が背中を押す。
私は走った。
エレナも走る。封筒を抱えたまま走る。
クロが肩でしがみつきながら、悪口を叫ぶ。
「カー!! 白いの、性格悪い!!」
悪口が出るなら生きてる。
その雑な真理が、私の足を動かした。
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矢が飛んだ。
ひゅっ。
木に刺さり、ばき、と木片が飛ぶ。
飛んだ木片が頬を掠め、熱い痛みが走る。
血が、ちょっとだけ滲む。
(痛い)
(でも、動ける)
次の矢が来る。
私は息を吐いて、身体を捻る。
矢が袖を裂き、風が冷たい。
裂けた布の隙間から、手首の枷の赤い輪が見えた。
“毒婦”の札みたいな輪。
腹の底が冷える。
でも今の私は、輪を隠して黙るだけの人間じゃない。
私は歯を噛み、走った。
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火が、風に乗って走り始めた。
ぱちぱち、という音が背中で増える。
熱が頬を舐める。煙が目に刺さる。
白い光と火が混ざると、世界が異様に明るい。
煙の中の光が、ぼやけた刃みたいに揺れる。
眩しくて、怖い。
「……挟まれた」
エレナの声が低い。
前には、白い外套の列。
後ろには、火。
横にも、灰色の糸の網。
袋小路。
“回収”に最適な形だ。
レグナードが、少しだけ声を張った。
「リーゼ。あなたは賢いはずだ。ここで意地を張って……無駄に死なないでください」
賢い。
王都で褒め言葉として使われる言葉。
でもその実体は、黙って従え、だ。
私は息を吐いて言った。
「賢いなら、あなたの嘘も見える」
言った瞬間、レグナードの笑みがほんのわずかに歪んだ。
歪んだ部分だけ、濁った金が覗く。
――ミレイユの色。
「……口が戻っただけで、随分とうるさいですね」
レグナードが杖を振る。
白い糸が、私の胸元へまっすぐ伸びた。
(鏡を狙ってる!)
私は反射で欠片を守るように抱え込む。
その瞬間、糸が私の外套を締め上げ、胸が詰まる。
「っ……!」
息が、止まりかける。
止めたら喉が死ぬ。
吐け。
私は吐いた。吐いて、糸の束を欠片で切ろうとする。
でも糸が多い。多すぎる。
エレナが、私の横で封筒を抱えたまま転びかけた。
「リーゼ!」
私が手を伸ばした瞬間――
炎が、足元を舐めた。
熱い。
靴底がじゅ、と鳴る。
驚いて踏ん張った瞬間、エレナの腕から封筒の一通が滑り落ちた。
封蝋の赤が、夜露の上で一度だけ光って――
火の中に落ちた。
「……っ、だめ!!」
叫んだ声が、自分でも異様なくらい大きかった。
喉が痛い。胸が痛い。腹が痛い。
封筒の角が焦げる。
紙が、ぱち、と音を立てて縮む。
封蝋が溶けて、赤が黒に変わる。
――記録が、燃えていく。
王都のやり方。
“なかったこと”を作るやり方。
私は足を踏み出そうとした。
でも白い糸が胸を締める。息が苦しい。火が近い。
「リーゼ、だめ!」
エレナの声が私を止めた。
止める声が、痛いくらいに正しい。
「一通よ! 全部じゃない! あなたが焼けたら、全部が終わる!」
一通。
たった一通。
でも、私たちの命を削って作った一通。
(私が、守れなかった)
胸の奥が、どろどろと崩れる。
そのとき――クロが飛び降りた。
「カー!!」
黒い影が炎の端へ突っ込む。
嘴で封筒を引っ張る。
焦げた紙が裂け、封蝋がべた、と嘴に付く。
「クロ、だめ!!」
叫んだ瞬間、白い糸が別方向に走った。
――クロへ。
レグナードの杖の先から伸びた白い糸が、鳥の翼を絡め取った。
白い糸は、網になる。網は逃がさない。
クロが暴れる。羽がばさばさと鳴る。
でも糸が締まり、黒い羽が白い光に縛られていく。
「カー……っ、くそっ……!!」
初めて聞く、クロの“痛い声”。
私は息が止まりそうになって、吐いた。
吐いて、叫んだ。
「クロ!!」
出た声が、何も助けないのが最悪だった。
白い外套の騎士が、網に絡まったクロを掴んだ。
鳥の小さな身体が、乱暴に揺れる。
嘴が開き、声が途切れる。
「確保。……鏡の随伴生物だ」
随伴生物。
人を物にする言葉と同じ匂いがした。
レグナードが、満足げに言う。
「いい。取引材料になります」
取引材料。
クロが、取引材料。
胸の奥の何かが、ぷつん、と切れそうになった。
怒りじゃない。もっと暗いもの。
自分の無力さに対する、黒い絶望。
グリムが、私の背中を殴った。
痛い。
でもその痛みで、私は呼吸を思い出す。
「見るな! 今は生きろ!」
「でも……!」
「生きて、取り返せ!」
取り返せ。
その言葉だけが、私の足を動かした。
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エレナが、私の袖を掴んだ。
「走る!」
私たちは炎の薄いところへ、影の残るところへ走った。
グリムが最後尾につき、杖で白い糸を叩き落としながら退く。
背後で、クロの声が聞こえた。
「カー……姫さん……生きて……!」
声が小さい。
小さい声ほど刺さる。
私は振り返りそうになって、歯を噛んだ。
振り返ったら、足が止まる。足が止まったら、全員が終わる。
だから私は走った。
息を吐いて、吐いて、吐いて。
喉が痛い。胸が痛い。目が痛い。
でも走る。
森の斑な暗がりが、やっと少し戻ってきた。
木の根の影に滑り込み、斜面を転げるように降りる。
どこかで、封筒が燃える音がまだ聞こえる。
どこかで、白い糸が風を裂く音がまだ聞こえる。
そして――修道院の方角が、煙で白く霞んでいた。
私は、唇を噛み締めた。
全てを失った気がした。
修道院を燃やされ、記録を焼かれ、クロを取られた。
私の手の中に残っているのは、冷たい鏡の欠片と、手首の赤い輪だけ。
――それでも、息は通っていた。
だから私は、もう一度だけ呟いた。
「……生きる」
声が出る。
声が出る限り、終わりじゃない。




